冬の超人
十二月二十三日、身にしみる寒さが闇の中で顔すら見せずに佇み、漆黒の帳が全面に張られる世界で男は煙草を吸っていた。煤けた暗さに群がる澱み、輪郭さえ朧げにして咫尺の弁ぜぬ瓦斯の濛々、すぐ隣の自販機で買った不味い一本を服すのだ。それは寒さに対して拮抗せんとする彼の偉大なる、意志的な美徳である。彼の内の道徳がそう嚮導した、自然に轟かす理性を用いた侵略の狼煙が静かに焚きあげられるのを。
一際物佗しい音を立てて去りゆく電車、狭い洞窟で突き抜ける閃光、排気ガスが昇る空。些かは無限にして永遠、その一秒は一年が崩れるに等しき感覚を持つ。そして白い息が上へ、上へと消えていく…。
「偉大さなんて、あったものではない。」
彼は誰彼に悟られぬ声の大きさで一人呟いた。その言葉の一つ一つの音韻は近くを通り過ぎる人々の耳に届くことはなく、また心を揺れ動かすこともない。
闇が恐ろしいまでに彼を覆い隠さんとする。だが、まるで煙草のみが必勝法とも言わんばかりに白煙は暗黒を穿つ。歯牙にもかけない体裁は彼の十八番である。
吸っていた煙草が切れた。足元にそれを投げ捨て、新しい煙草を取り出す。年季もののライターで火を付け、無機質な音は通りかかった電車に掻き消される。再び白煙が立ち現れ、闇を再三攻撃する。
喧騒は未だ止まない。彼の存在なぞ気にもしないような多忙に駆られる人々が、都会の街を行く。
彼らの行き先なぞ彼の知る由もない。夜、不可視な世界での相対的な軋り合い、白亜の閃光が絶えず残るパラノイアの洪水が彼の視界を掴み、そして崩そうとした。何世紀前かの聖職者が描いた「存在の連鎖」とは、正にここに紐帯する何かがある、彼はそう考えた。
煙草が切れた。何本吸ったかも忘れた彼は、何時の間にか交通量が減っては荘厳なまでの厳粛性を街が取り戻しつつあることに気がついた。機械の戯歌も何時しか聞こえなくなっていた。然し口から迸る白色の息吹は不変のプロセスを遂げている。
ふと、近くを草臥れたスーツ姿の男が下を俯きながら通った。皮の手提げ鞄は随分の年を経ている代物であった。その人物――嘗て輝いていたであろく心の瑪瑙は黒く染まりきって、近代に代表される経済世界の中で埋没し没個性化したような、ムーニエでさえ憐憫を描くような人物――は、目に留まった自販機で同じ煙草を購入した。そのまま男の隣で一服し始めるや否や、白のオーロラが間近に二つ造られる。
「明日はクリスマスイブですよ」
サラリーマン風の男は静かに言葉を発した。重厚な轡が付けられたかのような鈍さが空気に染み渡る。
「はあ、そうですか」
煙草が切れた男は彼に付き合わんと話を合わせた。しかし元より興味無さげな態度なのは明白である。
「貴方は家族とかいらっしゃらないのですか?」
「そう言う人間なんでね。昔から異性には甚だ好感を持てた試しが無いな。君はどうなんだ?」
「私は俗に言う『一家の大黒柱』で、もう七歳になる息子と六歳の娘がいるんです」
「それは大変だな。これから子供は更に成長していくだろうよ…」
サラリーマン風の彼は話し相手に煙草を一本あげた。遠慮なく頂き、不味くても吸えるだけマシと言う功利的な思想の下、彼は再び白煙を高々と掲げた。
「大変ですよ。しかも明後日と来たらクリスマス、こちとらプレゼントを用意しなくちゃならないんで」
「出費は嵩張るんだろうなあ」
「まあ、そうですね…息子はゲーム機、娘は人形セットなんで。まだ可愛げある事が唯一の救いです」
「でも、あれだな。仕事が多忙を極める毎日の中でプレゼントも買うとなると…疲れるだろうな」
生けとし生ける者の末路を見たような気がした男は、そのサラリーマン風の彼を内心蔑んでいた。
さぞ暖かい家庭なのだろう、この冬空の寒さとは対照的な幸福が在るのだろう……然しながら全く彼を羨望の眼差しで見れないのだ。それは彼自身の道徳性と合致していた。
「家に帰ると、必ず出迎えてくれるんです。それだけが今の私の生き甲斐なんですよ…」
サラリーマン風の彼は曇る夜空を見上げた。
「この社会はまるで皆が歯車だ。給料という油が無いと忽ち動きがぎこち無くなる」
「その歯車を操る人間は"歯車"ではないんですよ」
「ええ、分かってます。私は彼らの下僕です。隷従の使徒です」
ふと男が草臥れたスーツ姿の彼の顔を覗き込むと、その小さな瞼からは乾いた涙腺が描かれていた。そこにはしっかりと温もりが眠っていた。諦観の相さえ見せる男の振舞いに、彼はある程度察した。
「不況だもんな」
彼はサラリーマン風の男に向かって言葉を発した。鋭ささえ持つような、暗殺者の言葉である。
