色づく
クロフォード兄弟と再会を果たしてから
数週間が経ったある日。
私はこの世界に来て初めて、
社交の場に足を踏み入れていた。
白い花が咲く美しい庭園。
賑わう貴族達もまた一様に白い衣装を纏っている。
今日開催されているのは、
『ホワイトパーティー』と呼ばれる催しで、
この国の恒例行事だ。
最初は夏の暑気払いとして始まったただのガーデンパーティーだったが、涼やかな気分になるために白の衣装で揃えるというドレスコードが、いつからか生まれたらしい。
そしてもうひとつ、不思議な慣例があって、何故かこのホワイトパーティーには社交界デビューしていない貴族も参加が許されているのだ。
通常の夜会とは異なり、昼間に開催されるライトなパーティーだからか、昔から年齢による制限がない。
だから社交界デビューしていない私も今日は参加出来ているということだ。
それから、主催者は毎年交代制で、今年はなんとフリント侯爵家が主催者となっている。
フリント侯爵家と言えば、
カインの婚約者であるエリスの生家だ。
この間、騎士団本部で会った時は、挨拶もせずに逃げ出してしまって、とんだ無礼を働いてしまったけれど、それでも招待してくれるなんて、やはり彼女はとても心優しい人なのだと、しみじみ思った。
「フィオナ」
ふと、横から声を掛けられて私はハッと我に返る。
「お兄様……」
顔を上げるとお兄様と視線がぶつかった。
私は今日お兄様と一緒にパーティーに参加している。
しきたりもなにも分からず不安だったから、
彼の後ろについて回ることにしたのだ。
お兄様は真っ白なモーニングコートを纏っていて、
いつもよりも爽やかで格好良く見えた。
普段彼が社交の場に行く時はとても豪奢な衣装を纏っているけれど、今日はとてもシンプルな衣装で、すらりとして見える。
そんなお兄様に一瞬見惚れそうになるけれど、まるで私の感情を見透かしたように彼はくすくすと微笑んでいた。
なんだか悔しいような恥ずかしいような気持ちになって、私は思わず彼から目を背けた。
「いつもと違うお兄様に見惚れてた?」
「違います。」
私は図星を指されたのが悔しくて、ピシャリと即答する。
ふいと彼から顔を逸らすけれど、
彼は面白がるように私の顔を覗き込もうと近寄ってきた。
「相変わらずつれないなあ。」
「可愛げのない妹ですみません。」
「ううん、フィオナは可愛いよ。
今日は一段と可愛い。」
そう言うと彼は私の髪にさらりと触れた。
今日は私が復活してから初のパーティーということで、
ハンナも気合いが入っていたのだ。
ブロンドの髪にはかすみ草のような小さな白い花飾りが幾つも散りばめられていて、衣装もシンプルだけどオーダーメイドの可憐な純白のドレスを準備してくれた。
「まるで天使みたいだ。この会場で一番可愛い。」
「……っ!」
そう言ってお兄様は満足気に私を眺めて、
優しく微笑むのだった。
何度も『可愛い』という恥ずかしい言葉を惜しげもなく真っ直ぐに投げかけられて、不本意にも私の心臓は高鳴ってしまう。
けれど、すぐに我に返って、真に受けるなと自分に言い聞かせた。
恥ずかしげもなくそんな台詞を言えるのは、
彼が生粋の女たらしだからだ。
きっと誰にでも同じようなことを言っているのだろう。
「そんな疑うような目しないでよ。
本当にフィオナが一番可愛いと思ってるよ?」
彼は困ったような笑みを浮かべると、
まるで宥めるような仕草で私の頭を撫でる。
子供扱いされているような気がして、
尚更私の表情は曇っていく。
そんなのも束の間___
「ジル様!こんなところにいらっしゃったの?
