038、見上げれば遠く
高さ。
高さというのは相対的なもので、上から高さを見れば見下ろすということになり、下から高さを見るときは見上げるということになる。
高さの相対性は――基本的に――今立っている地点と視線の先の地点の標高の差、による。
それ自体が相対的なものでしか無いのは今言ったとおりだが、差異が生じているところはつまり、現実の、実相上であり、それはつまり物理的な某かを示しているということだ。
具体的に言うなら、高さというのは、外力を加えることなく一定量のそれもなかなかの大きさの加速度を与えてくれる、コンクリートジャングルにも隠れ潜む潜在化した暴力装置である。
いわんや、自然においてをや。
登山客のいない山であっても、道というものはあって、しかし今の位置はそれを踏み外したところにある。岩肌が加速度の体験を妨げてくれたが、同時にその表面は裂傷という名のありがたくない体感をよこしてくれた。
結果で言うなら『登山道から落下、その際、岩肌に何度も接触したことにより、全身に中度の裂傷、また、終端は川辺の大岩に胸部を強く打ち付けたらしく、内臓に損傷。迅速な治療が望まれる』と、そんな体裁。
(あー)
あ、と声も出ない。代わりに口から溢れるとしたら血の溢れだろうけれど、それを押し出す力もない。下向きなら――まだしも、吐き捨てるようにして血を捨てられたかもしれないけれど。
落着の最後の瞬間は狙ったように図ったように、座っている様になった。胸を打ち付けた岩とはまた別の、大きな岩を背にして座っているような体――それが目に見える。
目に見えるだけで、
(わかんないな)
足には――というか胸より下には、そこに存在しているという認識が出来ない。
潰れている、というほどひどい光景は見えていないが、
壊れているのは間違いなさそうだ。配線を違えただけではないだろう。
――息を、
吸っているのかもわからない。意識が閉じていないのは、多分、酸素が巡っているからなのだろうけど、わからない。単純に今認識している光景が、最後の瞬間の走馬灯のようなものでしか無いのかも、わからない。
痛みを感じるときよりも、痛みを感じないときのほうが危険だという。
成る程。体感として今、生命の危険度が高い。
――死ぬ?
今死んでいないことが、マリーの必死によるものであることは認識しているが、それはこれから死んでいくことの慰めにはならない。
実感していない単語、自分がそういうような状態になるということは、無論知識としては知っていても、感じたことはなかった。いや、こうなってはもはや、その認識さえ疑わしい。
自分は、自分が死ぬことを知っていただろうか、と。
死にたくない……か。
どうだろうか、と自分の中を見てみる。宝石の技術研究は、面白い、やりがいとしては十分だ。それを理由に生きてみるというのも――成る程、悪くない。
(……)
僕は、大学を休学しているという形になっている、今やってることが雇用関係になるかどうか、それが確定したらどうするべきかが決まるだろう、それを決定しないというのは、少し、気持ちが悪い。
(……っ)
母親がいる、兄がいる、妹がいる。妹はもう働いている、確か、歯科助士だったか、歯科衛生士だったか資格をどうこういっていたので歯科衛生士だったと思う。母親は地元の食堂で働くシングルマザーで、妹の結婚式はもうすぐだったと思う。兄は……好きに生きているだろう。
――感じる。
胸部の陥没部分に痛みを感じる。しみだすような、ジクジクとした、痛み。
(……っ!)
ただ、その痛みは薄い、我慢が効くような痛み、死にそうな傷に、不釣り合いの痛いだけの痛み。自分の体を生かすには薄過ぎる痛み。
痛くない、ということが、安楽のためだとするなら、痛みというのは生命の立てる爪の深さ、未練の大きさ、意志の重さ。
「……!」
聞こえた声に視線だけで向くと、そこにいたのはマリー、最近の訓練で少しは慣れた魔力の移動。今、血をどくどくと流しているのはきっと生命力の流出だと思う。
流れ出た生命力を無駄にするよりは、と、なんとか工夫すると流れ出た生命力の一部を魔力に変換できた。それが、効率の良し悪しでどうなのかは、自分にはわからないが、それこそ、今の自分が心配するようなことではないだろう。
「あ……」
と、薄い、意識の中。耳に音が聞こえる。風の音、先程までは聞こえなかった背景音が聞こえたことで、マリーの声も聞こえた。
内容を理解する意識は薄れているが、ニュアンスは伝わる、高さ、目の前にある岩肌という高さを見上げろ、とそういう意志だ。
(あ……)
自分の落下した場所を確認しろとは、また、……。
振り返って確認したところで、どうしようもないだろう。
反省したところで、活かせる人生を生きられるわけでなし……、
思いながら、しかし、岩壁を見る、
それはもう昇った太陽を見上げるような苦行であったが、
「……ご」
見た。岩壁、壁上、そこには人影があった。




