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049、幕の1

 それから一週間ほどが過ぎた。

 シャルは父親を引きずって帰国した。


 ラボは使ってもいいとのことだったが、腐りそうなものの対処をした後は行っていない。

 生産量は成長しているらしく、二人分を維持できるようになっていた。


――その二人目。


 結局、僕は『もう一人』に対して『かのと』と呼ぶことにした。シャルが言うには、融合状態のままで名前を付けないと、自己同一性が保てなくなり云々、といってた。口語的に言えば、意識が混じってどっちがどっちかわからなくなる、ことのようだ。


 そのために、名前を付ける。どの部分までがかのと、どの部分が貞治なのかが意識出来れば混じり合わないということらしい。自分のことがわからなくなることなんてあるのだろうか、と思ったが、実際くっついていた時には、自分が広がっていく感覚があったので、そのあたりの事だろう。


 リドさんは、それはそれで面白いケースだ、と言っていたがそれがどの程度、娘に近づく虫に対する言葉で、どの程度がアイゼナッハの係累としての言葉なのかはわからない。


 こちらとしては、自己防衛もかねて、自分を損なうようなことを避けた感じだ。

 結果として、


『おー、はよー』


 なかなか人語じみたものを発するようになったかのと。まだまだ、舌足らずな面もあるが、それはそういうもの、らしい。


『えっと、そうですね、とりあえず資料を十全に仕上げることにいたしましょう。えぇ、シャル様のお母さまである、宝石庭の女王は……えと、き、厳しい方ですので』


 快活なマリーがこんな感じになるところを見ると、かなり厳しい感じらしい。


(親に挨拶プレゼンとは一体……)


 自分の運命に思うところはあるが、取り急ぎ内容をまとめて、大学に向かった。

 プリンターを借りようと思ったのだが、



「先生」

「……おや、小鳥谷君」


 こつこつと学校の廊下を叩くハイヒールの音が止まり、振り向いた長身白衣の女性。人工知能の権威であるところの粂川先生はふむ、と軽い動作でこちらの手からディスクを奪う。


 その動きは速いものではないが、よどみのない動きはこちらが反応を差し込めないものだった。と、っと、軽く学生の一人にそれを放り投げると、指示を与えた。


 印刷関係のこちらのやろうとしていた設定を告げてくれた上に、いくつかの設定はこちらの想定よりも仕上がりがよくなるもので……何というか、プレゼン等々に非常になれているもの特有のスキルを思わせた。


「少し話がしたいのだが……どうかな?」


 一月ほどぶりであったというのに全く平坦としか思えない情動でそう言うと、こちらの返答を待たずに、部屋を出た。僕は、ディスクを投げ渡された学生と視線を交わした後、――先生の後を追った。


「……っと」


 部屋を出るとまだ先生の背は見えている。階段を降りようとしている背を追う。見失わないように急ぐと、階段の途中の先生は振り向き。


「廊下を走ってはいけないよ?」


 表情も変えずにそんなことをいって、また歩き出す。


「――すみません」


 背を追いながらの謝る言葉は届いていたようだが、


「……」


 少しの沈黙を呼んだ。が、長いものではない。すぐに先生からの返答が来る。


「その謝罪は……」


 言葉を選んでいるようだ。歩速が遅くなり、


「何に対して?」


 階段を下りている彼女がもはや足は止めずにこちらを見上げる。上目遣いの視線に、心の浅い部分に引っ掻くような痛みを感じる。


「……えと」


 こちらが数秒、二の句を継げずにいると、先生は待つことに焦れるように、ふぅ、とため息をついて。――足早に歩き出した。


 追っていいのか、と、自問を一秒強挟んで、追う。

 先生は階段を二階で降りると廊下を歩く。いつもはうるさいほどに人のいる廊下は今は冴え冴えとした風だけがその住人だ。


 その冷たい風を割るように先生は歩く。気にしないように、気にならないように、気にも留めないように。


 黒ぶちのセルフレーム、ひっつめ髪をきちきちにまとめたポニーテイル、理知的な瞳、対照的に眠そうな眉。


 美人だとか、可愛いとかよりも、無駄なものがないという感じ、機能美という感じの見目。『おませな姪子』にもらったと嬉しそうな表情で語っていたフレンチクルーラー柄のシュシュだけが飾り気というものを足している。


 シャルが強いところが目立つけれど、弱いところも持った少女だとすれば、先生は弱さが風化して弱くないところだけが残っているような、そんなことを思わせる。


 廊下、突き当り、非常階段へ出る扉の前に、自販機のコーナーが有って、そこで先生は立ち止まった。ポケットから無造作に取り出した硬貨をちゃりんちゃりんと投入し、ぴぽぴぽと二つの飲み物を買う。

 こちらによこされたのはブラックコーヒーで、先生は紙パックの牛乳を選択したようだ。


――ありがとうございます、と言葉を投げて。


 僕はその温かい珈琲を口に含む。

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