婚約破棄交渉九十九回目、のちに……。
よくある婚約破棄モノを書いてみようと思ったら、なんだか全然違うものになっていました。
恋愛もの書くの久しぶりです。
「レディ・エリザベス。どうか私との婚約を解消していただけませんか」
朗らかな午後の日差しが燦々と降り注ぐ、サンルームにて。色とりどりの鮮やかな薔薇が咲き誇る、華やかな場所での和やかなティータイムに不似合いな発言がなされた。
その問題発言を口にしたのは、燃えるような赤毛の、背の高い青年だ。表情は、口にしたばかりの言葉にふさわしく、緊張で強張っている。名をクロード・ロペス。今年二十九歳になる王国騎士団の騎士だ。身分は片田舎の男爵家の三男坊で、クロード自身が爵位を継ぐことはない為、法的には平民と変わらない。クロード自身が栄達し叙爵でもされない限りは、一代限りの騎士として終わるだろう。
とはいえ、頑丈にして健康、生真面目で腕も立つので、若手の中でも出世頭であるし、上司にも恵まれているので将来有望な若者と言える。の、だが。
そんな彼が、五年前に結んだ婚約を、今になって解消しようと言い出したのには、もちろん理由があった。
というのも、この婚約ははじめから、数年で解消されることを前提に結ばれたものであるのだ。少なくとも、クロードと、婚約者の父であるマクミラン公爵にとっては。
――しかし。
「何故ですの? わたくしに何か至らぬ点があるのでしたら、どうか教えてくださいまし」
エリザベスはまるでこの世の終わりとでもいうかのように、青ざめた顔で声を震わせた。大きく見開かれた榛色の瞳が見る間に潤んでいく。
あまりに幼気な少女の、今にも泣き出しそうな様に、クロードはぐぅ、と喉を唸らせてしまいそうになった。今すぐにも「ごめんよ、今のは冗談だよ」と笑ってやりたいが、そう言うわけにもいかず、膝の上で握りしめた拳に力を入れる。
「……エリザベス様に至らぬことなどございません。むしろ私の方が……。ええ、そうです。私とエリザベス様とは少々歳も離れておりますし……」
罪悪感から言葉を濁してしまったが、少々どころではなく、かなり、だ。
なんせクロードの正面の椅子にちんまりと腰を下ろしている少女は、先日ようやく十三歳の誕生日を迎えたばかりなのである。
二人の年齢差は、実に十六歳。結婚の早い農民だと、下手をすると親子ほども離れている。
「クロード様! わたくしにそのようにお話になるのはおやめくださいませ。わたくしはあなた様の妻になるのですよ」
「いえ、ですから……」
「年の差なんて! たかだか十六歳差ではありませんか。別に珍しくもございませんわ。先日ご成婚なされた宰相閣下の奥様だって、閣下より二十は年下でしてよ」
「それは、まぁ……」
カネと権力のある男が、若い後妻を娶るのと一緒にしないでほしい。
クロードは心底そう思った。きっとそれは、顔にも出ていたのだろう。
エリザベスはぷん、と顔を横に背けてきっぱりと言い切った。
「嫌ですわ」
「エリザベス様……」
「わたくしはクロード様の妻になるのだと、女神へーラーの神殿で誓ったのです。絶対に、婚約を解消などいたしません」
結婚と貞節の女神を祀る神殿での婚約式は、確かに神聖なものである。だが絶対の制約があるものではなく、双方の家と、本人同士の同意があれば解消することは可能だ。
だからこそ、クロードはエリザベスからなんとしても、同意を得る必要があったのだが……。
「お父様ですわね?」
「えっ」
「突然そのような世迷い言をおっしゃられたのは、お父様のせいですわね?」
「い、いえ、そんな……っ!」
「よろしいですわ。わたくし、きっちり話し合ってまいります。御前失礼いたしますわね。――お父様っ!!」
「ちょ、ちょっと待ってください、エリザベス様っ」
