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3章

慌しく流動する特区の時間も、夜十時を回った今にはついに宥めて、街の灯りが静かに落ちていく。

夕食を食べたあと、ガードルートはすぐに眠った。健全な精神は健全な肉体に宿る――いつか丈二が適当に言った教えを真に受けているのか、ガードルートはいつも夜九時には眠る。早寝早起き元気な子。丈二としても、仕事に集中出来て都合が良い。

――特に、こういう夜には。

ホテルの部屋中の戸締りを確認していたところで、丈二の左耳のカフスフォンが鳴動する。スイッチを押し、通信を開始。

聞こえてきたのは、女の肉声だった。

『――桑畑護衛官、百舌班、五条班、〝スモーク〟準備が整いました。現場にて待機中です』

「了解。すぐ向かいます」

腰にはデューティーベルト。片手にはアタッシュケース。ホルスターにはグロック。

それら全てを確認した丈二は、ガードルートの眠っている寝室の扉に告げた。

「――いってくるよ、ガー子様」

無論、寝室からの返事はない。

ぐっすり眠っているのだろう。昼、訓練所で何があったのか、結局話してはくれなかったが、ゆっくり休んでくれればいいと思う。

丈二はエントランスの扉を開け、廊下に出る。すぐ目の前に、刑事が三人待機していた。屈強な体格な男たちはいずれも、鉄間警部補の部下である。

彼らには今から、丈二の代わりにガードルートの身辺警護をしてもらう。ガードルートが心置きなく休めるよう、丈二が戻るまでの間だけ周囲の警備にあたってもらうのだ。

「じゃ、うちのお姫さま頼みますね」

「はい。桑畑護衛官もお気をつけて」

日本人特有の深々とした三つのお辞儀を背に、丈二は悠々とホテルを出て行く。

自前のクラウンに乗り込み、十七号線を北上。数十分走った先に見えてきた高架橋の下をくぐり、二ブロック先で停車する。

そこはスタジアムと陸橋で繋がる、商業施設を兼ねた市民広場だった。小売業・サービス業の全盛期には多くのレストランやカフェ、居酒屋などが軒を連ねている場所だったらしいが、惑星移住特区の管轄下に置かれ、薄利多売が見直された今では、二・三店舗のみがごく限られた時間に営業をしているのみである。

それでも駅とスタジアムに直結する利便性の良さと、けやき並木を中心とした景観の美しさから、現在でも特区住民の憩いの場として親しまれているという。クラリッサがデートの待ち合わせ場所にここを選んだのも、妥当な選択だと言えた。様々な人種と文化が入り混じる特区のなかで希少な、落ち着ける空間だ。夜が深い今も、数人の客の姿がちらほらと見えた。

その入り口、駐車場の手前の交番に、スーツ姿の日本人の男女が立っていた。

男は、丈二よりもわずかに若い。身長自体は低くないはずだが猫背で細身のせいか、軟弱な印象を人に与えた。職務中だというのに、交番の駐在相手に大袈裟な身振り手振りを交えてへらへらと話しかけている。緊張感や責任感がないのではなく、あれが彼の地なのだ。男の名を、百舌(もず)慎哉(しんや)という。

女は、アスリートを思わせる、引き締まった体躯の持ち主だった。丈二よりも一回り以上年上だが、しなやかな体躯と凛とした表情が、年齢という概念を超越させる美を放っている。百舌が駐在相手に喋りすぎたのか、眉を寄せて何か注意している。どうやら、鉄間に命じられた百舌の教育係の役割は、まだ彼女には荷が重いらしい。彼女の名前を、五条(ごじょう)真綾(まあや)という。

最初に丈二の到着に気付いたのは、百舌だった。子どものような笑顔を作り、クラウンに向かってぶんぶんと手を振っている。

「あ、桑畑さーん! お疲れさまでーす」

 丈二は路肩につけた車から降り、二人へ近づいた。

「百舌くん、マーヤさん、お疲れさまです。すみませんね、突然」

「まったくですよー! オレそのせいで今晩の飲み会キャンセいでっ」

「黙れ、百舌。――桑畑護衛官、プリンセスの安全のために働くのが私たちの仕事です。お気になさらず」

軽快な口調の百舌と、慇懃な態度の五条。対照的な二人は共に鉄間警部補の部下で、ガードルート担当の六係の刑事だ。鉄間が最も信頼している部下二人でもある。

「護衛官、早速ですがこれを」

五条がPCサイズのタブレットを差し出してきた。丈二はそれを受け取り起動すると、この広場の地図と、配置されている刑事の位置情報が階層ごとに映し出された。画面をスライドし、状況を把握した丈二は感嘆する。

「ずいぶん多いな。三十人ぐらい出動してる?」

「えぇ。このエリア一帯にスモークをかけるなら、一晩でこれぐらいの人数が必要だと警部補が判断しました」

「へえ。それはありがたい」

相槌を打ちながら、丈二は襟を閉めた。冬本番はまだ先とはいえ、夜は流石に冷える。

「――で、その鉄間警部補(ボス)は? 現場に来ないなんて珍しいな」

「私用です」

 と五条が答えると、百舌が興奮した口調で口を挟む。

「見合いですよ! お見合い! 今日は領事のご令嬢らしいですよ、桑畑さん!」

「へぇー、やるじゃん! なんだっけそういうの。日本語でさぁ、資産家の娘と結婚する……ほら、あれ」

「玉の輿ですよ! 日本人の上流階級の輿に警部補も乗っちゃうんですよ!」

「そうそうそれだ! タマノコシ! すげぇなテッちゃん。友達になっといて良かったよ!」

「俺も部下になっといて幸せです! 上手くいったらなんか奢ってもらいましょうね!」

「……正しくは、逆玉ね」

 黙って聞いていた五条が、丈二と百舌を鉄の表情で睨みつける。

「どちらにせよ、ここで前時代的な結婚制度を礼賛したいのなら、帰って頂いて結構ですよ。特に百舌」

「まっさかー、五条さんだけに無理させられませんよー。俺、フェミニストなんで」

「……クズが」

 後輩相手に殺気をちらつかせる五条から距離を取り、丈二は関係ないフリをしてカフスフォンを介し通信を始めた。通信先は、広場に待機中の刑事全員だ。

「えー、みなさまこんばんは。プリンセスの哀れな召使いこと桑畑丈二でございます。今日は夜分遅くにお集まりいただきありがとうございました」

黙って聞いていた刑事たちからかすかな苦笑が混じった。MC気取りの丈二は楽しく続ける。

「すでに警部補から指示があったとおり、明朝より我がお姫様が該当地域をご散策めされます。皆様にはその下準備として、いつもの〝あぶり出し〟のお手伝いして頂きたく存じます。それでは改めまして――」

その場にいる全員のタブレットに、耳障りなアラームが鳴った。

 丈二は笑み、告げる。

「ミッション・スタート」


時を同じくして、広場にいる人々のタブレットが、示し合わせたかのように一斉に音を立てた。

――緊急災害警報である。

地震・津波・噴火・通り魔・テロのような、突発的な災害が発生した場合、各地方自治体より当該地域住民の通信端末へ向けて自動発信されるメッセージだ。危機管理の観点から、端末の電源を切っていても強制的に受信するよう設定されている。

たった今、十一特区に住まう全員の端末を振るわせた情報は、曰く――。


『緊急速報・本日夜二十二時十分、国際テロ組織〝アンタレス〟より、第十一特区スタジアムに爆破予告。付近にお住まいの住民、ならびに通行中の市民は、速やかに避難してください』


「……テロ予告?」

「アンタレス――まじで?」

「嘘だろ、なんでこんな辺境の特区に――」

端末を確認した人々の口から、続々と困惑が漏れた。信じられない、という驚愕と、ついにここにも来たか、という諦観の混じった声。

頃合を見計らい、丈二は刑事たちに次の指示を飛ばす。

時を置かず、国道を走行してきた数台のジープと装甲車が、広場の前で急停止した。タクティカルアーマーにフリッツメットという、いかにもそれらしい装備をした刑事たちが、続々と広場に突入していく。

その、いかにも物々しい出で立ちを見た人々は、目に見えて硬直した。

人々の動揺に構わず、刑事たちは拡声器を使って呼びかける。

「えー、ただいま発表された緊急災害警報のとおり、当エリアにおいて爆破予告がありました。通行中の皆さまは慌てず、速やかに避難をお願いします」

「な……なに!?」

「どうせ子どもの悪戯でしょう? ここ、大丈夫なんですよね?」

 広場の人々は動揺のまま口々に質問の声を上げるが、警官たちは冷静に告げるだけだった。

「現在調査中です。速やかに移動をお願いします」

警官たちの切羽詰った雰囲気を感じ取ったのか、あるいは、関わってはならないと悟ったのか。先ほどまで広場で憩いの時間を過ごしていた人々は慌てた様子で荷物をまとめ、その場を離れていく。広場にいた通行人や買い物客はもとより、テナントの店員たちも、困り果てた様子で店を閉め出した。商売を続けられる状況ではない、と判断したのだろう。

 その様を丈二と共に眺めていた百舌は、楽しげに笑っている。

「ドッキリ作戦、大成功。首尾、上々ですねー」

「うちのお姫様も起きてなきゃいいけどな」

「大丈夫ですよー。ガー子ちゃんとこには警報行かないように設定されてますから、たしか」

 まぁね、と丈二は笑ってみせた。

――災害警報は、丈二たちの仕込んだガセ情報だ。

護衛官の任務の一つに、護衛対象の目的地に先行しての地理の把握と、その場に不審者・不審物がないか徹底的に調査する下調べがある。これを、六係では〝あぶり出し(スモーク)〟と呼んでいた。

今回、クラリッサが計画したというデートスポットは、スタジアム近辺の駅前広場とショッピングモール。更に数百メートル先の神社参道を歩いて、緑地公園までと広範囲に及ぶ。

丈二とクラリッサ側の護衛官、並びに護衛官補佐の警察は、デートの始まる明朝十時まで、当該地域の安全を確保しなくてはならない。その間、一切の不審者、不審物を調査・排除する必要があった。

この大掛かりな狂言を用意したのは、全てそのためだ。警察を介し、特区内防衛機関に協力を要請。動画サイトに反火星連邦組織・アンタレスの名を使って偽の爆破予告を投稿した。

アンタレスの過激なテロ活動は、地球に住む誰もが知っていることだ。アンタレスの名前を出されて、日和見を決め込む人間はまずいない。人払いをするのに、これほど便利な口実はなかった。

「手っ取り早くて結構ですねー。仕事、はかどるはかどる」

「……私は、このやり方には反対ですが。アンタレスの連中を触発しかねない。ただでさえ、奴らに誘拐されたプリンセスは後を絶たないというのに」

 愉快そうな百舌とは反対に、五条は厳しい声音だった。丈二はことさらのように笑う。

「大丈夫だよ、マーヤさん。真偽定かじゃない情報の発信源を探るほど、連中(アンタレス)は暇じゃない」

「どうしてそう言い切れるんです?」

「それはねぇ」

 五条への返事の合間に、丈二は煙草を咥え、火を点けた。

「――アンタレスの側からは、何一つ損をしないからさ。まず今回の騒動を静観し、爆破がただの悪戯で終われば、自分らは無関係を装う。予告が真実でどっかの誰かさんが本当にテロを起こしたなら、先手を打って自分たちの仕業だと嘯き、特区、ひいてはアレスへの威嚇牽制とすればいい。連中はそういう考えさ。こっちとしてもアンタレスの宣伝に協力してやるんだから、後ろめたいことはない。名前ぐらい遠慮なく借りてやりましょう」

「そうだそうだ」

百舌が賛同すると、五条は無言で、しかしあからさまな渋面を作ってみせる。理屈はわかったから百舌(おまえ)は黙っていろ、という表情。

人が掃けてきたのを確認し、丈二は刑事たちへの通信を再開した。

「――では、始めてください」

丈二の指示のもと、特殊警察を装った刑事たちが、続々と調査に入る。

周囲に危険物がないか、不審者がいないか。オーナーから貰った建物の設計図を参照し、ありとあらゆる場所の調査に入る。

通路、壁の隙間、窓、ゴミ箱や換気扇、通気口、消化栓、マンホールの裏。オフィスの棚や喫煙所、女子ロッカー。警備犬や探知機類も駆使した徹底調査だ。必要とあらば、口実をつくって民家まで押し入り徹底的にスモークを行なう。

特に狙撃可能なポイントには人員を配置し、不審者が立ち入れないようにする。当日、二人のプリンセスの側には護衛官が複数つくが、それでも決して安心とはいえない。想像の限りを尽くし、脅威を払う。ネガティブな人間ほど護衛官に向くと言われる所以がここにあった。

『壱班、庁舎前、制圧完了(クリア)

