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6章

ガードルートは、自分の本名を知らない。

両親の名前も、兄の名前も覚えていない。どんな家に住んでいたか、どんな玩具が好きだったか。それすらも覚えていない。

まだ物心がつく前、まだガードルートがプリンセス・ガードルートでなかった頃。少女は、南半球の国で、家族四人で暮らしていた。

いつも家にいた、存在感の薄い父。父とは対象的に、忙しなく働いていた母。そして、そんな両親の代わりに遊んでくれる、年の離れた兄。

そんな家庭のなかで、ガードルートは生まれ、育った。

もう誰の顔もはっきりと覚えていないけれど、ガードルートはあの頃、確かに幸せに暮らしていたのだと思う。


やがて、そんな家族にも変化が訪れた。

父は篭もっていた部屋を片付けはじめ、荷造りを始めた。もともと派手だった母が、更にきらびやかな服や化粧で飾り立てるようになった。

もっとも態度の変化が表れたのは、兄だった。

優等生だった兄が珍しく、両親を相手に怒鳴っていたのを覚えている。それも一度ではない。毎晩、毎晩、帰宅するたびに、兄は父を罵り、そんな兄を母が叱りつけた。

内容は、よく覚えてはいない。けれども優しい兄があまりにも怒るものだから、ガードルートは心配になって、兄に訴えた。

――おにいちゃん、どうしたの。ケンカはだめなんだよ。

ガードルートが言うと、兄は何も言わず、抱きしめてくれた。

その肩が震えていたのを、ガードルートはよく覚えている。


そして、それからしばらくの後。

家族は、ガードルートを置いて、火星にいってしまった。

大きな鞄を持って、父と母に続いて車に乗り込もうとしていた兄は、ひとり残されたガードルートを抱きしめた。

「お兄ちゃんは、火星に行く。でも絶対に、お前のことを忘れたりはしない」

兄の瞳には、涙が浮かんでいた。そんな兄の顔を見ているのは辛くて、ガードルートも涙を流した。

「必ず、お前を迎えに行く。だから、どんなことがあっても……負けるなよ」

「うん」

 ガードルートは頷き、兄の言葉を信じ続けた。

けれでも、その約束は今日まで果たされることなかった。

幼い娘を新型BMCI手術の被験体に差し出せば、家族は火星に行ける。

それをガードルートが知ったのは、つい最近の話だ。

 くだらない世界でしょう、と、それを教えてくれたプリンセス・オウンは言った。

連敗に苦しんだ去年、特区中から誹謗中傷を浴びていたガードルートが、外出も出来ないほど追い詰められ泣き喚いていたあの頃。

対人恐怖症と人間不信に苦しみ、誰とも連絡を断っていたはずなのに、どうやってかオウンの方からボイスチャットの要請を入れてきた。

彼女がなぜ、どうやってガードルートの苦境を知ったのかはわからない。

けれどもオウンは、ガードルートの苦しみも悩みも全てを知っているかのような口ぶりで諭した。

『ガードルートが頑張る必要なんてないのよー。だって私たち、すべてに見捨てられてプリンセスになったんだもの』

そして端末の向こうで、オウンは〝世界の仕組み〟を教えてくれた。

その声は、あくまでとても、優しかった。

「……どうしたらいいの、オウン」

泣きじゃくりながら、ガードルートは訊ねた。

「地球にいる限り普通の女の子には戻れない。でも、夢を捨ててリタイアするなんて……そんなの……いや……。わたしたちはどうやったら救われるの……?」

オウンの答えは、極めて簡潔だった。

『――〝わるいこ〟になっちゃえばいいのよ』



『――こちら草尾参班。ルート壱、現状問題ありません』

『了解。草尾班はそのまま走行を続けろ。百舌壱班は当該地点に留まれ。車両、及び周辺住民に不審な動きがないか見張っていろ』

『了解っ!』

『こちら山郷伍班、走行中の護衛対象(マルタイ)移送車斜め前方に白いワゴンを発見』

『中は?』

『後部座席にチャイルドシートを確認。運転席に男性、助手席に女性、後ろに子ども二人の姿が見えます。家族連れです。旧十六号線を西へ走行。おそらく特区外へ向かうと思われます』

『了解。ストーカーの可能性は限りなく低いと判断する。引き続き周囲を警戒しろ。一度通った道でも慢心するな』

『了解!!!』

ダンスホールを出発してから絶えず、六係の声がガードルートの耳朶に響いていた。

ガードルートの頭には、骨伝導式のヘッドセットが装着されている。後頭部から首元までぐるりと巡った、イヤホンとマイクが一体となったシンプルな作りの通信機だ。これで護送にあたってくれる六係の通信を常に聴き取ることが出来、もしこちらに何かあれば、速やかに発信出来るようになっている。

同行する五条と同じものだが、わたしにも着けさせて欲しい、とガードルートが懇願すると、鉄間は承諾してくれた。

丈二がいつも着けていたカフスフォンも、これと同性能のものだと鉄間から聞いた。アクセサリーに偽造させた高性能通信機。丈二らしい、とガードルートは思う。

護送中、ガードルートに冗談を言っている傍ら、丈二はいつもこうして現状を聞き取っていたのだ。流れてくる情報は、どんなに些細なことでも聞き漏らすことは出来ない。理解しているつもりだったが、いざその立場に立ってみると、あらためて敬服せざるを得ない。情報を聴き取っているだけなのに、ガードルートはパニックになりそうだった。

気を引き締めてイヤホンに耳を傾けていると、ガードルートは違和感に気付いた。

平日、通勤時間帯の市街地にも関わらず、一般車両がほとんど走っていないのだ。

通常、この時間は特区から日本の都市に向けて通勤する車が溢れ返っているはず。それがほぼ皆無。今日までの特区の混雑を知っている側からすると、不気味ですらある。

そのさなか、遠回りをしながらもスタジアムを目指す護送車の姿は、否応なしに目立っていた。同じことを思っていたらしい藤が、固い声音で言う。

「……十一特区の住民の間で、周知が回っているのかもしれませんな。今日はみんな、車移動を避けているのかも」

「そうかも」

 ありえない話ではない、とガードルートは思った。目に浮かぶのは、あの数万人もの署名だ。たとえ表だってガードルートに危害を加えることはなくても、住民たちはストーカーへの協力は惜しまないだろう。

 いわば特区全体が、ガードルートの敵。

――心細さが胸をしめつけた。

ガードルートの味方はいま、鉄間と刑事たち、そして藤六郎しかいない。いつも側にいて、くだらない冗談を言ってきた護衛官の所在はわからない。

――丈二の言葉が、いま、とても聞きたい。

「――ガードルート様」

隣に座った五条が、ふいに声をかけてきた。

「な、なぁに?」

つんとこみ上げてくる感情を抑え、ガードルートは五条を見上げる。

五条は無言で窓の外を示した。その視線の先にあるのは、反対車線を走行中の黒いセダン。

護送車とすれ違ったセダンは突然、逆走をはじめ、真っ直ぐにこちらを追いかけてきた。

――疑うまでもない。あの不自然すぎる動き。

ガードルートを狙う、ストーカーの追跡車だ。

「フジさん……!」

「ふむふむ。今日は優良ドライバーの仮面を剥がねばなりませんなぁ」

のんびり言った藤は、手早くギアを切り替えた。

五条がすかさず素早くマイクに告げる。

「鉄間警部補、ストーカー接近。追ってきます」

『了解。こちらも合流する。伍班、護送車の援護を』

『了解!』

声を合図に、先導していた六係の車が、ガードルートの護送車と黒いセダンの間に割り込んだ。山郷伍班の援護だ。

六係の車に割り込まれた黒のセダンが、一瞬困惑したようにスピードを落とす。その隙をついて、ガードルートたちの車はスピードを上げて追跡車と距離を取った。

だが、わずかな間を置いて、私道からまた別の車が接近してくる。ストーカーの新手だろう。先ほどの山郷班の割り込みを不審に思ったのか、護られた側のガードルートたちの車を、速度を上げ真っ直ぐに追いかけてくる。

しかし今回は、警察の助け舟はない。山郷班の車は新手にまで対応出来そうもなく、鉄間の寄越した応援も、到着はまだ先になりそうだ。

速度を上げてでも、追跡車を振り切る。そう藤は判断したのだろう。ミラーごしにガードルートと五条をちらと見て、いつもと同じ落ち着いた口調で告げてきた。

「ガードルート様、五条さん。シートベルト、よろしいですかな」

「うん!」「はい」

結構。呟いた藤がステアリングに掌を載せた。

途端、わずかな浮遊感と同時に、車が加速した。

「ふわっ」

 思わず悲鳴を上げるガードルート。咆哮するように車体全体が唸り、速度を上げていく。スピードメーターが一気に百キロを超えた。

こちらが加速すれば、当然のように追跡車もスピードを上げてくる。

しかし藤六郎は冷静だった。

タクシーの車体を、藤は巧みに操作する。ステアリングを操るその姿は、運転、というよりただ擦っているだけのようにも見える。追跡車は藤のハンドル操作についてこられない。いや、一般道、それも市街地で百二十キロを超え、カーブや蛇行路を涼しい顔で走る藤に、ついてこられるドライバーなどそうはいないだろう。

ふいに、遥か後方からスリップ音が聞こえた。

ミラーに目をやると、追ってきていた車がスピンし電柱に突っ込んでいる。火花を散らして白煙を上げる車体。あの車で追跡を続行するのは不可能だ。

「青い青い」

まず一台。追っ手を潰した藤は、楽しそうに口ずさんだ。


          ¶

インカムに耳を澄ませても、望む一報は未だ訪れない。

エクター・クォンは事務机に座り、指を組ませながら、その報を待ち続けていた。

ガードルートを捕らえた、その報告を。

昨日の午前中、ガードルートが日本警察と共にダンスホールに移動していたことは掴んでいた。問題は、そこからいつスタジアムへ移動するかだ。

ダンスホールやスタジアムでは、【舞闘会】において中立的立場を保つ運営委員会のセキュリティガードが常に警備をしている。彼らの目を潜ってガードルートを襲撃するのはまず不可能だ。ガードルートを捕らえるには、護送中を狙うしかない。