淑女らしい優雅な仕草で立ち上がったエリザベスは、にっこりと笑みを浮かべるや、淑女らしからぬ俊足を披露し、サンルームから走り去った。クロードも慌てて追いかけたが、この屋敷……マクミラン公爵邸の中でクロードが自由に出入りできる場は限られている。
応接間やサンルームならともかく、公爵一家が居住する区画、それも公爵の書斎など、近づくのも憚られた。どうしたものかと書斎に通じる廊下で右往左往していたら、大貴族の邸宅には似つかわしくない大声が廊下にまで響いてきた。
「お父様の馬鹿!! どうして今更婚約破棄なんて言い出すのよっ!」
「な、なんのことだ!? クロードくんがそんなことを言ったのか? 可哀想に。まあ歳の差もあるから仕方な――」
「白々しいことをおっしゃらないでくださいまし! あのクロード様が、お父様を飛び越えてわたくしにそんな話を持ち出すわけがありません!」
「ぐっ」
正論であった。
普通、常識と良識のある者ならば、貴族家の間で結ばれた婚約を解消するとなれば、相手の父親へまず話を通そうとするだろう。これには公爵もとっさに反論ができなかったようだ。何か言い逃れをしているようだったが、そのあたりは声が小さくて聞こえなかった。
そのかわり、すぐに怒りに満ちたエリザベスの声が飛んでくる。
「それに、クロード様の方から婚約破棄など申し出られるわけがないではありませんか! 我が家は公爵家なのですよっ!? 成婚で受けるメリットはあれど、破談になればデメリットしかございませんでしょう!」
「そ、それは……。し、仕方ないではないか! それがお前のためなのだ、リズ!」
「んまぁ~っ! 開き直りましたわねっ!?」
「落ち着きなさい、考えても見ろ。彼はうだつの上がらない男爵家の三男で、しかも十六も年上なのだぞ? パパはお前が将来苦労すると思って……」
「お父様! わたくしの命の恩人に失礼なことをおっしゃらないで!」
「リズ、リズ。聞いてくれ。パパだってクロードくんにもロペス男爵にも感謝しているとも。だから礼も惜しまなかったし、騎士団での出世競争だって後ろ盾になったし、たとえ破談になっても今後も協力を惜しまない」
「破談になんてしませんっ」
「そもそも最初から、五、六年たったら解消するって約束だったんだ!!」
「なんですって!? わたくしはそんな話知りません、聞いてません! 絶対認めませんから! クロード様に感謝していると言いながら、どうしてそのようなことを……!!」
「仕方ないだろう、パパは……パパは、自分と五つも年の離れていない男にお義父様などと呼ばれたくないんだっ!! そんな奴に娘をやれるかっ!!」
「そんなのお父様の身勝手じゃないですか、馬鹿! 嫌い! お父様なんて大っ嫌いっ!!」
「リ、リズ――ッ!!」
……実に醜い言い争いは、娘の勝利に終わったようである。
マクミラン公爵がエリザベスを説得することをうっすら期待していたクロードは、がっくりと肩を落とした。
こうして、一回目の婚約破棄交渉は大失敗に終わった。
***
そもそも、なぜ小国といえど、一国の公爵家の長女であるエリザベスと、一介の騎士でしかないクロードが婚約することになったのか。話は五年前に遡る。
その日、クロードははれて王国騎士団に入団したことを両親に報告するため、実家へとひとり旅をしていた。貧乏男爵家のクロードには、従僕らしい従僕もついていなかったし、あいにく実家の方面へ向かう商隊も見つからなかったのだ。
幸い従僕はいずとも、愛馬はいる。剣の腕には自信があったので、自分の命ひとつ守るくらいどうということもないと、気楽な一人旅を決め込んでいたのだが、王都を出て三日程たった頃に野盗と遭遇してしまった。
とはいえ、襲われたのはクロードではない。家紋はなかったが、見るからに上質な作りの馬車が、ならず者に襲われているのを発見したのだ。
