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11. 思い出の場所


 今日はミカエル様がいらっしゃる日。


「迎えに行く」


 彼はそう言っていた。

 つまり、どこかへ出かけるのだろう。


 行き先は分からないけれど、とりあえずあまり派手すぎない格好をしてみた。


「変じゃないかしら……?」


 姿見の前で、くるくると回りながら自分の装いを確認する。

 いつもよりも身だしなみが気になってしまうのはなぜだろうか。


 髪型はもう少し大人っぽくしたほうが良かっただろうか、などと思いつつ、ミカエル様に頂いた髪飾りをそっと撫でる。


「お嬢様、ライスト様がいらっしゃいました」


 侍女がミカエル様の訪れを告げる。


「い、今行くわ」


 ちょっと声が上ずってしまったのは、急に話しかけられて驚いたから。

 そう誰に弁明しているのか分からない言い訳めいたことを考えながら、少しだけ急ぎ足でホールへと向かう。


「……エイラ嬢、怪我は大丈夫か?」


 ミカエル様が心配そうな表情で私に問う。


「ええ、大丈夫です。お医者様に診ていただきましたけど、大したことはないということでしたわ」

「そうか、本当によかった……」


 あからさまにほっとした様子で顔を綻ばせるミカエル様に、私はまた心臓が跳ねるのを感じた。


「あ、あの……今日はどこかへ行くのですか?」

「ああ、君を連れて行きたい場所がある」


 ミカエル様がそう言って、私の手を取る。


「そんなに遠くはない場所だ。気に入ってもらえるといいんだが……ついてきてくれるだろうか?」


 ミカエル様が僅かに耳を赤らめて、私に尋ねる。

 その様子があまりにいじらしく見えて、私は即座にこくこくとうなずいてしまった。


「ここのところずっと家に引きこもっていましたから……お出かけできるのはとても楽しみです」

「喜んでもらえてよかった。俺も、君と一緒に行けて嬉しい」


 私の返事に、ミカエル様は嬉しそうに微笑んだ。

 そして私を馬車までエスコートしてくれる。


 迎えに来てくださったときから、ミカエル様の態度はとても優しくて紳士的だ。婚約者として完璧と言っていい。

 でも、だからこそ私は内心で大混乱に陥っていた。


(ちょっと待って……ミカエル様が昨日からおかしいわ……!)


 昨日もミカエル様の様子はおかしかったが、今日の彼は輪をかけておかしい気がする。

 私への態度が甘すぎやしないだろうか。

 今までの彼とあまりに違いすぎて、本当に同一人物なのか疑ってしまうほどだ。


 本当に本当に、彼はあのミカエル様なのだろうか?

 私となかなか目も合わせようとせず、会話も途切れ途切れで、いつも険しい表情をしていた彼は、どこにいってしまったのだろう?


(まさか、これが素のミカエル様なの……?)


 馬車の中で向かい合わせに座った彼をちらりと覗き見れば、すぐさま目が合ってしまった。

 どうしようかと思ったけれど、なんとなく目を逸らす気にはならず、そのまま見つめ続ける。


 これまで、こんなに長時間見つめ合うことなどなかったから、あまり気にしていなかったけれど、ミカエル様の目はとても綺麗な色をしていらっしゃる。

 青紫色の瞳は宝石のように輝いていて、吸い込まれてしまいそうだ。


 なかなか目を離せずにいると、ミカエル様がまた顔を赤らめるものだから、だんだん私まで気恥ずかしくなって思わずうつむいてしまった。


 二人の間に沈黙が訪れる。けれど、その時間も以前はただただ気まずいだけだったのが、今はなぜか胸がどきどきして落ち着かない。


 私は気を紛らわせるため、目を逸らしたままミカエル様に質問する。


「と、ところで、昨日はあのあと大丈夫でしたか? 我が家のメイドはすぐに捕らえられてどこかに連れていかれてしまいましたが……ヒルダはどうなるのでしょうか?」


 私がヒルダの名前を出すと、ミカエル様は溜め息まじりで「ああ、彼女のことか」とうんざりしたように呟いた。


「公爵令嬢とは思えないほどの暴れようだったらしいが、最後には観念して大人しくなったようだ。彼女の処遇はまだ決まっていないが、公爵家からは内密にしてほしいと言われている。毒殺未遂犯などという醜聞を出したくないのだろう」


 ミカエル様が忌々しげに舌打ちする。


「そうなのですね……。それで、どうなさるおつもりですか?」

「俺のことはともかく、実際はエイラ嬢を狙ったんだ。ただで済ませるつもりはない。公爵家には、彼女が遠くへ嫁いで二度と顔を見せないなら公表は控えると返事してある。おそらく、ラカネン辺境伯か隣国の第三王子あたりに嫁ぐことになるだろうな」


