4章
第二戦終了から、一時間が過ぎた。
それにもかかわらず、スタジアムからは観客が引く気配がなかった。
係員に退場指示を出されても、彼らは頑として立ち去ろうとはしない。フィールドに投げつけられる無数のゴミ。ブーイングを超えた怒号。スタジアム内を装飾する旗やポスターが破り捨てられ、火をつける者も出たという。
彼らの不満が訴えるものは共通している。
ガードルートへの、呪詛。
とぐろを巻いた怨嗟が、スタジアムの出入り口すらも包囲する。複数の出入り口全てにクラリッサのサポーターたちが詰めかけ、一部が暴徒化しているという。
多くが十一特区の住民である彼らの怒りの理由は、単にクラリッサの敗北というだけに留まらない。
ガードルートが切り札を残していることは、今シーズンの【舞闘会】を見守ってきた人間なら誰もが知っていることだ。試合の直前になると、その情報が戦績と共にマスコミを通じて開示される。
だが、まさかランク下位のクラリッサ相手に、しかも試合開始直後に使うとは、誰も予想していなかったに違いない。
クラリッサの試合に人生を賭けている十一特区の人間にとって、それは希望を踏みにじられる暴挙に等しい。
今も、非道だ、悪魔、鬼畜、と蔑む声に混じって、泣き喚く声が聞こえている。それはガードルートの耳に残った幻聴が為したことなのか、それともまだ実際に叫んでいる者たちがいるせいなのか、もはや判別はつかなかった。
だからガードルートは動かない。帰らない。
憤懣の波が収まるのを、控え室の隅で、ただ膝を抱えて待っている。
護衛官の丈二は入り口の側で、じっと動かずに鉄間からの指示を待っていた。試合終了後すぐ、スタジアムの外で待機していた警察から、スタジアムを出ない方がいい、と警告があったようだ。いつも軽薄な態度の丈二が、どことなく真剣な面持ちなのは、それだけ今が緊迫した状況ということだろう。本気で命の危機に立たされていると、ガードルートは自身の肌で感じていた。
「……まだ、帰れそうにない?」
沈黙に耐え切れず、ガードルートが問いかけると、丈二は言葉少なに答えた。
「危険、なんだとさ」
「そう……」
ガードルートは、またうなだれる。時計の針の進みが、やけに遅く感じた。
すると今度は、丈二から口を開いた。
「……怖いか?」
「別に。わかってたもの。こうなるの」
「……わかってて、やったのか?」
肯定の代わりに、ガードルートは自虐気味に笑む。
「当たり前でしょ。自分で招いたことだもん」
膝に顔を埋め、続けた。
「――軽蔑したでしょ。いいよ、はっきり言って。わかってるもん。最低なことしてるって。……みんな、辞めていったもん」
丈二は何も言わなかった。ただじっと、こちらを見下ろしている気配がする。
それが逆に怖くなって、ガードルートから口火を切った。
自分から口にするのは、とても怖い言葉。
「……ジョウジだって、わたしのこと嫌いだったら……や、辞めても……いいよ」
告げた声は、知らないうちに震えていた。
「オレ? まさかあ」
ところが丈二の声は、拍子抜けするほど迷いがない。
「アンタの戦いなんだから、アンタの好きにすりゃいいだろ」
「……い、いじわる」
気概を削がれたガードルートは、所在なく足をぶらぶらとさせた。
「こういうときに限って、叱ってくれないの、ほんとうにずるい」
「おしりぺんぺんしてほしいのか?」
「ば、ばかじゃないの……」
いつもの下らない冗談にも、上手く笑うことが出来なかった。
小さくほころんだ微笑を沈めて、ガードルートは、後ろに立つ丈二を振り返る。
「――ねぇ、ジョウジ」
そして改まって、口を開いた。
ずっと聞きたかったことを。
「貴方、昔、汚染区にいたんでしょう?」