義を見てせざるは勇なきなり。そう両親に教えられて育ったクロードは、考えるよりもはやく馬車を守らんと奮闘していた護衛たちに加勢した。
だが。
「きゃあぁぁ――っ!」
「お嬢様ァ――っ!!」
クロードが駆けつけた時には、馬車から幼い少女が引きずり出され、騎乗した男に無理矢理連れ去られるところだったのだ。
もちろん、クロードはその騎馬を追った。残された馬車の中の女性や、御者たちも心配だったが、彼らの縋るような眼差しは、令嬢の救出を何より願っていた――はずだ。多分。
とにかく、そういった経緯で人さらいを追ったクロードだったが、相手はひとりだと、どこかで油断があったのだろう。森に入ってしばらくしたところで、クロードは騎馬に追いつき、少女を取り戻したのだが……。待ち伏せしていた人さらいの仲間に囲まれてしまったのだった。
そこからは無我夢中で暴れて抵抗したが、気を失った少女を守ってひとり闘うのは限界がある。やがて力尽きたクロードは、少女とともに捕まってしまった。
不幸中の幸いだったのは、人さらいたちが奴隷狩りの一団であり、若く、見るからに健康で腕の立つクロードに高い商品価値を見いだしてくれたことだろう。おかげさまで、クロードは少女とともに荷馬車にのせられ、運搬された。
そうして三日ほど体力の回復につとめ、大人しく男達の様子を伺い、国境付近で隙をついて少女を連れて脱出したのだ。
男達は人目を避けるために、森沿いを進んでいた。ちょうどその晩野営していた一帯は、クロードの実家の所領だったのだ。つまり、土地勘ならば男達の誰にも負けない。夜の森もなんのその、クロードは男達を森で撒いて、近隣の村に助けを求めた。
小さな田舎領主の治める村だ。村人たちはクロードの顔を覚えていてくれたので、怪しむことなくクロードと少女を匿ってくれ、翌日にはロペス男爵家に使いをやって、少女を保護することができたのだった。
――この少女が、マクミラン公爵家の長女、エリザベスだったのだが、あいにくとこれでめでたし、めでたし、とはいかなかったのである。
当時、エリザベスは八歳。まだ幼い子どもであった。
しかし運の悪いことに、クロードの通報によって捉えられた人さらいの一団は、エリザベスを幼女性愛者向けの娼館に売るつもりだったと証言したのだ。美しければ農家の子でも貴族でもお構いなし。むしろ貴族の娘の方が、嗜虐趣味の客に好まれるのだ、などと取り調べの場で語られたのだからたまらない。
ご令嬢にとって、少しでも貞節を疑われる要素があればその先の人生は真っ暗だ。
もちろんクロードは、エリザベスはずっと自分と一緒に囚われていて、懸念されるようなことはなかったとマクミラン公爵にもはっきりと告げた。誰に聞かれたとて、同じことを答えた。
だが、数日間拐かされていた事実は、どうしたっていらぬ憶測を呼ぶ。それを晴らすには、エリザベスの純潔を唯一証明できるクロードと結婚するというのが、一番丸くことが収まる方法だった。
……とはいえ、クロードもマクミラン公爵も、本当に結婚までするつもりはなかった。ほとぼりが冷めた頃に、適当な理由で婚約を解消してしまえばいいと、そう考えていたのだ。
いくらマクミラン公爵家には跡継ぎの長男や次女、と他に子どもがいたとしても。公爵家の長女と、爵位もない一騎士が結婚など、身分差がありすぎる。
しかも、年の差十六だ。
大事なことなので何度でも言おう。
年の差、十六だ。
クロードだって、八歳の子どもと本気で結婚したいとは思えなかったし、公爵家とのつなぎ目当てでエリザベスを助けたのだとか、婚約したのだなどと噂されるのはごめんだった。別に大貴族との繋がりなどなくとも、自力で出世してやる。そんな意地があったのだ。あの頃は本当に若かった。
そんなわけで、クロードとマクミラン公爵は、合意の上でこの契約婚約を成立させたのだが……。ふたりにとって誤算だったのは、エリザベスがクロードを想定以上に慕っていた、ということである。
