第2話 悪役聖女と氷の視線
一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が凍った。
さざめきが波のように引いていく。耳に届いていたはずの軽やかなオーケストラの旋律が、やけに遠くに聞こえた。
シャンデリアが放つ無数の光が降り注ぐホールで、全ての視線が私という一点に突き刺さる。
好奇、侮蔑、恐怖。そして、ほんの少しの憐憫。それらが混じり合った無数の視線に、肌が粟立つ。
(うわ……想像以上の嫌われっぷり……)
背筋は凍る思いなのに、表層の私は涼しい顔だ。背筋を伸ばし、扇をゆるりと開き、完璧な淑女の歩みでホールを進む。内心の私と、外側のリディアの行動が乖離していく感覚。まるで、高性能なアバターを遠隔操作している気分だ。
この視線の集中砲火は、ゲームのイベントシーンで何度も見た。でも、実際に体験するのでは、圧力が段違いすぎる。心臓が痛い。今すぐ踵を返して、あの薄暗い控え室に逃げ帰りたい。
だが、そんな選択は許されない。破滅の舞台は、もう幕が上がってしまったのだから。
視線をまっすぐに、ホールの最奥へと向ける。そこに、彼らはいた。
ひときわ華やかな一団の中心に立つ、一人の青年。陽の光を束ねたような金の髪、空の青を閉じ込めた瞳。神が精魂込めて作り上げたとしか思えない完璧な美貌。
婚約者、アルフォンス王太子。その隣には、今日の主役であるはずの、もう一人の聖女。柔らかな栗色の髪を持ち、庇護欲をそそる愛らしい笑顔を浮かべた彼女こそ、このゲームの本来のヒロインだ。
王太子の周囲を固めるのは、攻略対象の青年たち。彼らは皆、一様に私に対して険しい表情を向けていた。
……最悪の布陣だ。まるで、これから始まる裁判の裁判官と陪審員が勢揃いしているみたいじゃないか。
アルフォンス王太子が、私に気づいた。彼の青い瞳が、すっと細められる。それは、汚物でも見るかのような、冷え冷えとした侮蔑の色を隠そうともしない視線だった。
(顔は国宝級、中身は空っぽ王子が……!)
. 怒りが一瞬、頭に血を上らせる。でも、駄目だ。ここで私が彼に敵意を向ければ、それこそが断罪の口実を増やすだけ。
私は、リディアの仮面を被り直す。優雅に、しかし感情の窺えない所作で一礼した。王太子は鼻を鳴らし、ぷいと顔をそむける。見事なまでの塩対応。婚約者に対する態度じゃない。
よし。これでいい。彼らが私を無視している今が、行動を起こすチャンスだ。
目的は一つ。破滅フラグの第一号を、へし折る。
視線をめぐらせ、ターゲットを探す。王太子の取り巻きの中にはいない。彼は、あの輪の中心にいられるような精神状態ではないはずだ。
いた。
ホールの隅、煌びやかな喧騒から逃れるように、一人の青年が壁に寄りかかっていた。
クロード・フォン・アンスバッハ公爵令息。銀に近いプラチナブロンドの髪を気だるげにかきあげ、手にしたグラスの中の液体を虚ろに見つめている。その美しい顔には、深い絶望と焦燥が影を落としていた。
彼は、王太子の側近の一人。そして、リディアが最初に断罪した相手。理由は、彼の妹がかかった不治の呪いを解くため、禁じられた魔力貯蔵に手を出したから。
ゲームのリディアは、その背景を一切考慮せず、彼を法と正義の名の下に糾弾した。それが、王太子の怒りを買う最初の引き金となった。
私は扇で口元を隠し、彼に向かって静かに歩みを進める。
私の動きに気づいた周囲が、再びざわめく。
「おい、リディア様が……」「アンスバッハ卿の方へ」「何をなさる気だ……?」
聞こえてくる囁き声が、私の覚悟を鈍らせようとする。やめてほしい。ただでさえ、緊張で膝が笑いそうだ。
クロードが、私の接近に気づいて顔を上げた。その灰色の瞳が、驚きに見開かれる。無理もない。これまでリディアは、彼とまともに会話すらしたことがなかったのだから。
「聖女、リディア様……」
彼の声は警戒心で固い。グラスを持つ指先に、力がこもっているのが見えた。
「公爵令息。少し、よろしいかしら」
周囲に響かないよう、しかし、はっきりと。冷徹な悪役聖女の声色を保つ。
「……私に、何か御用でしょうか」
「ええ、少し」
一歩、彼に近づく。クロードの肩が、びくりと震えた。まるで、蛇に睨まれた蛙だ。
(そんなに怖がらないでほしい……)
内心の弱音を押し殺し、私は決定的な一言を、彼にしか聞こえない声で告げた。
「あなたの妹君のことです」
クロードの瞳が、限界まで見開かれた。その表情から、血の気が引いていく。動揺、驚愕、そして恐怖。彼の心が激しく揺れ動いているのが、手に取るように分かった。
妹の呪いのことは、アンスバッハ家が極秘にしているはず。それを、なぜ私が知っているのか。彼の頭の中は、今、その疑問でいっぱいだろう。
「……なにを、」
「力になれるかもしれません」
彼の言葉を遮り、私は続けた。賭けだ。ここで彼に拒絶されれば、全てが終わる。私の破滅フラグ回避計画は、第一歩を踏み出す前に頓挫する。
クロードは、何かを言おうと口を開き、しかし言葉を見つけられずに閉じた。リディアに対する不信感と、妹を救えるかもしれないという僅かな希望とが、彼の中で激しくせめぎ合っている。
. もう一押し、必要だ。
私は彼から一歩下がり、再び扇をゆるりと開いた。何事もなかったかのように、あくまでも優雅に。
「今夜、この夜会が終わりましたら、あなたのお屋敷へ伺います」
「なっ……!?」
「わたくしを誰だと思っているのかしら? 聖女ですもの。病に苦しむ方に、手を差し伸べるのは当然の務めですわ」
ゲームのリディアなら絶対に言わないセリフを悪びれもなく口にした。顔が熱い。自分で言っておきながら、とんでもないことを口走っている自覚はある。
返事は待たない。動揺するクロードに背を向け、私は再びホールの喧騒の中へと歩き出した。
背中に、クロードの呆然とした視線と、周囲の貴族たちの訝しげな視線が突き刺さる。
(やった、やったぞ! 第一歩は踏み出した……! でも、約束を取り付けるやり方が、完全に悪役令嬢のムーブなんだけど!?)
内心の絶叫を完璧なポーカーフェイスの下に隠し、私は次のターゲットを探して、再びホールを見渡した。
破滅の運命は、まだ何一つ変わっていない。戦いは、始まったばかりだ。