「あぁ」
「どんな暮らしだった……?」
「忘れた」
ガードルートは縋るように丈二を見た。
――丈二は、ばつが悪そうに視線を中空に漂わせ、
「……簡単に言うと――昨日の友は、今日の死体」
珍しい、簡潔な答えを返した。
そっか、とガードルートは目を伏せた。
まるでリアリティのない言葉だ。実際に行ったことのないガードルートには、予想も出来ない地獄。
「辛かった、よね」
「そうかもなぁ。生まれたときから汚染区にいたから、あんまり自覚なかったけど」
「……あのね、ジョウジ」
ガードルートは前へ向き直り、丈二へ背を向けたまま、口を開く。
「……前のシーズン、ジョウジが来る前……わたしは、負けてばっかりだったの」
――追想するのは、一年前の記憶。
それはまだガードルートが特区に所属していた頃。ハルモニアでの訓練を終えて、地球に来たばかりの時期だった。
まだプリンセスとして何をすべきか、どう振舞うべきか模索していなかったガードルートは、周囲の期待に応えようと、懸命に仕事をこなした。
【舞闘会】はもちろん、特区や周囲の都市から来た取材の依頼は、全て受けた。時には【舞闘会】となんの関係もないアイドル活動も精力的にこなしていた。あまりの忙しさで、訓練すらままならない日々が続くほどだった。
それでもどんなに忙しくても、人々の期待に応えるのが当たり前だと思っていたし、人の役に立っていることは嬉しかった。
――けれど、プリンセスとして一所懸命だったガードルートとは裏腹に、【舞闘会】の戦績は振るわなかった。
シーズンの折り返し地点での戦績は、三十六戦中十五勝二十一敗。ダントツの最下位である。
原因はメンタルの弱さだと、あらゆるところから指摘されていた。それはガードルート本人が、一番自覚していることでもあった。
試合に勝てば、周囲はガードルートを褒めちぎる。よくやったね、その調子だよ。次の試合も頑張って。私たちを火星に連れていってくれ。
しかし、負けが続けば、それは掌を返したようにガードルートに痛切に当たった。
「なにやってる、本気出せ、いつになったら勝つんだ、おれたちを地獄に落とす気か、って騒ぐ声が、ずっと耳に残ってた。そうしてるうちに、気遣ってくれるはずの人にね、頑張って、って言われることすら、わたしには嫌味にしか聞こえなくなって……」
次第に、応援してくれているはずの人々の目が怖くなっていく。テレビでも新聞でもネットでも、ガードルートの連敗が騒がれて、会場に着くと野次が飛んだ。
その寒暖の差に、ガードルートは耐え切れなかった。いや、温かい応援を知っていたからこそ、厳しい声が余計に辛く感じたのかもしれない。
――一所懸命頑張ってるのに、これ以上どうしたらいいの。
追い詰められたガードルートは、喚きたてて、耳を塞いだ。日常生活のなかで、ガードルートは常に耳栓をつけていた。
数少ない支持者の優しい言葉すら、ガードルートにとっては全て恐喝に替わっていった。街に聞こえる笑い声が嘲笑に聞こえる。激励は罵倒に、叱咤は恫喝に聞こえた。
護衛官たちにはいつも迷惑ばかりをかけていた。そのうち、彼らの気遣いが怖くなった。
どうせ仕事だからわたしに優しくしてるだけでしょ。上辺だけ優しくするのなんてやめて。関わらないで。
ガードルートが疑心暗鬼の末に心にもない罵声を浴びせると、護衛官たちはため息をついて、ひとり、またひとりと、次第に距離を置くようになっていった。
自分で望んだはずなのに、自分を孤独にしていく。
ある日、スタジアムに向かう車のなかで、ガードルートは嗚咽も上げずに涙をこぼしていた。自覚は全くなかった。ただ、涙をこぼしている、という自分が、情けなくて、ガードルートはまた泣いた。ダメな自分。試合に勝てない自分。こんなことで涙を流す自分。
