5章
『こんばんは、ガードルート様』
「あれっ、フジさん?」
ドアスコープの前にいたのは、藤六郎だった。鍵を外し、扉を開けて藤を招く。キッチンへと向かいながら、ガードルートは尋ねた。
「どうしたの?」
「いえ、たいしたことではないのですが、少し心配になりまし、」
言いかけた藤の言葉が、なぜかぴたりと止まった。その視線はシンクに固定されている。
「…………ガードルート様、あれはいったい…………」
「あれ? 食器を洗ってたの。クエン酸と重曹を入れたんだけど、すごい泡立っちゃって」
「……ほう。そしてその手にあるのは」
「これ? 漂白剤だよ。一緒に入れたらキレイになるかな、って思って」
「…………ほほぅ…………」
藤はゆっくりと自身の顎を撫で、
「……うむ。ガードルート様、頑張りましたな。さすがにわかっていらっしゃる」
「ほ、ほんと!?」
「えぇ、そうですとも。ただ、ここから先はこの爺にお任せください。ガードルート様のお手を煩わせるまでもない」
「ええー。こっからが本番なのに。ごしごしするんでしょ?」
とガードルートはタワシを両手に構えるが、藤は「ほっほっ」と何故か笑っている。
「大丈夫です、本当に大丈夫ですから。今日は早くお休みください。明日もお疲れでしょう」
そう言ってガードルートを無理やりキッチンから追い出した藤は、素早く換気扇のスイッチを押した。
――そこに至って、ようやく自分がやらかしたことに気づいたガードルートは、大人しく部屋に引っ込んだ。
――そして、翌朝。
目覚まし時計のけたたましい音に起こされ、ガードルートはようやく、枕から顔を上げた。
時計を見ると、もうすでに八時になっている。珍しいな、とぼんやりと思った。いつもは目覚ましなんて保険みたいなもので、朝食を作り終えた丈二に起こされる方が先なのに。
目をこすって、軽く手櫛を入れて寝室から出る。きょろきょろと見回すが、そこからは誰の姿もみとめることは出来なかった。
「……ジョウジ?」
朝食の匂いがしない。この時間、いつもキッチンに立っているはずの桑畑丈二の姿がない。
バスルームやランドリールームにも顔を出したが、一向に見つからない。
小さな違和感を覚えてガードルートが部屋を所在なく歩いていると、丈二よりも先に藤が姿を見せた。
「おはようございます、ガードルート様」
そのいつもの笑顔に少しだけ安堵するガードルートであったが、それでも全ての不安は拭えない。藤へと歩み寄り、ガードルートは尋ねた。
「ねぇ、フジさんおかしいの。ジョウジがいないの」
「いない? 昨日は帰っていなかったのですかな?」
頷くと藤は、ははぁ、としたり顔を作った。
「やはり朝帰りですかなぁ。隅におけない――」
「なっ」
言葉を失くすガードルート。
次の瞬間には自失から復活し、猛烈な怒りがこみ上げてきた。
「別れるって言ったのに!!!」
憤慨するガードルートを余所に、藤はどこ吹く風で電話をかけている。発信先はもちろん丈二だろう。だが応答はないようで、ふぅ、と藤はため息混じりに零した。
「出ませんなぁ。よりを戻したのですかなぁ」
「なにそれ!!! 最低!!!」
「まぁまぁ、ガードルート様。あの程度の男にはよくあることで」
「しんじらんない!!!!! ありえない!!!! ばかじゃないの!!!」
藤になだめられながら、ガードルートはなんとか朝食を食べた。
むかむかする胃に無理やり茶漬けを流し込む。あいつ最低。帰ってきたら絶対手の込んだものを作らせてやる。ぶつぶつと呟きながら味気ない朝食を食べ終えた。
昼になっても丈二が戻らなかったとき、ガードルートはようやく、事態の重大さに気付いた。
桑畑丈二が何の連絡もせず仕事に戻らない訳がない。それはガードルートだけでなく、彼を知る全ての人間の見解だった。そしてそれが意味することはただ一つ。
彼の身に、何かが起きた。
体内に発信機を内蔵しているプリンセスと違い、護衛官の位置情報を特定することは出来ない。大抵のプリンセス付きの護衛官ならば、居場所は護衛官同士で把握していれば良いからだ。万が一、誰か一人護衛官が欠けたとしても、普通ならばそれほど大事にはならない。
――その裏をかかれた。
いま、ガードルートを護る人間はいない。それがストーカーたちの狙いである可能性は充分にある。無防備になったガードルートへの襲撃は、今までよりずっと容易に違いないのだから。
