3月32日 忠実④
集真が帰ったのち。
俺の傍に立ち、離れようとしない李に問いかけた。
「な、なあ。李ちゃん」
「“李”で構いません。兜様」
「その様付け、すごい違和感あると言うか……普通に、“兜”でいいよ」
「いえ、私は貴方様のメイド。主を呼び捨てになどできません」
小さく首を横に振り、李は丁寧に述べた。
俺この子に気に入られるようなことしたっけな。
全く覚えがないんだけど。
「それに、メイドを雇った覚えなんてないんだけど」
「細かいことはお気になさらないでください」
「いやすっごく気になるな?! ……それに、雇う金もないよ」
「構いません」
そんな都合の良い話があるのだろうか。
やっぱ高度ななりきりだよな……。
それ以外考えられないし、考えたくない。
冷めた茶を啜る。もう6時だ。
暗くなる前に、この子をうちに帰さないと。
「もう夜だし、帰ろう。家まで送っていくよ」
「その必要はございません」
「え?」
「私の家は、ここでございますから」
なりきりとか通り抜けて、何かに洗脳でもされてるんじゃ……。
「親は?」
「おりましたが、勘当されました」
「え……ホント?」
「本当ですが、些末な問題です。私には、兜様さえいらっしゃれば十分なので」
いや絶対大問題だって! というか感情が重い!
そんな俺の心のツッコミも、李には届かない。
一体、どこまで真に受けたらいいのやら。
4月が来ないってだけでも手一杯なのに、この子のこととかもう面倒見切れない。
それに第一、どうしてメイドなんだ?
そう思っていると、遠くで李の声がする。
「夕飯は私が用意いたします。兜様は、ごゆっくりお待ちください」
キッチンを見ると、まな板に置かれた生卵に、李は包丁を振り下ろして……。
「ちょっと待ったぁ!!」
「畏まりました。では具体的なお時間を指定してくださいませんか」
「そうじゃなくて! 生の卵は切らないよ?!」
「え?」
きょとんと首を傾げる李。
生卵切ろうとした人、初めて見たんだけど。
「ひょっとして、料理したことない?」
「……はい」
申し訳なさそうに、李は答えた。
叱られた子犬みたいに、しゅんと頭を下げている。
「料理は俺がやるから」
「……でも。料理はメイドである私の仕事でございます」
引き下がろうとしない李。意外と頑固な子だ。
俺は数秒考えた後、ある提案をした。
「そもそも、食材を買わなきゃだろ? 二人分もないし」
俺の言葉に、李は冷蔵庫をちらりと振り返って頷く。
「だから、買い出しに行こう」
スーツからトレーナーに着替えた俺は、李と一緒に夜の町に繰り出していた。
空気はひんやりとしていて、手がポケットを恋しがっている。
流石に吐く息が白く染まることはなかったが、少し冷える。
パーカーを着てきて正解だった。
「寒い?」
「あ、はい。少しだけ……」
「じゃあこれ」
俺はパーカーを李の肩にかけてみる。
「兜様は、寒くないんですか?」
「ちょっとだけ冷えるけど、これぐらい大したことないよ」
「では、これはお借りできません。兜様が風邪をひかれたら大変です」
と李は言って、パーカーを軽く折りたたんで差しだす。
「あー、いやー。やっぱ全然寒くない。むしろ暑いぐらいでさ」
「そう、ですか」
「だから君が羽織ってて」
「畏まりました。そういうことでしたら」
そう言ってパーカーを肩に掛けなおす李は、どことなく嬉しそうで。
だから、躊躇われる。
「その……どの辺に住んでるの? なんていうかこう……目印になるものとか、あれば知りたいなぁって」
この子の家を、もう一度尋ねることを。
「私の家は――居場所は、兜様のお側でございます」
「でもさ、勘当って言ってもさすがに親も心配するっていうか、俺も君を住まわせるなんてできないっていうか」
「ご迷惑……でしたか?」
ぽつり、そんな声が聞こえた。
振り向くと、足を止めた李が、悲しそうな目で俺を見つめていた。
かぼそい声が、耳朶をうつ。
「私は……不必要、ですか」
少し潤んだ瞳。
きゅっと結ばれた口元。
胸の前で握りしめられた両手。
針で刺されたように胸が痛む。
「……」
「短い間でしたが、ありがとうございました」
そう言って、李は踵を返す。
最後にもう一度、俺を振り返って。
その泣き出しそうな顔に、俺は——。
「待ってくれ!」
彼女の腕を掴んでいた。
「分かった! 今日変な虫を倒してくれたこともあるし、一日だけなら、メイドでいていいから!」
だから、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ。
「本当……ですか? メイドでいて、いいんですか?」
「ああ」
今日一日は、この子のしたいようにさせてあげよう。
そして明日。親御さんに謝りに行こう。
そう頭の中で自己完結させていると、李が歩み寄ってくる。
安心したような、そんな顔で。
「では兜様。私に、なんなりとご命令ください」
命令されたい。
そんな感情が、彼女の表情に表れている。
期待に満ちた眼差しに、俺もちょっとだけ嬉しくなってくる。
「それでさ、料理のことだけど……一緒にやらない?」
「一緒に、ですか?」
驚いた表情をする李に、俺は続けて説明をする。
「うん。君が一人でできるように、俺がサポートする。それでいい?」
すると李は、俺と目を合わせて破顔する。
「はい」
この上なく嬉しそうに、満足そうに。そう答えた。