「了解。人員を二人残して、あとは引き続き隣接したビルの検索にあたってください」

『了解』 

『桑畑護衛官、こちら陸班。旧駅構内コンコース、制圧完了しました。これより駐車場に向かいます』

「はーい、了解」

 報告は、数秒と置かずに丈二へ入ってくる。同じ報告を受けていた百舌が楽しそうに笑った。

「いやぁー、順調ですね」

「全くだね。六係の手際の良さには恐れ入るよ」

丈二が感嘆する間にも、広場一帯を映したタブレットの立体マップは、続々と青色(セーフティー)に染まっていく。たとえ丈二がスモークに混じったとしても、こう手際良くいかなかっただろう。あらためて、警察あってのプリンセス護衛だと思い知らされる。

「――ちょっと」

 そのとき、傍らに立っていた五条が前に進み出た。

五条の視線の先にいたのは、飲食店のエプロンを着た青年。印字されているロゴは、この広場のなかにあるレストランの名前と一致する。剣呑な雰囲気を漂わせた五条が詰め寄ると、あからさまに狼狽した。

「立ち入り禁止の標示を見なかったのか? ここは危険だ」

「レ、レジの鍵をかけ忘れて戻ってきたんです……もし開きっぱなしだったら、明日、店長に何言われるか……」

「気持ちはわかるけど、今は近づけない。早く離れなさい」

 青年は動揺しながらも、でも、と口を挟んだ。

「デマなんでしょう? さっきネットで見ましたよ?」

「デマ?」

五条と百舌が、一瞬、視線を交わした。

丈二は、青年から目を離さず問いかけた。

「――どこで、その情報を?」

「あれ? なんだっけ……どっかのアフィサイトで……忘れちゃいましたけど、警察が撤回したって……あれ? 違うんですか?」

場が、沈黙に包まれた。

青年だけが怯えたように刑事二人と丈二の顔を見比べて、おずおずとこの場を立ち去ろうとしている。

三人を代表して告げたのは、五条だった。

「……わかった。レジはなんとかしてやるから、早く帰れ」

「は、はい……」

青年は素直に踵を返し、逃げ去っていった。

その背中を視線で追い続けながら、百舌が丈二に問いかけてくる。

「――どう見ます、桑畑さん?」

「ふぅん?」

 丈二は顎を撫で、思考に没頭した。

 確かに、爆破予告が狂言であることは確かだ。だが、それを取り下げることも、ましてデマであることを認めるような情報の発信は一切していない。百舌も怪訝そうに首を傾げている。

「デマのデマは、デマですよねぇ」

「そのデマデマで得する人間は、つまり?」

 丈二が問うと、思案顔の五条が呟いた。

「愉快犯、あるいは――」

「取り急ぎ、デマの真意真相を知りたいと思う人間かな」

言い、素早く丈二は立ち上がった。タブレットを片付け、駐車場担当の班に指示を飛ばす。

「さっきそちらへ向かったエプロンの男を追え。大至急」

『了解――』

直後、通信が途絶した。

何事かと丈二が問いかけようとした瞬間、通信先から返って来たのは鋭い叫び。

『桑畑護衛官!! 対象、バイクで逃走しました! 現在幹線道路方面へ逃走、警告を無視してスピードを上げています!!』

あららー、と横で百舌が呟く声。

駐車場へと歩き出しながら、丈二はつとめて冷静に命じる。

「――わかった。なんとか足止めしてくれ。オレは五条、百舌と一緒に奴を追う」

『了解ッ!!』

 通信が乱暴に途切れる。丈二は歩調を速め、後ろをついてくる五条と百舌に告げた。

「マーヤさん、百舌くん、こっちに」

丈二が示したのは、もしもの為に駐車場に待機させておいた軽装甲機動車(ライトアーマー)だ。後部座席上の回転式銃座(ターレット)に、ボルトアクション式のライフルがセットされている。

用意しておいて良かった。内心、自分で自分を誉めつつ、丈二は二人に説明した。

「あいつの目的は、おそらくデマデマの揺さぶりをかけてこっちの動揺を測ることだ。今回の警報が虚言だと確証を得たならば、次はその目的を推測する。その先にプリンセスを見出してもなんら不思議じゃない」

「――その情報が流れれば、プリンセスに危険が及ぶ」

 五条が神妙な声で言い、

「危険は全力で排除する、っと。そういうことですね?」

百舌が楽しそうに言った。

「そういうことー」

丈二は二人に笑いかけ、軽装甲機動車(ライトアーマー)の運転席に乗り込む。

「あ、百舌くんは後ろね。M40A3(ライフル)設置してあるから」

「りょうかーい!」

車両後部から乗り込んだ百舌は、座席には座らず天井にある上部ハッチを開けた。そこからつり下がったベルトに座りハッチから身を乗り出して、走行しながら射撃するという寸法だ。

助手席に座った五条が、こわごわと尋ねてくる。

「まさか、ライフルを使うんですか……?」

「その予定」

 答え、丈二は車を発車させた。エンジンが物騒な音を立てながら道路へと放たれる。ステアリングを回しながら丈二は話を続けた。

「――奴はオレたちの目的を知らない。本物の警察かってことも、怪しんでるはずだ。そこを利用する。……百舌くん、聞こえてるー?」

「聞こえてまーす!」

 車外の風に混じった百舌からの返事は大きい。自然と、丈二の返事も大きくなる。

「バイクに追いついたらタイヤの後輪、撃っていいよー」

「えー? いいんですかー?」

「あぁ。オレたちは、泣く子も黙るアンタレスって設定で!」

「なぁるほどー。了解でーす」

「呆れた……」

「すいません、マーヤさん」

五条に平謝りをしながら、丈二の繰る車は、幹線道路へ。

エプロン男の乗っているとおぼしきバイクの姿は、すぐに見つけることが出来た。援護の覆面パトカーが数台にわたってノロノロ運転で道を遮ってくれたお陰で、思うようにスピードも上げられず追い越しも出来なかったらしい。バイクは苛立ったような排気音を立てながら、単身、道路を走っている。

――バイクがパトカーを追い越しきる前に、こちらから仕掛ける。

「百舌くん、そろそろいいよー!」

「はーい」

フロントミラー越しに、百舌が射撃体勢に入ったのが見て取れた。ハッチから上半身を出した百舌は、おそらくスコープを覗いて集中力を高めているはずなのだが、それにしては独り言がうるさい。いやー、無茶苦茶やるなー、桑畑さん! これ責任誰取るんだろー? 警部補? 警部補なのかなー?

聞こえないかも知れないが、丈二は一応疑問に答えてやる。

「大丈夫だよー。特区の法律じゃ、プリンセス護衛は何をしても正当化されるからー!」

「……それ、本当ですか?」

 問うたのは、隣の助手席に座る五条だ。

「うん、たしかね」

「……ふぅ」

 と、五条はこめかみを押さえ、低い声で告げてきた。

「――良いコトを教えましょうか、桑畑護衛官。日本語でたしかは不確かなんですよ」

「ははー。やっぱり桑畑さんの判断かー。無茶苦茶決めるなー」

 聞こえていたらしい呑気な百舌の声、

「――そういうの、嫌いじゃないけどっ!」

 直後、鋭い発砲音が、丈二の耳朶を打った。

命中精度の高い狙撃銃と、元SATスナイパー班の百舌の射撃能力。高度なそれら二つに裏打ちされた銃弾は――寸分の狂いもなく、先を走るバイクの後輪に風穴を空けた。

ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ。

凄まじい摩擦音を上げ、バイクは横倒しに転倒する。投げ出されたライダーが、地面をごろごろと転がった。

同時に、丈二は車を路側帯へ寄せる。

狙撃体勢を取らせたままの百舌を車に残し、丈二は五条と共に車外へ。倒れたままの男へ、迷いなく詰め寄る。

ヘルメットの下の男の顔は、間違いなく先ほど広場で会ったエプロンの青年だった。運の良いことに軽傷のようだ。太ももから流血しているものの、意識ははっきりしている。近寄ってくる丈二たちを見て、例の怯えた顔をしてみせた。演技にしてはこなれている。それとも、今度は本当に怯えているのか。

「――おい。何故逃げた」

 先ほど煮え湯を飲まされた五条が、轟くような低い声で詰問する。

しかし男は怯えるばかりで、何も言おうとしない。

更に距離を詰めようとした五条を制し、丈二は男にグロッグを向けた。

「待てよ、こっちの方が早ェ」

「くわ……おい、何を……」

 丈二の名前を出しかけた五条が慌てて言い直した。――どうやら、丈二の芝居に感づいてくれたらしい。

この場で、唯一演者ではないエプロンの男が擦れた声で丈二に問う。

「お、おい……何のつもりだよ……」

「何のつもりだぁ? わかりきったこと聞くじゃねェか。オレたちの目的を探ろうとしてたんだろ? ――だとしたら、運が悪かったな。アンタレスのボス、スコルピオの直属であるオレに目をつけられちまうたぁ――」

 さっと男の顔から血の気が引く。

「あ、アンタレス……? そ、そんな馬鹿な……っ」

「馬鹿だと思うなら一発鉛玉食らってみるか? わかりやすいぜ、嘘か本当か、一瞬で判別できるんだからよ」

 地べたにへたり込んだまま逃げようとする男に、丈二は更に詰め寄る。

「ほら、観念してこっち来な。ついでにタブレットも寄越せ。――仲間、いるんだろ? お友達にも、ぜひ挨拶したいからよ」

「……ひっ」

 男が息を呑んだ、瞬間、


「離れろッ!!!」


五条の鋭い叫び。

そこに追随するように、ボフッ――と間抜けな音が聞こえた、瞬間、丈二の視界に赤い煙幕がたち込めた。

発炎筒――その単語が脳裏をよぎった直後、銀の刃が丈二の眼前で煌めいた。

丈二は咄嗟に体をかわし、避ける。頬をかすめた刃物は、丈二のすぐ真横から円を描いていた。その拍子に、丈二の手からグロッグが滑り落ちる。

新手――丈二を襲った何者かの影が、赤い煙の奥に見えた。そしてその人影に阻まれる形で、逃げていくバイクの青年の後ろ姿。

――逃げられる。

襲撃者に注意を払ったまま、丈二はカフスフォンに素早く告げた。

「マーヤさん、百舌くん、そっちの視界は」

『なんとか良好!』『こちらは余裕でーす』

「バイクの男が逃げる。追ってください」

 ――五条が息を呑む気配がした。

『しかし……!』

『大丈夫ですよ、五条さん。いきましょー』

百舌の緊迫感のない言葉に助けられた。

五条は、それ以上迷わなかった。丈二から遠ざかっていく女刑事の足音。やや遅れて、遠くから車の扉が閉まる音がする。

五条が運転する軽装甲機動車が、丈二のすぐ横を走り抜けていく気配。赤い煙の中から、グッドラック、と呑気な男の声が聞こえた気がした。

五条と百舌。彼らに任せておけば、大丈夫だ。必ず逃走者を捕らえてくれるだろう。

「――さて」

丈二は首を鳴らして前方へ向き直り、

――煙の向こうの襲撃者と対峙する。

赤い煙は未だ丈二の視界を覆っていたが、目を凝らせば朧気ながら襲撃者の姿を把握できた。

敵は一人。距離はおよそ三メートル。フルフェイスのメットを被り、顔も人種もわからないが、なかなかいい体つきをしている。体格から予想するにおそらく東洋人。男で、若い。