だが、委員会から新たな護衛官を呼び寄せている時間はない。仮に間に合ったとしてもそれはガードルートの望むことではなかった。初対面の人間に命を預けるのは抵抗があるし、精神力で戦う【舞闘会】に影響を及ぼしかねない。
不在になった丈二の代わりに、藤があちこちの関係者へと連絡をしてくれている。だが、委員会の指定を受けた護衛官ではない藤には、出来ることは限られていた。
「――良いですか、ガードルート様。私は運営委員会の人間ではありません。護送に口を出せる権利はなく、もちろん警察に指示出来る立場でもありません。護送指揮は全て、六係の刑事さんに一任する必要があります」
「うん」
ガードルートは固く頷いた。藤の言葉をしっかり飲み下そうと頭を働かせるが、脈打ち続ける心臓がそれを許さない。
「先ほど、鉄間さんをお呼びしました。私に出来ることはそれだけです。いいですかな、どうか冷静に」
「うん……大丈夫。大丈夫だよ、フジさん」
藤と共に、所在なくホテルの部屋で待っていると、インターホンが鳴った。ガードルートの代わりに藤が応対する。
「はい」
『私だ、藤六郎。警察庁警備部警護課警護第六係、プリンセス・ガードルート担当の鉄間愛徒だ』
それはガードルートにとって聞き覚えのある声だった。ガードルートは藤と共に、迷わず玄関へと出迎える。
屈強な警官たちを伴って現れたのは、細身の男だった。きっちりオールバックにした日本人らしい黒髪と、日本人らしからぬすっと通った鼻梁。顔色が悪いせいか、どことなく吸血鬼を思わせる風貌だった。洗練された立ち振る舞いが近づくと、色っぽい香水の匂いがする。
鉄間愛徒だ。部屋に招かれた鉄間は、開口一番に告げてきた。
「事情は聞いている。桑畑丈二のことは、この鉄間愛徒に任せて欲しい」
「鉄間さん」
ガードルートはおずおずと進み出る。
「わたしにも、なにか出来ることはない……? ジョウジ探すの、なんでも手伝うから……」
しかし鉄間は首を振ってみせた。
「助力を申し出て頂いてすまないが、プリンセス・ガードルートに手伝えることはない」
「でも……」
尚も食い下がろうとしたガードルートを藤が引き止めた。
「大丈夫ですよ。彼に任せておきましょう」
「安心して欲しい、プリンセス・ガードルート。他のことを差し置いても、この鉄間愛徒は桑畑丈二のために力を尽くす」
「……うん……」
大人二人に言葉を揃えられ、ガードルートはようやく引き下がる。
「身辺警護には五条をつける。何か不自由があれば、遠慮なく申し付けて欲しい」
鉄間が言うと、その後ろに控えていた五条真綾が歩み出ってきた。ガードルートの前に立ち、手を差し出してくる。
ガードルートも何度か会ったことがある、六係唯一の女性刑事だ。だが雰囲気が怖くて、今までまともに会話したことはなかった。
「よろしくお願いします、プリンセス・ガードルート」
「はい……」
五条の手を握り返し、すぐにガードルートは藤の後ろに隠れた。
鉄間は早速、部下に指示を飛ばしている。丈二の捜索を中心に、ガードルートの護衛の大幅なシフトチェンジやスケジュールの確認、そして運営委員会への連絡。
てきぱきと指示をする様は、素人目に見ても手際が良い。あれだけ用心深い丈二が信頼を寄せていた鉄間と六係ならばきっと、丈二のことも見つけてくれる――そう信じたい。
心を落ち着かせたガードルートは、藤の裾を掴んだ。
「いこう、フジさん」
「ガードルート様……」
見下ろす藤と視線を交わし、ガードルートは頷いてみせる。
予定が狂ったが、ここで立ち止まる訳にはいかない。
丈二とも、約束したのだから。
「わたしはわたしに、いま出来ることをしなきゃ」
¶
自らの手首を拘束する、固く、重く、冷たい手ごたえは、沈む意識のなかでも明確に感じていた。
ようやく意識を取り戻したとき、それは夢の出来事ではなかったことを、桑畑丈二は自嘲と共に悟った。
おそらくアパートかマンションの一室なのだろう。床はフローリング。低い天井。目の前にある扉の向こうは見えないが、おそらくキッチンと、その先に玄関があるのだろう。画一的な、いかにも日本らしい狭い一Kの部屋だが、丈二はこの部屋に見覚えがなかった。
そのフローリングの中央で、丈二は椅子に座らされ、後ろ手に拘束されていた。