ずっと探していたのですよ!」
「まあ、今日の衣装もよくお似合いですわ。
どんな色でも着こなしてしまうのですね。」
ふと横から、甲高い猫なで声が聞こえてきて、
私は思わず目を瞬かせる。
すると瞬く間に数人の令嬢達が近寄ってきて、
お兄様の周りを取り囲んでしまうのだった。
私は突然の出来事に思わず唖然として立ち尽くす。
お兄様が令嬢達から人気なのは知っていたけれど、
実際に媚びを売られている場面は初めて見たのだ。
擦り寄るようにべたべたとお兄様の腕に纏わりつく令嬢達の姿を目の当たりにして、私は言葉を失った。
まるでマタタビを与えられた猫のようだ。
彼女達の目がハートになっているようにすら見えてくる。
「君たちも凄く綺麗だよ。
白いドレスを汚しちゃいたいくらい。」
お兄様はそんなキザな台詞を惜しげも無く言い放って、令嬢達はより一層骨抜きにされていくのであった。
私だけは彼の台詞に寒気を感じてしまって、
思わず踵を返していた。
そのまま私は彼らに声をかけることも無く、
その場を立ち去るのだった。
初めてのパーティーだから、
お兄様の後ろにずっと隠れていようと思ったのに。
彼に取り巻きがいるのだと分かれば話は別だ。
あんな甘ったるい空間、私には耐えられる気がしない。
彼の台詞を思い出すとまた寒気を感じて、
私は記憶をかき消すようにぶんぶんと頭を横に振った。
その時だった____
「フィオナ嬢、やっと見つけましたわ!」
背後からそんな声が聞こえたかと思えば、
腕を掴まれて引き止められる。
今度は何かと反射的に振り返れば、
そこには見覚えのある面々が立っていた。
「貴女たちは……」
そう、彼女達はフィオナのかつての取り巻きの令嬢達だ。
この間、騎士団の見物をしていた子達でもある。
全員の名前は思い出せないけれど、あれよあれよという間に私は数人の令嬢達に取り囲まれてしまう。
「私達、フィオナ嬢の快気祝いを準備してきたのです。」
「え……?」
目を輝かせて私に詰め寄る彼女達を見て、
私は顔を強ばらせる。
元々フィオナの取り巻きをしていたような性悪の子達が考えることなんて、ろくでもないと思ってしまって、私はつい警戒してしまう。
「ついに、あの女を懲らしめる時ですわ!」
一人の令嬢の口から放たれた言葉に、
私は愕然とした。
「あの女って……誰のことですか?」
思い当たる節がなくて私は恐る恐るそう尋ねる。
「何を仰っているのですか。
フィオナ嬢の大切な彼を奪った泥棒猫の事です。」
「…………」
とある令嬢の言葉に、私の脳裏には嫌な予感が過ぎった。
大切な彼を奪った泥棒猫と聞いて、
思い当たるのは一人しかいない。
そう、今日のパーティーの主催者である
フリント侯爵家令嬢のエリスだ。
確かに、フィオナの初恋の人であるカインと婚約したエリスのことを、性格の悪いフィオナが憎まない筈がない。
エリスとの記憶は一切思い出せなかったから、盲点だったけれど、もしかしたら実際過去にお茶会などで彼女に意地悪をしたこともあったかもしれない。
取り巻きの令嬢達が、フィオナの彼女への憎しみを知っているということは、少なくとも陰口を叩いていたのは確かだろう。
「私が日雇いの給仕を買収しましたの。
赤ワインを彼女のドレスに掛けるように言いつけてありますわ。」
「あの美しい真っ白なドレスが真っ赤に染ったら、
さぞかし可笑しいと思いませんか?」
彼女達はそんな残酷なことを簡単に口にすると、
愉しげな表情を浮かべて笑いあった。
私は彼女達の言葉に、胸を鋭いナイフで切り裂かれたような、ひどく不快な心地に陥って、思わず愕然と立ち尽くす。
どうしてこんな酷いことを言って、
平気な顔をして笑っていられるのだろう。
私も少し前までは彼女達と同じように
非道な人間だったのだろうか。
「皆さん、その計画はやめにしませんか……?」
気づけば私はそんなことを口にしていた。
私の言葉で場の空気が一瞬にして凍りつく。
さっきまで盛り上がっていた彼女達は、
愕然と私のことを見つめている。
「フィオナ嬢、何を仰っているのですか?