――なにより、その構え。

足を開き、ファイティングポーズに似た立ち姿で、男は大振りのバタフライナイフを逆手に構えている。突くことよりも、素早く切り裂くことに重点を置いた構えだ。

対する丈二は、銃を持っていない。落としたグロッグの姿は、赤い煙に包まれて簡単には見つかりそうもなかった。しかし煙が晴れるのをのんびり待っている暇はなさそうだ。

この襲撃者を撃退するには、その隙のない懐に潜っての近接戦しかない。

リーチで劣る。殺傷力で遥かに劣る。旗色は、多分に悪い。

すぅ――、と、丈二は息を吸った。

肩幅に足を開き、敵に対して半身に構えた。両腕は構えるも、力は込めない。あくまで自然に、丈二は敵を睨み据えた。

不気味なほど静かな間。

先に仕掛けたのは――丈二だった。

「!」

メット越しに男の動揺が伝わる。

遠間から一気に踏み込んだ丈二の回し蹴りが、一薙ぎに襲撃者の側頭部を狙う。

なんとか避けた男は、バランスを崩しながらも反撃に出た。ナイフを持ち替え、丈二の顎に鋭利な切っ先を向ける。

その刺突を、丈二は体を後ろに反らすことで躱した。

ナイフの切っ先がわずかに首をかすめ、血が散る。

首筋から胸へ、冷たいものが流れていく気配。それに反比例して熱くなる傷口。

――丈二は、笑った。

「へへッ」

声に出して笑った。

対峙する男に動揺は見られない。ただ、先ほどまでの殺気を潜めて、より慎重に丈二と距離を取る。じり、じり、とにじり歩き、

――上段からナイフを振りかぶり、襲いかかった。

丈二は、避けなかった。

己に向かってくる凶刃を冷静に見つめたまま、下段に構えた拳に力を込める。

刃が頭に振り下ろされる瞬間、丈二は、ぐ、と身を沈め、拳を放った。

狙いはナイフではない。ナイフの持ち手だ。

振り下ろされる手を正確に拳で打ち、狙いをそらす。

固い手ごたえがした。鈍い音がした。

メットの奥で男が、苦悶の声を上げた。瞬間、男の腹部がわずかに空く。

その腹を、丈二は蹴り飛ばした。

「ぐあっ……!」

呻き、男が地面に転がる。武器を取り落とした男の手が、無我夢中で地べたを触りナイフを探り出そうとしている。

だが無情にもナイフは丈二の足元に落ちていた。すかさずそれを踏みつけ、無力化した男を見下ろした丈二は――、

「!」

男が、グロッグを拾い上げる瞬間を見た。

地面に転がっていた丈二のグロッグだ。たまたま男が蹴り飛ばされた先にあったのだろう。幸運にも勝機を得た男は、迷いなく銃口を丈二へと向けた。

丈二の額に狙いを定めた銃口の先で、メットの奥がやっと感情を露にした。勝ち誇った男の歪んだ哄笑。

「――オレの、勝ちだ……テロリストよぉ……!」

襲撃者が嗤う。互いの距離およそ三メートル。どんなに射撃が下手くそでも外しようのない距離。約束された被弾、致命傷、そして死。

絶望の運命を突き付けられた丈二は、だが、動かなかった。

襲撃者の勝利宣言、そして自らの死刑宣告にも動揺せず、ただ冷めた目つきで、自身に向けられた丸い穴を見つめていた。

襲撃者の指が、引き金にかかる。一部の躊躇も、慈悲の言葉もなく、トリガーが絞られようとした、瞬間、


 響くはずだった発砲音は――ふぉん、と空気を裂く音に阻まれた。


「な――ッ!!」

「……っ?」

男の驚愕と、丈二の瞠目。

銃を向けた襲撃者、銃口に狙われたままの丈二、その両者の間を突風が吹き抜けた。

否――それは風ではなかった。疾風を纏い丈二の眼前に姿を現した、青の影。

それは韋駄天の人影だった。青いライダースーツを纏い、突然闖入した影は、丈二と襲撃者が気づく間もないまま、二人の間に立っていた。

その素顔は顔半分まで覆うゴーグルに隠され、よく窺えない。が、その立ち姿や装備は、少なくとも丈二の見知った人物ではなかった。

「どうも」

と、誰にともなく言った闖入者は、

メットごと、襲撃者の顔面に膝蹴りを食らわせた。

ぼご、と聞いたことのない音がした。陥没したメットの奥で、男は悲鳴もなく後ろへ崩れ落ちる。散ったメットの破片が、キラキラと夜の薄闇に輝きを散らした。

鋭い蹴りを披露した謎の闖入者に助けられた形になった丈二は、ひゅう、と下手クソな口笛を吹く。

「――それ、もしかして火星連邦で採用されてるケリュケイオンアクター? すごぉい」

「よくご存知ですね。まだ地球連合では正式採用されていないのに」

 笑みを含ませながら応えた闖入者は、ようやくゴーグルを取ってみせた。

二十代前半と思われる、若い青年の素顔だった。顔立ちは東洋人だが、おそらく西洋の血が混じっているのであろう、印象的な碧の瞳をしている。上背は丈二よりやや低いくらいだが、細身の引き締まった体格のせいか、ファッション誌のモデルをしていてもおかしくない端正なルックスの持ち主だった。

青年が着ているのは、火星連邦の治安部隊が採用しているボディアーマー――ケリュケイオンアクターだ。極めて軽量、かつケブラー繊維並の防弾防刃能力を誇り、火星連邦軍部から高評価を受けている装備。彼が着ているのは、機動特化型と呼ばれるタイプだろう、靴底にスケートシューズのような銀のエッジがついている。

青年は笑顔を浮かべ、改めて言った。

「はじめまして、エクター・クォンです。プリンセス・クラリッサの副席護衛官をしております」

「あぁ――クラリッサの」

 今さらながら、青年が自分を助けてくれた意味を知り驚く丈二。

 丈二たちと同じタイミングで、近隣のショッピングモールと市民公園のスモーク・スキームに動いていたクラリッサ側の護衛官たち。彼はその一人だったのだ。

本来なら同じスキームに臨む護衛官同士、顔合わせぐらいするのだが、クラリッサによるデートの提案があまりに突然だったため、持ち場だけを分担して互いに作業に当たっていた。そのため、丈二はこれが彼――エクターとの初顔合わせになる。

丈二は手を差し出した。

「はじめまして。プリンセス・ガードルートの主席護衛官、桑畑丈二だ」

 対するエクター青年は、朗らかな笑みで手を握り返した。

「よく存じております。悪名高き――おっと、失礼。ガードルートのたった一人の護衛官だと」

「一人ってか、だいぶ民間軍事会社(PMC)とか警察に助けられちゃいるがね」

 そのとき、耳元のカフスフォンがぶるぶると鳴る。聞こえてきたのは能天気な百舌の声だ。

『くっわばーたさーん! 生きてますかー? それとも死んでますー?』

『百舌!!! ……桑畑護衛官、ご無事ですか?! お怪我は!?』

噂をすれば、だ。その件の刑事二人の声。丈二の心配をしてくる辺り、どうやらあちらの首尾は上々らしい。

「お疲れさん。おかげさまで無事ですよ。歩いて帰るのダルいんで、拾ってください」

『了解―!』『五分後に到着します。しばしお待ちを』

百舌、五条が順に答え、カフスフォンの通信が切れる。丈二はエクターにあらためて向き直った。

「ごめん、色々話したいんだけど、下手人を連行しなきゃいけないもんで」

「えぇ。では、こいつは僕たちに任せてください。もともと、十一特区は僕らの街ですから」

と言って、エクターは倒れているメットの男を示した。丈二は頷く。

「そうさせてもらうよ」

「はい。……ところで桑畑護衛官、傷、大丈夫ですか?」

「ん? ――あぁ」

エクターの視線は、丈二の首筋を捉えていた。

先ほどの応戦の最中、ナイフによって裂かれた場所だ。手で触ると生暖かい感触がする。

「結構、深い傷に見えますが。応急処置の必要は?」

 心配そうに言うエクターに丈二は笑ってみせる。

「平気平気。もう塞がったよ。思ったより浅かったみたいだね」

「――なら、良かった」

 エクターは笑顔を見せて、再び手を差し出してきた。

「では、今日もよろしくお願いしますね。桑畑さん」

今日――? 訝しがった丈二は自分のタブレットを取り出し、画面を見た。

表示された時間は、十二時過ぎ。一生懸命お仕事を頑張っているうちに、いつの間にか日付が変わっていたらしい。そッか、と丈二は呟く。

「今日――本番は今日、だな」

「えぇ、これからが大変です」

そう言って微笑むエクターの手を、丈二は握り返す。

今まで行なわれたスモークは、全て下準備に過ぎない。本番は今日の昼。クラリッサとガードルートが連れ立っている間が、もっとも危険なのだ。

護衛官は未来を見通せる予言者ではない。どんなに頭を使っても、力を尽くしても、悪意と危険は思わぬ方向からやってくる。護衛対象が無事で過ごせるかどうかは、運に依るところが大きいのも事実だった。

だから、護衛官は祈る。全ての運がこちらに向き、護衛対象に何の危険も及ばず、何かがあったことすら悟られず、任務を達成することを。そしてあわよくば自分自身も、無事で任務を終えられることを。

「今日、よろしくな。エクター護衛官――お互い、うまくいくといいな」

「はい、本当に――」

二人は固い握手を交わし合い、やがて別れた。


 ――いつも、こんな風に綺麗な終わり方が出来ればいいのだが。

「――結果的には良かったですが、こういう無茶は、しばらくなしですよ。私が警部補に怒られるんですから」

 迎えの車に乗り込んだ途端、丈二を待っていたのは五条による恒例のお説教タイムだった。

捕らえた例のアルバイターもどきの移送と後片付けを部下の刑事たちに任せ、五条と百舌が丈二をホテルまで送ってくれると申し出てくれた。――それはありがたい。とてもありがたいのだが、仕事のあとのお説教だけは勘弁してもらいたい。丈二は空返事に聞こえないような空返事という高等テクニックを用い、右から左に五条の声を聞き流す。

「はい、すみません姐さん」

「今日は一般車の走行もまばらでしたから追えましたが、応援もなしに一人残るなんて護衛官としては少々無謀すぎるかと」

「はい、すみません姐さん」

「……そろそろどうでもいい話終わらせません? 五条さん。桑畑さん、警部補が会いたがってましたけど、メシでも食べにいきましょうよ」

「――百舌、殺すぞ」

「あぁ、たまには警察署(そっち)へ顔出すのもいいかな――」

そのとき。

 丈二の個人用タブレットが、メールを受信した。

嫌な予感がする、と丈二は思った。日本にいる知り合いはこんな時間にまず連絡を寄越さない。メールボックスを開くのが恐ろしい。震える指で丈二はメールフォームを開く。嫌な予感が嫌な予感が嫌な予感が、

『いまなにやってるの? 話したいことあるから電話したいんだけど』

 ――当たった。

恋人からのメール。その数十三件。数分おきに送られてきた恐怖のメッセージ。

血の気が引く。

察したのか、五条が、心底哀れだというように声をかけてくる。

「……本当に、ご苦労さま」

 お説教タイムは、同情によって終了。そして新たな脅威(恋人)に、丈二は立ち向かう。


          ¶

夢を見ていた。

知らない誰かに追われる夢。ガードルートはそれから遮二無二逃げる。

護ってくれる人は、ここには誰もいない。

追手がガードルートのすぐ背後に迫った。その魔手が肩に触れる。ガードルートは振り向く。

腐りかけてむき出しになった桃色の皮膚。ただれた口の奥で蠢く赤い舌。

夢のなかでさえガードルートを追いかけるゾンビは言う。――オレたちを地獄に落とす気か。

――ガードルートは、目を覚ました。

時計を見る。ペンギンの腹に埋まっている時計は、まだ深夜二時を示していた。

窓辺へ歩き、カーテンを少しだけ開けて外を覗く。夜の闇は、深く冷たい。

「……喉渇いた」

一人ごち、ガードルートはキッチンに向かう。

冷蔵庫のミネラルウォーターをコップに注ぎ、飲む。半分も覚醒していない頭が無意識のうちに糖分を求め、冷蔵室のなかで冷やしていたチョコレートに手が伸びるが、箱の上に張られたフセンがそれを止めた。

『おやつは一日一回とする。じょうじ』

バカじゃないの、とガードルートは内心呟いた。冷蔵庫を閉じ、目をこすって寝室へ再び足を向けると、

玄関の扉が、音もなく開いた。

ぎくりとしてガードルートはそちらに目をやる――懸念をよそに、入ってきたのは桑畑丈二だった。

「びっくりしたぁ。ジョウジ?」

「おお。ただいま」

夜中だというのに、何故かいま帰宅した様子の丈二は、何故かスーツ姿だった。急速に眠気が覚めたガードルートは尋ねる。

「こんな時間にどこいってたの?」

「ちょっとおでかけー」

ふぅん、とガードルートは鼻を鳴らした。

怪しい。ものすごく怪しいが、どうせ答えてくれないに決まっている。

ガードルートが再び寝室へ足を向けたところで、今度は丈二から声がかかった。

「あ、そうだガー子。明日のデートのことなんだけど」

「その気持ち悪い言い方やめて。なに?」

「どういう髪型で行くつもりなんだ?」

 思わぬ質問に、戸惑ったガードルートは目を瞬かせる。

「どういうって? いつもどおりよ」

「いつもどおりっていつもの寝癖頭か?」

 ――ガードルートの顔がみるみる熱を帯びた。

「しっ、仕方ないでしょ! 上手く結べないんだから!」

「そうだね。ガーちゃんが不器用なのはガーちゃんお手製の土砂崩れオムライスの形を見ればわかるからね。でも明日はそのままって訳にはいかないだろ? 少し変装する必要があるし」

 むう、とガードルートは唸った。丈二の言うことは全く正しい。明日は一般人に紛れてお忍びで街を歩く。十一特区にとってガードルートにとっては敵地だ。全くいつもどおりの姿で外に出る訳にもいかないだろう。

「……じゃあ、どうすればいいっていうの」

 むっつりと尋ねると、丈二はあっさりと答えた。

「髪、結んでやるよ。だから、明日はちょっと早起きしてな」

「……結ぶ? 貴方が? そんなことも出来るの?」

「まぁね」

 と、欠伸交じりに言う丈二に、素直に感心するガードルートである。この男、器用だとは思っていたが、そんなことまで出来るのか。

「……へぇ。じゃあお願いしようかな」

「あぁ。任せとけ――」

そう言うと、丈二は上着だけをキッチンのカウンターにかけ、バスルームに入っていってしまった。

いつもうるさいぐらいお喋りなくせに、珍しく言葉少なだ。必要な用件だけ伝えて撤退なんて丈二らしくない。

――疲れてるのかな。

せめてスーツぐらいハンガーにかけてやろうと、ガードルートは丈二が脱ぎ捨てた上着を何気なく拾い、

「……あ」

上着の襟に、血がついているのを見つけた。

「……」

バスルームと上着とを、ガードルートは見比べる。

なぜこんなところに血がついているのか、ガードルートは知らない。でも察しはついた。お喋りな丈二が決して語らない話。ガードルートの知らない、丈二の仕事の話。

脳裏に、シャオ主任の言葉が蘇る。

――せめて人、増やしたら?

