子守唄
あれから私は、お兄様に一日中街を連れ回された。
本当はハンナと二人で散歩するだけの予定だったのに、
お兄様はハンナには留守を頼んで、
結局二人きりで丸一日過ごす事になってしまった。
お兄様は、まず私を仕立て屋や宝石屋に連れて行って、
今の私に似合うドレスや宝石をたんまりと買ってくれた。
どうやらこれまでの私は派手な格好が好みだったらしく、
見るからに極悪令嬢らしい濃い赤や黒のドレスばかり着ていたのだという。
今日のライラック色のドレスは、母が若い頃に着ていたドレスで、私が持っている唯一の淡色の服らしい。
お兄様は印象を変えるには見た目からだと言って、
似たような淡い色味の可憐なドレスや
上品で清楚なドレスを選んでくれた。
それから、菓子店や雑貨屋など色んな店を散策して、
なんでも好きなものを買わせてくれた。
けれど、これまで我儘放題に贅を尽くしてきた罪を考えると、そんな贅沢な真似は出来なくて。
でもせっかくだからとお兄様がうるさくて、たったひとつだけ、とても綺麗で気に入った宝石箱を買って貰った。
これにお兄様が買ってくれた宝石を入れるのだと話したら、優しく微笑んでくれた。
そうしてあっという間に一日が過ぎて、
静かな夜が訪れた。
「フィオナ、今日は疲れた?」
お兄様の声に、ふと顔を上げれば、
彼の優しい瞳が私を真っ直ぐに見つめていた。
ここは、私の部屋。
一日街を歩き回って帰ってきて、
寝る支度を終えてベッドに入ったら、
お兄様が訪ねてきたのだ。
彼もまた寝る支度を終えていたようで、
昼間は貴族らしい豪奢な装飾の衣服を纏っていたけど、
今は胸元の開いたシンプルなシルクのシャツを着ている。
お兄様の耽美な容姿も相まって、
今にも花の香りがしてきそうな程の色気が漂っている。
「…街の景色を見ることができて、
それにお兄様ともお話ができて楽しかったです。」
「そっか、良かった。」
彼は私の言葉を聞くと、
より一層柔らかい表情になる。
まるで慈しむような甘くてあたたかい眼差し。
思わず全てを委ねて溺れてしまいたくなってしまう。
今朝初めて会った時も甘い眼差しをしていたけれど、
それは別に可愛がられていたわけでもなんでもなく、
ただおちょくられていたのだと思う。
でも、今は本当に嘘偽りのない優しさを
一身に降り注いでくれている気がする。
「君は本当に優しくて良い子だね。
俺の妹だって思えないくらい。」
「私は、良い子なんかではないです……
それに、これまで沢山人を傷つけてきたから、
今更許されるなんて思いません。」
私は私が犯してきた罪のことは知らない。
でも、それに甘んじて、これまでの罪を無かったことにして、人から優しくされようなんて思わない。
それに、私は前の世界でも、逃げてばっかりで、誰かに認められて優しくされるような資格なんてない人間だった。
そんなことを考えているうちに虚しくなって、
無意識のうちに俯いてぎゅっと拳を握り締める。
その刹那___
「…っ!」
ベッドに腰かけた彼がこちらに手を伸ばしてきたかと思えば、するりと綺麗な指が私の首筋に触れた。
驚いて顔を上げたその瞬間、
彼に身体を引き寄せられて気づけば彼の腕の中にいた。
「お兄様…!」
彼のはだけた首元に、ブロンドの綺麗な髪に、
私の頬が触れる。
彼の滑らかな肌からはふわりと花のような香りがして、
頭がクラクラした。
彼の胸板や腕、触れた身体がっしりとして男らしくて。
軽薄で掴みどころのない兄だとしか思っていなかったけれど、つい異性として意識しそうになる。
「俺が全部許してあげる。」
擦り寄るように彼の唇が私の耳朶を掠めたかと思えば、
甘く低い声がすぐそばで聞こえた。
ぞくりと身体が震えて、
全身が熱に侵されていくような感覚に陥る。
「ひとりきりでずっと怖かったでしょ?」
宥めるような優しい声が私を溶かしていく。
虚勢も嘘も何もかも砕かれてしまいそうになって、
拒絶するように身を強ばらせた。
けれど、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、
よりきつく彼の腕が私を抱き締める。
「よく頑張ったね、いい子いい子。」
まるで子供をあやすように彼はそう言うと、
優しい手つきで私の髪を撫でる。
その言葉や掌のあたたかさが心地よくて、
私の心の壁はもうほとんど壊れかけていた。
彼の真意なんて分からない。
でも今すぐに彼に全てを委ねて寄りかかって、
甘い蜜の海に溺れたい。
そんな情けない思考が浮かんだことが悔しくて。
でもこんなふうに優しく慰められるのが心地よくて。
何かが溢れたように一筋の涙が零れた。
そのことに気がついたのか気がついていないのか、
私を抱きしめる彼の手に力が篭もる。
ずっとこんな優しいあたたかさに包まれていたい。
そんな夢のような願望が浮かんで、
少しだけ幸せという言葉の意味を理解した気がした。
今だけは現実も嘘も何もかも見えないふりをして、
綺麗な夢に溺れよう。
そう思いながら、私は微睡んでいく。
「おやすみ、可愛いフィオナ。」
薄れる意識の中、そんな優しい声が聞こえた気がした。