わずかに――可能な限りほんのわずかだけ身じろきすれば、先ほどから感じていた冷たい感触が、じゃら、という音を立てた。手錠かと思ったが、違う。おそらくは鉄の鎖だ。
「随分と粗末な扱いなんじゃねーの」
目の前に立つ二人の男に、丈二は笑いかけた。嘲りと苦いものが複雑に混じった、我ながら皮肉めいた笑みだと思う。
丈二はあらためて二人に問いかける。
「……彼女は?」
「帰りましたよ。謝礼金で新しいバッグが変えると喜んでいました」
若い男からの返事は軽い。
少なからずショックを受けた丈二はがっくりとうな垂れる。
「……バッグぐらいで男裏切んなよ……」
「悪い女に捕まったな。ま、気ぃ落とすなよ」
もう一方の大柄な男は、そう言って薄笑いを浮かべた。
クラリッサの主席護衛官、ジェームズ・トルーマン。
そして副席護衛官のエクター・クォン。
まさかプリンセスの護衛官が護衛官を拉致するとは。呆れを通り越して、興味すら沸いてくる。
「――で、目的は?」
丈二が問いかけると、トルーマンは手にした警棒を愉快そうにちらつかせた。
「なんだと思う?」
「あー……」丈二は視線を彷徨わせ、「まぁ、人質?」
答えると、トルーマンは声を上げて笑った。エクターはいつもの、張り付いたような笑顔を浮かべているが、表情を動かそうとはしない。
「こんな状況なのによくもまァ面白ェことを言えるな。本気で言ってんじゃねェだろ?」
「どうだろ」
丈二は天井に視線を這わせ、自分なりの予想を告げた。
「大体予想はつくんだけどね。アンタらの狙いはガードルートを出場停止に追い込み、残された最後の一戦に勝つことだ。だが実際、馬鹿みたいに厳重な警護態勢で守られてるプリンセスを狙うのは困難。だったらガードルートのたった一人の護衛官を抑えた方が手っ取り早い。オレを抑えちまえば、あとはストーカーの連中にでも情報流せばいいだけ。連中が無事にガードルートを捕らえる、ないしは殺すことで、アンタらは自分たちの手を汚さず、クラリッサは不戦敗で一勝を挙げることが出来る。結果として汚染区行きは免れるってとこか」
「流石」
うそぶくトルーマンは、あるいは本気で感心しているのだろう。
「でも、ひとつ理解出来なくてさ」
丈二は疑問をそのまま口にする。
「なんでオレを殺さなかった? わざわざこんな部屋用意して閉じ込めておく意味があるのか?」
「おかしな野郎だな。自分の立場を悪くしたいのか?」
トルーマンの眉が意味深に曲がる。丈二は構わず続けた。
「いやあ、実際不思議だからさ。生かしておく意味がないだろ? アンタら顔も晒しちゃってるし、もしオレが逃げて通報したらどうすんだ? プリンセスの殺傷まではいかなくとも、護衛官の公務妨害もそこそこ罪重いと思うけど」
トルーマンもエクターも、問いかけに即座に返答しようとはしなかった。
二人は意味ありげに視線を交わし、まずトルーマンが動く。壁に立てかけてあったパイプイスを丈二の向かいに置き、そこへどっかりと腰を下ろした。
「――簡潔に言う。アンタを味方につけたい」
「……はぁ、なるほど。そういうことね」
そういうことだ、と頷くトルーマンの顔に一切の冗談はない。そして手に持っていた資料を読み上げた。
「――桑畑丈二。本名不明。シカゴの汚染区出身。四歳で汚染区からアトランタ第五特区へ移住。六歳のとき、特区所属のプリンセス・セリシアの優勝により、火星へ移住。以降、セリシアの主席護衛官である青島五郎の養子となり、火星連邦の軍学校へ編入。卒業後は火星連邦治安維持部隊に入隊……と。とんでもない強運の持ち主だな、アンタは。しかも地球人の男なら誰もが羨むエリートコースときてる」
「そりゃどうも。わざわざ個人情報まで調べてくれてご苦労さん」
「なぁに、礼には及ばない。……で、そのエリートさんがなんで地球なんぞにやって来たかは、個人的には気になるが重要なコトじゃない。――アンタにとっての優先順位を探りたかったんだ」
言って、トルーマンは書類を床に叩きつけた。
「結論から言う。アンタはガードルートに特別の思い入れはない。そしてここで死んでいい人間じゃない」
「――へぇ?」
丈二の皮肉めいた声にも、トルーマンの表情は崩れない。
「――警察と共有している護送ルートを教えてくれるだけでいいんだ。アンタは一切手を汚さず、こちらがガードルートを確保する。……もちろん、ガードルートだって殺すつもりはねェ。たとえあの署名を見て平然としていられるプリンセスだとしてもな。こっちは汚染区行きを免れればそれでいいんだ」