懐かれているな、というのはクロードも思っていた。
だがそれも不思議もない。エリザベスにとって、クロードは危険から己を守り、助け出してくれた英雄なのだ。年の離れた兄弟がいるために、小さな子の扱いにも慣れていたクロードに懐くのも自然の流れだったろう。
そうは言っても、クロードはエリザベスが年頃になれば、自分のようなおっさんと結婚するのは嫌だと思うだろうと、楽観していた。
なんたってマクミラン公爵はクロードと五つも歳が変わらないのである。
今はまだ幼いから他家との交流も少ないが、エリザベスが十六歳になれば社交界にもデビューする。そうして同じ年頃の他家の令息たちと交流を持つようになれば、きっと素敵な恋をするはずだ。
そう、そのはず……だった、のだが。
「レディ・エリザベス。私との婚約を……」
「お断りですわ」
「エリザベス様、その、そろそろですね……」
「嫌ですわ」
「エリ……」
「嫌です」
――何遍同じ申し出を繰り返しても、一度として、エリザベスは首を縦には振ってくれなかった。
***
「どうしたものか……」
九十八回目の婚約破棄交渉もまた決裂し、困り果てたクロードは、馴染みの酒場で頭を抱えていた。
最初の交渉から、実に四年の時が経過している。
エリザベスも十七歳の乙女となり、昨年にはデビュタントも済ませ、花の盛りとばかりに美しくなった。
艶やかに成長したエリザベスと会う度に、クロードは焦りが募ってしまってどうしようもない。もうエリザベスもすっかり適齢期だ。普通なら、とっくに結婚式をあげることになっていただろう。
実際、エリザベスは周囲の令嬢達や、知り合いの貴婦人方に折に触れ訊ねられるようになったという。そうして「じっっ」とクロードを見つめるのだ。盛大な期待を込めて。それを目にする度、クロードは強烈な罪悪感と後ろめたさに襲われるのである。
「リズがさぁ、最近さぁ、ウェディングドレスはどんなのがいいかしらとか聞いてくるわけよ。もう俺どうしたらいいと思う? なぁ、クロちゃんなんとか説得してくれよ」
「……九年前は、その時が来たら私からきちんとエリザベスには話を通すから心配しないでくれとか言ってなかったか、ジョージ」
「仕方ないだろ! 父親特権で無理矢理破談なんかしてみろ! リズに嫌われちゃうだろうが、俺が!!」
ダン! とテーブルにジョッキを叩きつけて、ジョージ・マクミラン公爵閣下は吠えた。顔どころか耳も首も真っ赤にして、すっかりただの酔っ払いである。お忍び用の普段より数段品質を落とした衣服も相まって、今の彼を見て王家とも血縁のある公爵家のご当主様だとは、誰も思わないだろう。
九年前までは、庶民が出入りする酒場など足を踏み入れたこともなかったジョージであったが、クロードと親しくなってからは、二人で相談事などをするときによく利用するようになっていた。
片や一介の騎士、片や公爵ではあったが、年齢が近く、共通の秘密を周囲に対して抱えていた二人がうちとけるのに時間はかからなかった。出会って一年も経つ頃には、身分の差を超えて互いにファーストネームを呼び合う中だ。親友と言っても良い。
クロードにとってエリザベスという少女は、どうしようもない事情で一時婚約することになった相手というよりも、友人の娘という印象が強い程だ。
で、あるからして。
「……私だって、今更リズに嫌われるのは嫌だよ」
「ならこのまま結婚するか?」
「勘弁してくれっ!! これまでずっと妹か、それこそ娘のように思って接してきてたんだぞ!?」
「ははは、だよなぁ……。お前がそうだったから俺は安心して婚約者やって貰ってたんだよ。いやぁ、まさかリズがここまで頑固だとは……」
恐らくこの場にエリザベスがいたならば、頑固ではなく一途なのです、と猛抗議したことだろう。