 ラカネン辺境伯といえば熊のような大柄で、勇猛果敢なラカネン騎士団を抱える猛将として知られている。

 とても立派な方だが、おそらくヒルダの好みの正反対だろうし、騎士団員たちと生活を共にするという辺境伯家での暮らしにはなかなか慣れないかもしれない。


 隣国の第三王子のことは生憎存じ上げないが、今は隣国と若干の緊張状態にあるため、婚姻といっても人質としての側面が強いのではないかと思われる。


 ヒルダほどの立場と美貌があれば、ミカエル様は手に入らなくとも別の良縁があっただろうにと思うと、少しやりきれない気もする。


「……ミカエル様は、あれからヒルダに会われましたか?」

「いや、会っていない。俺の姿を見てまた変な気を起こされては困るからな。それに彼女には二度と会いたくない」


 ミカエル様がきっぱりと言い放つ。

 顔をしかめ、ヒルダの名前も出さないところを見ると、彼女のことを本当に嫌悪しているらしい。


 昨日、あんなことになるまで、ミカエル様はヒルダのことを心から愛しているとばかり思っていたが、今ではそんなことはあり得なかったと分かる。


 あれほどに歪んだ執着をずっと向け続けられ、それでも身分の上下があるから無下にもできず、随分と居心地が悪かっただろう。


 私への態度がはじめは素っ気なかったのも、ヒルダの存在があったせいかもしれないと考えると、仕方ないようにも思えてきた。

 おそらく、私にヒルダの怒りの矛先を向けないためというのもあったのだろう。


 そんな風に考え込んでいるうちに、馬車が停まった。


「ああ、着いたみたいだ。エイラ嬢、来てくれるか?」

「は、はい」


 ミカエル様と一緒に馬車を降りると、そこには一軒の屋敷があった。

 屋敷といっても、お城のような規模ではなく、ほどほどの大きさで落ち着いた雰囲気の邸宅だ。


「ここは……?」

「我が家の別邸だ」

「そうなのですね。素敵なお屋敷です」


 きょろきょろと辺りを見回していると、ミカエル様が「こっちだ」と言って私の手を引いた。

 なぜか玄関には向かわず、庭を通って屋敷の裏側に回る。すると、大きなガラス張りの部屋が現れた。


「これは、温室ですか?」

「そうだ」


 ミカエル様がポケットから鍵を取り出して温室の扉を開ける。

 エスコートされて中に入ると、緑と土の匂い、そして花の良い香りに包まれた。ぽかぽかと暖かくて心地いい。


「素敵な温室ですね。植物も手入れが行き届いていて、お花もとっても綺麗……」

「気に入ってもらえただろうか……?」

「ええ、もちろん!」


 笑顔でそう答えれば、ミカエル様は安堵したように頬をゆるめた。


「よかった……。俺の思い出の場所なんだ」

「思い出の場所?」

「……エイラ嬢、こっちに来てくれないか?」


 ミカエル様がまた私の手を引く。

 そうして連れて行かれた先にあったのは、一台のピアノだった。

 飴色をした、美しい木目のグランドピアノ。


「あら……これは侯爵家にあったピアノですか?」


 たしか、侯爵家でお茶会をしたあの日にヒルダが弾いていたピアノだ。

 私がミカエル様を見上げて尋ねると、彼は微笑みながらうなずいた。


「ああ、元々はこの場所にあったピアノなんだ。……エイラ嬢、よかったらこのピアノで一曲弾いてくれないだろうか」

「ええ、いいですよ。何かご希望の曲はありますか?」

「では、『子犬のダンス』を……」


『子犬のダンス』は子ども用の練習曲だ。


(たしか、あの日ヒルダが弾いていたのもこの曲だったわね……)


 なんとなくモヤモヤするが、きっとミカエル様はこの曲がお好きなのだろう。ヒルダもそんなことを言っていた。


「……分かりました。では失礼しますね」


 ピアノの椅子に腰掛け、鍵盤に手を置く。

 一つだけ小さく息を吸って、そのまま指を滑らせた。


 子ども向けの可愛らしく、簡単な曲。弾き間違えることもない。

 ピアノ自体もとても弾きやすく、さらりとした触り心地の鍵盤が指に馴染む。


(……なぜかしら、このピアノを弾いていると懐かしい気持ちになるわ)


 侯爵家で一度目にしたピアノだからだろうか。

 ……いや、違う。もっと昔から知っているような──……。


 そうして曲の終盤に差しかかったとき、ふいに脳裏に幼い頃の記憶がよみがえった。


 ぽかぽかと暖かい空間。甘い花の香り。ピアノの向こうに見える鮮やかな緑。

 そして、私を優しく見つめる青紫の瞳……。


(……まさか)


 私は曲の途中で手を止めて振り返る。

 その先では、幼い頃のあの日のように、彼の青紫色の瞳が私を真っ直ぐに見つめていた。


「エイラ嬢? どうかしたか?」


 ミカエル様が心配そうに眉をひそめる。

 ……ああ、どうして気づかなかったのだろう。


「……私たち、幼い頃にここで会ったことがありますね?」



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