12. これからは、きっと(エピローグ)
「……私たち、幼い頃にここで会ったことがありますね?」
ピアノの椅子に腰掛けたままミカエル様に尋ねると、彼はわずかに喜色を浮かべて微笑んだ。
「エイラ嬢も覚えていてくれたのか。ああ、俺たちは昔ここで出会った」
ミカエル様が私のほうへと歩み寄る。
「君が父君の商談についていくと言ってきかなかったらしく、歳の近い俺がここで相手をすることになったんだ。初めは年下の女の子相手にどうすればいいのか分からず、適当に温室を案内するだけだった。その頃はもう幼馴染に付きまとわれていたから、女の子自体も苦手だったんだ。変に親しくなって、その子も同じようになったら面倒だと」
だが、とミカエル様が続ける。
「二人でしゃがんで花を見ていたとき、ふいに君が俺の顔を覗き込んで言ったんだ。『おでこのケガは大丈夫ですか? 痛くありませんか?』と。まだ少し痛いが大丈夫だと答えると、君は早く良くなるようにと俺の額に触れておまじないを掛けてくれた。『痛いの痛いのとんでけ』と言って」
「わ、私、そんなことを……?」
子供の頃の出来事だが、目の前で言われると少し恥ずかしい。
しかも、今の話で少し思い出してしまった。
初対面の私に優しくしてくれた、少し年上の親切なお兄さん。
そのお兄さんの綺麗な顔に浮かんだ切り傷が痛々しく見えて、治してあげたいと思ったのだ。
その頃、父が指を怪我したときにおまじないをしてあげたら『エイラはすごいな! すっかり痛くなくなった!』と喜んでもらえたから。
今なら父は我が子の気持ちが嬉しくてそう言ってくれただけだと分かるが、当時は本当に自分のおまじないで痛みが消えると思い込んでいたのだ。
ミカエル様も困ったことだろう、と思ったのだが、彼は懐かしそうに目を細めた。
「君の行動に最初は驚いたが、だんだんと嬉しい気持ちが湧いてきた。ちょうど人から『顔に傷を作るなんて何してるんだ』『美しくなければ駄目なのに』と怒鳴られたばかりだったから、なおさら君の優しさが胸に響いた」
ミカエル様が熱のこもった眼差しを私に向ける。
「き、傷はちゃんと消えたみたいですね……!」
彼の熱い視線に耐えられずに、そんなことを口走ると、ミカエル様が「君のおまじないのおかげだな」なんて嬉しそうに言うから、色々な恥ずかしさで私の顔は真っ赤になってしまった。
「それから君はこのピアノを見つけて、今習っている曲なのだと言って『子犬のダンス』を弾いてくれた。俺にも教えてあげると言って、俺の手を持って一生懸命に指を動かしてくれるのが、くすぐったいけど楽しくて、ずっとされるがままにしていた」
「……!」
再びの恥ずかしい過去話にいたたまれない気持ちになる。
けれど同時に、ミカエル様が『子犬のダンス』を好きだったのは、これが理由だったのかと思うと、嬉しさが込み上げてくる。
「……本当に楽しくて、幸せな時間だった。このまま父たちがずっと商談をしてくれればいい、今日一日では話がまとまらなくて、また君を連れて来てくれたらいい。そう思っていた。だが、残念ながらその後すぐに商談がまとまって、君とはそれきり直接会うことができなくなってしまった。……だから、君の家から婚約の申し込みが来たときは信じられないほど嬉しかった」
ミカエル様に手を取られ、私は反射的に椅子から立ち上がる。
「婚約の顔合わせの日、いろいろなことを考えてしまって、君に心からの求婚をすることができなかった。それを今、やり直させてくれないか?」
ミカエル様の真摯な申し出に、私はこくりとうなずく。
ミカエル様はほっとしたように微笑んだ後、今度は真剣な表情で私を見つめた。
「──エイラ嬢。幼かったあの日、俺は君に恋をした。あの日以来、君はずっと俺の特別な人だ。それはこの先、一生変わらない。永遠に君だけを愛すると誓う。……だから、俺と共に生きてくれるだろうか」
熱くて真っ直ぐな眼差し。その綺麗な青紫色の瞳には、顔を真っ赤に染めた私の姿が映っている。
恥ずかしさと嬉しさが入り混じって、心臓がどきどきと早鐘を打つのが止まらない。
初めは、彼が私のことを好きだなんて思いもしなかった。
きっと彼は私を憎んでいるのだと思って、毒殺されたときも彼が犯人だと思っていた。
だから人生をやり直せたときは、とにかく毒殺を回避して、彼ではない人と平和に暮らしたいと思っていた。
──それなのに、彼からの求婚がこんなに嬉しいだなんて。
これから先、彼と一緒に生きていきたいと思うだなんて。
たった一日戻っただけで、こんな風に気持ちが変わってしまうだなんて思いもしなかった。
でも、以前は見えなかったミカエル様の一途な想いや苦悩を知れたおかげで、今度はすれ違うことなく向き合うことができた。
だから、私のこの気持ちは、きっと間違っていない。
「……はい、ミカエル様と共に生きていきたいです」
そう返事をした瞬間、ミカエル様の幸せそうな笑顔が見えたと思ったら、いつのまにか彼の両腕に抱きしめられていた。
「ありがとう、エイラ嬢。本当に、君に出会えてよかった。神に感謝したい気分だ」
「……私も、神に感謝したいですわ」
誤解と悲劇の道を進んでしまった私がもう一度やり直せたのは、きっと神様のおかげだ。チャンスを与えてくださった神様の慈悲に、心の中でそっと感謝する。
これからは、きっと喜びに満ちた道を歩んでみせます──。
誓いと決意を込めてぎゅっとミカエル様を抱きしめると、彼の耳が真っ赤に色づくのが見えて、私は二人の幸せな未来を確信したのだった。
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