「…………そんなの、わかってるもん……」

 ひとり呟いて、ガードルートはそっとバスルームへ近づいた。

ランドリールームの先、湯気で曇ったバスルームの中にいる丈二へ、声をかける。

「ジョウジ、あの……」

「なんだよえっち。覗くなよ」

「覗かないっ!!」

憤慨したガードルートは、早足で寝室に戻り枕に顔を埋めた。ばかじゃないのいっつもくだらない冗談ばっかりでまともに取り合おうともしないでほんとやだばかみたい。

沸騰した頭を無理やり抑えつけて眠ろうとしたガードルートだったが、頭のなかではぐるぐると思考が巡り続けていた。のどかな牧場の真ん中にいる麦わら帽子をかぶったクラリッサをどつき回し、勝ち誇る間もなく真っ黒な羊が群れをなしてガードルートに襲いかかり眠りを妨げたところで、

「――……ほんと、ばか……」

 ガードルートは、むくりと起き上がった。

サイドテーブルの電気スタンドを点け、引き出しのメモ帳の切れ端を手に取る。そこにぐしゃぐしゃと文字を書き、キッチンにメモを置いて、ようやくガードルートは眠った。


          ¶

今日も、健やかな朝はやってくる。

たとえ今日の丈二の睡眠時間が三時間だろうが、すでに恋人からのおはようメールが五件入っていようが、朝は清々しいものだ。カーテンの外の景色は今日も快晴。犬か猫でも連れて散歩にでも出かけたくなるような健やかな陽気だ。丈二と共に暮らしているのは、犬よりも騒がしく猫よりも手のかかる少女だが。あと爺。

丈二は起きてすぐさま身だしなみを整え、キッチンに向かった。ガードルートが起きるまでおよそ一時間。それまでにお姫様のご膳を作らねばならない。

今日はこの宿を利用する最後の日だ。ストーカーたちを撒くため、今晩からはまた別の宿を利用する。衣服や仕事道具は藤の車で運んでもらうとしても、食材は出来るだけ使い切り持ち運ぶことのないようにしなければ。

さて、何を作ろう。思案に耽けながらエプロンを着けた丈二は、

「――あん?」

 冷蔵庫に、小さなメモが張ってあるのを見つけた。見覚えのあるクセ字は曰く、

『いつもおつかれさま』

「……」

 それを手に取り、昆虫の卵を観察するかのようにまじまじと見つめた丈二は、再びそれを冷蔵庫に貼り付けた。

――お姫様は、その一時間後にご起床めされた。

「おはよぉ……」

まだ寝ぼけ気味の挨拶をしてくるガードルートに、丈二は冷蔵庫のメモを突き出す。

「これ、サイン欲しいんだけど」

「んん……? なにこ、」

――ようやく状況を察したらしい。

 眠たげに目をこすっていたガードルートは、メモを見てみるみる表情を変え、赤面し、慌てふためきながら激昂した。

「なっなにそれ! そんなの知らないんだけど!!!」

「いやアンタ以外に誰がい」

「いいからっ! そんなのどうでもいいからっ! 髪結んでくれるんでしょ?! 早く!!」

意味不明の憤りを向けてきながら、ガードルートは寝室に逃げ込み叫ぶ。

「はやく!」

――もう少し可愛い照れ隠しを覚えた方がいいと思う。

やれやれと諦観のため息を吐いて、丈二はエプロンを外した。お姫様の待つ寝室へ入り、すでにドレッサーの前で待機しているガードルートの後ろに立つ。

米が炊けるまであと二十分。それまでにこの仕事を終らせることにする。丈二は咳払いし、

「では、始めますよ、ガードルート様」

「うむ」

 かくして、丈二によるヘアスタイリングは始まった。

ドレッサーに置いた霧吹きを手に取り、ガードルートの髪に軽く噴射する。水がなじんできたところで、頭頂から優しくコームを通した。寝癖はすぐに直り、ガードルート生来のストレートに早変わりする。

「髪型のご希望はありますか? プリンセス」

「貴方に任せる」

了解。丈二は歌うように呟いた。

窓から差し込む朝日が、ガードルートの髪を輝かせた。その眩いばかりの光の束を一房掬うと、軽くしなやかな髪がさらりと指の間を流れていく。ガードルートの髪は梳かすには良いが、直毛すぎてきっちり結ばないとすぐ解けてしまう。

髪がほどけないように、きっちり結ばねば。丈二は指を軽妙に駆使して束を作っていると、パレスと接続する際のコネクタが目に入った。

真っ白な頭皮の中で異質な、赤い注射痕のような痕。いつもは髪飾りで隠しているプリンセス特有の傷跡を、ガードルートが気にしているのを、丈二は知っていた。見なかったフリをして、自然に目をそらす。

「――ねぇ、ジョウジ」

 おもむろにガードルートが声を上げた。丈二は手を止めないまま、「ん?」と尋ね返す。

「……貴方、大変じゃない?」

「なんだよ、突然」

 丈二は苦笑交じりに言うが、何が、とも、どう、とも、ガードルートは付け加えない。足を少しだけぶらぶらさせて、手を動かし続ける丈二の言葉を待っていた。

 明らかに言葉足らずなガードルートの問いかけ。

その意図を自分で推理して、丈二は答える。

「……大変といえば大変だけど、仕事だからね」

「たとえば、嫌になったり、……辞めたく、なったりは?」

「ないね」

丈二は即答する。

「――そう……」

 ガードルートがわずかに微笑する気配。振り子のように揺れていた足が、ぴたりと止まる。

「……最初に会ったとき、ジョウジ言ったよね。アンタに信用してもらわなくてもいい。オレはオレの仕事をするって」

「言ったっけ? そんな恥ずかしいこと」

「言いました。……こうも言ったよ、アンタはただ護られてろ、余計なこと考えるなって」

 言ったかなぁ、と呟く丈二。自分では全く覚えていない。半年以上前など遠い昔だ。

 その遠い昔のことを、今さらガードルートが掘り返したことが、少し気になった。

「……なぁ、ガー子。どうしてそんなこと聞いたんだ?」

「別に、深い意味はないよ」

深い意味はないと言いつつも、鏡のなかのガードルートは、小さな笑みを浮かべていた。

やはり意味ありげに。そしてどこか寂しげに。

「……すごいなぁ、って、思っただけ。……わたしは、そんな風にはなれないから……」

 言って、ガードルートはまた、足を振り出した。

 ――丈二が口を開きかけたとき、

 ぴんぽん、と玄関のベルが鳴った。

「誰?」「フジジィだろ」

 丈二はコームを置き、ガードルートを寝室に残して玄関に向かった。

 ドアスコープの先にいたのは、見慣れない顔の中年女。背筋をピンと伸ばし、男物のスーツを着たくたびれた顔の女は、丈二が誰何する前に先んじて口を開いた。

「私だ、インチキ男」

 ――間違いない。藤六郎だ。

丈二はドアチェーンを外し、ロックを解除した。中に入ってきた藤に早速丈二は尋ねる。

「その恰好、今日はどういうコンセプト?」

「食堂のおばさん、かな」

なるほど、と丈二は頷く。言われてみれば確かに、食堂で鮭のソテーをトレイにぶん投げてくるような厚かましい顔をしている。

「悪ぃフジさん、ちょっとダイニングで待っててくれる? まだご飯炊けてないんで」

「それは構いませんが。ガードルート様は?」

 藤がきょろきょろと首を巡らせていると、寝室から「フジさんおはよー」と呑気な声が上がった。どうやらガードルートに聞こえていたらしい。藤は寝室の扉越しに声を上げている。

「ガードルート様、おはようございますー。お着替え中ですかー?」

「ううんー違うよー。ジョウジに髪やってもらってたのー」

髪、と藤が訝しがる。丈二はガードルートの代わりに答えた。

「ちょっとね、一日限りのスタイリスト」

「……ほぉ……」

心底驚いたように、中年女は目を丸くしてしきりに頷いている。

「あの子がお前に……そうですか……」

 意味深にひとり頷く藤を残し、丈二は再び、寝室に戻ってガードルートのスタイリングを再開した。

大人しくなったガードルートを相手に作業を続けること十数分。編みこんだブロンドを高い位置で結い上げた、ツーサイドアップが完成する。最後にコネクタを隠すためのカチューシャを着けてスタイリングは終了だ。

その後、厚手のワンピースとレース地の七分袖のボレロに着替えたガードルートを含めた三人で食事を取り、すぐに丈二は出発の準備を整えた。中年女の顔をした藤の運転する車にガードルートと乗り込み、クラリッサとの待ち合わせ場所へと向かう。

「ほい」

と、道中、丈二はガードルートに変装用のサングラスとインカムを渡した。ガードルートは怪訝そうに首を傾げている。

「なあに、これ」

「お出かけ用の必需品だ。外に出たら必ずつけるように」

プリンセス同士のデートの最中、丈二は二人に近づかない。せめてこの程度の通信装備と変装道具を渡さねば安心が出来ないのだ。受け取ったガードルートは、ふぅん、と唸り、

「なるほど、ひちゅじゅ、……必需品ね」

「そう、ひちゅじゅひん」

がしがし蹴られながら、丈二はガードルートを伴って待ち合わせ場所にやってきた。

昨夜、丈二たちがスモークしたばかりの駅前広場は、休日の昼とあって、子ども連れやカップルで賑わっていた。昨日の爆弾騒ぎは、特区の報道機関によって正式にデマだと報じられ、今ではその余波も感じられない。当たり前の平和的日常が、そこには広がっている。この広場で過ごす人間のうち、およそ三割が昨夜から交代で警備している私服警官だということに気づく一般人は、おそらく誰もいないだろう。

こうして造り上げられた平和のなかで、プリンセス達の安全は保障される。

「――いた」

巌流島決戦に挑むような物々しい口調で呟いたガードルート。

その視線の先、待ち合わせ場所では、クラリッサが待ち受けていた。いわゆる女優帽と呼ばれるつば広の帽子を被り、縁なし眼鏡を装着して変装している。周囲には十数人の護衛官が控えていた。

しかし、その護衛官たちの姿を見た丈二は軽く呆れた。クラリッサのお忍びに合わせ、護衛官たも全員私服姿で一般人に紛れたつもりなのだろうが、傍目から見てどうみても不自然なのだ。耳にインカムをつけ、地味なスニーカーを履いている屈強な男たちの集団は、どうやっても私服警官か護衛官にしか見えない。この辺り、徹底的に気を払ってカジュアルな服装をしてきた丈二との違いが浮き彫りになる。現在二位で方々から命を狙われているガードルートより、最下位、かつホームにいるクラリッサのスタッフの緊張感がないのは致し方ないのかもしれないが。

厳つい護衛官たちに不自然に囲まれていたクラリッサは、ガードルートを見つけるなり、嬉しそうに手を合わせて黄色い声を上げた。

「うわぁ、ガードルートすっごく可愛い! 私のためにお洒落してくれたんだね! 嬉しい!!」

「違うから」

 ガードルートはそっけなく返したが、クラリッサは自分に不都合な言葉を通さないフィルターでも持っているのか、全く気にする様子はない。ひるまずにこちらへずかずかと進撃し、ガードルートの小さな手を握った。

