lesson 0:異世界に転移なさい!
ぱちくりと目を瞬かせた私は、狐に摘まれたような気分で周囲を見渡していた。
見渡す限りの白、白、白。
夢だろうかと、試しに頬を抓ってみたが、とても痛くて思わず軽い悲鳴を上げてしまった。
まずは状況を整理しよう。
今日も会社の末端としての責任以上の業務を果たし、家に着いたころにはとっくに草臥れていたことは覚えている。
様々なハラスメントが蔓延る職場環境に悪態を吐きつつ、スーツを脱いだり化粧を落としたりとある程度のことを済ませた私は、夕食も取らずに真っ直ぐにテレビへと向かった。
最近流行りの据え置き型ゲームを起動させると、そこには昨晩セーブした瞬間のシーンが映し出されていた。
丁度、ヒロインが攻略対象の1人である第1王子と結ばれ、口付けを交わしている場面だ。
ここに至るまでがかなり難しくて大変だったんだよね、と感慨深い思いで缶ビールを一気に飲み干した……
そこで、記憶が途切れている。
何とか今の今までの記憶を手繰り寄せることに成功した私は、しかし、やはり現状が全く理解出来ずに困惑した。
とはいえ、この果てしない白が広がる空間で呆然と立ち尽くしている訳にもいかず、とりあえず声を出してみることにした。
「あの、誰かいませんか?」
当然、周囲には人など見当たらないため、返事など期待していなかったのだが。
「目覚めましたか」
「おわっ!」
予想していなかった返事に変な声を上げてしまった。
咄嗟に「きゃっ!」などの可愛らしい悲鳴を上げられない己の女子力の低さを嘆きつつ、恐る恐る再度周囲を見渡す。
だが、案の定人っ子一人見つからない。
いよいよこれはどういうことかと、疑問と若干の恐怖で動けずにいると、再び先程の声が聞こえてきた。
「今、私は“上”から貴方に語りかけています。この空間は私の力が辛うじて及ぶ限界地点。お恥ずかしいことに今は貴方の前に姿を現すことすら叶いません」
耳をそばだてると、成程確かにこの声は頭上から聞こえてくるような気がする。
ただ、己の身に起きていることが未だに理解出来ない私は、天の声に言葉を返すこともままならず、小さく頷いただけだった。
まるでゲームの中のようなファンタジーな何かに巻き込まれてしまったのか、こんな奇妙な経験はそうそう味わえない。
驚く程冷静な自分に少々驚きながらも、しかし、現実とは思い難い現状を楽しんでしまっている自分がいるのも事実だった。
しがないOLに過ぎなかった自分の身に起きた非現実的な出来事。
ゲームの中で憧れていた別世界への転生?に対する喜び。
妙なタイミングでゲーマーとしての血が騒いでしまった私は、とにかく現状を確認しようと、空(といってもやはり白色だが)を見上げ、大きな声で天に語りかけた。
声の主は何かを知っているようだが、果たして。
「あの、ここはどこでしょうか。それに、私はどうやってここに来たのでしょうか。そもそも、貴方は一体何なのでしょうか。それに……」
「ええ、ええ、矢継ぎ早に質問する気持ちはわかりますよ。では、それら全ての答えをお教えしましょう」
次々に浮かんできた問いを投げ続ける私を制し、天の声は漸く私の身に起きた出来事を説明し始めた。
「貴方には悪役令嬢として転生し、ヒロインのバッドエンド回避に尽力して頂きたいのです」
「乙ゲー導入時風のイベント来たー!?」
親の顔より見た光景、プロローグの序盤も序盤。
最近では乙女ゲームでも悪役令嬢転生物の流行の波が来ているが故に、このイベントには最早実家のような安心感すら感じる。
あとアリスモチーフ多すぎ。
そんなことはさておき、やれやれと首を横に振った私は、一面白に覆い尽くされた床に座り込んだ。
「ま、そんなことあるわけないか。どうせ夢でしょう? はいはい、明晰夢明晰夢」
自身の記憶が確かならば、先ほど乙女ゲームをプレイしがてら缶ビールを一気に飲み干した気がする。
つまり、酔っ払って都合の良い夢でも見ているのだろう、というのが私の解釈だった。
こんな非現実的な状況、それ以外ありえない。
凡庸な考えに至った私は、そのまま睡魔に身を任せ、床に体を預けて眠りの体勢を整えた。
そこで、はっとする。
いや待てよ? もし仮にこれが明晰夢だとして、このはっきりと感じる眠気は何なのだろうか?