クラリッサの護衛官のうち、ガードルート確保の実行部隊に回ったのは十五人。十一特区のサポーターの協力者は七十数名。エクターは彼らの指揮を執る立場にあった。

今日一日、クラリッサの護衛にあたっているトルーマンとは別行動を取って、エクターはこの廃マンションから実行部隊に指示を飛ばす。準備は万全。勝算も充分だった。

ところが、十時を回ったあたりで、青ざめた顔の部下――ティムに呼ばれた途端、エクターは嫌な予感を感じていた。

ティムに連れてこられたのは、桑畑丈二を軟禁している一室だった。

「……これは……」

部屋へ足を踏み入れた途端、エクターは言葉を失った。

部屋のなかに、桑畑丈二がいない。それどころか。

「……どういうことだ?」

応じるティムの声は、震え上がっている。

「き、気がついたら消えて……音も、しなかったのに……」

目張りした窓の真横の壁に、ちょうど人ひとりが通れる程度の穴が開いていた。

縦は二メートル、幅は七十センチ程度だろうか。まるで重機で無理やり開けたかのような乱雑な穴だ。外の景色が露になり、そこから吹く緩やかな風が、エクターの肌を無神経に撫でた。

「く、桑畑丈二は、確かに丸腰のはずです……。どうしてこんなことが……」

 ティムはまるで化かされたかのように怯えた顔をしている。エクターは冷静に告げた。

「――オレはヤツを追いかける。お前はトルーマンに報告しろ」

「し、しかし……!」

口応えを最後まで聞くことなく、エクターは穴へ近寄る。

厚さ二十センチほどの壁が、見るも無残に破壊されていた。いかに桑畑丈二が手錬だとしても、徒手空拳でこれほどの穴を開けられるはずがない。

「……」

エクターはしばし考え、まず胸ポケットのタブレットを探った。

画面に映るのは、このマンション周辺の地図。そしてそのなかを点滅する、赤い光点だ。

いた――近い。まだそれほど離れていない。

タブレットをしまい、エクターは穴から外界を見下ろした。この部屋はマンションの三階にある。ベランダはなく、付近にはキャットウォークも配管もない。足場に出来るようなものは何もないはずなのだ。

それにも関わらず、生身の桑畑丈二は部屋から脱出し、よどみなく移動を開始している。

――考えている暇はなさそうだ。エクターは踵を返し、端末でトルーマンに連絡をしているティムを追い越して部屋を出た。

 早足で非常階段を駆け下り、マンションの外へ。端末に目を通しながら、赤い光点を追う。

光点はここから通りを二つ挟んだ場所にあった。地図と照合すると、そこはかつて使われていた、駅構内だと判明する。かつては電車や地下鉄で多くの利用者がいた駅も、汚染区によって都市が分断され、列車の運行がストップした今ではホームレスたちのたまり場に過ぎない。

電車に乗って逃亡する訳でもなし、桑畑丈二がそこを目指した意味は――しばし考えたエクターに、光点の点滅する階層が答えを出した。

「地下鉄、か……」

思わず、呟く。感服と、それ以上の苛立ちが、エクターの表情を消した。

桑畑丈二の狙いがわかった。それは当然想定すべき事態だったというのに、いざ現実に直面した途端、エクターの心には動揺が広がっていた。

まさかそんなことはすまいと、思いたかったのだ。信じたかったのだ。

人の、良心というものを。

「え、エクターさん……! トルーマン班長と連絡が取れました!!」

追いついてきたティムが、息を切らせながら報告してくる。エクターは問いかけた。

「――なにか、言っていたか?」

「いえ……その、ショックを受けていたようで……。言葉を、失くしてました……」

「……そう、だろうな」

エクターたちは、裏切られたのだ。あの男によって、二度も。

光点は地下鉄を移動している。かつてこの街の市街地を網羅していた市営地下鉄。それは当然、特区の中心にあるスタジアムへも繋がっている。

「……残念だよ。桑畑丈二」

エクターは呟き、腰の拳銃――K5を構えた。

人間相手に使うのは、かなり久しぶりだ。K5に使用されるのは9mmパラベラム弾という、二十世紀から使われてきた一般的な銃弾だ。人間相手に使うなら充分な殺傷能力を持つ――。

そこまで思い至ったエクターは、ふと、足を止めた。

 おろおろと後をついてくるティムに声をかける。

「僕の部屋に、アタッシュケースがあっただろう。それを持ってきてくれないか」

「え、でも……」

「頼むよ」

遮り、エクターは笑顔を作った。

「この銃だけじゃ、心もとないからね」

びくりと震えたティムは、足をもたつかせながらマンションへと走っていった。

エクターは、再び追跡を開始する。駅構内から地下鉄入り口へ。ここまで来るとホームレスはいなくなり、無人の構内にエクターの足音が大きく響いた。

改札を抜けて、階段を更に下へ。人気も、列車の気配すらないプラットホームを降り、線路へ降り立った。

まだ電気は生きているらしい。赤錆の浮き出た線路を、ライトが照らしている。エクターはスラブを慎重に歩き、足音を消す――。

自分以外の足音を聞きつけたのは、そのときだ。

いる。エクターは目を凝らし、気配と音、全てに全神経を尖らせ、

――十数メートル前方で動いた影に、K5の照準を合わせた。

狙いを定め、発砲する。

発砲音に反応した人影が動いたが、回避するには気付くのが遅かった。

銃弾は影をかすり、その拍子に小さな金属音が響く。

人影が着けていた何かが落ちた音だろう。暗闇のせいで遠目にははっきりと見えないが、おそらく負傷させることには成功している。

距離を詰めながら、エクターは影に告げる。

「良い反応ですね、桑畑さん」

 影は、感心したように身体を揺らして笑った。神経に障る、この男特有のうすら笑い。

「追いつくの早くね?」

 紛れもない、桑畑丈二の声だ。エクターはにこやかに笑顔を浮かべてみせる。

「えぇ。こんなこともあろうかと、食事のなかに超小型の発信機を混ぜていたんです」

「まじかよ……えげつねーことすんなぁ。中で引っかかったらどうすんだよ」

「すみません、つい。――なにしろ貴方には、一度裏切られていますから」

話しながら、エクターはタクティカルライトで桑畑丈二の姿を照らした。

丈二は、意外にも丸腰だった。石や角材のような、容易に手に入りそうな武器さえ持っていない。鎖骨下に切り裂かれたような傷跡が出来ているのは、おそらくエクターの放った弾丸によるものだろう。弾丸は丈二の振り向き様の胸を掠めたが、血は流れていない。どうやら傷はごくごく浅いようだ。残念だな、とエクターは少し思う。

「――署名、本当にガードルートに渡してくれたんですか?」

「ううん。燃やしちゃった」

 ちっとも悪びれない様子で、桑畑丈二は笑った。

そうでしょうね、と嘆息を吐くエクターに、丈二から問いかけてくる。

「もしかして、オレのこと信じてなかった?」

「ええ。わりと疑ってましたよ。クズ野郎だな、って」

 エクターは再度、銃口を丈二へ向けた。

「頭まで下げたのに、あんなに簡単に約束を反故にする人間の言うことなど、信じられる訳がない。例え貴方がガードルートを裏切ったとしても、僕は貴方を認めなかったでしょう」

「はは、その心配はねぇよ」

 銃口の先にある、桑畑丈二の口元が、いかにも愉快そうに歪んだ。

「――オレがガードルートを裏切る訳がないからな」

――エクターは引き金を絞る。

乾いた銃声が響いた。

寸分違わず眉間を狙った9mm弾は――先端を潰し、空薬莢と共に地面を転がっていく。


桑畑丈二の額には、傷一つついていなかった。


――エクターは、しばし、言葉を失う。

 丈二はふっと笑い――やがて踵を返し、駆け出した。

足音を残しながら、地下鉄の奥へと消えていく。まるでエクターを嘲笑うかのように。

「ば、化け物……」

ティムの声が、後ろから聞こえた。

いつの間にか追いついていたのだろう。ティムはエクターのアタッシュケースをお守りのように両手でかき抱き、丈二の消えた線路を呆然と見つめていた。

「エクターさん、あいつ、あれは……」

「落ち着け」

つとめて冷静に言い捨てたエクターは、屈んで9mm弾を拾い上げた。側には桑畑丈二の徽章が落ちている。先ほど聞こえた金属音の正体だろう。

先の潰れた弾丸。間違いなく桑畑丈二は被弾した。しかし、奴は無傷だった。

地球の常識ではありえない。だが、他の場所では?

