第1話 悪役聖女と鏡
ひたり、と冷たいガラスの感触が指先に伝わる。
そこに映るのは、見慣れない女。
艶やかな銀の髪は、計算された巻き髪となって背中まで流れ落ちている。
月光を溶かし込んだような、と表現すれば聞こえはいいが、その輝きはどこか人工的で冷たい。吊り上がった紫水晶の瞳は、見る者を射竦めるような険を含んでいた。
きつく締め上げられた深紅のドレス。華美な装飾。そのどれもが、女の近寄りがたい雰囲気を強調している。
……誰、この人。いや、知っている。知りすぎているくらいに。
「リディア様、お支度、整いました」
背後からかけられた声に、鏡の中の女――リディアの眉がぴくりと動く。私も、それとまったく同じ動きをした。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
社畜OLとして生きてきた私の、唯一の癒やし。最新乙女ゲーム『聖域の天秤』。その中に登場する、私の最推し。誰からも愛されない、孤高の「悪役聖女」リディア・フォン・クレスメント。
……どうやら私は、彼女になってしまったらしい。
(いやいやいや、待って。展開が急すぎない?)
頭の中で、社畜時代の私が猛烈な勢いでツッコミを入れる。昨日の夜、リディアの不遇なエンディングに涙し、コンビニへの道すがらトラックのライトに目が眩んだところまでは覚えている。典型的な転生フラグだ。それは認める。
でも、よりにもよってこのタイミングはあんまりじゃないか。
「リディア様?」
怪訝そうな侍女の声。鏡の中の私は、完璧な無表情を保っている。内心、滝のような汗をかいているというのに、このポーカーフェイスはさすがだ。いや、感心している場合じゃない。
「……ええ。ご苦労」
喉から絞り出した声は、自分のものではない、凛としたソプラノだった。これもまた、ゲームで何度も聞いたリディアの声。
侍女は恭しく一礼すると、部屋の扉へと向かう。
「まもなく卒業記念の夜会が始まります。アルフォンス殿下も、既にお待ちかと」
アルフォンス殿下。その名を聞いた瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われた。
(まずい。まずいまずいまずい!)
アルフォンス王太子。リディアの婚約者であり、この物語のメイン攻略対象。そして……。
今夜、この卒業記念の夜会で、大勢の前でリディアとの婚約破棄を宣言し、彼女を国外追放へと追いやる張本人だ。
そう。ここは、物語の終盤。リディアにとって、破滅へのカウントダウンがゼロになる、その当日。
(開始地点がクライマックスとか、どんなハードモードよ!)
『聖域の天秤』の世界では、魔力を個人が溜め込むことは禁じられている。それを許せば、かつて世界を混乱に陥れた災厄が再来すると信じられているからだ。
人々を癒やし、導くのがメインヒロインである「慈愛の聖女」。そして、法を破り魔力を不正に蓄えた貴族たちを摘発し、断罪するのが、もう一人の聖女。通称『魔力マルサ』。
それが、このリディアだ。
彼女はただ、己の職務に忠実だっただけ。貴族たちが魔力を溜め込んでいたのには、それぞれっぴきならない理由があったけれど、ゲームのリディアはそれを一切聞く耳を持たなかった。冷徹に、苛烈に、彼らを断罪した。その結果が、今夜の断罪劇だ。
王太子は「君の行いは聖女にあるまじき非道なものだ」と言い放ち、リディアが摘発した貴族たちを庇い、代わりにメインヒロインを新たな婚約者として迎え入れる。リディアは誰からも見放され、たった一人で国を去る。
そんな結末、あんまりだ。
そう思って泣いたはずなのに、その結末をこれから、私自身が体験しなくてはならないなんて。
(冗談じゃない……!)
拳を握りしめる。手のひらに、レースの手袋の繊細な感触。
(私が、リディア本人になったんだ。だったら……この手で、運命を変えてみせる!)
幸い、私にはゲームの知識がある。
リディアが断罪した貴族たち。彼らがなぜ魔力違反を犯したのか、その理由を私は知っている。
公爵家の長男は、不治の呪いにかかった妹を救うため。
辺境伯の跡取りは、領地を蝕む謎の病から民を守るため。
騎士団長の息子は、戦で受けた古傷の痛みを和らげるため。
彼らは決して、私利私欲で法を犯したわけじゃない。ゲームでは、メインヒロインが彼らの悩みを解決し、フラグを立てていく。その一方で、リディアは彼らの事情を知ろうともせず、ただ断罪するだけの「悪役」だった。
でも、私なら。
リディアが持つ、もう一つの聖女の力。ゲームでは一度も有効に使われることのなかった、本当の能力。
対象の身体を、精神世界を、一種のRPGダンジョンとして具現化する。そして、その最奥に潜む病巣や呪いをモンスターとして討伐し、根本から治癒する力。
この力を使えば、彼らの問題を秘密裏に解決できるかもしれない。断罪イベントを回避できるかもしれない。
「リディア様? どうかなさいましたか?」
いつの間にか、私は扉の前で立ち尽くしていたらしい。侍女が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
いけない。今は思考に耽っている場合じゃない。これから向かうのは、処刑場も同然の場所なのだから。
すぅ、と息を吸う。鏡に映っていた、険のある紫水晶の瞳。あれを、今、私がしている。
冷徹で、孤高で、誰にも媚びない「悪役聖女」。今は、その仮面を被る時だ。
「何でもないわ。行きましょう」
侍女にそう告げ、自ら重厚な扉に手をかける。
扉の向こう側から、きらびやかなオーケストラの音色と、人々の楽しげな喧騒が洪水のように流れ込んできた。眩い光が、目を焼く。
さあ、始めよう。
私の、そしてリディアの、運命を覆すための戦いを。