050、幕の2
――本当はね。
と彼女は言葉をこぼす。
いつもはこちらの目をじっと見て物を言う彼女は今日この時に限ってはこちらを見ない。
まっすぐなその視線に勘違いをしたこともあるが、
今日この時に、まっすぐにこちらを見ないというのは、それはそれで勘違いを加速させるものだ。
いや、少なくとも何かを言おうとしているという意味では、勘違いではないのだろうけど……。
「ほんとはここで口づけの一つでもして困らせてあげようと思ったのさ」
「……え」
思わず当惑してしまう。
よほど間抜けな顔をしていたのだろう。
彼女は耐えきれないように、ふふっ、と息を吐いた。
近い。牛乳のにおいを感じる。
「小鳥谷君、君以前に一度僕に告白しただろう」
「……覚えてたんですね」
「覚えているとも、二年……三年前になるのかな」
もちろん、こちらも覚えている。
生まれて初めて……ではなかったけれど、外見よりも内面に先に惹かれたのは初めてだったから。
他の学生が帰った後の研究室で思いを告げたことがある。
かなり前のことであったし、その時から先も彼女の様子は何も変わらなかったからてっきり流されて忘却されたのだ、と思っていたのだが。
(――なんで今更?)
「なんで今更、みたいな表情をしないでくれよ、僕にも傷つく心はあるのだから」
「え、あ。ご、ごめんなさい」
外されていた視線はいつの間にか、こちらの目をまっすぐに見てくるいつもの彼女の視線に戻っている。そのことに、もう、高揚はないけれど……。
「まぁ、考えないことにしていたわけだ。思い返せば選択肢としてはどうかと思うけれどね。だが、結果としては君は自分で自分の道を見つけたし、私はその妨げにならないかった。そういう意味で言えば結果的に正解の選択だったといえなくもないんだろうけれど」
彼女は半目を伏せて、こちらを見る。
「正直なところ、いろいろな感情があるよ。告白されたときは嬉しかったし、今はさみしいし、嫉妬……のような感情もあることは認めよう」
普段の、格好のいい彼女ではなく、それこそ、格好を崩した一人の女性がそこにいた。
清潔さ清廉さ頑なさ、いつも彼女がまとっていたものが取れて柔らかく何処かに色気を感じる。
「君が僕の学生を止めたときにもう一度考えようと思っていたんだ」
実際のところ僕のほうは恋をしたことがないからね、と彼女は言う。
はは、とくたびれたように彼女は笑う。
「……えっと、どうして口づけなんて?」
「あぁ、君がブラックを飲んでいるところにミルクを飲んで口づけすればね」
どう言おうかと考えたような沈黙が挟まり。
「君が、珈琲にミルクを入れるたびに思い出すかな、と思ってね」
――この場でそういう感情を抱くことが不謹慎であるということは重々承知の上で。
粂川先生を初めて、きれいな強い人ではなくかわいいと思った。
はぁ、と彼女は一つため息をつくと牛乳を飲み干し、ストローで水音を立てる。
うすらと口紅の後の付いたストローごと、ゴミ箱に放り投げると――、
僕はここに残るよ、とひらひらと手を振って言われる。
『ここ』とは何処だろうか?
この研究室にいるという意味であっても、この自販機の前にいるから、という意味であっても、早くいけ、とそういう意味にしか取れない。
「……」
「うん?」
「ありがとうございました!」
僕が頭を下げて力強くそういったところで。
うまくいかないもんだなぁ、とそんなつぶやきが聞こえて。
――顔を上げたときには、彼女は顔を背けて、こちらを手で追い払う仕草をしていた。
見送ってくれる人。