夢の中でも眠る夢を見た、というのは対して珍しい話ではない。
問題は、“明晰夢”にもかかわらず、“明確な眠気を感じる”というところだ。
何かこう、言いようのない違和感を感じる。
嫌な予感ほど的中するというもので、謎の声は真剣な声色で語る。
「本当は貴方も理解しているはずです。これは、決して夢などではないと」
「……嘘」
まごうことなき現実ですよ、と。
床の無機質な冷たさを感じながら、降ってきた声にとうとう私は両手で顔を覆ったのだった。
そうしてしばらくはしたない姿を晒していたが、このままでは事態は好転しないことに気がつく。
緩慢な動作で起き上がった私は、大きなため息をついて髪をかき上げた。
普通に考えたら、こんなもの乙女ゲー限界オタクが見た都合の良い夢に決まっている。
ビールを言い訳に現実逃避出来たら、どれほど良かったか。
しかし、客観的ではなく主観的に考えて、これが現実であることは私が誰よりも理解していた。
根拠は、先ほど感じた違和感と……己の勘。
勘というのは、実は自らの経験等に基づいて感じるものでもあり、一概に不安定な要素だと馬鹿に出来ないのである。
とかなんとか御託を並べるのも、結局、非科学的なことに無理矢理理由づけしたいだけなのかもしれないが。
混乱する脳をなんとか落ち着かせ、私は上を見上げて少し声を張った。
「あの、教えて頂いても良いですか。この世界のこととか、どうして私が選ばれたのか、とか」
少しだけ間があった後に、「わかりました」と答えた声は、懇切丁寧に経緯を説明してくれた。
謎の声が言うには、何と今私たちが住んでいる世界──所謂、現実世界が崩壊の危機に瀕しているというのだ。
実は、この世界には数多の並行世界が存在している。
それぞれが独立した時の流れを持っており、数多の歴史を刻んでいるそれらは、本来ならば決して交わることのないもののはずであった。
しかし、ある1つの世界で事は起こる。
ファンタジー色の強いその世界で、人智を超えた魔力を持った魔王というものが誕生し、世界を征服せんと人間の抹殺を開始した。
人々は必死に抗い、死闘の末、選ばれし者たちの聖なる力で魔王の封印に成功する。
少なくない代償を支払ってようやく迎えた収束に、誰もが安堵し、人々は選ばれし者たちを心から称賛した。
だが、平穏は長くは続かなかった。
聖なる力は次第に魔王の闇の力に蝕まれ、長い年月をかけて緩やかに効力を弱めていったのだ。
人間に気付かれぬよう、密やかに魔力を溜め込んでいた魔王は、ある日、「機は熟した」と1つの魔法を発動させる。
誰にも悟られぬよう、小さく、弱く、遥か遠い彼の地に向けて。
その魔法とは……別世界の人間を転生させる魔法であった。
偶然にも、本当に不運なことに、その魔法の矛先となったのは1人の少女であった。
ある日、不慮の事故で命を落とした少女は、闇の力によって異世界へと転生することとなる。
いきなり王宮の庭に落とされる少女。
そこへ通りかかったのは、運命の悪戯か、聖なる力を持った第1王子だった。
ところで、何故魔王が別世界の人間を転生させたのか。
目的は、全並行世界の支配である。
固有スキルである千里眼には、彼方まで見通す力があるという。
それにより並行世界の存在を知った魔王は、自身の強大なる魔力があれば、それらを支配することも簡単だろうと画策する。
異世界の人間を転生させたのは、その人間を媒介として別世界と自らを繋げるためであった。
例えか細い魔力の糸だろうと、別世界は魔王と“繋がって”いる。
今はまだ魔力が回復しきっていないとはいえ、いずれは聖なる力も完全に闇に溶ける。
その暁には魔力の糸を辿り、別世界にて己の力を存分に奮えば良い。
来るべき日のために先手を打った魔王だったが、ここでいくつか誤算が生じる。
まず1つ目は、魔力が弱過ぎたせいか、少女の転生先を指定出来なかったこと。
辛うじて自らの世界に転生させたはいいが、あろうことか聖なる力を持つ第1王子の目前に落としてしまうとは。
この国には古くから『光の巫女、闇の力満ちし時、此の世界を救わんと、聖なる者の元に現る』という言い伝えがあった。
伝承と寸分違わぬ状況に驚いた王子は、すぐさま少女を光の巫女として保護したのだった。
まさかこちらの切り札があちらの切り札になるとは、流石の魔王も動揺したらしい。
2つ目は、強大な力を持つものは魔王だけではなかったということだ。
先程から状況説明をしているこの声こそ、何と私たちの現実世界の神様だというのだ。
この世界に不穏な力を感じ取った神様は、蜘蛛の糸程の魔力の糸を察知する。
同じく千里眼により蜘蛛の糸の先を見た神様は、そこでようやくここまでの長ったらしい状況を理解したのだった。
「ここまでは理解して頂けましたか?」
そんなこと言われたって。
「わかる訳、ないじゃない」
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