――丈二は唯一自由になっている足を広げ、天井を仰いだ。
単純かつ明快な取引だ。丈二の命を助ける代わりに、ガードルートを売れと、そういう話だ。
「もちろん、礼は弾む。金が欲しけりゃいくらでもやるし、次の仕事の便宜をはかってもいい。クラリッサにつきたきゃ歓迎する。別のプリンセス付きのアテを探ってもいい。アンタほどの男なら引く手数多だろ」
言って、トルーマンは身を乗り出した。
「すべて、アンタの腹次第だ。わかるだろ?」
丈二は天井の染みを見つめ、やがて告げた。
「……少し、時間をくれ」
トルーマンはしばし、丈二の顔を見つめていたが――やがて、わかった、と呟き、エクターを伴って退室した。
一人になった丈二は、長く細い、ため息をついた。
¶
桑畑丈二を捕らえた部屋を出て、エクター・クォンは扉を閉めた。
閉まった途端、出入り口は自動で施錠される。カードキー対応のオートロックの部屋だ。外側からも内側からも、カードキーなしで開けることは出来ない。元々シングルの女性専用のマンションだったこの建物は、人を軟禁しておくには都合の良い環境だった。
トルーマンと共に退室したエクターは、廊下を並び歩く。
行く先々で、警備中の部下たちが目礼をしてきた。全員私服だが、腰にはしっかりとデューティベルトを巻いている。警棒とメディカルキット、そしてグロッグを備えた彼らは、たとえこの建物で何かが起こっても、充分に対応できるだろう。
廊下を歩きながら、エクターはトルーマンに問いかけた。
「――桑畑丈二は、本当にこちら側につくでしょうか?」
「おいおい、今更だなエクター。奴を探ったのはお前だろう」
トルーマンの返事は苦笑まじりだ。
――その通りだ。クラリッサとガードルートが遊んでいる最中、エクターは桑畑丈二に探りを入れていた。
彼が何を思ってガードルートを護っているか。利害を絡めた、信頼関係を推し量る必要があったからだ。
そして結論として、桑畑丈二はガードルートに対して特別な忠誠心を持っている訳ではない、と判断するに至った。
飄々とした男だが、護衛官としてのプライドと実力は相当なものだ。それだけに現在の護衛対象であるガードルートにも尽くしている。多少苛酷な労働環境に従事できるのも、そのプライドに因るものだろう。
しかし今の状況では話が違う。拘束され命を脅かされてまで、あの男がガードルートの護衛に拘る理由はないはずだ。護衛官の考えは傭兵に近い。それぞれのプリンセスには委員会の任命を受けて配属されるもので、よほどの義理や忠誠がない限り、一人に固執する理由はない。
そのよほどの義理や忠誠を、ガードルートに関する桑畑丈二の話では、感じ取れなかった。あの男にあるのは仕事への熱意だけ。そんなものの為に命まで捨てる人間などいるはずない、とエクターの報告を聞いたトルーマンもまた判断している。
しかしエクターは、何か心に引っかかるものを感じていた。
「……本当に、上手くいくでしょうか」
「なんだ。やけに心配性だな」
トルーマンは呆れた様子だった。
「理屈で考えろや。あいつがガードルートにつく理由なんかねぇだろう。気持ちも揺れてるみたいだし、問題ないよ」
トルーマンはつとめて笑い、エクターの肩を叩く。
――しかし、エクターは懸念を打ち払うことが出来なかった。
¶
――静かな移動時間は、久しぶりだった。
藤の運転する車で、ガードルートは五条と共に訓練所へと向かった。
これからの移動は最低限にした方がいい、と鉄間からの忠告を受けたガードルートは、今日のうちにホテルを発つことに決めた。もうホテルには戻らない。訓練所で宿泊して、明朝そのままスタジアムへ向かう予定だ。
車中、五条は無言で、藤も余計に口を開こうとはしなかった。ガードルートも自分から喋ろうとはしない。話題がないし、そもそも雑談をしようという気になれなかった。
不思議だ、とガードルートは思う。いつもは丈二がべらべらと喋っているせいで、短く感じた移動時間が、今はとても長く感じた。
そして昼過ぎ。辿りついた訓練所の待合室で出迎えてくれたシャオ主任の反応は、辛辣だった。
「訓練?」
「そう、訓練。追い込みの時期だから」