ただ基礎的プロトコルを述べる男には裏腹に判断保留の中に見出されるアタラクシア相当の何かを得ている。正しくエンペイリコスの『ピュロン哲学の概要』を参考にした方法であった。
「そうです、不況です。私の様子を見れば分かるかも知れませんが、実は先程会社から暇を出されたんです。これが不況です」
「暇、かぁ」
「帰って妻にどう説明したらいいのだろうか…」
サラリーマン風の男は白煙を大きく吐き出した。忽ち天に向かってそれらは昇る。
「子供たちは楽しみにプレゼントを待っていてくれてます。しかし彼らに失職の報せほど悲惨な話は無いでしょう…」
「少なからず、君はここに居ていい人間ではないな」
サラリーマン風の男から貰った煙草を吸いきった彼は路上に投げ捨て、壁に凭れては助言した。
その目付きは恐怖と猜疑に苛まれる熱月九日のロベスピエールを見るフーシェであった。彼は冷静で世間に失望しきった様を見せながら、絶対に内心をば悟られまいとするように彼は言ったのだ。
「ここは世の中に本質的な絶望の観を見出した末人の家だ。君は知らない、お終いの人間が住む醜悪さを」
「だからと言って貴方は失職者を嘲笑うんですか?」
「笑ってやるよ」
彼は鼻で笑った。もはや声を出す価値さえ無かったのだ。
「よく君みたいな人間とは出会った。このホームレス街にはそういう奴がよく紛れ込む…君もそうだろう?家族と別れ、一人孤独でも生計を立てようと観察に来たんだろ?」
「そうですよ。よく分かりましたね」
「私はね」男はサラリーマン風の彼を見下げて言った。「君みたいな人間が一番嫌いなんだよ」
「何故です」
「道徳が私にそう囁くからさ…」
ふと車が通り過ぎた。寒風が吹き荒れ、不慣れなサラリーマン風の男はぶるぶる身体を言わせた。
しかしもう一人の男は既に慣れたかのような佇まいを見せている。
「『霊魂は変わりやすい情動に隷属している』――ラバヌスか?確か霊魂論と言う著作にそう文言があった。ただ自分に降りかかった情動が全てと思い込み、自己の人生の伽藍を棄てる奴が多すぎる」
「然しお詳しいですね、貴方は哲学や神学を志していた人ではありませんか?」
「そうだ、私は嘗て哲学を志した」
徐に彼は自分の過去を話し出した。
「だがな、これが丸っきり役立たなかった。偉人や天才と呼ばれるところの輩の発言も、所詮は私達の会話と造作ない。それを尊重し合い、それらに埋没して自己を忘れる奴らに嫌気がさした。だから志すのを止めた」
「ですが、何故ここに?」
「私はこうした偉人共の足を舐める事よりも、現代を生きる人間に本来求めていたものを見出した。だから試験的にここにいるだけさ。然し年が年を呼んだ…既に常連化しつつある」
「では、金銭面や家庭面でトラブルとかは…」
「ないね。家庭は無いし、金銭は充分に銀行に貯金してある。しかしそれがどうした?一体何になる?」
一人の男は自分が進む道を、本の中ではなく生きる人間に解を求めた。故に彼はこうした底辺的な生活とはいえ価値を持っていたのだ。
なまじ社会の鎖に結び付けられ、俗の地獄に落とされた人間とは一線を画している。
「だから尚更、君を軽蔑する。ここに来たことはある種の終焉を意味する。君はそれが何か解るのか?」
「解らないです。いや、解りたくもない」
「そうだ。それが答えだ。だから君は"ここ"へ来た。この奈落の底に、この地底の果てに」
「では一体、どうしろと云うんです?」
泣きながら問いかける男の姿に同情さえ浮かべぬ冷酷さは果たして感情と言えるのだろうか?
ただぼんやりと壁に寄りかかる哲学者は、静かに答えを述べた。
「闘えよ、自分と。そして社会と。ヘラクレイトスが言ったように、レヴィナスが言ったように」
天は変わらず曇っていた。
その薄暗い濛々さの下で、今に人類の歴史が歩んできた聖性の鋳型が説かれようとしている。
「ここへ来るな。君は闘え、運命と!ただ能動的なニヒリズムになるな、その結び付けられた残虐なまでの充足理由律をぶち壊せ!
「君は獅子だ、今に痩せこけて窶れた獅子だ。しかし血統は王の系譜だ、その中に眠る潜在的な真紅が煮え滾る時、君は大いなる愛を得る!
「闘え、君よ!クリスマスイブに我が子へプレゼントしてやる優しさを持つ父親よ!闘争の歴史は君を応援する、終末論の弁証法が途切れること無く紡がれる間に、君は一切合切の敵を滅ぼす侵略者たれ!」
彼は言った。箴言ともされる言葉はサラリーマン風の男に深い傷とも名残とも言えるものを遺した。
彼は去り際に言った、貴方ほど恐ろしい者には出会ったことがない、と。而してそれが何であろう。彼はこれからもここにいるのだ、この地――マーレボルジェと呼ばれるこの地に。