9. 夢から現実へ(ミカエル視点)
そして迎えたエイラとの顔合わせ当日。
俺は極度の緊張状態にあった。
まず、婚約の顔合わせということは、至近距離で向かい合い、会話をしなければならない。
それはとても喜ばしいことだが、長年離れた場所からこっそりと見守っていた俺には、あまりにもハードルが高かった。
……そして、こんな日に考えたくもないことだが、ヒルダが何かするのではという不安もあった。
当日に仕掛けてくる可能性は低いだろうが、屋敷のどこかで監視されていて、この日の俺の態度次第でヒルダが何かしでかそうとするのではないかと気が気じゃなかった。
自分でも心配しすぎだと思うが、ヒルダは我が家が婚約承諾の手紙を出した翌日には、もう話を知っていたのだ。どこかにスパイが紛れ込んでいてもおかしくない。
ヒルダからの危害の恐れが確実になくなるまでは、油断するべきではないのだ。
本当は、エイラのために花束を用意して、どんなにこの婚約を望んでいたのか伝えたかった。
だが、ヒルダという危険がある今、きっとエイラへの深い愛を表現するのは悪手だ。
俺は、エイラとの対面で舞い上がる気持ちを必死に抑え、努めて冷静に挨拶した。
……至近距離で見るエイラがあまりにも美しくて、うまく言葉を発せなかったというのもあるが。
それから、俺とエイラは婚約者としての付き合いを始めた。
彼女の屋敷でともにティータイムを過ごしたり、庭を散歩したり、彼女のピアノ演奏を聴いたり、まさに至福の時間だった。
幸せすぎて現実味がなく、ずっと夢の中にいるような心地だった。
しかしある日、俺は突如現実の世界に引き戻された。
エイラが、ヒルダの名前を口にしたのだ。
衝撃だった。
エイラがヒルダと知り合って友人関係になっていただなんて。そんな話、信じたくなかった。
ヒルダも交えて三人でお茶がしたいだなんて、許せるわけがなかった。
エイラの喉元にナイフの切っ先が突きつけられているような、言い知れない恐怖と絶望を覚えた。
頭の中はぐちゃぐちゃで、エイラにヒルダとの付き合いは控えるよう伝えるだけで精一杯だった。
やはり、俺ごときがエイラを求めることが間違いだったのか。
彼女から離れれば、ヒルダは納得してくれるのだろう。だが──。
そんなことを何日も悩んだ。
婚約をやめれば、ヒルダはエイラには手を出さない。
エイラだって、別に俺のことを好きなわけではないのだから、今婚約を破棄したところでそれほど傷つかないはず。
だから、エイラを巻き込みたくないのなら、俺が身を引くべき。
理屈は簡単だ。
だが、その通りに易々とエイラを手放せるほど、俺は出来た人間ではなかった。
やっと掴んだ幸運をどうしても諦めたくなかった。
そうして悩んでいるうちに、今度は逆に驚くことが起きた。
なぜかエイラが積極的に関わってくるようになったのだ。
屋敷に招かれる頻度も多くなったし、個人的な手紙も届くようになった。さらには俺への贈り物まで。
あまりにも俺に都合の良すぎる話で、あれこれ悩みすぎてとうとう白昼夢を見るようになってしまったかと思った。
しかし、夢ではなかった。本当に、現実の出来事だった。
俺は歓喜した。エイラが俺に関心を持ってくれている。
エイラもこの婚約に前向きでいてくれているのなら、ヒルダの脅しになど絶対に屈しない。
俺がエイラを守ってみせる。そう決意した。
それからは、丸一日かけてエイラへの手紙の返事を考えたり、王都一の宝飾品店を呼び寄せて、贈り物のお返しに相応しい品を選んで贈ったり、それを身につけてくれたエイラの愛らしい姿を見ることができたりと、喜びに満ちた日々を送った。
エイラとの距離が近づいていることが嬉しくて、もっと親しくなりたいという欲が抑えられなくて、浮かれ切っていた俺は、ある日エイラを侯爵家に招待した。
それが間違いだったと気づいたのは、あの女──ヒルダが現れたときだった。
ヒルダは突然やって来た。
いつものことだとはいえ、屋敷の者もどうかしている。俺とエイラが一緒にいるのにヒルダを通すだなんて。
ヒルダは形だけ申し訳なさそうに装いながら、本心では全く悪びれることなく、三人でお喋りがしたいなどと言い出した。
エイラにねだってみせて、優しい彼女が断れるはずもない。エイラからもお願いされて、仕方なく三人で茶を飲むことになった。
このときのことを、俺は本当に後悔した。
ヒルダは幼い頃のくだらないことばかり延々と話し続けた。
どれもヒルダに付きまとわれ、言いなりになるしかなかった忌まわしい思い出だ。
俺は嫌がらせのようなヒルダの話を受け流しつつ、万が一にもヒルダがエイラに手を出したりしないよう監視し続けた。
目を離した隙に毒でも盛るつもりかもしれないと思うと、一瞬たりとも気が抜けなかった。
そのうちにヒルダはピアノを弾きたいと言い出した。
エイラのために用意したピアノなのに、ヒルダが弾こうとするなんて癪ではあったが、ピアノを演奏していればエイラに手は出せないだろうから安心といえば安心だ。
いっそのことずっとピアノを弾いたままでいてもらえば良いかもしれない。
そう考えてピアノに触れることを許可したものの、ヒルダはいきなり俺の思い出の曲を弾き始めた。それに気づいた瞬間、一気に怒りが込み上げてきて、頭の血管が切れるかと思った。
昔、俺がよく練習していたのを思い出したのだろうが、今この曲だけは弾いてほしくなかった。
本当に腹立たしい思いだったが、ふいにエイラが小さく「ごめんなさい」と呟く声が聞こえてきて、俺は我に返った。
なぜエイラが謝る?
そう思ったが、目にしたエイラの顔色が酷く青褪めているのに気づいて、俺は慌てた。
俺が見ていた限りでは、ヒルダは怪しい行動はしていなかったはずだ。
だから恐らくは突然体調が悪くなってしまったのだろうが……。
それからエイラとヒルダを二人きりにしないよう、馬車の手配を使用人に指示してエイラを屋敷へと送り届けたが、このときは、まさかこれからひと月もエイラに会えなくなるとは思ってもいなかった。