気付けば、ガードルートは発作を起こしていた。前後不覚と繰り返す喘鳴。周囲とかみ合わない平静の歯車。
パニック障害、と診断されたのは、運び込まれた病院の診察室だった。
それでもそんな弱い自分を、ガードルートは許さない。
「頑張らなきゃ、って思えば思うほど、苦しくなって……発作を起こして、戦績表には、不戦敗の文字が並んでいった。わたしにはそれが、みんなのがっかりした顔が並んでいるように見えてたの」
どうしようもなくなったガードルートを助けてくれたのは、当時まだハルモニアにいた親友のオウンだった。
「自分じゃもうどうしようもなくなっていたとき……オウンは言ってくれた」
悪い子になればいい。
自分のことだけを考えればいい。
背負ったものが重いのなら、捨ててしまえばいい。
ボイスチャットで、久しぶりに会話したオウンは、迷いなくそう諭した。
追い込まれていたガードルートにとって、親友からのアドバイスは、天からの啓示にも聞こえた。
そして、ガードルートは、そのとおりに生きることを決意した。
体調不良を理由とする、【舞闘会】一シーズンの、途中棄権である。
「みんなには、すごく反対された。具合が悪くて棄権したのに、来シーズンは一人でプリンセスを続けるって言ったら、ますます怒られた。お前はクズだ、最低だ、って。護衛官のみんなも……」
ガードルートを護ってくれるはずの護衛官たちさえ、一人残らずいなくなった。
ガードルートの所属していた第三特区は不戦敗となり、シーズンは終了。あの時第三特区にいた人々は、まだ地球に留まっている。今年、新たなプリンセスを迎えた彼らの間で、かつて所属していたガードルートは忌まわしい存在として憎まれていると聞いた。
それでもなお、今年、ガードルートは新たな一歩を踏み出した。
特区とその人々を背負わない、異端のプリンセスとなることを。
「【舞闘会】が嫌なら、引退すればいい、って色んな人に言われた。そうしようかと何度も思った。でも、わたしには叶えたい夢があったから」
今シーズンは、がらりと環境が変わった。
敗北も勝利も、全て自分だけのもの。負けてもガードルートを責める人はいない。
気楽だった。自由だった。
だが、いつもどこかで、何かが心に引っかかっていた。
――クラリッサを見ていると、特にその気持ちが爪を立てる。
退路はない。後戻りは出来ない、ただ一つのか細い進路を歩もうとすれば、今度は他のプリンセスとそのサポーターたちに阻まれる。
そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。
「火星に……どうしても火星に行きたかったから、やめることは出来なかった……」
自分の夢を、かなえるために。
そのためなら、いくらでも嫌われよう。
「そう、決めたんだよ? 決めたのになんで……」
ガードルートの声は、また弱々しく震えた。去年、自分の無力に一人で泣き濡れていたあの頃を思い出させる声音。
「今になって、こんなに辛くなるのかな……」
それきり、控え室を重い沈黙が包む。
ガードルートは、どう動くことも出来なかった。
震える手を拳にして隠し、俯いて、丈二の言葉を待った。
ガードルートの苦しみを、丈二に理解してもらおうなどとは思っていない。それはムシのいい話だ。理由はどうあれ、ガードルートがたくさんの人の期待を裏切ったのは事実なのだから。
――幻滅されてもいい。
でも、丈二にだけは、知っていてほしかった。
たった一人でわたしを護ってくれる丈二には、わたしの気持ちを、せめて。
「――なぁ、ガー子」
長い沈黙の後、丈二はそう口火を切って、こちらへ向かってきた。