ガードルートが言うと、シャオ主任はあからさまに眉尻を吊り上げた。
「それはいいけれど……ジョーくんがいなくなっても、訓練するの?」
どうやら丈二失踪の情報はシャオ主任の耳にも入っていたらしい。おそらく運営委員会からの情報だろう。
関係ない。そう、ガードルートは思う。
「――貴女には関係ないから、早くプログラム起動させて」
しかし、シャオ主任は動こうとはしなかった。
いつもの、女性らしい柔らかい口調を沈め、静かに言い放つ。
「……理解が出来ないな。あれだけ尽くしてくれたジョーくんの安否よりも、自分のこと優先するのね」
――足を止め、ガードルートはシャオを見上げた。
そこには冷徹な敵の顔がある。ガードルートより年齢も人生経験も上の女性が、本気でガードルートを睨んでいた。
「そんなに火星に行きたい? 自分ひとりだけのために?」
シャオ主任の言葉に滲んでいるのは、むき出しの侮蔑。いつものガードルートならば、すくみ上って丈二の後ろに隠れていただろうと思う。
でも、いま丈二は、いない。
「……そうよ。そう」
震える声を懸命に抑えて、ガードルートはシャオ主任を睨み返した。
「わかったら早くして。わたしはこういう人間だから」
ガードルートはひとり、手術室へと足を向ける。
露骨なため息が、ガードルートの背中を追いかけてきた。
¶
昼が過ぎて、夜が来た、のだろうと思う。
目張りされた窓からは光が差さず、白熱灯の明かりが部屋を照らしていた。時計のないこの部屋で、正確な時間を測るのは難しい。体内時計がおそらく夜だと訴えているが、果たしてそれが当たっているのか、はじめて虜囚となった丈二には、いまいち自信がもてない。
丈二の軟禁状態は続いたが、不自由はなかった。
部屋には見張り役も、監視カメラもない。玄関の前で誰かが見張っているのだろうが、部屋のなかに入ってこようとはしなかった。ザルといえばザルな対応だが、丈二を味方につけたいが為に、可能な限り紳士的な待遇をしてくれているのだろうと解釈する。
鎖の拘束も解かれ、暇になった丈二はストレッチをして時間を潰していた。トイレやシャワーは部屋に備え付けのものをそのまま使える。カフスフォンや、グロッグなどの装備は奪われているが、食事はきちんと用意された。
夜食はトルーマン護衛官自らが給仕役をしてくれるらしい。たった一人で部屋にやってきたトルーマンは、ジャンクフードの載ったトレイを丈二に渡した後で、開いた手帳を差し出してきた。
「見てくれよ。桑畑」
丈二は冷えたポテトを食べながらそれに目をやる。手帳に差し込まれていたのは、一枚の写真だった。女の子だろうか、まだちょっぴりだけ生えた髪の毛を左右に結われた、愛らしい赤ん坊が映っている。
「可愛いね。アンタの子ども?」
「姪だ。妹の娘。レイチェルという」
言って、トルーマンははにかんだ笑みを浮かべる。
丈二はその笑顔と写真の子どもを見比べ、遺伝子というものの素晴らしさに感嘆の声を上げた。トルーマンの男臭さを抜き取ると、同じ笑顔でもこんなに愛らしく見えるものだ。
「美人だね。将来有望だ」
「まぁな」
照れくさそうに笑ったトルーマンは、写真を太い親指の腹でそっと撫でた。
「――もともと、身体が丈夫じゃないらしい」
丈二はパンに伸ばした手を止め、トルーマンを見上げた。
その快活な笑顔のなかに、寂しげな色が混ざっている。
「オレも妹も、サンパウロの汚染区の生まれだ。医者にはそのせいだって言われたよ」
「……そうか……」
「……妹は、十一特区の住民だ。偶然、オレの担当するクラリッサの特区になれたって喜んでたよ。……もし汚染区に行くハメになったら、致命的だ。あそこにはロクな医者がいない」
丈二は納得した。それがこの男が、ガードルートへ害意を向ける理由になったのだ。
医者は研究者や技術者と同じく、汚染区移住免除特権を持っている。火星移住に登録して特区へ移住し、仮にその特区が敗退しても、汚染区へ行くことはないというふざけた権利だ。特区の衛生、治安維持を優先させるため、優れた医療従事者・技術者は残すという名目だが、生産力のない汚染区に専門性の高い人材を送りたくないという本音は誰もが知っている。
汚染区は薬すら満足に流通しない。警察もいない。かつて人々のなかに存在していた倫理すら、保身のために投げ捨てられる。発展と文明に見捨てられた土地だ。