「さ、早速出かけましょう? 大丈夫よ、この辺りは全部私の護衛官たちが守ってくれているから。ガードルートの身に危険が迫ることなんて絶対ないからね?」

「絶対、って言葉、嫌いなんだけどうわちょっと何するのジョウジー! 止めなさいよぉおお」

もちろん、止める訳がない。

クラリッサに引きずられていくガードルートを眺めながら、丈二は感嘆の声を漏らす。

「すげぇ、ガン無視」

あらためて、クラリッサには感心する。あのガードルートが二の句を続ける間もなく押し切られるとは。

「すまないな。クラリッサが無理ばかり言って」

こちらにかかってきた声に丈二は振り返る。

後ろに立っていたのは、二人の男だった。

一人は三十代ほどの男。芝刈りでもしたかのように芸術的な顎鬚の、大柄なブラックピープルだ。NBAのスター選手か軍の将校のような厳つい風貌ながら、丈二を見下ろす緑の双眸はつぶらで、愛嬌に満ちていた。

もう一方は、昨夜出会った、エクター・クォンだ。屈強な護衛官のなかで、彼一人だけが細身で浮いている。

先ほど声をかけてきた大柄な男が、まず一歩、丈二の前に歩み出た。

「はじめまして。クラリッサの主席護衛官、ジェームズ・トルーマンだ。こっちは副席護衛官のエクター……って、アンタは昨日、会ったんだったか?」

「あぁ、そこのおニイさんには世話になったよ。な」

トルーマンと握手しながら丈二が水を向けると、エクター青年は謙遜してみせた。

「とんでもありません。クラリッサの特区で、護衛官がゲストを守るのは当然のことですから」

「優秀な護衛官の言葉だね」

「はは、持ち上げるのが上手いな、桑畑護衛官」

丈二の言葉に豪快な笑みを作ったトルーマンが、くだけた口調で続けた。

「エクターを褒めてくれた礼だ。今日の警備全般はこっちに任せてくれ。勝手知ったる我が特区だからな」

「そう? じゃあお言葉に甘えるかな」

素直に丈二は喜んだ。特区外の人間である丈二があれやこれやと動くよりも、この土地をホームグラウンドとしているクラリッサのスタッフに動いてもらった方が手っ取り早い。

丈二の了承を受けたトルーマンは、早速インカムを使って部下に指示を飛ばしている。時を置かず、一般人に紛れた護衛官たちが散開。プリンセス二人の前方、側面、後方によどみなくついていく。流石は人数が多いだけあって動きに無駄がない。それに統率も取れているようだ。どうやら信用できそうだ、と丈二は思う。服装以外は。

「今日は楽できそうだな」

何気なく丈二が一人ごちると、傍らに立っていたエクターがにっこりと笑みを作った。

「えぇ、どうぞごゆっくりしてください。僕らにとって、貴方もゲストなのですから」


         ¶

 待ち合わせ場所で会うなり、クラリッサはガードルートの手を取って引きずりだした。

「まずはデザートでも食べよっか! ガードルート、アイス好きだったよね? この近くに美味しいお店あるんだ」

「ちょ、ちょっと腕! 腕引っ張らないでよ!!」

ガードルートが抗議する暇もない。【舞闘会】では勇壮に戦うガードルートも、現実では非力な子どもだ。自分より背の高いクラリッサに半ば引きずられるように引っ張られていく。

まず連れていかれたのは、広場の角のアイスクリームショップだった。クラリッサのお勧めだというショップは、着色料を一切使わず、素材そのままの色と味を残しているのが売りなのだという。ショーケースのなかに、色とりどりのフレーバーが並んでいた。

このお店はピスタチオとレモンが美味しいんだって私がピスタチオにするからガードルートはレモンにしなよ、とのたまうクラリッサを無視して、ガードルートはストロベリーを選んだ。

早速、その場で一口食べる。口あたりの良い甘さのなかに、ほんの少しの酸味が混じっている。アイスのなかにクラッシュストロベリーが入っていて、それを食べるとより一層、いちごの味を楽しめた。

「……うん、美味しい」

「でしょう? この前雑誌に載ってるの見つけてね、ガードルートにも食べてほしいと思ってたんだ」

「あっそ」

「はーい、あーん」

クラリッサはスプーンでアイスをしゃくると、ガードルートへと突き出してくる。

それをまじまじと凝視するガードルート。クラリッサが怪訝そうに首を傾げた。

「どうしたの? ほら、一口あげるから。あーん」

「――気持ち悪い。やめて」

「ええっ!? なんで? 女同士じゃない!」

「ほんっっとに気持ち悪いから。引くから。やめて」

 ところがクラリッサはくじけない。鋼の神経を武器に、アイスの乗ったスプーンをガードルートの口元に押し付けてくる。

「そんなことないよー。ふつうふつう。ほら、食べて。あーん」

「……帰りたい……本当に……」

心の底からドン引きするガードルートだったが、一口食べるまでクラリッサはガードルートを解放しようとはしない。

――本当に、苦難の道だ。


          ¶

「周囲を警戒しろ。特に二人に近づく不審者を見つけたら要注意だ」

トルーマンがインカムを使って部下たちに細かく指示を飛ばしている。買い物客のなかに紛れた護衛官たちは、すぐさま移動を開始。一般客とクラリッサ・ガードルートの間に自然に割り込み、盾となっている。

この調子なら、丈二の出る幕はなさそうだった。手際よく指示を飛ばすトルーマンの邪魔にならないように、丈二はベンチに座り、ガードルートの動向を注視する。

クラリッサと、その後をヒヨコのようについていったガードルートの次の目的地は、アイスクリームショップの対岸にあるクレープ屋のようだった。

この界隈のテナントで提供される飲食物に不審物が混入されていないのは、昨日のスモークで確認済だ。故にプリンセス二人には何を食べてもいいと伝えてあるのだが――それにしてもよく食べる。アイスのあとのクレープ。女の狂気が感じられる。

店の前のメニュー表を眺めていたガードルートは、やがてカウンターへ歩み寄った。電子マネーを使ってクレープを買うつもりだろう。カードケースを取り出し――あああ、盛大にカード全てをぶちまけた。近くにいたクラリッサも慌てて手伝い、周囲の護衛官たちが手伝うべきかと二人の周囲を右往左往している。

その様を見ていた丈二は、何気なく呟いた。

「――いいなぁ。そっちはたくさんスタッフがいて」

「そちらは大変そうですね」

 いつの間にか隣に立っていたエクター青年が、くすりと微笑を漏らしている。

「そう」

言って、丈二は煙草に火を点けた。ガードルートに遠慮する必要のない今日は、たっぷり紫煙と戯れられそうだ。

「お姫さまが人嫌いでね。お陰で三六五日、無休で護衛だよ」

「大変ですね」

ちっとも同情が感じられない口調で応じたエクターは、突然、声を潜ませて低く呟いた。

「――深刻だと聞いていますよ」

「なにが?」

「ガードルートのコミュ障」

思わず声に出して笑う丈二。笑い声を聞きつけたらしく、クレープ屋の前にいたガードルートが不審そうに視線を投げかけてくる。なんでもない、と丈二は手を振ってみせた。

「……せめて人見知りと言ってくれよ。まぁ確かに、現実よりもネットの方が友達多いみたいだけど?」

「すみません。わかりやすく、かつ核心を突いたつもりだったんですが」

「オレにそんな心優しい気遣いは不要だよ。あいつの習性はそれなりに知ってるさ」

言って、丈二は煙を吐いた。通りすがりの子連れにあからさまに顔をしかめられる。喫煙者の肩身は、いつの世も狭い。

「あの年頃の子供にはよくありがちだろ。他人と上手くコミュニケーション取れなくて、壁を作っちゃうの。ガードルートの場合、多少顕著ってだけでさ」

今度はエクターに笑われる番だった。丈二は憮然と「なに」と尋ねると、

「いや、すごい方だな、って思って」

 エクターは丈二の隣に座り、笑みを引いて語り始めた。

「――実は前シーズン、委員会の友人がガードルートの護衛官を勤めておりまして」

「へぇ」

 ならば丈二の前任者にあたるのだろう。今シーズン――今年の春からガードルートの護衛官となった丈二は、全く面識がない。

「彼は、週末になるとよく愚痴っていたんです。もうだめだ、あんなガキの世話は出来ない、って」

「ふぅん」

「でも、彼のときは他にも護衛官いたし、シフトで休日も取れていたそうで。――桑畑さんの場合は一人じゃないですか。身辺警護もスケジューリングも家事も、全部」

「まぁ、そうだね」

「よく体が保ちますね。疲れないんですか?」

「別に――」

 相槌を打ちながら、丈二は灰を携帯灰皿に落とす。

「まぁ、仕事だしね」

「やっぱり、すごい人だ」

気持ち悪いぐらいエクターは感心してみせる。謙遜の矢を放つ気も失せて、丈二は相槌も打たずに煙草を吹かす。

「ただいまー」

ちょうどよく、クレープを買っていたクラリッサとガードルートがこちらへ戻ってきた。二人の手にはそれぞれ二つずつクレープがある。

クラリッサがエクターにクレープを差し出しながら言う。

「エクター、ただいま。これどうぞ。……そろそろ買い物したいんだけど、ショッピングモールに移動してもいいかな?」

「ありがとう、クラリッサ。もちろんだよ」

クレープを受け取ったエクターはにこやかに了承すると、空いた片手を使い、インカムで速やかに護衛官たちに伝達を始めた。各員通達、先行班は次点の安全を再度確認せよ。確認後、同行班は共に移動を開始する。

「はい」

 そのとき、退屈そうにしていたガードルートが、丈二に何か突き出してきた。

先ほど買っていた、クレープの包み。その片方だった。

「これね、メルティショコラっていうんだって」

不可解な行動を取るお姫様がそう説明してくれる。丈二はぼんやりと呟く。

「へぇ」

「お店のオススメなんだって」

「うん。それで?」

 ――少しの間ののち、ガードルートは、

「……わたし、おなかいっぱいだから、あげる」

「ほぉ」

 じゃあ何故買った、とは言わないことにする。

丈二はクレープを受け取り、一口食べた。生クリームとアーモンド、チョコクリームと枝チョコレートと板チョコレートが入った、これでもかというぐらいチョコまみれの甘い一品であった。ガードルートが尋ねてくる。

「どう? 美味し?」

「うーん、なんつうか、……すっげあまい」

口元をチョコまみれにしながら丈二が答えると、

「――ふぅん。あっそ。じゃあ、わたし食べるから、返して」

ガードルートはむすっとした顔で手を差し出してくる。

 ――丈二はその手と、クレープを見比べ、

「……やっぱ食うよ。ごちそうさん」

 言い直すと、ガードルートは手を引っ込め、しきりに頷いた。

「――あっ、そ。ふぅん。じゃあいいよ。そこまで言うなら特別にあげる」

 ――何故か満足げな言い方である。


          ¶

ガードルートはクラリッサに先導されるまま、駅前広場を抜け、元国鉄駅内を通過してショッピングモールへ向かった。

そのショッピングモールは、世代を問わないアパレルショップをメインに、雑貨屋や大型書店などのテナント、映画館やレストランも抱えた大規模商業施設だった。土地不足の地球連合都市はもとより、特区でもこれだけの店舗が集約されたショッピングモールは珍しいと思う。

そのあらゆる店舗を見て回り、時に試着をして、クラリッサはショッピングを楽しんでいた。特に目的がないガードルートは、その背中にぶらぶらとついていくだけである。

「ねぇ見て見てガードルート、この服、可愛いよ」

クラリッサはショーウィンドウに目を留め、楽しそうに指を差す。ガードルートは慌てて、

「声大きいっ」

注意し、周囲を見渡した。幸運にも人の姿はない。良かった、と思う。ただでさえクラリッサの声は大きいのだ。運悪く周囲に聞きつけられたらお忍びの意味がなくなってしまう。

「わたしの名前、呼ばないで。バレたらどうするのよ」

「じゃあ……ハイジって呼べばいい?」

「なんでそうなるの!」

「私の偽名をクララとするとね、ガードルートはやっぱりハイジになるかなーと思って」

「二人称で呼び合えば済む問題でしょ?! しかもなんでアンタの偽名が前提なのよ!」

 ガードルートに激昂されたのにも関わらず、クラリッサは腹を抱えて笑い出した。

「あはは、ガードルート可愛い~」

――我慢の限界が来た。

ガードルートは踵を返し、怒気も露に吐き捨てる。

「……帰る」

「あっ、待ってごめんごめん! ちょっと買ってくるから待ってて」

 ガードルートはため息で承諾を返した。帰ろうとしてもどうせ無駄なのはわかっている。丈二もあの調子だし、どうせ逃げられないに決まっているのだ。

 クラリッサを待つ間、ガードルートは近場のテナントのショーウィンドウを見て回った。ガラスの中に飾られている、冬服のアウターやフォーマルスーツ。子供服、ウェディングドレス。