心当たりを記憶から探ったエクターは――立ち上がり、ティムに告げた。

「お前は、これをトルーマンに渡せ。決してクラリッサには悟られないよう」

 徽章を拾い上げ、手渡す。受け取ったティムは、はっきりと狼狽した。

「しかし、お一人では……」

それ以上、間抜けの戯言を聞いている余裕はなかった。

エクターはティムから奪い取ったアタッシュケースをその場で広げる。

中には、ここ数日で集めた桑畑丈二に関する書類と、デザートイーグルとその弾丸50AE、巨大なゴーグル、そして丁寧に折り畳まれた青のライダースーツが入っている。

「ごめん、ちょっと着替えるから。早く行ってくれないか?」

「そ、それを……使うんですか」

「あぁ」

震えるティムを尻目に、エクターは上着を脱ぎ出した。

汚れないよう、アタッシュケースの上に脱いだ上着を畳んで置きながら、エクターは言う。

「――あいつは俺がやる」

ティムの喉が、ごくりと動いた。数歩、エクターから距離を取ったあと、言葉もなく去っていく。

遠ざかっていく足音を聞きとり、エクターは残りの衣服を脱いだ。そしてケースのなかにあったライダースーツを身につける。

ぴったりと吸い付くような生地が、なんとも不気味だ。冷たい湿布を全身に押し付けられているようであまり着心地はよくない。

首元までファスナーを上げ、着替えは終了。次にケースの中からデザートイーグルを取り出し、ベルトに差し込む。

最後に手に取ったゴーグルを、エクターはすっぽりと被った。

頭半分と視界を完全に覆うそれは、ゴーグルというよりヘルメットに近い。頭部と眼球の保護はもとより、暗視機能・近距離索敵機能までついた高性能な装備だ。

全ての準備が完了したエクターは、足元に残したケースを一瞥した。

クリアファイルの中に入っている、桑畑丈二の情報の書類。出自と経歴、養成所での成績といった表向きの個人情報だけでなく、エクターが独自で集めた真偽も不確かな情報が全て収まっている。

それを憎々しげに見つめ、エクターは両足の踵を大きくタップした。

靴底に格納されたエッジが姿を現す。それはさながら、アイススケートのシューズのようだった。

姿勢を低く沈めながら、エクターは誓う。

――絶対に、許してはならない。


          ¶

 ガードルートを乗せた護送車は、途中、ルートを切り替えつつも、順調に南下している。

この調子なら、なんとか試合開始までスタジアムに着けそうだ。時計と地図とを見比べて、ガードルートは安堵の息を吐く。

「……待ってください、藤さん」

「おや?」

五条からの静止の直後、藤は訝しがって速度を弱めた。五条が固い声音で告げる。

「この先……様子がおかしいです。通れなくなっている」

「え?」

 ガードルートは思わず身を乗り出した。

五条の指摘どおり、前方の道路が通行止めになっていた。道路上に乱雑に積まれた土嚢。つい先日同じ光景を見たばかりだ。ストーカーによる、妨害工作。

「……またか。つい五分前に深山班が先行したばかりなのに――」

五条が苛立ちも露に吐き捨てた。車線上に目をやったままの藤は、冷静に言う。

「これは、遠回りするしかなさそうですなぁ」

「……どうしよう……もうスタジアムは目と鼻の先なのに……」

ガードルートは困惑を隠しきれない。試合時間までにスタジアムに到着できなければ、自動的に不戦敗となってしまう。焦燥感ばかりが募っていく。

やむを得ず、タクシーは一度バックして、元来た道を引き返す。

車が加速した直後――すぐ隣で、何かが弾けるような音がした。

瞬間、車体のバランスが崩れる。咄嗟にガードルートを庇った五条が、動揺を露にした。

「――馬鹿な!? 周囲一帯はスモークをかけたはずッ!」

「一キロ超からの長距離射撃――おそらくは、ヘカートシリーズかとッ!!!」

 白煙を上げるタイヤを、必死に制御しようと試みる藤の声。

「……アンチマテリアルライフルッ!? そんな!!」

悲鳴にも似た声を五条は上げた。

狙撃――遅まきながらガードルートが事態を把握したところで、容赦ない二射目が放たれた。

 被弾した車が、暴れ牛のように藤の制御を離れる。窓の外の景色がぐるりぐるりと変わる。焦げ付いた匂い。座席に突き上げられる感覚。

ガードルートが言葉にならない悲鳴を上げた。藤の鋭い叫び。

「伏せなさいッ!」

「んっ……きゃ、」

五条がガードルートを押し倒した瞬間、

タクシーが、吸い寄せられるようにビルの角へと突っ込んでいった。

タイヤが摩擦で擦れる音がする。真っ黒に染まる視界。硬いものが砕け散る音。声を上げられないほどの衝撃。

全ての感覚が狂っていく。ガードルートは五条の身体の下で、ただ迫り来る名前のない恐怖に耐えていた。

「――ご無事、ですか? ガードルート様……」

声が振り、ガードルートはやっと目を開いた。

どうやら、衝撃は収まったようだ。ところどころ痛むが、問題はない。

「うん……っ。五条さんは?」

「私は無事です。なんともありません」

二人はようやく身体を起こす。

車の屋根がすぐ頭上にある。先ほどの衝撃で、ひしゃげてしまったようだ。壊れなかっただけ良しとしなければならないだろう。

ふいに、老人の声がガードルートの耳に届いた。

「怪我は、ありませんかな……?」

「うん、無事――」

 答えかけ、ガードルートは悲鳴を上げた。

「――フジさんッ!!!」

車の前方、飛び出したエアバッグに挟まれた身体。歪んだピラーと割れたフロントガラスに滴る血。

衝突で歪んだガラスに叩きつけられた形で、藤六郎が顔面から血を流していた。

「ほっ……ほっほっ、最後の最後に、失態……ですな」

血で染まった顔で、それでもいつものように、藤は笑いかける。

ガードルートが呆然としている合間に、五条が通信機に叫ぶ。

「こちらマルタイ号! 負傷者発生! 医者を呼んで! 早くッ!!」

 しかし藤は、重傷の体で声を張った。

「必要ありません。自分で何とかします。五条さんは、ガードルート様を連れてスタジアムへ」 

「でも!」

食い下がったのは、ガードルートだ。今の藤は、どうみても自分で何かを出来るような状態ではない。

「フジさんを残していけないよ……! ちゃんと、お医者さん来るまでここに、」

「――大丈夫だ。行きなさい、ガードルート」

諭したのは、いつもの老いた藤六郎の声ではなかった。

若く、優しい男の声音。抑揚のなかに、深い思いやりがのぞくような、

――ガードルートは視線を跳ね上げる。

交わした視線の先で、落ち窪んだ淡褐色(ヘーゼル)の瞳が、確かに穏やかな色を灯していた。

「……フ、ジさん……?」

「……行きましょう、ガードルート様」

 五条に手を引かれ、ガードルートは車を降りる。

いたぞ、こっちだ。どこかから、男たちの叫ぶ声が聞こえる。手を引く五条の鋭い舌打ち。

予断を許さないはずの状況で、なすがままに連れられるガードルートの視線は未だ、時を止めたようにタクシーを捉え続けていた。


          ¶

桑畑丈二は、地下鉄の線路上をひたすらに走る。暗闇のなかにやかましく響く自分の靴音。もっと静かに歩きたいところだが、そう言っている暇はない。

『――班より、――在、護衛対象はS号を移動中――』

耳たぶの中に仕込んでいた通信機から聞こえてくるのは、聞き覚えのある鉄間警部補の部下の声だ。しばらく使っていなかったから雑音まみれだが、まぁ良しとする。

S号――おそらく護送ルートの暗号だ。丈二と六係が定めたものから変更されている。丈二が何者かに尋問され、情報を漏らしたことを想定しての変更だろう。さすがはテッちゃん、と舌を巻いた。現場主義のキャリアのやることは無駄がない。

現段階で丈二がガードルートの位置を正確に把握することは出来ないが、スタジアムへ向かっているらしいことはわかった。それだけでも十分だ。

スタジアムへ、ガードルートの元まで、あと少し。

――突如、風を切る音。

「!!」

咄嗟に、丈二は横に跳ねた。

数秒前まで立っていた枕木に、裂傷が走る。鋭利な爪で裂かれたような歪な割れ目。

「良い反応ですね」

続く声に、丈二は聞き覚えがあった。

突如現れた人影は、青いボディアーマーを身に纏っていた。頭部から鼻先まで覆うゴーグルをかぶり、人相の全てを見ることが出来ないが、例の貼り付いた笑顔だけは口元に残っている。

ケリュケイオンアクター。それを装備した男を、丈二は一人だけ知っている。

「……きやがったな、ミスターヘルメス」

 返事の代わりに、エクター・クォンはゴーグルの下で歪んだ笑みを浮かべた。

伝令の神の杖の名を冠する、機動能力に特化させたボディアーマー。身体能力、主に脚力を強化したその装備は、追跡にもっとも向いている。

そしてもっとも警戒すべきなのは、まるでスケートシューズのように、靴底に装着された鋼すらも切り裂くエッジ。

「おっかねーなぁ。それ人の肉とかすっぱーん! って切れんじゃん」

「えぇまぁ、切れてもいいように蹴りましたから」

それに、とエクターは続ける。

「……貴方の皮膚は、簡単に切れそうにありませんし」

「へへっ」

 丈二は笑った。

「バレちゃった?」

――もう、隠す必要はなくなった。

顔や腕の、露になっている丈二の皮膚が、緑の波紋を打つ。

それは燐光だ。魚の鱗にも似た波紋。多くの動物が、外敵を前に闘争本能を露にするのと同じように、丈二の闘争本能によって現れる皮膚装甲。

ガードルートも知らない、丈二の切り札だ。

「……聞いたことがありました。火星連邦の軍人のなかで、対テロ特殊部隊にのみ許された、多能性肝細胞の強化移植手術があると」

 エクターの固い声音が続く。

「――()()()()細胞……以前、グレンに傷を負わされたとき、貴方の再生速度は異常だった。そのときに気付くべきでした」

「グレンって誰」

「――さて」

 丈二の質問を無視し、エクターは首を鳴らした、

次の瞬間、エクターの身体は丈二の寸前に迫った。

「ちっ!!」

反応が遅れた。

一気に間合いに入ったエクターの蹴り、鋭利なつま先のエッジが、丈二の胸を浅く抉る。丈二は咄嗟に躱すも、わずかな血が弓の形を取り薄闇に散っていった。

どういう原理か、エクターの動きには予備動作がほとんどない。それもケリュケイオンの性能というならば――今のエクターの身体能力はZEUS細胞を活性化させた丈二にも、決して劣らないだろう。