「オレだけじゃない。そういう奴らがゴマンといる」
呟いて、トルーマンは写真をしまった。膝に手を乗せて、丈二に訴える。
「――あんたを殺したくはない。わかってほしいんだよ、桑畑」
切々としたトルーマンの言葉は、まさに訴えだった。
「ガードルートは特区に所属していない。そんなプリンセスが優勝したからって、誰の得にもなりゃしねぇんだ。都合が良いのはわかってる。そんな目に合いたくないんだったら、もっと試合で結果を出せばいいって話さ。でもクラリッサは……あの娘は、優しすぎた」
顔を上げたトルーマンは、揺らいだ瞳を丈二に向けた。
「頼む、桑畑護衛官。オレたちのために、泥を被っちゃくれねぇか……!」
――丈二は、しばし無言でその視線を受けていた。
「……わかったよ」
長い時間を経て、そう答える。
「そういう事情なら、理解できる。オレだって命は惜しいし……なにより、レイチェルを見捨てられないしな」
丈二の言葉を聞いて、目を輝かせたトルーマンが身を乗り出した。
「……なら」
「だが」
丈二はトルーマンの言葉を遮り、続けた。
「オレも、今まで護ってきた女の子を裏切るのは辛い。もう少しだけ時間をくれないか」
トルーマンは、しばし無言で丈二を見て、やがて、わかった、と固い声で答えた。
¶
七時間に及ぶ訓練を終えた後で、ガードルートは訓練所のシャワーを借りた。
護衛の五条も運転手の藤も、訓練所には入ることが出来ない。ガードルートを送ったあと、二人は近隣の宿泊施設に向かって行った。今日はガードルートだけが、この訓練所の仮眠室に泊まらせてもらう。
――一人ぼっちの夜は、久しぶりだった。
素っ気無い灯りが照らす真っ白な廊下を、ガードルートは歩く。もともと病院だけあって、夜の訓練所はかなり薄気味悪かった。何か出そう、と考え、恐ろしい想像を慌てて振り払う。
スリッパをぺたぺたと鳴らしながら、ガードルートは一階の食堂へやってきた。
この時間になると、流石に食堂のカウンターは閉まっている。前に来たとき、多くの職員がテーブルを占めて昼食を取っていた食堂も、今ではただ一人が食事を取っているだけだった。
その一人――シャオ主任は、パソコンをいじりながら、パンを齧っている。
なんだか寂しいな、とガードルートはその背中を見ながら思った。話し相手もなく、女性が仕事の合間にパンをかじる姿は、本人にそんな気持ちがなくとも寂しく見えてしまうのだった。
「……いいお湯だった?」
振り向きもせずにシャオ主任が言った。
ガードルートの気配を察したのだろう。ガードルートはそれには答えずに、シャオ主任の斜め後ろの席に座る。
するとシャオ主任はおもむろに立ち上がり、食事が乗ったトレイを差し出してきた。
「ハイ。用意してたわよ」
「……あ、ありがとう」
その思わぬ行動にたじろぎながらも、ガードルートはトレイを受け取る。まさか毒でも入ってはいないだろうか、と少し疑いながら、トレイの食事を眺めた。
乗っているのは、真空パックのご飯と、フリーズドライのスープ。そして主菜は肉の缶詰。
ガードルートがいつも食べているものとかけ離れた、粗末な食事だった。
驚きを感じ取ったのだろう、シャオ主任は苦笑を交えながら言った。
「悪いけど、プリンセス相手に安心して出せる食事はこのくらいなの」
「……食べられればじゅうぶんよ」
何がおかしいのか、シャオ主任はくすっと笑っている。
ガードルートは憮然と、先の割れたスプーンを手にとり、ご飯を口へと運んだ。
「あち」
レンジをかけたばかりと思われるご飯はかなり熱かった。慌てて冷ましたけれど、簡単には冷めそうにない。息をかけて冷ましながら、ゆっくり食べることにする。
缶詰の肉は歯ごたえが悪く塩辛い。玉子スープはやけにとろとろしていて味が薄い。ご飯はべちゃべちゃで、お粥より不味かった。
ガードルートを見下ろしたままのシャオ主任が、尋ねてくる。
「美味しい?」
「ううん、げろまず」
ふふ、とシャオ主任は微笑する。
居心地の悪さを感じながら、ガードルートはスプーンを休みなく動かした。用が済んだのならさっきと同じように仕事をすればいいのに、シャオ主任は何故かモバイルパソコンをガードルートの方へ向け、またカタカタといじり始めた。
――毒も食らわば皿まで。
この際だ。聞きたかったことを、勇気を出して聞いてみようと思った。
「あの、主任……」