「……」

ガードルートは立ち止まり、ウェディングドレスに目を留めた。

それに興味を引かれたのは、ウェディングドレスがこういった商業施設で取り扱われることに驚いたということもある。

だが、それ以上にガードルートは、ドレスが持つ美しさに目を奪われていた。

薄い純白の衣を幾重にも重ねたドレス。その裾には、ヨーロッパ名産のクリスタルガラスがふんだんにちりばめられている。虹色にきらめくヴェールと、真っ白な手袋。こんなドレスを着てバージンロードを歩く花嫁は、きっと幸せだろう、と思った。人生で一番美しい自分と、祝福してくれる家族と友人。そして愛する人――。

「…………」

思い描いてみよう、とガードルートは思った。その先にいる未来の自分を考える。

【舞闘会】の試合のように、これを着た自分を想像構成しようと思いを巡らせる。

――だが、出来なかった。

愛する人も、ドレス姿の自分も、それどころか大人になった自分の想像も出来ないまま。

ガードルートはただ、その場にぼんやりと、立ち尽くすだけだった。

「――ウェディングドレス? 綺麗だねー」

 いつの間にか後ろに立っていたクラリッサが言う。それには応えず、ガードルートはショーウィンドウに近づき、そっと手を触れた。

ガラス越しにあるドレスは、こんなに近いのに、とても遠い。

「……ねぇ、クラリッサ」

「ん?」

「知ってる? 【舞闘会】で優勝すれば、わたしたちだって火星に行けるのよ」

「もちろん、知ってるよ」

「じゃあこれは? 火星に行けば、……BMCI電極、外してもらえるかもしれないって噂」

 クラリッサからの返事は遅い。やがて、返ってきた言葉は、どこかたどたどしかった。

「……うん。知ってるよ」

「それって本当だと思う?」

 問うと、また、クラリッサはぼんやりと答えた。

「……どうかな……よく、わからない」

 ――ガードルートは、そっと唇を噛んだ。

 クラリッサは嘘をつかない。ついても余所余所しくなるから、すぐにわかる。単純バカだからね、と昔よくオウンが言っていた。そのとおりだとガードルートも思う。

だからいつもはきはきと喋るクラリッサが、答えを濁すときは、――とても不吉なのだ。

そんなのありえないよ、と暗に告げられているようで。

不安をあおられたまま、ガードルートは言葉を震わせた。

「じゃあ……電極外せば、治ると思う? わたしにも……生理、来る?」

「……ガードルート……!」

クラリッサがはっとしてガードルートを見下ろした。

その視線を受け止めるのが、なんとなく嫌で、ガードルートは俯く。

――丈二にも藤にも、決して言えないこと。ガードルートたちプリンセスが人知れず抱えている闇。

プリンセスはみんな、新型の侵襲的BMCI電極を脳に刺しこんでいる。そしてほとんどが、BMCI手術の後遺症に悩まされていた。

脳の外面を覆うだけの非侵襲的装置と違い、脳の中に細い針のような侵襲的装置を差し込むのは、それだけのリスクを伴う。しかし、ハイリスクなものはハイリターンであり、高精度の脳波計測(デコーディング)を必要とする【舞闘会】には最適と判断され、結果としてプリンセスたちは侵襲的電極を付けざるを得ないのだった。

プリンセスでいる限り、電極は外せない。仮に引退したとしても、施設もない技術者もいない地球では、電極を外すことは出来ない。

だから、ガードルートは、どうあっても戦うことをやめられない。

「……ねぇ、ガードルート?」

クラリッサは少しだけ屈んで、ガードルートと視線を合わせてきた。

「私には、詳しいことはよくわからないけど――普通の女の子とちょこっと違くても、ガードルートは、じゅうぶん可愛いよ?」

「……知ったふうな口、利かないで」

「本当だよ」

 言って、クラリッサはウェディングドレスを見上げた。

「……私、想像出来るんだ。このドレスを着た大人のガードルートが、バージンロードを歩くところ。大好きな人の隣で幸せそうに歩いてる姿――」

 クラリッサは、眩しそうに目を細めた。

 まるで本当に、その先に何かが見えているみたいに。

「綺麗なんだよ。すっごく、綺麗なの」

いつもの、花が咲くような明るい笑顔じゃない。

夜空の月のように、温かく綻ぶ笑顔で、ガードルートを見下ろした。

「……ば、ばかじゃないの」

 ガードルートは顔を背けて早口に言う。

「妄想言ってる暇あったら買い物してよ。……時間、限られてるんだから」

「あっ、そうだった」

 思い出したように、クラリッサがばたばたと走っていく。

 ガードルートは呆れ――綻びかけた笑みを殺して、その背中についていった。


          ¶

クラリッサの買い物無双は続いている。テナントを出るたびにクラリッサの腕にはショップバッグが増え、丈二はまた感心するのであった。あの細腕で、よく持てるものだ。

一方、ガードルートが何かを買った様子はない。ガードルートはああ見えて生物学的には思春期の女の子だから、服の一着ぐらい買ってもいいようなものだが。

丈二は変わらず、テナントを見渡せるベンチに腰を落ち着けて、ガードルートの行動を見守ていた。待機は慣れたものだが、ものすごく暇なうえ、眠くなるし喉も渇く。煙草がなければとうにまいっていた。

「はい」

すると、少し席を外していたエクターが、差し入れの紙袋を寄越してくれた。ベーグルサンド二つと飲むタイプの高カロリーゼリー。ありがたいことにミネラルウォーターも一緒である。丈二は感心してエクターを見上げた。

「ありがと。センスいいね」

「どういたしまして」

エクターは丈二の隣に座り、幸せそうにコーヒーを口に含んだ。モデルのようなこの男が湯気くゆらせてカップコーヒーを飲んでいる姿はサマになりすぎて、まるで何かの広告みたいだな、と思う。コーヒーのCMとか、そんなやつ。

「――桑畑さん、ガードルートは僕たちに任せて貰って、少し休憩してきても構いませんよ?」

丈二が差し入れをたいらげた頃、控えめにエクターが切り出してきた。丈二は笑って手を振ってみせる。

「いいよ。ただ眺めてるだけだし、大した負担にはなってない」

「でも……」

「それに、なんとなくでもあいつのこと見てないとな。落ち着かないんだよ」

エクターが一旦、閉口した。丈二に視線を固定したまま、恐々と口を開く。

「まさか、桑畑さんって」

「ん?」

「ロリコン、なんですか……?」

 ――丈二は満面の笑みを作って、おぞましい妄想をする青年を威嚇した。しかしエクターはふっと笑い、

「まぁそれは冗談として。本当に仕事人間なんですね」

「……もう、アンタと会話する気をなくした」

「それは残念です。僕はもっと桑畑さんとお話したかったのに」

 笑顔を潜め、嘆息混じりにエクターは言った。

「――わからないんです。損得勘定を乗り越えてプリンセスを護れる、その理由」

 胸のうちを吐き出したエクターは、複雑な、若者らしい憂いを浮かべている。

「――僕たちは、護衛対象であるプリンセスに対する世間の評価と、常に同じラインに立たされます。たまにもてはやされることもあるけれど、大抵が非難の的です」

「試合に勝てば祭り上げられて、負ければ中傷される」

 口を挟んだ丈二に、首肯してみせるエクター。

「人の情感に翻弄される仕事は、他人が思う以上にキツいものです。僕の周りの護衛官たちは、それでも高給や社会的地位に魅せられてこの仕事を続けている。それは使命感や義務感というより、傭兵が仕事に尽くすのと似ている」

 淡々と語りながら、エクターは指を組んだ。まるでそれ自体が頭のなかで入り組んだパズルのように。

「……でも貴方の場合は、僕たちとは事情が違う。給与は委員会規定のもので、他のプリンセスの主席護衛官とたいして変わらない。評判最悪のガードルートを護ったところで名声を得る訳でもない。むしろ世間から評価が悪くなる一方だ。休憩も休暇もなく、たった一人で彼女を護り続けるようとするその理由がわからないんです」

「費用対効果に合わない、ってことか?」

エクターは素直に頷いた。その表情は、あくまで真剣そのものだ。

「はっ――」丈二の唇が皮肉めいた形に動き、その拍子に灰が床にぽとりと落ちた。「それならオレじゃなくて、今も世界各地で働いてらっしゃるお役人様に聞いた方が早いんじゃないか」

「――僕は貴方に聞きたいんですよ、桑畑護衛官」

――丈二はエクターに視線を投げた。

この柔和な青年の、真剣な表情のなかに混じる、一切の冗談を切り捨てる凄み。

それを鋭敏に感じ取った丈二は――自らが吐き出した煙のなかに思考を投じた。

――今朝も、同じことを聞かれた気がする。他ならぬ、お姫さまに。そんなに丈二に対してみんな信用出来ないのか。考えるとちょっぴり悲しくなってくるが、そういう役回りなのだからしょうがない。

――そう、しょうがないのだ。

「……さっきも言ったろ、エクター。割り切ってるだけさ。どんなわがままコミュ障プリンセスが相手でも、仕事ならば全力を尽くす。それだけ」

「そう、ですか……」

 不承不承、といった様子で頷くエクターに、今度は丈二から仕掛けた。

「で、アンタはどうなんだ?」

「僕、ですか?」

「あぁ。オレにこれだけ拷問しておいて、自分だけ秘密ってこたねぇだろ?」

「――僕は……」

 今度はエクターが思案する番になった。天井に目を向け、言葉もなくじっと考えこんでいる。

「あててみようか?」

丈二が提案すると、エクターは不思議そうに瞬き、答えを促した。

――にやり、と丈二は笑う。

「アンタ、クラリッサのこと好きなんだろ」

エクターの肩が、明らかに震えた。

丈二の爆笑がショッピングモールに響く。

遠くでガードルートとクラリッサが、不思議そうにこちらを見ていた。


          ¶

歩き疲れた。

ガードルートがそう言うと、クラリッサは、少し休もう、と提案してくれた。

ショッピングモールから、街を貫くように伸びた長い長い参道を歩いた先。広大な神社と緑地公園で、二人は足を休めることにした。

公園が先にあったのか神社が先にあったのか、ガードルートにはよくわからない。公園入り口には大きな鳥居があって、真っ直ぐ歩けば神社の社殿に辿り着く。そこから道を外れたところに、池や日本庭園、子どもたちが遊ぶような遊具の広場がある。前の時代から取り残された憩いの場。そんな印象を、ガードルートは覚えた。

もっと奥に行けば動物園もあるんだよ、とクラリッサが教えてくれたが、なにしろ足が萎えてしょうがない。遊具前の広場のベンチに、クラリッサと並んで腰を下ろした。

休日だからだろうか、ショッピングモールや駅前広場ほどではないにしろ、人の姿が多い。特に子ども連れの姿が多く見られた。

ガードルートは俯き加減に、人々の往来を眺める。

目の前を、人々が平然と行き交っている。仕事の愚痴で盛り上がるOL。子育てで悩む主婦たち。誰かが何気なく前を立ち止まるだけで、もしやバレたのではないかとドキドキした。

ガードルートにとって、これほどまで一般人を近くに寄せ付けることは、滅多にないことだった。身近に接触するのは丈二と藤、そして警察関係者だけ。マスコミ関係は全て断わっているし、買い物に出かけることすらない。お忍びとはいえ外に出て人と近づくのは、不慣れで少し、怖い。

――ガードルートは首を巡らせて、周囲を見渡す。

少し離れた花壇の近くに、桑畑丈二がいた。私服姿の丈二は、まるでチンピラのようだ。ガードルートの視線に気付いて、にこやかに手を振ってみせる。その笑顔はどこか嘘臭い。

あいつ、また人を小馬鹿にして。小さな憤りを覚える一方で、安堵する自分もいた。

――ふと、クラリッサが手を伸ばし、ガードルートの前髪を梳いてくる。

ガードルートは飛び上がった。

「なっ、なにすんのよ急に!」

「えー? ダメなの? 昔はよくこうやってたじゃない」

「ダメ!! ぜったいダメ!!」

「えー。残念だなぁ」

 ちっとも悪びれる様子もなく、クラリッサは悪戯っぽく笑った。ガードルートはむっつりと黙りこくる。

「――なんか懐かしいな、って思ってた。こうしてガードルートが近くにいるの……」

そう切り出して、クラリッサは空を見上げた。

ガードルートも何気なく、その視線を追う。そこには空が漠然と広がっているだけだ。青く虚ろな昼の空。

「私と、ガードルート。それにオウンとアリアンヌ。ハルモニアのなかで、慰めあいながら一緒に頑張ってきた」

「……そうだったかな」

「そうだよ。あの頃、私とガードルートは群を抜いて成績が悪かったじゃない。一緒に頑張って最低点を取ってたら、いつか解放されて家族の元に戻れるんじゃないか、って相談した」

