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1. 悲劇の始まり


 私は、過去に一度死んだ。

 婚約者だった男に殺されたのだ。


 彼との婚約は急に決まった話だった。どんな人物かも知らない相手。

 幼い頃に一日だけ一緒に遊んだことがあるらしいがよく覚えていないし、それ以来、ずっと会っていないのだから「知らない人」と言っても間違いはないだろう。


 そんな彼との十数年ぶりの再会は、朝からしとしとと嫌な雨が降る日のことだった。

 こんな日に雨だなんてと憂うつな気分で午前を過ごし、午後になって少し雨脚が強まったように感じた頃に、彼は来た。


 ミカエル・ライスト様。

 私より三歳年上の侯爵令息。


 雨のなか傘を差し、父親であるライスト侯爵の後を歩く彼は、恐ろしく無表情で口を固く結んでいる。何も知らない人が見たら、きっと葬儀の参列者だと思うに違いなかった。


(……婚約者としての初顔合わせなんだから、もう少し嬉しそうにしてくれてもいいじゃない)


 部屋の窓から覗き見ながら、少し腹立たしく思った。


「エイラ、こちらで待っていなさい。もうすぐお前の婚約者殿がいらっしゃる」

「……はい」


 父はこの婚約に非常に乗り気だ。そもそも、我が家から持ちかけた婚約なので当然ではあるけれど。

 歴史は古くないが、事業で成功して裕福なメレラ伯爵家と、由緒正しいライスト侯爵家。それほどおかしな組み合わせではない。


 ただ、向こうは幼馴染の令嬢といい関係だという噂があったので、正直話がまとまるとは思っていなかった。だから、とんとん拍子に婚約話が進んだのは本当に意外だった。


 我が家としては、事業の幅を広げるためにも侯爵家とつながりたいという目論みがあった。

 でも、侯爵家のほうはこの婚約でどんなメリットが得られるのか分からない。


 財産だって、我が家の援助など必要ないくらいに有り余っているはずだ。

 でも、もしかすると裏では借金を抱えているだとか、我が家の事業の伝手が欲しかっただとか、こちらの預かり知らないところで何かあったのかもしれない。


 でなければ、彼が私との婚約を受け入れるわけがなかったのだから。




「……エイラ嬢、お目にかかれて嬉しく思います。ミカエル・ライストと申します。ミカエルとお呼びください」


 顔合わせの日、この定型句とも言える挨拶が、彼の話した一番長い言葉だった。

 あとは「はい」「いいえ」「そうですね」「それほどでも」。

 そんな風に一言だけの返事ばかりだった。そして、それは婚約が結ばれた後も変わらなかった。


 ミカエル様は、公平に言えば寡黙な人、もう少し忌憚なく言わせてもらえば口下手な人。

 でも、私と話す気のない人、というのが一番言い得た表現かもしれない。


 二人でいるときも無言の時間が長かった。

 会話を振るのはいつも私で、彼は目も合わせずに相槌を打ってばかりだった。


 ただ唯一、私がピアノを弾いているときは、近くに腰掛けてじっとこちらを見つめる視線を感じた。私と話す気はないが、私のピアノを聴くのは嫌いではなかったらしい。

 曲の好みは特にないようで、何を弾いていても静かに耳を傾けてくれた。


 私がピアノを弾くのを止めると、さっと距離を取られてしまうのは良い気分ではなかったけれど、何か一つだけでも彼の興味を引けるものがあるというのは、ほんの少しだけ、私に自信と安堵をもたらしてくれた。


 そんな風に名ばかりの婚約者として付き合いを続けていたある日、私は一人のご令嬢と知り合いになった。

 とあるお茶会で、彼女──ヒルダ・アウノラ嬢が話しかけてくれたのだった。


 彼女は公爵令嬢だったので初めはかなり恐縮したが、共通の話題が多くてとても気が合い、私たちはあっという間に仲良くなった。


 互いに、エイラ、ヒルダと呼び合い、プレゼントを贈り合ったり、屋敷に行き来してお喋りを楽しんだりした。

 心を許せる友人の存在は、ミカエル様との婚約で息が詰まりそうだった私の心を癒やしてくれた。


 ヒルダはとても正直な性格で、ある日、申し訳なさそうな表情で私に打ち明けてきた。


「エイラ、言おうかどうしようか迷ったのだけれど……あなたには隠し事をしたくないから伝えるわ。どうか気を悪くしないで聞いてくれる?」

「どうしたの、ヒルダ? 何の話か教えてちょうだい」

「ええ、実はね……」


 ヒルダが教えてくれた話に、私は驚いた。

 なんと、彼女はミカエル様の幼馴染で、以前には彼と婚約の話も出ていたというのだ。


「どこかで他人から聞いてしまうより、わたくしの口から伝えておきたいと思ったの」

「ヒルダ……話してくれてありがとう。驚いたけれど、あなたから話してもらえて嬉しいわ」

「エイラに嫌われなくて安心したわ」


 ヒルダがほっとしたようにまなじりを下げる。


「嫌うだなんて、そんなわけないじゃない。私のほうこそ、ミカエル様との婚約のことでヒルダに嫌な思いをさせてないといいのだけど……」

「エイラ……わたくしなら大丈夫よ。二人のこれからを側で見られると思うとよかったわ。だから、もしミカエルのことで悩みがあったら言ってちょうだい。相談に乗るから」

「ありがとう、ヒルダ。心強いわ」


 お礼を言うと、彼女は優しくにっこりと微笑んでくれた。

 思いがけない事実に驚きはしたけれど、ヒルダの気遣いが嬉しかった。

 お言葉に甘えて、これからはミカエル様との接し方について相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。


(それに、これでミカエル様との共通の友人ができたということよね?)


 これまで息苦しいばかりだった私とミカエル様の関係も、ヒルダが間に入ってくれることで多少和らぐかもしれない。

 自分の幼馴染と仲良しだと知ったら、彼も私に心を開いてくれるかもしれない。

 そんな期待が胸をよぎった。


 いくら政略目的とはいえ、会話も続かない、目も合わないような日々がこれからも──結婚後も続くのは嫌だった。

 相手を変えられないのは仕方ないとして、少しでも友好的な関係を築きたかった。

 だから、彼に提案してみた。


「……ヒルダ・アウノラと三人で茶会?」

「ええ、最近仲良くなったんです。ヒルダはミカエル様の幼馴染なのでしょう? 三人でお茶会をしたらきっと楽しいのではないかと思いまして」


 三人でのお茶会で、もっと彼のことを知れれば、そしてこれをきっかけに彼も私に興味を持ってくれれば。そう思って彼に提案したのに。


「……俺はそうは思わない。申し訳ないが遠慮する。──それから、彼女とは付き合いを控えたほうがいい」


 苦々しくそう言い捨てて、ミカエル様は席を立ってしまった。

 何が彼の気に障ったのか、このときの私には分からなかった。



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