「並の武器では、刃が立たない。しかしケリュケイオンのエッジなら、効果がありそうですね」

 暗い声で宣告するエクターの様は、死刑執行官を思わせた。

「ハッ……!」

 丈二は笑い飛ばし、今度は自分から仕掛けていく。

「そうっ、だと! いいですねッ!!!」

距離を詰め、掌底を放つ。対するエクターは、体をわずかに後ろに反らしただけ。

――刹那、その体が宙に浮いた。

「ッ!!?」

 丈二は咄嗟に腕を引き、頭を守る。

直後、回転し鞭のようにしなったエクターの右足が、丈二の頭部を狙った。

かろうじて頭を守った丈二の腕に、びりびりと傷みが走る。

上段後ろ回し蹴り――空手の技かと思ったが、違う。テコンドーだ。華麗な足技を得手とする格闘技。

動きを見るに、おそらくは熟練の手錬。見極めた丈二は、間合いを測りながら口を開いた。

「ひとつ聞きたかったんだが」

「なんでしょう、桑畑さん」

 隙のない構えとは裏腹に、エクターはのんびりと応じる。

「ガードルートに対する一連の妨害行為は、クラリッサの意思か?」

「――まさか」

エクターは笑顔で応じ、途端、踏み込んだ――横蹴り。

応戦する丈二は、同じく蹴りで弾くことを試みた。

両者のしなる足が、固い音を立てて相殺しあう。それは蹴りと蹴りとの交差というより、剣戟と呼ぶにふさわしい。

「ちっ……」

すぐさま間を切る丈二。しかし一瞬で距離を詰め、自己の間合いまで達するエクター相手にどれだけの効果があるだろう。

呼吸が計れない。予備動作、一切視認不可。格闘戦においてはかなり厄介な相手だ。しかも、強化されているはずの丈二や腕や脚には、わずかな鈍痛が残っている。

普通ならば、これほどまでZEUS細胞を活性化させた腕にダメージは残らない。むしろ、丈二に攻撃した側に、鋼を蹴ったような鈍い痛みが残っているはずだ。

それなのにこのエクターという青年の口元は、笑みを崩さない。これもケリュケイオンの恩寵というならば、火星連邦の技術部は良いモノを創りすぎているようだ。

――今度クレームしとこう。今度があれば。

脳内で一人ごち、丈二はあらためてエクターを睨み据えた。

笑顔を作る余裕がない。どんな時でもスマイルをモットーにする丈二にとっては、不本意な事態だ。

――エクターが再度仕掛ける。助走、からの、後方回し蹴り。

相殺が間に合わない。丈二がわずかに体を反らした、その顎数センチ先をエッジが逸れた。

回避――そう丈二が安堵したのも束の間、

ぎゅる、と異音が聞こえた。聞きなれないその音と共に、エクターの身体が沈み、回った。

エッジの刃を軸に、フィギュアスケーターのような動きでエクターの細身が円を描く。流麗にして高速の弧を描いた蹴りは、丈二の腹を容易く裂いた。

丈二の身体が、後ろにのけぞる。衣服ごと切り裂かれた皮膚が、中空に血の線を引く。

だが、丈二は踏みとどまった。

裂かれた皮膚の周囲が鱗の波紋を打ち、傷はすぐに塞がる。飛び散った血だけが、傷を負ったことを現実だと独り主張していた。

瞬間再生能力。ZEUSの能力の一端だ。

「……すごい」

 感心したように呟くエクターの口元が、しかし、言葉とは裏腹に歪んだ笑みを浮かべる。


         ¶

ガードルートは、ひたすらにスタジアムを目指す。

負傷した藤をタクシーに残したまま、ガードルートは五条と共に徒歩でスタジアム手前までやってくることが出来た。つい三日前、クラリッサと待ち合わせをした、あの駅前広場だ。

スタジアムまであとわずか――そうガードルートが目算した直後、後方から発砲音が轟いた。

「っ――!」

思わず悲鳴を挙げそうになったガードルートを、五条の掌が制す。

静かに、と小声で囁いた五条は、建物の陰へガードルートを招いた。従いながら、ガードルートは五条に問いかける。

「追い、つかれた……?」

「おそらく」

答えた五条の声は緊迫感に満ちている。喉を鳴らし、それ以上の言葉をガードルートは飲み込んだ。

こっちだ。逃がすな。男たちの声と慌しい足音がすぐそばから聞こえる。ガードルートたちに気付かず、目前を走り去った男の手には拳銃が見えた。

ガードルートは喉を鳴らす――もし襲撃者たちがガードルートを見つければ、その瞬間に容赦なく発砲してくるだろう。そしてその時は、決して遠くはない未来だ。連中がここを割り出すのも、時間の問題。

「……スタジアムからここまで、あと百メートルもありません」

グロッグをホルスターから抜き、マガジンを押し込みながら、冷静に五条は言った。

「すぐそこに見える階段を登って、陸橋を渡ればスタジアム入り口――そこまでたどり着けば、スタジアムの警備員たちが貴女を護ってくれるはずです」

「うん」

「……一人で走れますか、プリンセス・ガードルート」

 一瞬、五条が何を言ったのか、理解が出来なかった。

「……五条さん、は?」

「私はここで。奴らの足止めをします」

――何を。

口から出かかった言葉を、ガードルートは唇を引き結んで押し留めた。襲撃者は数人。それも銃を持った男たちばかり。たった一人で、太刀打ちできる訳がない。

しかしそれを言うことは憚られた。言ってしまえば、五条の大切な何かを削いでしまう。

こみあがってきたものを、ガードルートはぐっとこらえる。肩を上下し、五条の瞳を見つめ、ガードルートは答えた。

「……うん。いける。大丈夫」

五条が、ふっと微笑んだ。それはすぐ後ろに迫った足音によって、いつもの鉄の表情へと変わる。

「じゃあいくね、わたし……」

踏み出そうとしたガードルートの肩に、五条の手のひらが触れた。

導かれ、振り向いた先にあったのは――凛とした女性の、美しくも優しい表情。

「……屈しないで、ガー子ちゃん。頑張って。貴女を護る、私たちの為にも」

肩に触れた手でそのまま、ガードルートの背中を押す。

いたぞ、と男の声が聞こえた。

「――走れ!!」

五条が叫ぶ。

ガードルートは、もう迷わなかった。

建物の陰を飛び出し、懸命に走り、一息に階段を駆け上がる。真下から聞こえてくる発砲音。それはガードルートが今まさに踏み越えたステップに跳ね当たった。一秒遅ければ撃たれていたという戦慄が足元からぞっと這い上がってくる。

しかしガードルートは、振り返らない。立ち止まらない。動揺しない。息を切らせ、みっともなく衣服を乱し、それでも足を止めることなく走り続ける。

階段を昇りきり、二階の開けた広場に出た。ここを抜けて陸橋を渡れば、スタジアムの入り口だ。ガードルートはますます足を速める。

銃弾が、一秒前にガードルートが通り過ぎた柱に着弾した。惜しくも仕留めそこなった男たちの怒号が耳に届く。

「殺せ! スタジアムまで行かせるな!!!」

「ここで仕留めろ!!!」

「死ね! ガードルート!!!」

「はっ……っく、……はっ……!」

ガードルートは、ただひたすらに走る。

振り向かなくとも、銃口がこちらに向けられているのを悟った。真っ黒な殺意の具現がガードルートの背中を睨んでいる。

――空気を裂くような発砲音が響く。

だが、当たらない。運が良いのかあっちの腕が悪いのか、それとも疲れ果ててあちこちにへろへろ走るガードルートに狙いをつけにくいのか、理由はわからない。しかし彼らが立て続けに放った凶弾はガードルートに命中することはなかった。それが段々愉快でたまらなくなる。

「ば、ばーか! 悔しかったらあててみろぉ、ばーか!!!」

走りながら、振り返りもせずにガードルートは男たちを挑発する。

怖くて、悔しくて、心細い。けれど笑った。だから笑い続けた。もう少し余裕があるなら、振り向いて舌でも出してやろうかとさえ思った。

見え見えの虚勢を張る、たった一人の、命がけの逃走劇。

「プリンセス・ガードルート!?」

 懸命に走っているうちに、ガードルートの前方から驚くような声が上がった。

スタジアム正面の入り口に待機している警備員たちだ。向かってくるガードルートに気付いた彼らは、いったい何事かと目を剥いている。

しかし、その背に銃を向けた男たちを見つけると、彼らはすぐさま驚きを隠し、小銃(カラシニコフ)を向けて叫んだ。

「銃を下ろせ! ここから先は火星連邦の管轄だ!!」

警備員たちが素早く隊列を組み、ガードルートの盾になる。

――助かった。

ガードルートはひとしきり呼吸を整え、青ざめた顔で跪く追跡者たちを振り返った。

そして舌を出し、両の目の下を引っ張って、最高にムカつく顔をしてみせる。

べろべろばー。

「……プリンセス・ガードルート。ここは危険です、早く会場へ……」

「あっ、そうね!」

呆れたように警備員に声をかけられ、ガードルートはようやく、スタジアムの中へ入った。


          ¶

グレン・ハンは、根城にしていたアジトでその一報を聞いた瞬間、自分を取り巻く世界が変わっていくのを感じていた。

ぐるりと明滅する視界。骨を抜き取られたようにぐにゃりと震える足。背中を流れる脂汗。初めて経験する、拭いきれない大失態から引き起こされる恐怖。

それは決して聞きたくはなかった報告だった。

――ガードルートを、取り逃した。

「ちくしょうッ!! ちくしょうッ!!!」

やりどころのない怒りのままに、グレンは机を何度も拳で殴りつけた。

屈辱が波のように攻め立ててくる。これだけ手間と時間と金をかけたのに、ガードルートを仕留めそこなった。それだけではない。三日前の高速道路で、アンタレスを騙り、グレンに傷をつけたあの気障ったらしい護衛官にもまんまと逃げられた。