足音が、ガードルートのすぐ後ろで止まる。スーツの両腕がガードルートの胸の前へ伸びて、
「ひゅぎ」
思いっきり、ほっぺたをつねってきた。
「なっ、ひゃにひゅんのおお」
「その、なんだ。何も気の利いたこと言えねーけどさ、」
一旦言葉を切った丈二は、
「誰かに叱ってほしいなら、オレがいつでもお仕置きしてやるから、前向いてろ」
上からガードルートを覗き込み、インチキ臭い顔がにやりと笑う。
「ガー子は悪い子図太い子、だろ?」
「ず、図太いは余計っ!」
「あ、そうだったっけ」
手を放すと、今度はガードルートの頬を両手で挟んだ。
「――ま、安心しろよ」
意図を測れず、ガードルートは瞬いた。
見上げた先で、丈二は、悪党じみた笑顔を浮かべている。
「なにがあっても、オレは、アンタの味方だ」
――言葉が、出てこなかった。
「……なっ……なに、それ……」
みるみる熱が昇っていくのを感じたガードルートは、慌てて顔を伏せる。
「変なの……なに突然……きもちわるい……」
罵られても、丈二は愉快そうに笑っている。
その耳のカフスフォンが、ぶるぶると震えた。
「おっ、ボスだ」
鉄間からの連絡が入ったらしい。短く会話を交わしたあとで、丈二は告げてくる。
「もう帰っても大丈夫そうだってさ。さ、いくぞ、ガー子」
「うん」
けれどガードルートはすぐには立ち上がらず、少しだけそのままでいた。
「……ねぇ、ジョウジ?」
「ん?」
後ろから回っていた丈二の手に、ガードルートは自分の手をそっと重ねる。
丈二は少しだけ手をぴくりと動かしたが、何も言わず、何もせず、ガードルートの為すがままになってくれた。
――あったかい。
心のなかで、ガードルートはそっと呟いた。大きくてごつごつした手。他人の体温。ガードルートが長い間、遠ざけてきたもの。ガードルートがずっと、必要としていたもの。
その掌に向けて、ガードルートはおねだりをする。
「いっぱい、疲れたから……。――今日、とびきり美味しいごはん、作ってね?」
丈二は微笑んで答えた。
「お安い御用です。プリンセス」
二人の静かな笑い声が重なる。
喧騒に揉まれていたはずのスタジアムは、いつの間にか、静穏が訪れていた。
¶
ようやく、落ち着いて過ごせる時間がやってきた。
今日の宿は、特区中心部のシティホテルだ。本当ならば昨日使った旅館でもう一泊する予定だったが、スタジアムでの暴動を考慮し、急遽宿を移すことになったのだ。
ガードルートはリビングのソファーで携帯ゲームをやっている。部屋備え付けのミニキッチンで夕食を作りながら、丈二は時折その様子を窺っていた。
足を投げ出し、スナック菓子に手を突っ込みながらゲームをする姿は不健康極まりない――が、いつものガードルートの姿だ。
今日は、藤が自ら夕食の手伝いを申し出てくれた。いつもの爺の顔にエプロンを引っさげ、丁寧にじゃが芋の面取りをしている。
「――今日ばかりは、ダメかと思いました」
ガードルートに聞こえないほどの音量で、丈二の隣に立つ藤はふと呟いた。
「そう?」
「えぇ。あの子を一年間支えてきた決意が、根本から揺らがされていた。また、過呼吸でも起こすのではないかとヒヤヒヤしておりましたよ」
藤は微笑んで、切ったじゃがいもをミネラルウォーターで満たしたボールに落とす。
「……今は安定剤もほとんど飲まなくなってますが、一年前は本当にひどかった。ガードルート様は、本当に明るくなりました」
そして、年寄りのしわがれた声が、若い男の声に戻る。
「……お前には、感謝しているよ」
そりゃどうも。返事をした丈二は、切ったバターをフライパンに落とす。