「そ、そうだったっけ……」

「そう。……でも、ありえなかったのよね」

 クラリッサの笑顔に、苦いものが混じった。

「……私たちは、家族に捨てられたのに。戻れるはず、なかった……」

――ガードルートは、クラリッサが見上げた遠い空に、ようやく過去の憧憬を見た気がした。

今も宇宙のどこかを彷徨う、宇宙居住地ハルモニア。そこで出会った同じ境遇の少女たち。過去を、傷を、運命を、慰めあった友人。クラリッサは手術後のもっとも辛い時期を乗り越えた、ガードルートのかけがえのない仲間――だった。

「――ねえ、クラリッサ」

ガードルートは、ついに切り出す。

今日一日の目的を。ガードルートがここに来た、意味を。

「そろそろ本題に入らない?」

「本題? なんだっけ」

激昂しそうになるのを抑えて、ガードルートはつとめて冷静に告げた。

「わたしに、話したいこと、あったんでしょう」

「ああ、そうだった。あんまり楽しいから、忘れちゃってたよ」

 笑顔のまま、クラリッサはガードルートを真っ直ぐに見据えてきた。

「――ガードルート、前のシーズンで、いったい何があったの?」

「……」

ガードルートは、黙っていた。

ある程度予想はしていた。クラリッサがそこを突いてくることを。

だが、平静になろう、落ち着こうと思っても、拳の震えは止まらない。悪いことをした自覚があって、なお叱られる子どものような、嫌な気分。

クラリッサの無神経な追撃は続く。

「シーズン途中で病欠でリタイアしたのは仕方ないよ。すぐに復帰出来て本当によかったと思ってる。……でも、今はおかしいよ。どこの特区の代表にもならずに、一人で戦って……。それってなんのため?」

「なんの、ためって――」

 ガードルートは、はっと顔を上げた。

クラリッサが変わらず、真っ直ぐにガードルートを見つめている。―――だが、その表情は今までのどんな彼女のものとも違った。

笑顔は消え、その瞳の奥に深い悲しみが混じっている。

それはガードルートを哀れむものではない。もっと別の――そう、ガードルートがこの一年で何度も見てきた、不信と不満の表情。

――それを悟ったとき、ガードルートの声音に表れたのは、嘲りだった。

「決まってんでしょ、わたしだけのためよ」

絶句するクラリッサを、ガードルートはせせら笑う。

「他人なんか知らない。特区? バカじゃないの。火星に行きたきゃ技術者にでもなって勝手に行けばいい。なにが【舞闘会】よ。うざい! 鬱陶しい!! 応援とか都合の良いこと言っときながら、やってることはただの期待の押し付け。そんなものにいちいち振り回されちゃたまらないでしょ? わたしは、わたしだけが火星に行ければそれでいいの!」

「ガードルート……」

「なによその顔! やめてよね説教とか! 何様!? ほんときもちわるい!! あんたみたいに特区の人間の顔窺ってドベにいるよりよっぽどマシでしょ!!」

「……ガードルート、わたしは……」

「あーっ、クラリッサだ!」

 ――甲高い声で、我に返った。

声を上げたのは、公園で遊んでいた幼い子どもたちだった。クラリッサを見つけ、嬉しそうに近寄ってくる。

通行人に混じっていたクラリッサの護衛官たちがにわかに色めき立つ。しかし、クラリッサが手で制するような仕草をすると、護衛官たちは足を止め、注意を向けながらも、また通行人の流れに戻っていった。

ガードルートは慌てて丈二から貰ったサングラスをかけ直した。耳につけたインカムから、丈二の冷静な声が届く。

『慌てるな、ガー子。派手に動くとバレる。そのままでいろ』

そのままって……! 不安に駆られるガードルート。

だが、丈二がそう言う以上、ガードルートは動くことは出来ない。顔を伏せて、じっと嵐が過ぎるまで待つしかなかった。

「やっぱりそうだ! おかあさーん! クラリッサだよー!!」

子どもたちに呼びかけられ、その保護者らしき女性たちもどんどん集まってきた。

クラリッサは腰を上げ、ガードルートの前に立った。まるで壁となるように。

「うそ、本物!? 本物のクラリッサ!?」

「はい、そうです」

クラリッサは笑顔を作り、求められる握手に次々と応じている。

「クラリッサ、がんばれ!」「応援してます!」「次の試合、大変でしょうけど頑張ってね」「ガードルートなんてやっつけちゃえ!!」

「うん。みんな応援よろしくね!」

ひとしきりエールを送ると満足したらしい、親子連れは長くそこには留まらず、手を振って去っていった。

その姿がようやく見えなくなった頃――ガードルートは、軽蔑を吐き捨てた。

「――最低」

 振り返ってくるクラリッサを、ガードルートは非難する。

「期待させるぐらいなら、最初から嘘なんてつかなきゃいいのに。どうせ、勝てる訳ないんだから」

クラリッサからの反論は、なかった。

恐ろしくなるほどの、長い長い沈黙の末。

クラリッサは、ゆっくりと口を開く。

「私には、嘘をつくことしか出来ないから」

――ガードルートは、クラリッサを見上げた。

 その声は、クラリッサのものとは思えないほど、低く静かだった。


「……私は、今シーズン、敗退すると思う」

  

――驚愕が、ガードルートを自失させた。

クラリッサを弱いと思っていた。どう足掻いても、ガードルートに勝てる訳がないと思っていた。――まさかそれを、本人の口から聞くことになるとは、思ってもみなかった。

「……な……に、それ……」

 何かの聞き間違いだと、問うガードルート。しかしクラリッサの言葉は変わらない。

「自分でわかってるの。私は勝てない。二十四位のニカとも、歴然とした差がある」

そして、クラリッサは再び空を仰いだ。

さきほど、追憶を込めて蒼穹を見上げた少女とは、まるで別人のような空虚を浮かべ、

「――汚染区に、行くことになると思う」

プリンセス・クラリッサは、そう、言った。

「……あ、あんた……」

 ガードルートの糾弾の声は、我知らず震えた。

「……あんた、何も思わないの? あの子たちは応援してるの、あんたが火星に連れてってくれるって期待しているからだよ……? あんた、負けるとかってそれ……っ、それ、みんなへの裏切りだって気付いてる!? ねえ!?」

「――わかってるよ」

「なんで自分の負け認めてるの!? なんで汚染区行きを受け入れてるの?!」

ガードルートの慟哭が、広場に響いた。

護衛官たちに聞こえたかもしれない。構わない、と思った。聞こえてしまえ。この不条理を、荒ぶる心を、放たずにはいられなかった。

――クラリッサが、はじめて、俯く。

「……どんなに努力しても、私は勝てなかった。私は才能がない。プリンセスになっちゃいけなかった」

「そ、んな――」

それは違う。

言いかけたガードルートを振り払うように、クラリッサが顔を上げる。

――そこにあるのは、悲壮な決意。

「私は弱くて、馬鹿だけど……でも、みんなの前から逃げ出したくはない」

 沈む世界のなかでなお、輝く夕陽のように。

 弱々しく、しかしはっきりと、プリンセス・クラリッサは微笑んだ。

「弱っちくても、プリンセスだから」


          ¶

夕の茜色は沈んで、夜闇が音もなく訪れる。

最後の一本に火を点けて、空っぽになった煙草の箱をくしゃりと丸め、桑畑丈二は立ち上がった。時計の針は五時を示している。あらかじめ定めた、デートの終了予定時刻だ。

「――やれやれ、やっと終ったな」

「桑畑さん、お話があります」

 丈二を呼び止めたエクターは、改まって言った。

「実は今日、貴方と話していたのは、これを渡せるかどうか悩んでいたからなんです」

そして手に持っていた分厚い封筒を差し出す。

A4サイズの、図鑑ほどもある厚みの封筒だった。

「十一特区の住民たちが集めた、署名です。三万人分あります」

――丈二は封筒を開け、中を取り出した。

一枚の書面につき、約十人。住所と名前、それに一言ずつコメントが添えてあった。

病気の子どもがいます。もし汚染区に行くことになったら、子どもの病気がますます悪化してしまいます。大事な仕事があり、これまで培ってきた努力が全て台無しになります。親の介護が。出世が。

丈二はぱらぱらとめくりながら、これをエクターが渡してきた意味を悟った。紫煙が、とぐろのような線を描いて夕闇に散っていく。

「……八百長をやれってか?」

 エクターは固い表情を浮かべ、頷いた。

――丈二も、先日の試合を観て思っていた。贔屓目を差し引いても、ガードルートとクラリッサの間には歴然とした差がある。おそらくこのまま戦っても、ガードルートはなんなく三勝を上げることが出来るだろう。実際、本人もすでにランキング一位であるオウンとの戦いを見越している。

ガードルートが三勝すれば必然的に、対戦相手であるクラリッサは三戦全敗してしまう。クラリッサとすでに最終戦を終えた二十四位のニカとの間には勝ち点一の差がある。クラリッサの二勝一敗ならば特区は残留決定、一勝二敗でニカとの最下位決定戦となり、全敗すれば汚染区行きが決定する。

現実的に八百長でもやらない限り、クラリッサと十一特区に未来はない。そしてそのタイミングは、ガードルートとの最終戦二回を残した今しかない、という訳だ。

「――あの子は苦しんでる。弱く、不甲斐ない自分を責めている」

エクターは、笑みを沈めた。愛嬌を殺し、まっすぐに丈二を見つめてくる視線に、なんの躊躇いも迷いもない。

これが昼間の答えになるのだと、丈二は察した。

この青年にとっての、クラリッサを護る理由。

「あなた方にとっては、たかが一敗でしょう。それでも我々にとっては地獄行きを避ける希望の一勝です」

 エクターは改めて、丈二を見つめた。

「三位のシェラを敗退させるための協力は惜しみません。――どうか、我々を助けてください」

そして深く頭を下げる。

丈二は少しだけ困り、深々と下がった青年の頭に言う。

「……よせよ。頭下げんのはアジア系の悪いクセだぞ」

「……すみません」

 そして頭をあげたエクターに、丈二は告げる。

「……ガードルートには、伝えとくよ。どうなるかわからないけどさ」

「はい――お願いします」

丈二は手をひらひらと振りながら青年に踵を返した。

片腕に抱えた封筒は、ずっしりと重たい。



時間が来て、ガードルートは自分から、丈二の元へ戻ってきた。

クラリッサも、同じように護衛官たちと合流している。愛嬌の良い彼女には珍しく、こちらに別れの挨拶もしないまま迎えの車に乗り、公園を去っていった。

無言のガードルートと、丈二に一瞥も寄越さないクラリッサ。

二人の様子がおかしいのは、例の口論のせいだろうと予測を立てていた。

内容は知らない。聞くこともない。護衛対象(プリンセス)から話さないかぎり、護衛官はプライベートには立ち入らない。

だから、丈二は何も出来ない。

世界が日暮れの濃紺に沈んでいくなか、二人は公園のだだっ広い駐車場で、藤の迎えを待っていた。

ガードルートは駐車止めに座り、暇を持て余すかのように足をぶらぶらとさせている。

丈二はまたしばらくお役御免となったライターを、手の中で弄んだ。

重い沈黙のなか――口火を切ったのは、ガードルートだった。

「……さっき、クラリッサの護衛官から何か受け取ってたでしょ」

「何の話だ?」

「ウソつかないで」

 ガードルートの口調は強い。

「何? 何を貰ったの? お願いだから教えて」

「なにも……」

答えかけ、丈二はガードルートを見下ろす。

ガードルートは、こちらを真っ直ぐに見つめていた。その大きな瞳には、切実なものが混じっている。

 ――これ以上、誤魔化せそうにない。

観念した丈二は、エクターから預かった分厚い封筒を、アタッシュケースから取り出して見せる。

それをじっと見つめていたガードルートは、立ち上がり、手を伸ばしてきた。

「渡して」

「ダメだ」

「読ませて」

「ダメだ」

「変に気を遣うのやめて」俯き、ガードルートは言う。「わたしは強いもの。何があっても、傷ついたりなんかしない」

俯いたまま、なおも両手を差し出してくるガードルートを、丈二は見下ろす。

「ガードルート」

呼びかけられ、ガードルートが、そろりと瞳を持ち上げる。

丈二はその瞳を真っ直ぐに見つめ、言った。

「アンタを害するもの全てから、アンタを護るのがオレの仕事だ」

――言葉もなく、ガードルートは丈二を見ている。

まるで幼児のような、弱々しい少女の視線。

丈二はかぶりを振ってみせた。

「知らなくていいことまで知る必要はない」

長い、沈黙の末に、

「――桑畑丈二。貴方は、わたしの言うことを聞いていればそれでいい」

 プリンセス・ガードルートは、そう答えた。

――丈二は、躊躇いながら、封筒を差し出す。

ガードルートはそれを両手で受け取り、じっと見下ろしていた。分厚い封筒をぎゅっと胸に抱きしめる。

「……ありがと……」



かつて山間に栄えた温泉地も、山から流れる源泉そのものが汚染されてしまっては、廃れるのは仕方がない。

とはいえこれほど立派な温泉旅館を廃墟にするのはもったいないと、十一特区を編成した年、火星連邦が温泉地をまるごと買い取って、大規模な保養施設へと変えたのだ。現在では火星連邦地球支部の職員たちのリゾート施設となり、世界各地から訪れる賓客の滞在施設としても使われている。ややスタジアムからは遠いものの、プリンセスの宿泊施設としては申し分ない。安全だし、何より静かだ。