「ん?」
「……子ども、いるんでしょ? 帰らなくていいの?」
「平気よ。私に似て出来の良い子たちだもん」
そう、パソコンから顔も上げずにシャオ主任は答えた。
「……あぁ、そう」
むしゃくしゃしながらガードルートは相槌を打った。やっぱりこの女、苦手だ。
「……貴女を見ていると、うちの子たちを思い出す」
意外にも、会話を続けたシャオ主任の顔を、ガードルートはちらりと窺った。
普段愛嬌溢れる女性の、寂しげな表情がそこにはあった。
「口には出さないけど、私が帰ると胸に抱きついたり、赤ちゃんみたいに言葉にもせず甘えたりするの」
「……わたしのこと、幼稚だって言いたいの?」
苛立ちを露にするガードルートだったが、シャオ主任は無言で、書類を一枚突き出してきた。
ガードルートはそれを受け取り、読む。――そこに書かれていたのは、今日の訓練の成績。
判定は、Cマイナス。かなりメンタルに安定性を欠いています。試合を一時欠場し、じっくり休養を取ることをお勧めします。
余計なお世話だ、と思った。ぐしゃぐしゃにしてやろうと紙を丸めたが、そんな気力もないことに気付く。不器用な皺が刻まれただけの書類を、ガードルートはそっと開き、あらためて読み返した。
「……ひっどい。なにこれ、本当にわたしの成績?」
「そうよ。……貴女の内側に隠れた真実」
言って、シャオ主任はガードルートの瞳を覗き込んだ。
「ジョーくんが心配なら、隠さなくていいのよ」
ぐっ、と、
空気の塊を、ガードルートは飲み込む。気遣わしげに見上げてくるシャオ主任の瞳から目をそらして叫んだ。
「しっ、心配! なんか、し、してない!」
それでも、シャオ主任はガードルートを見上げ続けていた。
目を背けたガードルートの視線の先には、窓がある。その先の中庭はかつて、丈二がクラリッサと食事を取っていた場所だった。ブルーシートの上に座り、端から見れば楽しそうにランチを食べている二人を、ガードルートは遠巻きに見ていた。――見ていたのだ。
それはもう、過去の話。
視界が歪む。ぐるりと喉の奥が鳴る。ずっとこらえてきたものが、ガードルートのなかで胎児のように回転しているのがわかった。それは心の奥底でぐるぐると唸り、幼児のような感情を迸らせる。
「……ねぇ、ジョウジ……ぶ、無事、だよね?」
「私は……」シャオ主任は言いかけ、「そうね。無事よ、きっと」
初めてガードルートに向けて、微笑みを浮かべた。ガードルートはまた尋ねる。
「怪我したり、してないよね? 道わかんなくなっちゃっただけだよね?」
「きっとそうよ」
「何か事情があって戻れなくなったとか、どこかで携帯落としたとか、それだけだよね?」
「そうよ、大丈夫。大丈夫だから、プリンセス・ガードルート」
「そう、だよ……ね……」
ぐす、とガードルートは鼻をすすった。けれども収まりきらない感情が、鼻をぐずらせる。
ガードルートは顔を慌てて伏せて、シャオ主任へ手を突き出した。
「……テイッシュ、ちょうだい」
「はい、どうぞ」
ガードルートは差しだされたテイッシュを引きずり出す。一枚、二枚、三枚手にとって、顔に押し付ける。そしてそのままじっと、動かずにいた。
その様子を眺めていたシャオ主任が問いかけてくる。
「だいじょうぶ?」
うん、とガードルートは鼻声で頷く。
「ごはん、あんまり不味いから、鼻水出ただけ。へいき」
「そう」
シャオ主任は、くすりと笑った。
怖い人だと、ガードルートは思っていた。笑顔のなかに巧妙に本音と爪を隠せる大人だと。けれど光に映し出されて、シャオ主任の目元に小さな皺を見つけたとき、ガードルートは彼女の心の一端を垣間見た気がした。
それは木の年輪のように、ガードルートが至っていない年齢の女性の人生に刻まれた、勲章のように思えた。
「……ねぇ、シャオさん」
「ん?」
「うちに、帰ってあげたら?」
ガードルートの発言に、シャオ主任は驚いたように瞬いている。
構わず、ガードルートは続ける。気づかないうちに作った、笑顔を向けながら。
「きっと、子どもたち、待ってるよ」
「そうね」
シャオ主任は髪を耳にかけ、微笑みを浮かべる。そうする、と改めて呟き、またパソコンをいじり始めた。
その微笑は、今までの社交的なものとはどこか違う。
心の中に置き去りにした何かを振り返って咲いた、慈しみの笑顔だった。
