007、人工知能のお話
さて、人工知能の研究とは、人工知能を作ることにだけ絞り切られているわけではない。
逆に言って、人工知能というのは人工知能のソフトウェアだけで成立するのかどうかという問題がまず、不確定である。
というよりも、人工知能という言葉が多分問題なのだ。意味の幅が広すぎる。
今はシャルロッテの指しているところに合わせるつもりだが、そうなると計算機科学的な立場からいうよりも生物学的な立場で言うほうがしっくりくるだろう。
『生き物という複雑な機械を統括するシステム』、それを知能と呼び、その中で人工的に作ったものを人工知能と呼ぶ、という見方だ。無論、それで足りないのはわかり切ったことだ。
彼女が真に求めるのは生命というシステムを維持するホメオスタシスの調整役というのではなく、あくまでも、人間知性と会話できるもの、なのだから。
これはたぶん、いわゆる専門家という人々を除いた場合、普通にみられる考え方だろう。日本人にわかるように言えば、ドラえもんの知能は人工知能というわけだ。生き物じゃないけど、
そんなところでシャル――シャルロッテと呼んでいると、そう略して呼ぶように言われた――と合意を形成したところで、こちらも動けるようにしなくてはならなくなった。研究をしてほしいと声をかけられたところで、いくつかの条件を確認して、こちらの予定をあけなければならないことに気が付いたのだ。
そこで最近少しばかり気まずくなっていた粂川先生にしばらく研究室を休みたい旨を実際の事情の一部を隠しつつ語ったところ、思ったよりもよほど穏当にその処理は済んだ。
扱いとしては休学でとりあえず今年中は来なくていいとのこと。要するに年末までの二ヶ月間をフリーにしたということだ。『いろんなことを見てくるといいよ』と言っていた先生はこちらの何かを見通していたのかもしれないし、適当に口にしただけかもしれない。
さておき、先生の眼鏡越しの表情からは感情は読み取ることが出来なかった。そのことが気がかりではあるものの、せっかく使える時間があるのだから使わない理由はない。
そのあたりの報告を電話で済ませると――ちなみに、シャルは副都心の駅前ホテルに泊まっているらしい、さすがのブルジョアジーである――時間の問題は解決したわね、と言われた。
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翌日。まだ、ラボは完成していないということで、シャルの泊まっているホテル。
時間以外のリソースについては、
「あ、これなんかいいんじゃない?」
シャルが高価そうなソファーに油断して寝そべりながらめくったカタログをこちらに見せてくる。それが可愛らしい洋服や人形のものであればまだしも、そこに載っていたのは分析機器の一覧だ。
机の上に資料を広げていた僕は彼女の方に顔を寄せてそのカタログを見る。高価で大型で……設備から手を入れなければ導入できない。それに質量分析計では今回の目的にはそぐわない。もちろん、それがあることで検討できる内容は増えるだろうけれど、必須度は高くない。
「どっちにしろ、それはすぐに入手出来ないから……」
超大型の装置を新品で購入すれば、使えるようになるまでは半年くらいはかかる。自分の研究室では、化学系の分析装置を導入していないが大学に所属して見聞きした内容では、そんな感じだったはずだ。
ふうん、とシャルも気にした様子もなくカタログのページを捲る作業に戻る。もしかすると、こちらの判断を確認していたのかもしれない。まだ出会って二日目なのだから、信頼関係が醸成されているはずもない。それでも、彼女の距離感が近いのは、そもそもそういう子なのか、あるいは、なんというか、
(テンションが高い?)
楽し気というか、なんというか。
「そうだね、適当にパラパラめくっても……素敵な出会いはあるかもしれないが、欲しいものを揃える段階としては効率が悪い。意見統一をするべきだと思うんだけど、どうかな?」
「要するに、意見交換、摺り合わせ、相談をしたいということね」
ん。とシャルはソファーの上で猫のように伸びをする。少女の足先では深緑色の折返しソックスがふよん、と風孕む。朝の挨拶を交わした際には足首まで届いていたドレープスカートもソファーに転がり折れたりよれたりするうちに眩しい白のふくらはぎまでを晒すようにめくれ上がっている。
はしたないと思う意思はあるものの、別の感情がそれを忠告することをためらっているのだが、それを批判できるものがいるだろうか。
それこそあれだ、やましい思いを持ったことのないものだけが石を投げなさい、とそんな感じの……。
ともあれ、彼女は室内用のスリッパに足を突っかけると、肩甲骨の可動域を確認するようにぐるりと腕を回した。シャルは立ち上がり、ぱたぱた足音を立ててテーブルの向かいについた。
大学から特急十五分の駅にとられた宿は大層立派な宿泊施設であって、庶民であるこちらには落ち着かない高級感がある。足音だってスリッパが足裏にあたって立てる音であって、床には毛の長いカーペットが敷いてあり音が立たない。ぺちぺちとスリッパがソックスに音を立てる。
設備的な云々もすごいが、テーブルも書類を広げて検討するのに十分なものだ。僕とシャルが向かいあい手を伸ばし合っても届くかどうか。そこに何枚もの印刷された紙を広げる。
「さて、整理だけど、問題になっているのはセンサだ」
「感覚器、ね」
ふむ、とシャルはうなずく。人工知能の研究ということでここにきたものの、最初の段階でやらなければならないと感じたのは、センサ、感覚器、あるいは、検出器、そんなものを作ることだ。なぜそんなものが必要なのかというと話は簡単で、コンタクトの手段となるからである。
もう少し噛み砕いていうなら、聞き取れる言葉――いや、通じる言葉がなければ知能が宿っていたとして、その知能とコンタクト出来ないから、である。
さらに前の段階を整理するならば、彼女の目的を整理する必要がある。こちらとしても十全な理解をしてあげることができているのかは測りかねるが……そう、彼女の目的は宝石だ。
宝石をベースとした人工知能の創造。……これも少々正しくないか。科学の進歩の過程から言葉を借りるなら……そう、選ばれたものにしか出来なかったことを誰にでもできるように、少々、フィクション向けの言葉を使うなら、専用機の性能を汎用機に、とそんな感じか。特別なものにしか出来なかったことをだれにでも触れられる境地に落とすというのは。
例えば、ソフトウェアとしての人工知能を作り上げることができたとして、それがハードディスクに入ったままの状態ではどうにもならないのと同じだ、何らかの出力機と入力機、処理機能を持った何某かを介していなければどうにもならない。
人間でいうなら、耳が無い、口が無いのと同じだ。
『知能の身体性モデル』といってもこちらに求められているのは、知能に身体を与えることである。――いや、わかりにくいか、言い換えるなら、
宝石――シャルが昨日見せてくれた宝石の精に身体を与えることだ。宝石の中に意思がある、それはいい。だが……、今のところ、宝石たちの意思を聞けるのは目の前にいる少女、シャルロッテだけである。
例えていうなら、シャルの側に入力機出力機の代わりになるような能力があるということだろうが、……それをさらに僕にもわかるように出力できるというところがポイントだ。
二次的な出力と言えばいいのか。あるいは、単純に宝石の側の耳や口を何らかの手段で提供しているだけかもしれないけれど。どちらにしろ、そんな術でも使ってくれなければこちらは信じることは出来なかっただろう。
「私にしか聞こえない声を、私以外にも聞こえるようにする、と」
彼女が仕様を口にする。受けた僕は『願い』を『詳細を詰めた』仕様に変えなければならない。