今日の夕食は、特製ハンバーグとホワイトシチュー、それにオリーブオイルを回したグリークサラダだ。
簡素ながら手間と時間をかけて作った料理を見ると、ガードルートは目を輝かせた。
「うわぁあああ……すごい! お肉だ! ごちそうだ!」
「高級品の牛肉だぞ。ありがたく食えよ」
「よかったですなぁ。ガードルート様」
「うん! フジさんもありがとう!」
三人分の料理を並べ、全員が食卓につく。
家長を代表して、丈二が手を合わせた。
「では、日々の恵みに感謝して、」
「はい」「感謝して!」
藤とガードルートも手を合わせたところで、丈二は宣言する。
「じゃあ、いっただきまー、」
――ぶるるるるるるるる。
――うわあああああああ。
タブレットの鳴動に丈二の悲鳴が重なる。生殺与奪の際にいる小動物と同じ気持ちで、丈二はおそるおそる自身のタブレットを開いた。
タブレットを揺らしたのは、もちろん、恋人だった。読んでみれば、すぐに会いたいという。最後まで文面に目を通せば、
『いま、十一特区まで来てるから』
何の怪談話だ、と思った。ハンバーグにがっついているガードルートと藤にそれを伝えると、
「じゃあ何、わざわざ飛行機にのってここまで来たの!?」
「恐ろしい……」
流石の二人も引いている。狂気もここに極まれり。彼女は人外の化け物だったのか、と本気で思いたい。
――どうやらここまでか。
決心した丈二は、折を見てガードルートに尋ねた。
「……ガー子様、すみませんが明日の訓練中、二時間だけ抜け出してきてもいいですか」
「だめ」
「お願いします」
「だめ」
と、ガードルートは口元をソースだらけにしながら、じろりと丈二をねめつける。
「その貴重な二時間で女の機嫌を取る。馬鹿らしいと思わない?」
「思うね。だからそろそろケリつけようかと思って」
意図を測りかねたガードルートがきょとんと目を瞬かせた。丈二は苦笑を返す。
「別れてくる」
「……いいの?」
「いーよもう。流石にここまでされると呆れる。縁の切り時だ」
「よく言ったっ!!」
叫んだガードルートは、長老のように膝を打って立ち上がった。
「今すぐ行ってきなさい、今すぐ!」
「いや、今はダメだろ……」
「だーめ、いまっ! 早く別れてきて!」
変に強情だ。まだ食べている途中だというのに、丈二の背中を押して玄関まで押し込もうとする。
「でもさガー様、今はシーズン中ですし。メシ食ってないし」
「大丈夫よ。馬鹿みたいに厳重な警備だもん。刑事さんたち呼べばいいでしょ? 片付けもしてあげるし、ハンバーグは責任持ってわたしが食べてあげるからっ」
「そうだけど、それだけじゃなくてさ……」
ソースを泥棒ひげのようにつけたまま、ガードルートは不思議そうに瞬いている。
丈二は苦笑し、
「――いや、なんでもない。元気そうだもんね」
「まぁね。貴方の不幸は蜜の味」
――この野郎。
ガードルートはえへへ、と、悪戯っぽい笑みを浮かべ、ペンギンのように両手をぴんと張って、大股にスキップしている。
「美味しく食べましょハンバーグー♪」
自分のぶんのハンバーグをしっかり完食し、風呂を沸かして、ついでにガードルートの目覚ましをセットした。
これでよし、と丈二は部屋を見渡す。明後日のクラリッサとの最終戦に向けて、本当はまだまだやりたいことがあるのだが、キリがない。早めに彼女との話を終えて、戻ってきてからやろう、と心に決めた。
鉄間専用とガードルート専用のカフスフォンを、それぞれ耳にかける。アタッシュケースを持っていこうかどうか悩んだが、ケースのなかには護衛に必要な物だけが入っている。何時間もいる訳でもなし、グロッグさえあれば事足りるだろうと置いていくことにした。
全ての準備を終えた丈二は、玄関まで見送りにきたガードルートと藤へ向き直る。