最悪だ。最悪の結末がグレンに降りかかった。

目に浮かぶのは、直属の上司であるエクターの顔だ。グレンが唯一恐れる存在。あの凶暴な男に無能と見限られ、始末された仲間の数は両手に余る。自分もその内に入るのかと思うと、心臓を握り潰されるような思いがした。

「グレン……」

後ろでオロオロと部下たちがうろたえている。それさえもグレンの神経を逆撫でした。狼狽するだけの無能どもにグレンはまくし立てる。

「おいッ! C―4を起爆させろッ!!」

「C―4……ッ!? いま、ですか?」

「くだらねェこと聞くんじゃねぇッ! 当たり前だ!」

部下たちの顔が途端に色を失くしていく。

C―4――プラスチック爆弾を、グレンは事前に部下に命じて、駅前広場の至るところに設置させていた。いつエクターに切られてもいいよう、グレンが最後の手段として残しておいたものだ。エクターはもちろん、トルーマンさえもこのことを知らない。

大量のC―4を起爆させれば、駅前広場のみならず、隣接するスタジアムもただでは済まない。ガードルートはおろか、クラリッサをも巻き込む可能性があるだろう。

だが関係ない、とグレンは思う。もとはあの無能なプリンセスが悪いのだ。それぐらいしなくては溜飲が下りない。

「しかしそれでは、一般の客にも……」

「ンなもん関係あるかッ! やれッ!!」

叫んだグレンを、何故か部下たちが驚愕の眼差しで見た。

 何を驚いてやがる――言いかけたグレンの後頭部に、固く冷たい感触が押し付けられた。

それが拳銃であることは、部下たちの表情で察しがついた。そして背中越しに漂う、甘ったるい香水の匂い。

「ようやく居場所を突き止めた――存外、尋問に時間がかかったな」

 香水の主とおぼしき、低い男の声音。その声に続いて、弱々しく言った者がいた。

「すみません……グレン、本当にすみません……!」

その震えた声に、グレンは聞き覚えがあった。以前、日本警察がスモークを行なっている駅前広場に、単独で潜り込ませたグレンの子飼いの部下のものだ。

だが奴は、警察に捕まったはず――ということは。

グレンの背に冷や汗がどっと流れた。

それに呼応するように、香水の主は死刑宣告のように低く、重く告げる。

「俺の大事な桑畑丈二に手をかけたその罪、決して軽くはない」

「――くそがァああああああああああッ!!!」

 銃を突きつけようと振り向いたグレンの身体は、宙に浮いていた。

柔術――払い腰。

浮遊感を感じる間もなく、冷たい床の感触が、グレンの鼻先に触れた。間を置かず背に体重が圧し掛かる。ぐっ、と耐え切れずグレンは呻いたが、背中にかかった負荷はむしろ増した。

「――残念だが、この鉄間愛徒を落とすには色気が足りないな……」

耳元で囁かれ、総毛立つと同時に、後ろ手に回されたグレンの手首に冷たい鉄の輪が回った。見なくともわかる。己を拘束する手錠の感触。

ゲームオーバーの証をグレンにもたらした男は、朗々と告げた。

「君には黙秘権がある。これより先の発言は法廷において不利な証拠として扱われる可能性がある。君には弁護人をつける権利があり、その立会いを求めることが出来る――警告は以上だ」

抵抗する術を失ったグレンは、懸命に首を曲げて自分を取り押さえた男を睨む。――どことなく吸血鬼を思わせる風貌の、トレンチコートの男。

その男に、やけに呑気な声がかかった。

「警部補―、こいつどうしましょ?」

「署に連行しろ、百舌。あとは刑事部に任せるとしよう」

「了解!」

「――こういう男は、俺の好みではないからな」

 そう言った男はグレンから体を離し、颯爽と香水を振った。


          ¶

ぎゅるるるる。

再び、ケリュケイオンの駆動音。

遠間から一気に加速したエクターの蹴りが、丈二へ迫り来る。

避けるか、反らすか。わずかな逡巡の後に、丈二は受け止めることを選択した。

高い位置で交差し、エクターの蹴りを受け止めた丈二の腕が、みし、と鳴る。目の前でぎろりと光るケリュケイオンの鋭利なエッジが、飢えた獣のように丈二の首筋を執拗に狙う。

だが、大人しく首切られるのを待っている丈二ではなかった。

ふいに腕の防御の力を緩めて体を反らし、エクターの重心を崩す。

急速に抵抗を失ったエクターの脚は、力の行き所に迷い、丈二の肩すれすれを抉るに過ぎなかった。

その隙を、丈二は狙う。

後方に反らした体を沈ませ、踏み込み、唯一素肌がむき出しの顎めがけてアッパーカットを繰り出す。

その拳は、エクターの顎を正確に打ちぬいた。

「……っが……!!!」

膝から崩れ落ちたエクターが苦しげに呻く。

普通ならば、今の一撃で脳震盪を起こしてもおかしくはない。丈二はそう予測した。

だが、まだエクターには意識があった。

「……っ、ぐ、うぅ……!」

獣のような呻き声を上げ、エクターはゴーグルを煩わしそうに投げ捨てる。よろめきながら立ち上がったその顔が露になった。

口の端から血を流した青年は、哂っていた。

今までの、若者らしい快活な笑顔ではない。狂気と嗜虐の混じった哂い顔。

「へへっ……」

丈二は笑い、容赦なく追撃を加える。

「楽しそうだな、おにいちゃんッ!」

鳩尾に入った蹴りは、エクターの細い身体をよろめかせた。

それでもなお、エクターは立ちあがる。立ち上がるのがやっとの身体で、それでもなお、闘争心だけが暗い炎を灯していた。

「えぇ……ッ! 楽しいっ、ですよ、桑畑さん……!」

ぎゅるるるるる。

エクターの狂気に呼応するように、ケリュケイオンが再度、駆動する。

――しかし、もう待たない。

エクターが接近する前に、丈二は駆け出した。

ZEUSの力を脚力へ――加速へ注ぎ込む。

狙いはエクターの腹。防御の手薄な胴。

己から攻めることを考えていたであろうエクターは、丈二の思わぬ突撃に接近を許した。

身体を沈め、アメフト選手のように丈二は突貫する。ただし、そのスピードも威力も、ZEUSの強化のお陰でケタ違いだ。今の丈二の体当たり(チャージ)は、車の衝突の威力に匹敵する。

丈二の迫撃が、エクターの身体を弓折に吹き飛ばした。

「ぐあ……ッ!?」

受身すらも取れず、エクターの細身が壁に激突する。

丈二の一撃をまともに喰らったエクターは――わずかな身じろぎの残滓を残し、ついに再起することなく、崩れ落ちていった。

――静寂が、周囲を包みこむ。

「……ふぅ――ッ……」

――深い嘆息を、丈二は吐いた。

全身を見下ろす。満身相違、とはまさにこのことだ。切り裂かれた箇所は血が滲んでいる。ZEUS細胞の再生能力が追いつかないほど傷つけられたのは、地球では初めてのことだ。

――だが、動けないほどではない。

丈二は踵を返し、再び目的地へ足を向ける。

ガードルートが待つ、スタジアムへと。

「待ってろよ、ガー子……」

 うわごとのように丈二は呟き、足をひきずるようにして歩く。

こんな姿で再会したら、あの少女は驚くだろうか。まず開口一番になんと言うだろう。あら、遅かったじゃない。どこ行ってたの。これが有力だ。機嫌がよかったら、おかえりとでも言ってくれるのだろうか。

――もし泣きつかれたら、爺に殺されるな。

だが、十中八九それはないな、と丈二は思っていた。ガードルートは強い。その証拠に、丈二がいなくともちゃんとスタジアムに向かったのだから。

けれど、丈二の頭に浮かぶのは、顔を真っ赤にして泣くガードルートの姿ばかりだった。

「ははっ……」

 これではロリコンと言われても仕方ない。丈二は自嘲気味に笑う。

だが、仕方ないのだ。常に最悪の事態を想像する護衛官だからこそ、ガードルートの最も悪い状況を想起する――そしてこう考える。

ガードルートが泣いているかもしれないから、丈二は彼女に会わねばならない、と。

試合が始まる前に。なんとしても、丈二の護るべきプリンセスの元へ。


「……待て……桑畑丈二……」


 声に、丈二は振り返る。

 エクターだ。丈二以上にボロボロの体で、足を震わせながら、なお執念を振り絞り立ち上がろうとしている。

「……もう、やめとけ」

丈二は忠告する、が、聞き入れる訳もなく、エクターはふらふらと立ち上がった。

――懲りない、とは思わない。だが無謀だ。

この状態で、丈二に勝てる訳がない。

しかし、エクターは狂気じみた視線で丈二を見上げ、

「てめェは……僕たちを……裏切った……」

片腕を後ろへ回した。

――反射的に、丈二が身構えた刹那、

「……クラリッサを、傷つけた……!」

 振り絞られた憎しみと同時に、

ぎゅるっ、

――ケリュケイオンの加速が、丈二の身体を打った。

「ぐっ……!」

気付いた瞬間、丈二の半身はエクターに抑えこまれていた。

最高速度での肉薄――油断していた。甘く見ていたと言ってもいい。この男の妄執を。

だが、と丈二は思う。上半身に体重をかけ、丈二の身体を抑えこんだこの状態で、エクターが得意の足技を仕掛けることは不可能だ。ならば――、


どん、


思考を遮ったのは、鼓膜を揺らすほどの発砲音。

そして感覚が喪失してしまうほどの――苦痛だった。

「っ、くぁ……っ……」

細く白い煙が、視界をかすめた。

すぐ真下にあるエクターの顔が、歪んだ笑みを浮かべている。

その右手には、丈二の腹に押し当てた、デザートイーグルの銃身。

自らの血が腹から溢れる様を、丈二は崩れ落ちながら目にしていた。


           ¶

控え室に辿りついたガードルートは、ミネラルウォーターを飲み、頬を叩いた。

――大丈夫だ、やれる。

試合開始まで、あと十分。

コンディションは良好。昨日はあまり眠れなかったが、先ほどの騒動で頭も冴えている。あとは集中して臨めば、負けるような試合ではない。

戦いは常に一人。

自分の夢を、叶えるために。

そのとき、ドアをノックする音が届いた。

「プリンセス・ガードルート、失礼します……」

 控えめな男の声が聞こえる。ガードルートの知らない声だが、厳重な警備体制のスタジアムの中だから、不審人物ではないはずだ。

いつもなら来客には丈二が応対してくれるところだが、いまは誰もいない。仕方なく、ガードルートは扉を開いた。

扉の外に立っていたのは、胸に護衛官の徽章をつけた、スーツ姿の男たちだった。おそらくクラリッサの護衛官だろう。まさかガードルートが顔を出すとは思わなかったのか、少し戸惑ったような顔をしている。ガードルートは無愛想に言った。

