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3月32日 忠実⑥

 帰ってきた俺たちは、さっそくキッチンの前に並ぶ。

 和服の袖を捲る李からは、「絶対失敗しない」という意気込みを感じる。


「まずは出汁をとらないとな」


 電気コンロの上に、水の入った鍋を置く。

 その中へ、だしパックを一袋。


「そこの、オレンジ色のスイッチを押して」

「は、はい」


 李が恐る恐るボタンに力を込めると、ピッという音とともに、スイッチ下部にある横長のメーターが赤く灯った。

 メーターの上には100から200まで20刻みに数字が小さく打たれており、加熱の温度を表している。

 それが、今は180のところにまで赤いライトが点いている。


「温度を下げようか、左矢印のスイッチを2回押して」

「はい」


 李がボタンを押すと、メーターのライトが140をさす。


「これで、合っているでしょうか……?」

「うん、暫くしたら沸騰してくると思うよ」

「はっ、はい。畏まりました」


 そう言うと、鍋に視線を向け……じぃーっと、鍋に目を凝らす李。


「ずっと見てなくてもいいよ? 5分ちょいで沸騰するし」

「そ、そうなのですか? ではその間、何をすれば……」

「うーん……テレビでも見る?」

「で、では」


 こくりと頷く李から滲み出る、借りてきた猫感。

 ……まあ、俺の家だし、気を遣うのも無理はない。

 俺だって、同じ立場だったら絶対萎縮する。……というかそもそも、メイドなんてしないけど。


 俺の隣で正座する李の佇まいは、端的に表せば「繊麗」だった。

 艶めく細い絹糸が幾重にも織られ、緩みなくぴんと張っているイメージ、とでも言えば良いか。

 背筋は伸び、小さな手は膝の上で重ねて置かれている。ブルーライトを浴びる深紅の瞳は、宝玉のよう。気品をほしいままにし、かといってそれをひけらかす強情さを感じさせない。

 あまりにも自然体。それでいて、細工されたようなキレイさ。それらが、矛盾することなく調和する。

 ——だからこんなにも、魅入ってしまったのだろうか。

 ——初めて会ったのに、懐かしいと思うのだろうか。


「嬉しいです。兜様」


 李は、安堵したように笑っている。


「貴方様に出会えて。こうして一緒に居られて」


 うっとりとした声で、彼女は言う。


「まるで、夢みたいです。生まれて初めて見る——夢みたい」


 そして、彼女はゆっくりと目を細めて——


「なっ?!」


 倒れてしまったのだ。屏風が風で倒れるぐらい、ぱったりと。

 慌てて抱きかかえ、心臓の動きを確認する。

 ——良かった、動いてる。生きてる。


 ……というか。


 すうすうと、寝息を立てている。


「な、なんだ。寝てるだけかぁ……」


 ほっと息をつく。

 あのデカい蟲を倒したり、慣れないであろう料理に挑戦したりしたんだ。

 疲れたに違いない。

 ベッドまで運んであげようか。


 そう考え、李を抱きかかえるも……


「かるっ」


 思わず声が出てしまった。

 女の子に体重の話はご法度かもしれないが、彼女、見かけよりも随分軽かった。

 風が吹いたら飛んでいってしまいそう……とまではいかないが、普段ちゃんと食べているのか心配になる。


 ベッドに寝かせ、布団をかける。

 そして俺は、ベッドに浅く腰かけて。ふと、思う。


 ——目を離したら、忽然といなくなってしまうんじゃないか。次に見た彼女は、脈を止めているのでないか。

 そんな、漠然とした感覚に見舞われる。

 それぐらい、李という少女は「心細い」。

 意味もなく、感傷的になってしまう。


「はぁ……」


 こめかみを指で押し、大きく息を吐いた。

 結局俺も、夢心地のようだ。

 今日はもう寝よう。


 床にタオルを敷き、瞼を閉じる。


 今日が、摩訶不思議な夢であったことを願って。

 明日が、元通りの4月であることを祈って。


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