「いっそのこと、はっきり言ってやったらどうだ。リズのことは娘のように思ってる、とか」
「五十六回目に言った」
「ら?」
「情があるならば問題ありません。夫婦になってから愛を育めば良いのです。世のほとんどのご夫婦はそうされております……だって」
「はっはっは、そうだな、貴族なんてほとんど政略結婚だもんなぁー。はぁ……」
全くもって笑い事ではない。
そのエリザベスに娘のように思っていると伝えるのは、クロードにとってできることなら避けたかったことだったのだ。だってそんなことを言って、泣かれたり悲しませたりしたら大変ではないか。長年見守ってきた少女に嫌われたら、クロードは心底落ち込む自信がある。
しかし、もはやそう時間は残されていなかった。
「……来年、リズは十八歳になる」
「ああ……」
「これ以上は、引き延ばしは難しい。とうにレイチェルもジェフリーも、シエラも……いや、屋敷中の者がエリザベスの味方についている」
「なんと……」
レイチェル夫人は、ジョージの妻。つまりマクミラン公爵夫人だ。ジェフリーは長男、シエラは次女である。子ども達はともかく、公爵夫人はもともと、ジョージ同様、期間限定の婚約ということを承知していた。彼女としても、いくら娘の恩人とはいえ、自分と同年代の男に娘をやりたくはないと思っていたはずだ。クロード様がせめてあと十歳若ければーっ! などと何度も言われたので間違いない。
こうなっては、自分たちの味方はもういないも同然。
ロペス家の方は最初から、公爵家と縁続きになる栄誉に大喜びで、この婚約が後の解消を前提に結ばれたものだとはかけらも思っていないだろう。
「どうしよう、クロちゃん。このままじゃ俺達、ある日突然式場につれていかれて、神官の前で結婚宣誓書にサインさせられるはめになるかも……」
「……止めてくれよ、当主だろ?」
「ばっか、嫁と子どもに団結されて、何ができるってんだ!? せいぜい鷹揚に頷いて、良きに計らえとか言って体裁整えるくらいしか道はないんだぞ!」
信頼していた右腕が、いつの間にか敵に寝返っていたと言わんばかりに、ジョージは昏い顔だった。無理もない。彼は愛妻家で恐妻家なのである。愛しい妻が味方のうちは何も怖いことなどない彼だが、妻が敵に回ってしまっては、もはや打つ手なしとすっかり後ろ向きだ。このままでは本当に、結婚宣誓書の保証人欄にあっさりサインをしかねない。
「しっかりしてくれ、ジョージ! 君がそんなでどうするんだ」
このままでは、クロードは本当にエリザベスと結婚することになってしまう。あまりにも身分不相応。逆玉の輿もいいところだが、それだけにクロードが受けるやっかみや誹謗中傷はひどいものなのだ。
この婚約が成立してからずっと、ロリコンだのペド野郎だのと陰口を叩かれてきたのである。遙か昔、異国で高貴な身分の男性が、幼い少女を囲って育て、やがて妻としたという逸話から、逸話の少女を現す「紫紺の令嬢」というあだ名は、エリザベスを差すものとなっているくらいだ。
違うのだ。クロードは決して小児性愛者でもなければ、女性は若ければ若いほどいいなんて思っちゃいない。むしろ元々年上好みだったのだ。初恋のレディ・マチルダはクロードより二つ年上で、クロードが騎士見習いになった年、釣り合いの取れる家に輿入れした。
この九年の間にも、密かに想いを寄せていた宮廷女官だっていた。しかしエリザベスと婚約している手前、想いを打ち明けることもできず、他の男と結婚するのを見つめることしかできなかっただけで。
だから、決して、ロリコンではない。
だから、どうにか、婚約を解消したい。
別に今、想いを寄せている女性が他にいるわけではないけれども。いつ出会いが訪れるかわからないものであるし。できればエリザベスにも、年齢も身分も釣り合う男と知り合って幸せになってほしいし――……。