「じゃあ、お言葉に甘えて二時間だけ出かけてきます。皿はよろしくお願いします」
「いってらっしゃいませ」「よきにはからえ」
偉そうに告げるガードルートへ、丈二は再び念を押す。
「外出禁止な。絶対に外歩くなよ」
「わかってる」
「ちゃんと歯磨けよ。おねしょすんなよ。寂しいからって泣くなよ」
「子どもあつかいしないで!!」
いつものように憤慨するガードルート。
それを見届けた丈二は笑い、あらためて踵を返した。
「じゃ、いってくるわ」
「いってらっしゃい!」
ガードルートは笑顔で手を振る。
それは丈二が初めて見る、屈託のない、少女らしい笑顔だった。
¶
「……ガードルート様、ほんとうにお任せしてよろしいのですか?」
部屋を去り際に、藤は何度も何度も同じことを尋ねてきた。
心配性な藤に、ガードルートは胸を張ってみせる。
「もっちろん! わたしに任せて!」
「はぁ……では……」
藤を強引に部屋から追い出した後で、さて、とガードルートはシンクの前に立った。
シンクの中の洗い桶には、三人分の食器とフライパンが沈められている。ハンバーグは油が落ちにくいから気をつけろよ。口すっぱく言った丈二の言葉を、ガードルートはちゃんと覚えている。ようはたくさん泡立ててごしごし洗えばいいのだ。
「では、実験、開始します」
化学博士よろしく呟き、まずクエン酸と書かれたボトルを手に取るガードルートである。
¶
地下駐車場に待機してある私物のクラウンに乗り込み、丈二は街を南へ。
彼女が宿を取ったのは、特区の繁華街にあるというシティホテルという話だった。スタジアムから数キロ圏内の立地ということもあって、近づいていくと、夜だというのにかなり人の往来が激しくなるのが見て取れる。
車を繁華街入り口のコインパーキングに止め、丈二は徒歩でホテルへと向かう。
道中、わざと遠回りをしたり、さりげなくバルで一杯飲んだりする。その間、丈二は周囲に気を払ったが、尾行されている様子はなかった。
ホテル前に辿りつき、タブレットを何気なく開く。
メールの着信はなし。カフスフォンにも連絡なし。ガードルートの周囲に異常はないようだ。
――よし。
後顧の憂いはなし。これで仕事関係に不安がなくなった丈二は、ホテルのエントランスへ足を踏み入れた。
¶
「おっ、これはいいんじゃないのー?」
ぶくぶくと泡立つ洗い桶を上機嫌で見下ろすガードルート。なんだか魔法使いになった気分だ。このなかに手を突っ込み、後はごしごしとタワシで磨けばいい。手が荒れるといけないから、一応手袋もつけよう、とガードルートはミトンを手に取った。
そのとき、ぴんぽん、とチャイムが鳴った。
「……ん? だれ?」
手袋を一旦外し、ガードルートは玄関に向かう。
¶
丈二はエレベーターに乗り、彼女が宿泊しているという三階へたどり着く。
今にも寿命を迎えそうな古めかしいエレベーターを降りて、狭い廊下を歩いた。天井が低いせいか、やけにコツコツと足音が響く。
彼女のメールにあったとおりの部屋の前で立ち止まる。
部屋番号を間違えていないか確認し、丈二はインターホンを押した。間を置かず、ブツリとマイクから音がして、扉の奥と繋がる気配がした。丈二はマイクに声をかける。
「よぉ、久しぶり」
『入って』
インターホン越しに返ってきたのは、間違いなく彼女の声だった。再会の挨拶もなしとは、どうやら怒りは収まっていないらしい。
施錠を外す音が聞こえる。扉が開いて、彼女の細い腕が視界に入ったとき、丈二はため息混じりに一声。
「突然来るのはいいけどさ、せめて事前に連絡ぐらい―――」
バチッ、
火花の音。
――咄嗟に身を翻した直後、丈二の背中に衝撃が走った。