「なに? 試合前なんだけど」

「申し訳ありません。実は、こういうものを見つけたもので取り急ぎご報告を……」

そう言って、ハンカチに包んだものを、ガードルートに差し出した。

「――……は……」

それは包んでいたハンカチを赤く染める、小さなバッジ。


血のついた、徽章だった。


誰の、と問うことは、もはやガードルートには出来なかった。

徽章に伸ばした指先が、おこりにかかったように震える。まさか、そんな、ありえない。現実を否定する言葉だけが脳裏をよぎる。

それでもガードルートは確認せずにはいられなかった。

震えた指で、徽章をそっと裏返す。

そこに彫られているのは、アルファベットで記された所有者の名前。GRORGE.K――。

桑畑丈二の、ものだった。


          ¶

「ぐっ……」

苦しげな、呻き声が聞こえる。

今までの余裕ぶった態度が滑稽に思えるほどの、桑畑丈二の苦悶の声。

彼が自ら吐いた血で、胸が染まっていく。それは胸に開いた穴から溢れる血と交わり、丈二の身体全体を朱に染めた。

その様を眺めていたエクター・クォンは、哂いながら立ち上がる。

「――さすがのゼウスの守護も、これには、及ばないか……」

ボディアーマーすら貫通するという、大口径の拳銃、デザートイーグル。それも超至近距離での発砲。流石のZEUS細胞も形無し、という訳だ。

しかし、エクターとて無事ではない。片手でデザートイーグルを撃ったせいか、利き腕に力が入っていない。意識もまだ朦朧として、視界も靄がかかったように霞んで見えた。

――充分だ。

足さえ動けばいい。この怨敵ともいえる男に致命傷を与えたことが、エクターの気力を漲らせていた。

血にまみれた体を足に支えられて、エクターは丈二を見下ろした。それは勝者の屹立だった。

「僕の勝ちですね、桑畑さん……」

丈二の返事はない。血で染まったその胸が、大きく上下している。まともな会話が出来る状態ではないのだろう。だが、エクターには関係がない。

「言い残すことはありますか?」

抵抗すら出来なくなった丈二の頭を、容赦なく靴底のエッジで踏みつけた。丈二は一瞬、苦しげな表情を浮かべるが、苦鳴を上げることも叶わないらしい。たまらなく愉快だった。

「てめェの大好きなお姫さまに、遺言はあるか? って聞いているんですが」

 ところが、エクターの期待とは裏腹に、丈二から返ってきたのは腹立たしい一笑だった。

「……はっ……」

 ――まだ、笑うか。

苛立ちを超え嗜虐に呷られたエクターは、丈二の腹を踏みつけた。そこはデザートイーグルの銃弾が穿った場所。

一瞬、丈二は苦しげに呻くが、すぐにまたあの腹立たしい笑みを浮かべる。

不気味とすら、エクターは思う。万策尽き、今にも命を閉じようかという瞬間に、なぜこの男は笑っているのか。

「――後学のために教えろ、桑畑丈二……。なぜそこまで、ガードルートに尽くす?」

「ははっ……」

また笑った瞬間、丈二の口の端から、血の泡が溢れた。

「理由、なんか……ねぇよ……だれでも、良いさ……プリンセス、なら……」

「……ならば、クラリッサでもよかったはずだ」

「そう……かもな……。――ただ、オレは……」

 喋ることすら困難な丈二は、しかしそれでも、最期の意地のように語り続ける。

「オレは……あいつに就いて、あいつと、過ごし、た……。……だから」

 発声すらままならないはずの桑畑丈二の声が、このとき何故か、エクターの耳にはっきりと届いた。


「だからオレは――あいつの、ために……この人生を、使いたい」


「――……馬鹿な、男だな」

愚直、とさえ言ってもいい。愚かなプリンセスについたあまり、たった一つの貴重な命を散らす。

しかし桑畑丈二は、血まみれで笑い続けた。

その瞳が真っ直ぐ見つめるのは、エクターの顔。

「なに、いってんだ……お前も、そうだろ……エクター……」

――エクターは口を引き結び、再びデザートイーグルを構えた。

愚かな男だと思った。理解が出来ない男だと思った。笑顔を作り、平気で人を騙すその姿に、エクターは憎悪を滾らせた。

――だが、

「……お前は、尽くす人間を間違えた」

残念だ、とほんの少しだけ、エクターは思う。

そして引き金に指をかける。――今度は眉間へ銃口を向けて。確実に殺せるように。


 ぶるるるるる、


その瞬間、わずかな振動が、エクターの胸元を震わせた。

自分の携帯タブレットが鳴動している。エクターは丈二に注意を払ったまま、内ポケットにしまっておいたそれを一瞥し、

――クラリッサからの着信だということに、気付いた。

表示パネルを見た瞬間、エクターの背筋が泡立った。試合開始予定時刻は間もなくのはずなのに、どうしてこんな時間に連絡を寄越したのか。もしや、彼女の身に何かあったのでは――エクターは急いでタブレットの通話パネルをタッチする。

懸念をよそに、聞こえてきた声は、クラリッサ本人のものだった。

『エクター、今どこ!? スタジアムじゃないの?!』

「……すまないクラリッサ、少し遠くに……」

『ガードルートの護衛官さんを探して! 今すぐ!!』

――一瞬、何を言っているのか理解出来なかった。

なぜ桑畑丈二失踪の情報がクラリッサの耳に入ったのだろうか――いや、それはこのさい些末な話だ。問題は、クラリッサが桑畑丈二を探し出そうとしていること。

「なにかあったのかい?」

 つとめて冷静に、エクターは訊ねる。答えるクラリッサの声は焦燥で滲んでいた。

『ガードルートの護衛官さんの行方がわからないの。ガードルート、すごく悲しそうで……。このままじゃ、試合になりそうにないの』

「ガードルートの不戦敗になるってことか?」

『……うん』

エクターの胸に湧き上がった苛立ちは一瞬に掻き消えて、もどかしさと切なさに似た感情が去来する。

「……それでいいじゃないか。どうして躊躇うんだ」

 告げたエクターの言葉は、思わず嘆息を帯びていた。

「クラリッサ、君は高潔すぎる。奴が不戦敗ならニカとの最下位決定戦が確定するのに――」

クラリッサは、長い沈黙のあと、

『……相手の不調に便乗して得た勝利になんの価値があるの?』

 そう、返した。

エクターは、しばし言葉を失った。

驚愕は、すぐにやり場のない怒りに変わって暴れ出す。――他ならぬクラリッサへ向かって。

「なにを……言ってるんだ! 君は……俺たちは、十万人の命を背負っているんだぞ!?」

『そうよ。私は十万人の未来を背負っている。だから十万人の不幸を背負う義務がある』

――エクターは、言葉を奪われた。

最弱の姫君、プリンセス・クラリッサ。

ずっと傍にいたはずのエクターですら知らなかった、底抜けに明るく、いつも前向きで、どこまでも愚直な彼女の、人知れぬ決意。

『それがプリンセスなのよ。エクター』

そして、通信が切れた。

バックライトが消えたタブレットを、エクターはじっと見つめていた。

彼女の意思は、変わらない。いや、変えられる訳もなかった。

クラリッサはいつもエクターの近くて遠いところで、一人輝く。

「……君は……馬鹿だよ……」

 しかし、例えエクターがそう言ったとしても、クラリッサには決して伝わらないのだ。

もう何の役にも立たないタブレットをしまう。――そのときになって、ようやくエクターは気づいた。

夥しい血の跡を残し、桑畑丈二の姿が消えている。


          ¶

会場のアナウンスが、遠くに聞こえる。

まもなく試合開始となります。チケットの座席番号をご確認のうえ、お間違いのないようご着席をお願いいたします。

それから少しだけ間を置いて、運営委員スタッフが代わる代わる控え室を訪ねてきた。そろそろ出番です、プリンセス・ガードルート。

それら全てを、ガードルートは無視した。

五人目のスタッフが訪ねて、それでも応対せずにいると、別の声がかかってきた。

ドアの外から聞こえてくるのは、きんきんした若い女の声。

「ガードルート! いま、私の護衛官にも頼んだから! 桑畑さんはきっと大丈夫よ! だから出てきて?」

扉の向こうでわめいているのは、クラリッサだった。

その言葉を聞きつけた瞬間――ガードルートの心を占めていた感情に、暗い炎が灯された。

なんであの子がそれを知っているのか。なにを言いたいのか。なにをしたのか。ガードルートの知らない、いないところで勝手に。

ガードルートはおもむろに立ち上がり、控え室の扉を開け、目の前に立つクラリッサを引きずり込む。クラリッサの護衛官たちが慌てた様子でついてきたが、どうでもいいことだ。