などと考えながらジョージと杯を重ねて。
すっかり酔いつぶれたジョージを背負って、マクミラン公爵邸へと送り届けたクロードは、そこで衝撃的な報告を受けるはめになった。
――エリザベスが、火事に巻き込まれたというのだ。
***
普段は華やかで明るい雰囲気で満ちているマクミラン公爵邸は、まるで葬儀の最中であるかのように重苦しい悲しみに包まれていた。
当主夫妻が溺愛する掌中の珠、レディ・エリザベスに降りかかった災難は、きっと明日には都中に知れ渡ることだろう。
観劇中に発生した火災の火元は、隣接するレストランだった。
話題の歌劇に集中していた劇場側は、火事に気付くのが遅れ、特に奥まった場所にある貴賓席は、気付いた時には廊下まで火が迫っていたという。
幸い死者は出なかったが、負傷者は多数。エリザベスもそのひとりだ。
屋敷にその報せが届き、負傷したエリザベスが馬車に乗せられ帰ってきて。主治医を呼んだり、外出中の当主を呼び戻そうと大騒ぎになっていたところ、クロードがジョージを背負って帰ってきたというわけだ。
この騒ぎに、ジョージも一気に酔いが覚め、ふたりはすぐさまエリザベスの寝室へと向かったが、よりによって顔に火傷してしまったエリザベスは、ショックのあまり誰とも会いたがらなかった。
翌日も、その翌日もだ。
クロードは心配のあまり毎日マクミラン公爵家へ通ったが、エリザベスはなかなか回復しなかった。ようやく面会がかなったのは、火事から七日が経過した日のことである。
マクミラン公爵邸のエリザベスの寝室に、クロードが足を踏み入れたのはこれが初めてのことであった。エリザベスは夜着の上にガウンを着て、幾重にも重ねたクッションに背を預けてベッドに座っていた。その頰には大きな湿布が貼られ、首にも腕にも包帯が巻かれている。
痛々しい姿に、心臓がぎりぎりと締め上げられるような心地であった。
「このような格好で申し訳ございません」
「いいえ、楽になさってください。体調がすぐれないようでしたら出直しますから、決して無理はなさらないよう……」
「クロード様」
悲しみに沈んだ目で、エリザベスがクロードを見上げた。
いつもきらきらと、憧憬と思慕を浮かべて自分を見ていたエリザベス。その少女から向けられた悲痛な眼差しに、なんとも言えない息苦しさを覚えた。窒息しそうだ。
やめてくれ。
心底から、思う。
「どうか私との婚約を、解消してくださいませ」
――その言葉を、こんな形で聞きたかったわけではないのに。
「……エリザベス様」
「腕だけではございませんの。顔にも痕が残ってしまうそうです。このような醜い姿で、どうして嫁ぐことができましょうか」
「たかが怪我くらいで何を言うのです。その程度の傷で、あなたの価値が損なわれることなどありません」
「でも! クロード様はずっとわたくしとの婚約を解消したがっていたではありませんか!」
「それは……」
「わたくしが人に誇れるものなど、家柄と若さと美貌くらいでしたわ!」
「そ……」
それらは確かに、エリザベスの持つ価値あるものであるが、はっきり本人に断言されるとなんと答えたものかクロードは判断に迷った。エリザベスが若くて美しくて家柄が良いのは衆知の事実だが、かといってこれに頷けば他に価値のないと言っているようではないか。
「知ってます、クロード様は結婚相手に家柄の良さなど求めていらっしゃいません。むしろ、釣り合いの取れる家格の、釣り合いのとれる年齢の女性が望ましいのでしょう!?」
「えっ」
「そのどちらもわたくしにはないのです。ならばわたくしが売り込めるのは美しさしかないではありませんか! 唯一のよすがでしたのよ。それがなくなってしまっては、もう……、もう……っ」
