3月32日 忠実②
大正メイドの恰好に身を包んだ少女は、柔らかく微笑んで俺を見つめる。
「今、メイドって言った?」
「はい」
「俺の、メイドって言った?」
「はい」
俺の問いに、少女は幼くも優しい声で答える。
「花咲李と申します。以後お見知りおきを」
少女——李は、丁寧に自己紹介をするわけだが。
……コスプレ、というかなりきりだよな、これ。
だけど、今はそれどころじゃないんだ。
「ごめん、今急いでて」
そう言いながら少女の右横をすり抜けようとするも、少女が通せんぼしてくる。
「通してくれない?」
左側を通ろうとしても、行く手を塞がれる。
「ご、ごめん。本当に急いでて」
「いけません」
今度は俺の言葉を遮るように、少女は言った。はっきりと、澄んだ声で。
このままじゃ、埒が明かない。
腕時計を見る。時刻は8時20分。今からならギリギリ間に合うかの瀬戸際ってところだ。
こうなったら……。
俺は綿雲の浮かぶ空を指さす。
「あーあんなところにチョコレートが!!」
「え?」
少女が指さした方向を見た今がチャンス!
俺は素早く右によけて走り出した。
「あっ、お待ちください!」
少女が慌てたように振り返るが、構っている暇はない。
俺は住宅地を駆け抜け、近道となる路地裏をひたすら走る。
いつの間にか、少女の姿は見えなくなった。
きっと諦めたのだろう。何を諦めたのかは知らないけど。
ひとり分の幅しかない狭い道が続いている。建物に挟まれ、光の届かない直線。
日陰ということもあってか、路地は薄ら寒い。ひんやりとした風が首筋を舐め、喉に通う風は僅かにカビの匂いがした。自分の足音が壁に反響する。
光はこの先あと少し。だがそんな矢先——。
「——っ!?」
反射的に、俺は足を止める。
今まで感じたことがないぐらい、強い寒気がしたからだ。
身の毛がよだつとはまさにこのことだ。
「なんだ、アレ……」
目の前の壁に、張りつくモノがあった。
真っ黒な黒い塊。
埃にしては大きすぎるソレから、ぎょろりと一つ目が浮かび上がった。
——ジジジジ。
一つ目と目が合う。
大きく見開かれたその眼光は黒く、その中はモジャモジャと何かが蠢いている。
気持ち悪いその目に、俺は身体が竦んだ。
明らかに、俺を狙っている。
それなのに俺は、逃げられない。
——ジジッ。
俺を見定める黒いソレは、突然長い脚を生やした。
針金のように長い六本の脚は、胴体の付け根から伸びて直角に曲がり、壁と接している。
まるで虫だ。
黒くて巨大な虫だ。
勝てないと本能的に察した相手を目の当たりにして、頭が真っ白になる。
でも、動かないと死ぬと判断した僅かな理性が、俺の右足を動かして。
一歩後ずさろうとするも、足がもつれて尻餅をつき。
それを皮切りに、ソレの羽が立ち上がる。
——ブオオ。
脳に直接羽音が轟く。
疾風が巻き起こったのも束の間、目の下にあった口を大きく開けて飛び掛かる。
その刹那——人影が過った。
桃色の髪をなびかせ、彼女はそれを切り伏せる。果実の抉れる音が鼓膜を掠めた。
手にはナイフ。その刃には黒い汁がこびりついていた。その液を振り払い、眼前の化け物を見据えている。
少女は橙色の和装を纏い、その上にはスモモの如き白妙のエプロン。熟した実のように赤いスカートが、少女の動きに合わせて揺れた。
屈したかに思われた巨大虫が、彼女に狙いを定め羽ばたいた。しかし少女はうろたえることなく虫の両目に刃物を切り込む。黒い液がつくのも気にせず、また一太刀となぞるように線を入れた。
するといともたやすくソレは二つに分割し、そのまま黒い霧となって消えた。
「駆除完了」
冷淡にひとりごちた李は、コンクリートの地面にしゃがみ込み。
「ご無事ですか、兜様」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「え、あ」
「帰りましょう、兜様の家に」
「え、いやその」
「疲れたでしょう、肩をお揉みします」
「そ、そうじゃなくて」
「はい? では、なんでしょうか」
「頬、つねってくれない?!」
混乱のあまり、理性と本能がバラバラになっている。
自分の行動すら制御できない。
……って俺、何言ってんの?!
夢から覚めるには頬をつねるのが良いって言うけれども!
それを今、出会ったばっかりの女の子に頼んだの? 俺。
「あ、いやこれはその」
「畏まりました」
「えっ……いだだだだ!」
つねられた箇所が、ジンジン痛む。
もう何もかもが、分からない。
たった一つ、分かったことと言えば——。
——これが、現実ということだ。