「なに、勝手なことしてるの……!」

開口一番、ガードルートは怒気も露に告げるが、クラリッサは動じた様子もない。

「話、聞いたの。桑畑さんいなくなっちゃったんでしょう? 大丈夫だからね、ガードルート。私の護衛官は優秀だから。きっとすぐに見つけてくれるよ」

――いつもそうだ。

一番触れて欲しくないところに、クラリッサは無遠慮に踏み込んでくる。

「なんなの……なんなのよ、アンタは!!!!」

耐え切れず、ガードルートは叫んだ。

「なに勝手なことしてるの! そんなことしてなんて頼んだ? 必要ないだいきらい!!」

「でも、ひどい顔色よ……?」

「うるさいッ!! だからアンタは弱いのよ!!!」

たまらず吐き捨てる。

ガードルートの叫びは控え室だけではなく、廊下中に響き渡った。

クラリッサだけではない。護衛官たちも、呆然とした表情でガードルートを見つめていた。みっともない。恥ずかしい。――でも、もう構わない。

「特区の人たちにも、敵のわたしにも優しくして? それ何か嬉しいの?! 楽しいのッ!? 気持ち悪いのよ自己満足なのよアンタのやってることはぜんぶぜんぶぜんぶッ!!」

「ガードルート、聞いて」

「聞きたくないっ!」

「聞いて」

「いやだっ!!!」

「聞きなさい! ガードルート!!!」

クラリッサの冷たい両手が、ガードルートの頬をぴしゃりと叩いた。

そのまま、頬を両手で挟みこむ。

歪み出したガードルートの視界に、クラリッサの顔が映った。

――なんで。

なんで、アンタのほうが泣きそうなのよ。

瞳を潤ませて、クラリッサは叫ぶ。

「お願いだから、みんなを見て……!」

そして、ガードルートを抱きしめた。

柔らかい感触がする。クラリッサの身体は温かくて、力強くて、でも怖い。

ガードルートの震える身体を自らの腕の中に抑えつけながら、クラリッサはなおも叫んだ。

「怖いんでしょ? 辛いんでしょ? どうして一人になりたがるの? どうして強がるの?」

「放して……!」

ガードルートを抱きしめた腕は、しかし弱まろうとはしない。今にも泣き出しそうな瞳で、クラリッサはガードルートを見つめて訴えた。

「独りぼっちで生きていけるほど、みんな、強くなんかなれないよ……」

ぽろ、と、

クラリッサの瞳から、涙が一滴、零れた。

「………わ、たし、は……」

けれど、ロボットのように。

ガードルートは、繰り返すだけ。

「アンタとは、ちがう……強いの……ひとりでも、平気……」

「平気じゃないよ。ガードルート。ぜんぜん、平気じゃない……!」

 首を振ったクラリッサは、ガードルートの瞳を見据え、


「……だってあなたは……桑畑さんに会いたくて……寂しくて……泣いている」


 そう、告げた。

 言葉をなくし、立ちすくむガードルートを、クラリッサは静かに見つめている。

 やがて側に控えていたクラリッサの護衛官が、口を開いた。

「クラリッサ、そろそろ試合が……」

「うん、わかった」

 踵を返したクラリッサは、もう一度だけ、ガードルートを振り返った。

「試合――待ってるからね、ガードルート」

いつものように微笑みかけ、そして部屋を去っていく。

――一人残されたガードルートは、手に残った徽章を見つめた。

そこに彫られた名前を、そっと指でなぞり、


そして、ガードルートは。


          ¶

――プリンセス・クラリッサは、チュニジアの、田舎町の有力者の娘として生まれた。

五人姉妹の末娘。プライドの高い姉たちに、愚図だ鈍間だと蔑まれる幼少期を過ごした。

周囲のみんなからそう言われていたから、クラリッサは自分が落ちこぼれであることを、幼い頃から理解し、受け入れていた。

そのかわり、笑顔を忘れない子どもだった。叱られていても、ずっとにこにこ笑顔でいればみんなは許してくれる。嫌な危機は去っていく。どんなときでも前向きで生きていく人格は、この頃に形成されたのかもしれない。

しかしそんなクラリッサにも、最大の試練が訪れる。

父が、火星へ行く裏の手段を知ってしまったのだ。

それは火星連邦関係者のなかで密かに出回っていた噂。舞闘会運営委員会と仕事上の取引のあった父が、こっそり聞きつけたという話。

幼い娘をBMCI手術の被験体に差し出せば、無条件で火星への移住特権を得られる。

娘が五人もいる父にとって、それは天からのおぼしめしにも思える幸運な事態だったと述懐しているという――大迷惑なことに。

五人の娘たちのなかで誰を火星への生贄にするか親族の間で会議が行われ、結果として教育熱心だった母の提案が通り、実行されることになった。

一番劣る子を学力試験で決め、その子をプリンセスにする。

全ては、娘たちの与り知らないところで始まったことだ。

――クラリッサなりに、精一杯努力はした。

プリンセスの過酷な使命は、地球にいた頃のクラリッサもよく理解していた。そんなものになりたくはなかったから、死に物狂いで一日中机に張り付いて勉強した。そのとき使った百二十冊のノートは、なんとなく捨てられずにクラリッサと共にハルモニアに渡り、今も特区内の私室に残っている。

しかし、叶わなかった。

どんなに勉強しても、優秀な姉たちに敵うことはなく、結果としてクラリッサはここに立っている。

そのとき、クラリッサは人生で初めて、絶望というものを知った。

人間には、どんなに努力しても、叶わないことがある。それを、クラリッサはまさしく身をもって知らされたのだ。

そしてハルモニアに連れていかれたクラリッサは、BMCI手術を施され、プリンセスとしての訓練に明け暮れた。

当時の記憶は、思い出せないほど辛い。

ハルモニアに来てからも、クラリッサは劣等感に苛まれた。幼い頃からクラリッサを圧迫していたそれは、プリンセスの訓練を受けてより顕著になった。

今回は、地獄行きは私だけでは済まない。

十万人もの人々の運命が、私に委ねられている。

しかし、優勝できるような才覚を持っていないことは、自分が一番よくわかっていた。シーズンが始まってすぐに引退する方法や、試合から逃げる方法を鬱々と考える毎日が続いた。

そんなとき、ある友達が、教えてくれた。

忘れもしない。模擬実戦で完膚なきまでに打ちのめされ、初めて訓練から逃げ出したあの日。

プリンセスになる重責に怯えていたクラリッサへ、彼女はこう言った。

「そのほかに、私たちが生きていく方法は、ないじゃない。……どうあっても、私たちは逃げられない。頭に電極や発信機を埋め込まれて管理されて、またいつかは回収されちゃうの……新たなる航路(ロードヴィーナス)のために」

そんなの嫌だ、とクラリッサは泣いた。大好きな友達にまで未来を否定されたのが、怖くて怖くてたまらなかった。

貴女はそんなの平気なの。どうして平然としていられるの。

そう泣き喚くクラリッサを、彼女は優しく抱きしめ、続けた。

「……あのね、クラリッサ。

昔読んだ本にあったんだ。自分に出来る以上のことをするのって、教科書や本に書かれているよりずっと難しいんだって。

願いとか、夢とか、大人は簡単に呼ぶけど、実際はそんなに上手くいかないって。

でも、だから――、

いま、自分が持っているもの、人とか、思い出を、精一杯大事にするんだよ」

言って、彼女はクラリッサの瞳をまっすぐに見つめた。

大人だと思っていたはずの彼女の瞳が、そのとき少しだけ潤んでいたのを、クラリッサは覚えている。

「――だから、逃げないんだ。何も出来ない私にも、抱えてるもの、いっぱいあるから。……私たちは、いつだって孤独じゃないから」

そう諭してくれた彼女は、数年前の【舞闘会】で敗退し、いまは汚染区にいる。

でも、後悔はないと聞いた。自分の持てる限りの力で、自分の周囲の人のために全力を尽くした自分に、決して悔いはないと。

彼女の言葉があったから、クラリッサは今、迷いなくここに立っていられる。


だから、思うのだ。

ガードルート。

あの子に、戦う理由があるのは、クラリッサが一番よく知っている。

ハルモニアにいた頃から、ガードルートはずっと悩んできた。普通の女の子とは違う身体。恋の話もファッションの話からも、あの子はずっと逃げてきた。自分にないモノと向きあうのが怖くなる気持ちは、クラリッサにもとても理解出来る。

優勝して単身火星へ渡り、技術者たちの手でBMCI電極を外せば、ガードルートの夢は叶うかもしれない。

 でも――。

そのせいで、大切な人の行方がわからないまま、孤独に震えながら戦って、その末に火星に行く権利を得たとしても。

あの子は、本当に幸せなのだろうか?

――ごめんね、エクター。

クラリッサは心のなかで彼に謝罪する。誰よりもクラリッサを信じ、護ってくれた護衛官。

結果的に、彼を裏切るような形になってしまった。もしかしたらもう、エクターがクラリッサの味方になってくれることはないかもしれない。クラリッサの元からいなくなってしまうかもしれない。そう思うと、少しだけ悲しかった。

――そのうち、彼に話そうと思っていたことがある。

クラリッサにとって、ガードルートもまた、〝いま自分(わたし)が持っている大事なもの〟の一つなのだ、と。

貴方や、特区の人々と同じように。

そう伝える時間は、もう、ないのかもしれないけれど。



「――サポーターの皆さんに、話をさせてください」

試合開始前、クラリッサの突然の申し出を、運営委員会は承諾してくれた。

クラリッサは生身の身体でブリッジに立ち、観客席を見渡す。

会場中の視線が、クラリッサに集まっている。観客だけではない。記者席のマスコミ、モニターを通して生中継を見ている世界中の人々。そして、きっとガードルートも。

こちらに集まる全ての視線を真っ直ぐに見据え、プリンセス・クラリッサは口を開いた。

「――先のシーズンで、私が弱いプリンセスだということは、みなさん知ってしまったと思います」

 ざわついていたスタジアムに、水を打ったような静けさが訪れた。

「……けれど、この一年間、私を支え、信じ、希望を託してくれたこと、本当に感謝します」

会場のどこかから、頑張れ、と声が聞こえる。それは一つ挙がり、二つ聞こえると、やがて全体に広がっていった。

それは単にクラリッサへの激励に留まらなかった。観客席を映す巨大モニターには、涙ぐむ人たちの姿が見える。

――プリンセスだけではない。彼らだって、戦っているのだ。願いが叶わない絶望と、見捨てられた土地へ行く恐怖を奮わせて。十一特区の人たち全てが、壮絶な覚悟を背負っている。