はらはらと涙をこぼし、エリザベスは両手で顔を覆ってしまった。ふるえる華奢な肩にも、真っ白な包帯が巻かれているようで、動きはとてもぎこちない。
泣き伏す少女を前に、クロードは後ろ頭を棍棒で強かに殴られたかのような衝撃に見舞われていた。
親子ほどに年の離れた娘に、自分の好みや願望を見透かされていたことにも驚いたが、何よりもその思い切りの良さが衝撃だった。
クロードに対して自分が切れるカードが少ないことを、エリザベスは理解していた。そうして、彼女が他者と比べて誇れるカードの中で、クロードが否定しないものが「美しさ」だったのだろう。
その唯一を取り上げられたエリザベスは、実に潔く、クロードを手放すことを決めたのだ。
なんて馬鹿な娘だろうか。
顔に火傷の痕の残る令嬢だなんて、それこそろくな縁談を整えることはできないだろう。生涯独り身となってもおかしくはない。少なくとも、釣り合いの取れた家格や年齢の相手を望むのは難しい。
こうなっては、クロードは婚約を解消しようだなどと、言えるわけがない。
――それがわかっているから、今まで散々嫌がっていた婚約解消を自分から切り出したのだ。
たったひとつの切り札を取り上げられて、お情けで結婚して貰うなど、我慢ならないのだと、無言のままに全身で叫んでいる。
なんて馬鹿で、一途で、誇り高い娘だろうか。
そうして、クロードはまったくもって見る目のない、家格や年の差ばかり気にかける小さな男であったことか。
「……エリザベス様」
「…………」
「リズ、聞いてくれ」
本人に対して愛称を呼ぶのは、実に七年ぶりのことだ。ひくりとエリザベスの肩が揺れた。
「この程度の火傷で、君のどのような価値も損なわれることなどない。だから、君が恐ろしい目にあったことには憤りを感じるが、同情をしているわけではないよ」
「……嘘です」
「婚約を解消したかったのは、私では君に釣り合わないと思っていたからだ。釣り合わないなら、それなりに、努力をすれば良かったのにな。意気地のない男ですまなかった」
「やめてくださいまし! クロード様は意気地無しなんかじゃありません! たったひとりでわたくしを人さらいから救ってくださった、勇敢な騎士ですっ」
きっと眦をつり上げて、エリザベスはようやく顔を上げた。額に包帯を巻き、頰に大きな湿布を貼って。滑らかな肌のあちこちに擦過傷をこしらえていても、やはり誰が何と言おうとこの娘は美しいのだ。
あの日クロードが、たとえ命に替えても無事家に帰すのだと誓った少女は、こんなにも強く美しくなった。
その成長を近くで見守って、いつかは誰かの手に託すのだと、そう思っていたけれど。きっともう、手放せないのは自分の方なのだとしみじみ突きつけられてしまったから。
だから、クロードは覚悟を決めた。
「ありがとう。それなら応援してほしい。来期に騎士団の再編成があり、団長クラスの選抜があるのは知っているだろう」
「はい、それは……。でもクロード様、興味はないと……」
「公爵家の令嬢と結婚するのに、いつまでもただの騎士では体裁が悪いだろう。必ず騎士団長になるから、その時は……」
現在のクロードは、王国騎士団の部隊長だ。同期の中ではそう遅い出世ではないが、騎士団長クラスになれば、一代限りとはいえ男爵位に叙爵される。それでも公爵家とでは釣り合いは悪いが、今よりは随分ましだろう。
だから。
「レディ・エリザベス。私と結婚してください」
ベッドサイドのラグの上に片膝をつき、包帯に包まれた華奢な手をとり騎士の礼を捧げる。
そうして見上げた少女は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、ただただ声もなく、何度も首を縦に振ったのだった。
――新任の騎士団長が、年若い花嫁と盛大な結婚式を挙げたのは、それから一年後。薔薇の盛りの、美しい初夏のことであった。