――そして、夜が明けて、朝になった。
早朝。鉄間が数人の部下を引き連れて、ダンスホールへとやってきた。その後ろには、昨晩訓練所を離れていた五条と藤の姿もある。
ガードルートを駐車場で迎えてくれた鉄間は開口一番、まず丈二捜索の進捗を伝えてくれた。残念なことに、現状は好転せず。桑畑丈二は以前、所在不明のままだという。
「試合前に色良い返事が出来ず、申し訳ない」
鉄間の無表情のなかに、わずかながら複雑な陰影が差している。ガードルートは殊更に笑ってみせた。
「ううん。気にしないで」
鉄間が力を尽くしてくれていることは、聞かずとも理解出来た。鉄間と丈二はよく酒を飲みかわす仲だと、以前藤に聞いたことがある。たとえガードルートが頼まなくても、鉄間は丈二のために奔走していただろう。
そのとき、一人の刑事がこちらへ走ってきた。鉄間の前で立ち止まり、敬礼と共に報告する。
「警部補、各員より通達がありました。移動経路、現在問題ありません」
「わかった。川田班は草尾班と合流して引き続きルートの先行にあたれ」
「はっ」
部下が去っていくと、鉄間はガードルートにあらためて向き直った。
「試走が終了した、プリンセス・ガードルート。いつでも出発できる」
「うん」
これから先、鉄間とは別行動を取る。ガードルートを護送するのは変わらず藤六郎、同行するのは五条真綾だ。
「本当ならば、もっと護衛をつけるところだが……」
そう言って、鉄間はわずかな憂慮を浮かべた。ガードルートは笑顔で応じる。
「いいよ。わたしが望んだことだし、気にしないで。それよりもジョウジをお願いね、鉄間さん」
「ああ、そちらの方は完全に任せてくれ。――では、出発しよう」
「うん」
鉄間がヘッドセットのマイクに短く告げる。現時刻をもって、護送開始。各員は速やかに行動を開始せよ。
鉄間の号令を合図に、十一特区各地に配備中の鉄間指揮下の警察のダミーパトカーが一斉に動き出したはずだ。その数約二十台。プリンセス護送としては、異例となる大作戦だという。ガードルートを無事にスタジアムまで移送するために、鉄間が一晩かけて用意してくれた最善の布陣。
「お待たせ、フジさん。五条さんも」
本格的に指揮を執りはじめた鉄間から離れ、ガードルートは藤と五条へ向き直った。
「はい、ガードルート様」
頷いた藤は、いつもどおりの老年の東洋人の顔だ。使う車両も白いタクシーのまま。藤の顔もタクシーも、ストーカーたちに周知されていると丈二は危惧していたが、今日だけはそのままでいて欲しいとガードルートが望んだのだった。
藤が運転席に座り、ガードルートと五条が後部座席に座る。シートベルトをがっちりと締めた五条が、こちらへ目も向けずに言う。
「出発いたしましょう」
「うん!」
ガードルートは頷き、前を見据えた。
フロントガラスの向こうに、十一特区のシンボルであるスタジアムの屋根が朧気に見える。
ここからスタジアムまでは、かなりの距離がある。試合開始まであと三時間。いつもなら当然のように間に合う距離だが、もし襲撃にあい、ルートを変えることになれば、それも危うい。
「必ず、たどりつくから……」
一人呟くガードルートを乗せ、タクシーは隘路を征く。
¶
空になった朝食のトレイに手を合わせ、桑畑丈二は頭を下げる。
ごちそうさまでした。その言葉を聞き届ける者はこの部屋にはいない。
最終戦当日を迎え、トルーマンをはじめ多くの護衛官たちは慌しく動いているようだ。この朝食も、見知らぬ護衛官がぞんざいに置いていっただけで、それ以降誰もここを訪れようとはしなかった。
「さっ、て……」
立ち上がり、丈二は体を思いっきり伸ばす。
朝食もきっちり食べた。床の上だがたっぷり寝た。体調は万全。どこを取っても不足はない。
目が覚めたのは夜が明ける前。太陽が昇ってから今の時間まで計算すると、おそらく現在は午前九時。
――動くときが来たようだ。
丈二は窓の横の壁を軽く叩いた。手ごたえは軽い。おそらくコンクリートだろう。好都合だ、と丈二は口の端に笑みを浮かべる。
「オレの右手が火を吹くぜ、っと……」
呟き、丈二は手首を回した。
その表面に蛇の鱗のような緑の波紋が浮かぶ。
久しぶりだな、と内心呟いた丈二は、顔から笑みを消した。
そして、きっと、おそらく、たぶん、丈二の帰りを待っている少女の名前を呼ぶ。
「――待ってろよ、ガー子」