だからクラリッサは、戦うことを迷わない。

大切な彼らのために、最後まで戦い抜く。彼らの夢と未来と覚悟、全てを背負って。

声を震わせたクラリッサは、こう締めくくった。

「……最後まで、応援よろしくお願いします」

静かな拍手が、スタジアムを包んだ。

罵倒の声も、声援すらない。それは承認の拍手だった。

一礼し、クラリッサはパレスに入った。〈ゴッドマザー〉の準備は整っている。ティアラを外し、接続端子をつければ準備は完了。

あとは、ガードルートを待つだけ。


『……聞こえる? クラリッサ』


そのとき、声が聞こえた。

 それは紛れもない、ガードルートの声だった。パレスからの通信回線――ということは、ガードルートはすでに自身のパレスで待機していたのだろう。

「……ガードルート? もう大丈――」

 大丈夫なの、と伺うクラリッサの声を遮って聞こえてきたのは、か細い言葉だった。

『……今まで、ごめんね』


          ¶

 パレスのなか。頭に接続端子を繋いだ状態で、ガードルートは、本音を振り絞る。

「貴女は、……強い。とても、気高い」

 わかっていた。

 本当に強いのは、クラリッサの方だった。

「――……わたしは、人の期待を背負うのが、怖かった」

そしてガードルートは思い出す――いや、クラリッサが思い出させてくれたのだ。

自分が何をしたいか、どうすべきかを。

「出来ない子って思われるのが、怖かった。人に嫌われるのが、いやだった」

クラリッサが何かを言いかけたが、ガードルートは通信を切った。

何も聞きたくはない。慰めも、同情も。これ以上、あの子に迷惑はかけられない。

ガードルートは次いで、また別の通信回線を開いた。〈ゴッドマザー〉を介し、メッセージを送る。

「〈ゴッドマザー〉、運営総本部へ連絡、繋いで」

『了解。用件をお願いします』

繋いだ先は、舞闘会運営委員会総本部。

地球のキャンベラ本部ではなく、火星にある大本の組織だ。地球の委員会を通せば承認に半月以上費やしてしまうが、火星連邦の本部に直接伝えればすぐに済む。

ガードルートの、決意を認められるために費やす時間が。


「……プリンセス・ガードルートは、現時刻をもって【舞闘会】からの引退を表明する」


 聞き届けた〈ゴッドマザー〉が、運営本部へとガードルートのメッセージを送信する。

『承りました。運営本部に以上のメッセージを送信します。通信室担当官からの返信が来るまで、しばらくお待ちください』

 そして、〈ゴッドマザー〉は沈黙した。ガードルートの視界には再び、無機質なパレスの計器の壁が目に映る。

 衛星を通し、火星の運営本部がメッセージを受信するまで、現在の惑星間時差でおよそ七分。

ガードルートがプリンセスでいられる、最後の七分だ。

ふぅ、と細い嘆息をついて、ガードルートは座席に背をもたれかけた。

未練がない、と言ったら嘘だ。未練だらけ、後悔まみれ。ここまで命がけで連れてきてくれた藤や五条には本当に申し訳ないし、護送の手配をしてくれた鉄間にも合わせる顔がない。

――でも、もういい。

最初からこうしていれば、何も起きることはなかったのだ。ガードルートはこれ以上傷つかずに済んだ。引退して、どこか地球の隅っこで大人しく生きていれば良かった。藤も怪我をせずに済んだし、六係の刑事たちに迷惑をかけることはなかった。丈二も、

――ぽた、と涙が零れる。

わかっていた。考えないでいようと思ったけれど、もう、そうはいられない。

丈二がこんな目にあったのは、ガードルートのせいなのだ。

いつも味方でいてくれると言ってくれたあの人は、ガードルートの身勝手のせいで死んだ。

夢になんか縋っていたから、わずかな味方さえ、ガードルートは亡くしてしまった。

そう考えてしまえば、辛くて、悲しくて、堰を切ったように涙が溢れた。

――いいんだ、もう。

ここには誰もいない。メッセージが届くまで、あと二分。それで全てが終る。いくら涙を流したっていい。

だから、泣く。思いっきり。

肩を震わせてしゃくり上げて、幼児のように顔をぐしゃぐしゃにしてガードルートは泣く。

「……ジョウジ……ジョウジぃ……」

血のついた徽章を、両手で握り締めた。

こんなに涙を落としているのに、血の跡は消えない。それが悲しくて、ガードルートはまた涙を流す。枯れない泉を胸のうちに抱えたみたいに。

「やだ……こんなの……いやだよぉお……帰ってきて……ひとりぼっちに、しないでぇ……」

ガードルートは強くなどなっていなかった。

強いふりをして、誤魔化していただけだった。

一人では、何も出来ない。戦うことすら出来ない。

ガードルートは魔法にかけられていたのだ。おとぎ話のお姫様のように。


『あー、テステス』


そのとき。

パレスのなかに、声が響いた。

それは、ガードルートがずっと聞きたかった、声の主。

「……ジョウジ……?」

紛れもなく、桑畑丈二のものだった。

『おう、ガー子。ご苦労さん』

ガードルートは慌てて首を巡らせた。パレスのどこにも、丈二の姿はない。ということは、パレスと通信接続が可能な場所――おそらくスタジアムのどこかから、護衛官の専用回線でメッセージを送ってくれている。

「いまどこにいるの? 近く? どこ? ……無事、なの?」

『きょろきょろすんな。ちゃんといるから前だけ見てろ』

「……うん」

 相変らず、丈二の姿は見えない。けれどその声は聞いているだけで、ガードルートの心に落ち着きを与えてくれた。

『よし、えらいえらい』

満足気な声――いつもの丈二だ、とガードルートは微笑んだ。

いつもくだらない冗談を言って、笑わせてくれる丈二の声。

涙を手で拭って、鼻をすすり、ガードルートは口を開く。

「――ねぇ、ジョウジ?」

『あん?』

「前、言ったよね。わたしには夢があるって。どうしてわたしが火星に行きたいかって……」

『おう』

言いそびれたこと。恥ずかしくて言えなかったこと。もし再会したら、絶対に伝えようと思ったこと。

二度と会えなくて、後悔する前に。

「わたし……わたしね?」

涙の後を拭って、ガードルートは言った。


「きれいなお嫁さんに、なりたい……」


火星に行って、手術を受けて、脳に刺さっている電極を全て外して、普通の女の子に戻る。

人を愛することに何の躊躇いもない身体にもどって、そして、恋をする。恋をして、愛する人と結ばれる。

ちっぽけな夢だ。

子どもじみた夢だ。

でも今のガードルートには、遠い遠い、夢。

 スピーカーの向こうで、丈二が大きく息を吸い込んだのがわかった。

『――お前なら、なれる。だから頑張れ、ガー子』

「うん」

『オレは、お前の味方だ』

「――うん!!」

 ガードルートは笑顔を浮かべた。心に溢れる喜びのままに。

「ありがとう、ジョウジ! わたし、頑張るね!!」

『メッセージを受信しました。回線を繋ぎます』

そのとき、視界に再び〈ゴッドマザー〉からのメッセージが表示された。

火星の運営委員会本部からの通信だ。女性の肉声が耳に届く。

『火星連邦舞闘会運営本部です。引退を希望するとのことですが、経緯について具体的な説明を――』

「ごめん! やっぱなし!!」

乱暴にガードルートは通信を切った。

今の言葉が火星に届くのは七分後になるだろう。そのとき委員会はどういう判断をするのか。問題ない。なるようになれ。

頭を思いっきり横に振って、ガードルートは再び前を見据える。

そこには張り付いたように『HELLO(ごきげんよう、),PRINCESS(おひめさま)』の文字があった。少女たちを美しい姫君に変える魔法使い(ゴッドマザー)の、いつもの挨拶。

ガードルートを、あるべき戦場へ誘う言葉。

「――目を開けて。

耳を向けて。

さぁ、夢をかなえましょう――」

描く――理想の自分を。

想う――為しうる未来を。

願う――有限の事象を無限に繰る、全てを知り全て能う、最強にして最高の〝私〟を。

ガードルートの意識が、パレスからスタジアムのフィールドのなかへと移る。同時に、想像構成したガードルートの化身が、フィールドに顕現した。

全身を守る、無骨な銀のプレートメイルと銀の槍はいつも通り。

異なるのは、左手に持った巨大な盾。そして翼のように背中に連れ従えた、宙に浮く無数の拳銃だ。

 クラリッサのように可愛らしい妖精など、ガードルートには従えられない。連れ従えるのならば銃器がいい。ハードボイルド上等。さらば女子力。


フィールドに姿を現したガードルートは、すでに待機していたクラリッサへと向き直った。

いつも通り、クラリッサは可憐なドレスに身を包んでいる。どんなときでも可愛らしいプリンセスでいる。それがクラリッサの意思であることを、今のガードルートは知っていた。

クラリッサは、現れたガードルートを見て、そっと目を細めた。

「もう、戦えるね」

「うん! わたしは悪い子図太い子だから!!」

 くすっと笑い、クラリッサは続ける。

「――それでいいんだよ、ガードルート」

そして綺麗な笑顔を浮かべた。

電子の世界においてもなお、あらゆる人を慈しむ女性の微笑。

 ガードルートが憧れた、とても素敵な笑顔だ。

「さあ――」

「うん!」

二人は声を揃え、

「決着だよ、クラリッサ!!!」「終りにしよう、ガードルート!!」

最後の戦いを、始める。

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