あれだけ彼女を憎んでおられたじゃありませんか。」
「そうですわ。あの女に復讐したいと仰ったのは、
フィオナ嬢ですよ?」
「彼女には二度と社交界に出てこられないようにお仕置して差し上げましょう?」
令嬢達は矢継ぎ早に言葉を紡ぐと、
まるで掴みかかるような勢いで私の方に詰め寄ってくる。
今の私からすると、彼女達の表情は悪鬼にしか見えなくて、恐怖で身が竦みそうになった。
その刹那だった____
「君達、何してるの。」
私の背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
そして、私の肩に手が置かれる。
咄嗟に振り返ると、私は思わず目を見開いた。
「カイン…!」
私の背後に立っていたのは、
なんとカインだった。
この前の朗らかな表情からは想像ができないくらい、
鋭く冷たい眼差しを令嬢達に向けている。
どうやら彼はこの令嬢達に私が虐められているように見えたらしい。
「フィオナはまだ病み上がりなんだ。
これ以上彼女を困らせるなら出て行ってもらうよ。」
そう言い放った彼の瞳には、
冷たく静かな怒りが宿っていた。
その眼差しに私は背筋が凍るような心地を覚えて、
呆然と立ち尽くすことしかできない。
それは令嬢達も同じのようで、
返す言葉もなく硬直していた。
「黙ったままじゃ分からないよ。」
彼の冷たい言葉がまた容赦なく彼女達に向けられる。
「も、申し訳ございません……失礼致します。」
一人の令嬢が震えた声でそう言って勢い良く頭を下げた。
そしてそのまま令嬢達はまるで逃げ出すようにそさくさとこの場を離れて行ってしまうのであった。
そんな彼女達の後ろ姿を眺めながら、
私は相変わらず呆然と立ち尽くしていた。
「フィオナ……」
さっきまでとは違うカインの声が聞こえて、
私は反射的に彼の方を見上げた。
彼の瞳に映っていた冷たい闇は消えて、
いつもの優しい眼差しが私に向けられていた。
「大丈夫だった?何もされてない?」
彼はそう言って私の顔を心配そうに覗き込む。
そんな彼の声音があまりにも優しくて、
ぎゅっと胸が締め付けられた。
「大丈夫……」
私は静かにそう答えると、思わず俯いてしまう。
罪悪感にも似た感情が胸の底から湧き上がってくる。
「本当に平気なの?ちゃんと俺の目見て?」
そんな彼の言葉が聞こえたかと思えば、
彼の手が伸びてきて、人差し指が優しく私の頬を撫でる。
おずおずと顔を上げると、
私と目線を合わせるように屈んだ彼と目が合った。
真っ直ぐに見つめる彼の優しい眼差しが、
私の恋心と罪の意識を同時に擽る。
「“二度と社交界に出てこられないようにお仕置する”とか言ってたけど……本当に彼女達に何もされてない?」
「…………」
彼の言葉に、私は何も答えられなかった。
彼は私が彼女達にお仕置されそうになっていたのだと勘違いしているようだけれど、そうではないのだ。
実際にお仕置されそうになっていたのは、
私ではなく彼の婚約者であるエリスだ。
そして、彼女達がそうするように仕向けたのは、
他でもないこの私なのだ。
「私じゃないよ……」
「え……?」
ぽろりと零したその言葉に、
カインは面食らったような表情を浮かべる。
「彼女達に虐められそうになってたのは私じゃない……
私じゃなくて、エリス嬢なの。」
私は彼に嫌われる覚悟でそう言い放つと、
彼は愕然としたような表情を浮かべた。
そして徐々にその表情は険しいものに変わっていく。
彼が怒るのも当然だった。
自分の婚約者が虐めの標的になろうとしているのだから。
「実は私が__」
嘘偽りなく全てを打ち明けよう。
そう思って口を開いた。
その時だった___
「カイン、こんなところに居たのね。」
そんな清廉とした澄んだ高い声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に、
私の背筋は凍りついていく。
「エリス……」
そう、私たちに声をかけたのは、
他でもない彼の婚約者であるエリスだった。
カインはどこか気まずそうに彼女のことを見つめる。
