024、夕陽の中で心拍をあげて
運転手が悪いわけではなく道が混んでいるのが悪い。
その原因は交通事故だというのだから当たり所もない。
若干機嫌が良くないと自覚はしているがだからと言ってそれすらも自分のせいでないのに自分を責めるというのも違うだろう。
むう、と自分でうなってトランクバックの中からチョコレートの包み紙を取り出す。自分のお気に入りのブランド品で小鳥谷にもプレゼントしたものだ。
値段を聞いて食べづらそうにしてたが職人の仕事に対しての敬意の値段だと思う。日本での販売価格はちょっとおかしいが。
――一つ、二つと包みを解いて口に入れる。
すぐさま口内の熱を受けて頼りなくとろける甘味。自分のイライラをそれと一緒に飲み込むと、そう決めて飲み込む。
とろりと、のどを通る心地よいカカオの香り。
赤い夕陽を見て、いらいらを焼き切った。
・
ラボにそっと這入る。
小鳥谷はモニターを見つめていたが、あまり動きがない。
彼が気づかないようにそっと部屋奥のソファーに体を沈ませ、寝転がって上を見る。もちろん、体が水平になっているので、頭頂側は空の方ではなく今は部屋の扉の方だ。蛍光灯は消されていて部屋は仄暗い。
日本では逢魔が時と呼ぶらしいこの時間帯。今日は光学系の実験ではないらしく重い緞帳じみたカーテンは開いていて、赤い光が差し込まれている。夕暮れに世界は血の色に沈む――とか言ってみたりして。
赤色の中に響いているのは部屋の外から届く、カラスの鳴き声、歩行者信号機の誘導音楽、暮れとともに小さくなった街往く喧騒、部屋の中で生まれる音は二人分の呼吸、時折叩かれるキーボード、ソファーに押し付けた胸の中で拍動する心臓。
――くらくらとして、迷妄。
部屋にはカビの匂い、わずかに浮くサビの匂い、打ち放したコンクリートから沁むように。
ソファーからは、革の匂い。一月に満たない時間でも素肌で寝転がった革張りには自分の匂いがしみている。
あとは熱。部屋の中で計算機の処理能力は、モニタに計算結果を吐き出したあと、永遠に続くため息の様に、熱を吐く。ファンが回り、筐体の中の熱をかき乱し、部屋の中に熱の籠もった呼気を出す。
部屋の中は冬だというのに冷房が働いている。冷たい空気は筐体の奥からこちらに吹き付けていて、結果、こちらに届くときにはぬるくなっている。回路を冷やすためだ。
小鳥谷は、薄青い綿シャツをほのかに肌に張り付かせ、モニタ内容とにらめっこをしながら動いている。その背中に、祖父の作業姿を少し重ねる。
「ふむ」
立ち上がる。ペタペタとスリッパの音を響かせて背中に近づく。小鳥谷は気づいた様子もない。無防備な背中。近づくと匂いがする。
土の匂い、火の匂い。焦げた樽のカラメルに似た匂い。
混じって甘い感じの空気は。
(うわぉ)
その匂いの甘さに肚の底がうずくような感じを受ける。その匂いが何からきたかがわかったからだ。それは、自分のプレゼントしたチョコレートの香りだ。
アルコールを抜いたウィスキーみたいな彼自身の体臭にプレゼントしたチョコレートの香りが混じって、独特の雰囲気となっている。よくわからない衝動が疼くような匂い。
「お……なに?」
小鳥谷が反応した……それは反応もするだろう。こちらは気づくともなく、彼の背中から抱きすくめていたのだから。一段落ついていたのか、彼はキーボードから指を離していて、こちらに視線を向けている。
それが近いのは私の腕が彼の体の前にあって、私の双丘が彼の背中に押し付けられているからだ。
「……シャル」
「……え?」
「――どうしたの、シャル」
どうした、というわけではない無意識の行動だ。何かを考えてやったわけではないのでどうしてそうしたのか、と聞かれてもなんとも言えない。
これは……そうだ。説明のできないことであるからわかる。
(人を……)
肌に浮く産毛。赤光を照り返す銀の産毛の一本一本が立っているのが見える距離。
吐息の音も、熱も感じられる距離。
(好きになる……?)
ぞ、と体中に鳥肌がたった気がした。自分の行動が何なのか。
――本能だ。
――他人を好きになる。
本能が収縮し、感情として結露する。
だから、これは収縮することで温度が下がる。
この鳥肌はそれだ。形を得ずに心の中に広がってたものが収縮して形を得た。
そのときに起こった温度の低下が寒さを感じさせ結露したものは冷や汗として肌に浮く。小さくなったことで心にできた隙間は何かを求める。
――なにかって、何だ。
答えは知らない。答えは知らないけれど、知っている。
何を求めているのかはわからないままに、腕の力が強くなって深く抱きしめようとする。
――これが今の、私にとっての答えだろう。
今回はちょっと変則一時間後にもう一話あげます。