「どうしたの?二人してそんな暗い顔をして。
フィオナ嬢、うちのカインに虐められたりしていない?」
彼女はそう言うと優しい微笑みを私に向けてくれた。
純白の清楚なドレスを纏った彼女はまるで百合の花のように美しく、その微笑みは品位に溢れている。
そんな穢れのない美しい彼女に見つめられて、
私の罪悪感はより一層掻き立てられる。
今すぐにこの場から逃げ出したい、なんて。
そんな甘えた感情すら湧いてきた。
その時だった___
「……!」
エリスの背後に唐突にふらりと人影が現れた。
こんな人が大勢いるパーティーで、
人が近くを通ることなんておかしなことでは無いけれど、なんだか嫌な予感がした。
そう思ったら何故か咄嗟に身体が動いていて、
その人影から彼女を庇うように前に躍り出ていた。
そして___
「……っ!」
気づいた時には真っ赤な液体が目の前に飛び散って、
私は咄嗟に目を瞑っていた。
その次の瞬間、冷たい飛沫で肌が濡れる感触があった。
そして、ふわりと芳醇な葡萄とアルコールの香りが鼻腔を掠める。
「………フィオナ!」
切迫したようなカインの声が聞こえて、
私は恐る恐る目を開けた。
そして、自分の体を見下ろすと、
真っ白なドレスが真っ赤に染まっているのが見えた。
そっと頬に触れると、自分の顔がびっしょりと濡れているのがわかる。
「も、申し訳ございません!!」
そして、私の目の前に立っていた給仕が、
空になったワイングラスを片手に、
真っ青な顔で私のことを見つめていた。
どうやら彼が令嬢達に買収された給仕らしい。
エリスにワインを掛ける予定が、
私に掛けてしまったから焦っているのだろうか。
「フィオナ……大丈夫?怪我はない?」
カインは切迫した様子でそう言うと、
私の無事を確かめるように両肩を掴み、
顔を寄せてくる。
「綺麗な顔が台無しだ……」
そう言って彼は胸ポケットからシルクのハンカチを取り出すと、優しく私の頬を包み込む。
彼のどこか悲しげな表情に胸が締め付けられて、
思わずぎゅっと拳を握り締める。
そんな中、会場の人達も騒ぎに気がついたのか、
周りからの視線を感じた。
婚約者が目の前にいるのに、
カインは私の顔に触れたりして平気なのだろうか。
そんな懸念が脳裏に浮かんだその時だった。
「カイン、それはお前がやることじゃないだろ。」
そんな声が横から聞こえたかと思えば、
横から手が伸びてきて、私の頬に触れていたカインの手をおもむろに掴んだ。
反射的に声のした方に目線を投げれば、
そこにはなんとグレンが立っていた。
「……グレン、」
カインは何か言いたげに彼の名を紡ぐけれど、
ぐうの音も出なかったのか、どこか苦しげに表情を歪めて、そのまま黙って私から手を離すのだった。
「こいつは俺が連れて行く。
お前は義姉上のことを見てやれ。」
グレンは淡々とそう言い放つと、
今度は私の手を掴んだ。
「何ぼけっとしてんだ、行くぞ。」
そう言うと彼は私の返答も待たずに、
そのまま私の腕を引っ張って歩き出す。
「ちょ…グレン!」
私はカインにお礼を言うことも、
エリス嬢に謝ることもできないまま、
その場を離れることになってしまうのだった。
◇◇◇◇
グレンに腕を引かれるまま歩いて暫くが経った。
フリント侯爵家の庭園はかなり広くて、
本邸まではまだかかりそうだ。
パーティーの会場からはかなり離れて、
もう辺りに人の気配はなかった。
「ちょっと、グレン……」
私は何も言わずに突き進む彼に違和感を覚えて、
思わず彼の腕を振り解く。
そしてそのまま立ち止まると、
彼も立ち止まってこちらに視線を向けた。
「どうした?」
彼の静かな眼差しが私を捉える。
改めて見ると、彼も今日はいつもと雰囲気が少し違う気がした。
と言っても彼と実際に会ったのはこれが二回目で、
ゲームの中の彼しか見たことがなかったのだけれど。
いつも彼は黒や紺のような暗い色の服を纏っている印象があったから、なんだか白に身を包んだ彼は新鮮だった。
「足が疲れたのか?」
「……ううん、違うよ。」
立ち止まって黙りこくる私を見て、
痺れを切らしたのかグレンは小さく溜め息をつく。
「じゃあなんでそんな顔してるんだよ。
酒を掛けられたのがそんなに不服だったか?」
「ち、違うよ……」
「自分からエリスを庇いに行ったんだから、
自業自得だろ?」
「分かってるよ……!」
無神経なグレンの言葉に、
苛立ちを覚えて睨みつけるように彼を見上げる。
「ったく、柄にもないことするなよ。
放っておけば良かっただろ。」
「……身体が勝手に動いてたの。
私だって人助けくらいするよ。」
「へえ、随分と変わったんだな。」
そう言って彼は揶揄うように笑って私を見下ろした。
どうやら彼はデリカシーの欠片も持ち合わせていないらしい。
「なんでグレンはそんなに酷いこと言うの?」
「カインみたいに優しくした方がよかったか?」
そう言って彼は、一歩私の方に近寄ってくる。
そして、そのまま伏し目がちに私を見下ろして、
ゆっくりとその指先で私の頬に触れた。
それはまるでカインが私に触れた時のように、
優しい手つきだった。
「………っ」
彼のどこか艶っぽい仕草と表情に、
不本意にもどきりと胸が高鳴る。
彼にとってこの行為はお遊びで、
カインの真似事をして私を弄んでいるつもりなのだろう。
でも、悔しいけれど外見が良いから、
こうして見つめられて触れられるだけで、
ときめきそうになってしまう。
「グレン……」
困惑して彼の名前を紡ぐと、
彼と視線がぶつかる。
その刹那___
「う…!」
そっと頬に触れていたはずの彼の手が、
おもむろに私の両頬を摘むように挟んだ。
まるで玩具を弄るように頬を触られて、
ぐにゃぐにゃと顔が歪んでいく。
「なにひゅるの!」
淑女に対する振る舞いとは思えないぞんざいな扱いに、
私は食ってかかるようにそう言い放つ。
けれど、頬を弄くり回されているせいで、
上手く発音できなかった。
「ばーか」
彼はそんな私をじっと見下ろしながら、
煽るような口調でそう紡ぐ。
そして、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「………!」
そんな彼の一連の仕草に対して、
物凄く腹が立ったはずなのに、
どうしてかそこまで嫌じゃなくて。
むしろ胸が締め付けられるような、
そんな心地さえした気がした。
「グレンのばか!」
「お前の方が馬鹿だろ。
今すっげえ馬鹿っぽい顔してるぞ?」
「うるさい!」
なんだかやられてばかりなのが悔しくて、
私はおもむろにグレンの顔に手を伸ばすと、
思い切り頬を摘んでやるのだった。
意外と彼の頬っぺたは柔らかくて、
引っ張るとそのまま伸びていく。
いつもクールで男らしい彼の顔立ちが、
なんだか今はやけに可愛らしく見えて、
私は思わず笑みを浮かべた。
「わ、変な顔!」
「おい、何調子乗ってんだ。離せ。」
そう言うと彼は私の手に自分の手を重ねて、
自分の顔から引き剥がそうとする。
けれど、私は負けじと彼の頬を摘み続けた。
「ははっ!」
少しだけ困った顔を浮かべた彼が面白くて、
私は思わず満面の笑みを浮かべていた。
自分の顔がワインでべたべたなのも、
真っ白なドレスが真っ赤に汚れているのも、
全て忘れて笑えていた気がした。
グレンはそんな私を見て、
一瞬面食らったような顔をする。
けれど、すぐにいつものクールな表情に戻って、
私をじっと見下ろした。
「ったく、遊びは終わりだ。
ほら、行くぞ馬鹿。」
そう言うと彼は、彼の頬に触れる私の手を掴んで、
そのまま大きな掌でぎゅっと包み込む。
一瞬だけ、手を握られたような感覚に陥って、
胸がどきりと高鳴るけれど、
すぐにその手は呆気なく離れていった。
そして、唖然とする私へまた手が伸びてきて、
まるで子供をあしらうような仕草で、
ぽんぽんと頭を撫でられるのだった。
それから、彼は唖然とする私を置いて
そのまま踵を返して歩き出す。
私はそんな彼の広い背を眺めて、
ぎゅっと唇を噛み締めた。
胸が苦しいような騒がしいような、
そんな不思議な心地に陥りながら、
私はその場に立ち尽す。
この時私はまだ何も知らなかったのだ。
芽生え始めたこの感情に名前があると知るのは、
これよりもっと先のこと。