その静かな夜にわめき立てるのは無作法者のすることだ、と丈二は思う。特にこの昔ながらの風流な日本旅館には、女のヒステリー声は合わない。

だが、どんなに説得しても、丈二の恋人の妄想に満ちた糾弾は止まらない。今日の議論は、丈二の返信がなぜいつも遅いのか、である。

「いやだから、シーズン中は仕方ないんだって。別にお前が嫌いになった訳じゃ……だから、なんでその発想になるんだよ」

どうせ他に女がいるんでしょ私知ってるんだから。

「違うって。妄想だろ妄想。頼むからもっと静かに……」

美しい日本庭園を臨める縁側に座りながら、丈二は頭を抱えていた。恋人からの電話は、運営委員会とのやり取りよりよほど神経を使う。気分は空腹の猛獣を馴らす調教師だ。

「わかった、わかった。シーズンが終わったらすぐに……」

そのとき、どこかで控えめに襖が開く音がした。

音の方に視線をやる。丈二の部屋と縁側で繋がった隣の部屋から、浴衣姿のガードルートが姿を見せていた。

ガードルートは俯いたまま、何も言わずに玄関の三和土(たたき)へと進んでいく。

「――ごめん。すぐ折り返す」

 話はまだ終ってないと叫ぶ彼女をなだめつつ、丈二は通話を切った。ガードルートの背中を追いかけて声をかける。

「ガー子、どこいくんだ」

「フジさんのとこ、泊まる」

振り返りもせずに答えたガードルートは、旅館の廊下へと消えていく。

その抑揚のない低い声音で、丈二は事情を察した。

だが、止める理由はなかった。宿ごと貸切ったこの旅館のなかなら安全だ。どこで休もうと、ガードルートに危険は及ばない。

ないの、だが。

なめしたような光沢を放つ板張りの縁側に射す、部屋から漏れる灯りを、丈二は追った。そこは今まで、ガードルートが休んでいたはずの部屋だ。少しだけ開いている襖の奥に目をやる。

ガードルートの体格そのままに盛り上がった跡を残す布団。そして枕もとに散乱した無数の手書き書類。

エクターに貰った署名。

――丈二はそっと、ため息を吐いた。


          ¶

ガードルートの部屋から二つほど離れた『萩の間』に、藤六郎の泊まる部屋はあった。

ガードルートは一度大きく息を吐き、大きすぎも小さすぎもしない声量で、『萩の間』の奥へと声をかけた。

「フジさん、もう寝た……?」

「いいえ、起きておりますよ」

 返事が返ってきてほどなく、襖がそっと開いて、藤が出迎えてくれた。

藤の顔は、またいつもの老人のものに戻っている。東洋人の顔立ちをモデルにしているせいか、矢羽の浴衣がとても似合っていた。柔和な笑顔のまま部屋の中に招いてくれる。

失礼します、と一応言い添えてから、ガードルートはスリッパを脱いで部屋に上がった。

ガードルートの泊まっている部屋よりもいくぶん小さな和室の中央には、布団が敷かれている。仲居に用意してもらったときよりかすかに乱れがあるのは、きっと横になって休んでいたせいだろう。寝てるところを起こしちゃったかな、と少し悪いことをした気持ちになった。

藤は備えつけの冷蔵庫に歩み寄り、急須を手に取ってガードルートを振り返った。

「お茶でも淹れましょうか。縁側でもよろしいですかな?」

「うん」

テーブルが片付けられてしまったようなので、障子戸を開け放ち、縁側の縁へガードルートは腰を下ろした。秋の夜風は冷ややかだったが、今はそれぐらいがちょうど良い。

ほうじ茶を淹れてくれた藤が、盆を置いてガードルートの隣に座る。並んで腰を下ろした二人は、鈴虫の鳴き声のもとで湯のみ茶碗を傾けた。庭の石灯篭の上に降り積もった紅葉。遠くで、ししおどしが傾く音。

日本の秋夜の下、久しぶりに飲んだほうじ茶は少し甘くて、不思議とほっとする。

「――今日ね、クラリッサと遊んだんだ」

一口目を口のなかに染み渡らせたあとで、ガードルートは切り出した。

はい、と藤は、控えめだが耳に優しい相槌を打ってくれる。

「すごく、すごくね、楽しかったの。ひとりでゲームしてるより、ずっと」

言って、ガードルートは夜空を見上げる。

星空のなかに思い出が駆け巡った。ガードルートが、四歳から九年間、囚われていた宇宙居住地(スペースハビタット)・ハルモニア。薬と手術、頭痛。訓練と勉強。小さな公園と、そこから見えた地球の瞬き。励ましてくれた友達。

「あのコね、何も変わってないの。プリンセスになってもおんなじ。優しいクラリッサ……」

三歳年上のクラリッサは、いつもガードルートの遊び相手になってくれた。幼い頃は、クラリッサの薦めるままに絵本を読み、おままごとをしていたこともあったけれど、成長するうちにガードルートはテレビゲームを好むようになって、クラリッサもそれに付き合ってくれた。

クラリッサはゲームが天才的に下手くそだった。特に格闘ゲームやシューティングなど、反射神経を問われるものが苦手で、いつもガードルートに負けていた。小さな筺体を手に、勝ち誇っているガードルートへ、クラリッサがこう言ったことを覚えている。

――すごいね、ガードルートは。とっても上手なんだね。

 自身の画面上に大写しにされた『Youlose』の文字など気にも留めず、クラリッサは笑顔を作っていた。

思い返せば、昔からそうだった。うっとうしいくらいガードルートに優しくしてくれたクラリッサ。万人に優しく、そして決して万人から愛されてはいなかったクラリッサ。

でも、とガードルートは今になって思う。

あの子には、周囲の気持ちなど関係ないのかもしれない。それすらも跳ね除ける、押し付けがましいほどの意思の強さ。――罪も、責任すらも。

わたしとは大違い、そう、ガードルートは自嘲気味に思う。

「フジさん、わたし……」

 ガードルートは呟き、冷めた湯のみを置く。

「いいのかな、本当にこれで……」

 ――長い沈黙の末、藤は口を開いた。

「――ガードルート様の夢と、クラリッサ様と十一特区の住民の願い。その二つを同時に叶えることは困難でしょうな」

ガードルートは、言葉もなく藤を見上げた。

聞くまでもなくガードルートの悩みを悟った老人は、穏やかな笑みを浮かべたまま、暗闇に沈んだ日本庭園を見つめている。

「クラリッサ様に手心を加えれば、確かにクラリッサ様とその住民たちを救うことは出来るでしょう。しかし二十四位のニカ様と、ニカ様の十三特区の人々が汚染区へ行くことになってしまいます。いずれにしても誰かが汚染区に行かねばならない。そこは変えられません」

「……今更わたしが何かをしても、無駄……?」

 藤は優しく笑い、頷いた。

「そもそも特区の人間は、自ら志願して火星行きの選択肢を選んだ人間。いわばギャンブルに乗ったようなものです。そんな彼らが、汚染区にいくことになったからといって対戦相手に情けを求めるというのは、まぁ都合の良い話だと思いますなぁ」

 そして藤は湯のみを手に取り、そっとすすった。

「悪いのは、この下らないシステムを作った火星の連中でしょう」

――ガードルートは、肯定することが出来ない。

世の仕組みに疑問を訴えられるほど、ガードルートは地球を――世の中を知らなかった。

おそらく、プリンセスの大半がそうだろうと思う。幼くしてハルモニアに連れていかれ、世間との関わりをなくし、ただ周囲の大人たちの言うとおりに訓練を積んできた。――そして、完成した順番に地球に送られ、仲間同士で戦わせられる。疑問を持つ余裕すらないままに。

おそらくガードルートは、地球に生きる人々の半分も、何一つ理解していない。火星と地球の関係も。このゲームの成り立ちも仕組みも。藤が下らないと吐き捨てる、その不条理の中身すらも。

――知らないまま、ただ戦わせられている。

「……そう、だよね……」

教わった方がいいと思ったこともあった。けれども藤や丈二は、決して自分たちからこういう話題を広げようとはしなかった。きっとそれはガードルートを傷つける真実だからだ。

二人が不要と判断してくれたなら、ガードルートが知る必要はないのだ。

ならばガードルートが出来ることは、ただ一つしかない。

「どうやったって、苦しいんだもんね。だったら、今だけ我慢して、それで、火星に行っちゃえば、全て終りになるんだもんね……」

 ガードルートは膝を抱えた。自分のものとは思えないほど、冷え切った体。

「怖くないよ。平気だよ。決めたもん。悪い子になるって。もう、迷ったりしないもの……」

「――ガードルート様」

 藤の声は優しい。

「私の前では強がる必要はありませんよ」

 そう言って、唯一、ガードルートの元に残ったスタッフは優しく背を撫でてくれた。

――ガードルートは、膝に顔を埋めた。こみ上げてくる嗚咽を殺すのに必死だった。

藤の骨ばった手が、ガードルートの頭を撫でた。

泣かない。どんなに優しくされても、絶対に泣かない。そう決めた。――決めたから。

「ふっ、フジさんっ、わっ、わたしっ……」

 鼻をすすり、発作のように嗚咽を漏らしても、絶対に涙だけは零さない。

「へ、へいきだよ、もうだいじょうぶ……だいじょうぶ、だから……」

もう誰にも嫌われないために、一刻も早く火星に行きたいのだと。

夢を叶えるために、火星へ行くのだと。

胸に秘めた願いを、孤独のなかに抱くガードルートを包み、ただ夜は更けていく。


          ¶

――嫌な予感は、朝からしていた。

好物のオムレツを作ってやったというのに、ガードルートの表情は曇っていた。ケチャップで落書きもしなかった。全てたいらげた後、「食器はわたしが洗うから」などと言い出して爺を感涙させていた。

そう、不吉だったのだ。何もかも。

 しかし、桑畑丈二に出来ることは、やはり何もなかった。

ガードルート対クラリッサ、第二回戦開催の朝である。



『スタジアムまでのルート、検索。モグラ、の存在は、確認できません』

〝GOEMON〟の電子音声が行路の安全(セーフティー)を告げている。旅館からスタジアムまで、問題なく向かえそうだった。

移送用の車の前でカフスフォンから流れる音声を聞き届けた丈二は、運転席に待機していた藤に一つ頷いてみせた。若い青年の格好をした藤は頷き返し、エンジンをかける。

「――了解。パンプキン号、移動を開始する」

『了解。良い、一日に、なりますように』

丈二は〝GOEMON〟との通信を切り、後部座席から車に乗り込む。先に乗っていたガードルートは、何をするでもなく窓を眺めていた。

一回戦以来、ストーカーは不気味な沈黙を保ったままだ。先日捕らえたエプロンの男を六係が聴取しているが、意外にも口を割らないという。メットの男との連携といい、奴らだけが犯行に携わっていたとは思えない。黙秘を通すほど組織に対する忠誠心が厚いのか、それとも。

丈二が思案にふけっている間に、車が移動を始めた。ふぅ、と何気なく嘆息を吐いて座席に寄りかかると、ふいに違和感を覚える。

ガードルートが、丈二のスーツの裾を掴んでいた。

「――なにしてんの」

「別に」

「別にっていう手じゃないだろ。おやつか? それともトイレ?」

しかし、ガードルートはすぐには答えず、しばらく沈黙していた。

やがてのろのろと視線を上げ、

「ジョウジ……」

どことなく不安げな面持ちで見上げてくるが、それでも言葉を続けようとはしない。

「……どうした」

丈二が促すと、

「――ううん、なんでもない」

 そう言って、ガードルートは瞳を閉じた。

その手は、丈二の裾をぎゅっと、握り締めたままだった。


そうして、試合は始まった。

ガードルートを見送ったあと、丈二はいつも通り入場口付近で待機する。タブレットを取り出し、立ったままで試合の生中継を視聴。会場内にいるのに、窓やモニターのない入場口手前の通路で試合を観戦するには、タブレットを使うしかない。護衛官の退屈なところだ。

今回のバトルフィールドは、広漠無境の砂漠。前回の遊園地とは違い、黄金色の丘陵があるだけで、ステージギミックのようなものが一切存在しない、シンプルなステージだ。

先にフィールドに顕現したのは、クラリッサだった。今日も前回と同様、いかにもお姫さまらしい煌びやかなドレススタイル。

前の試合でクラリッサは召喚をメインに戦った。今回はどういった戦法で来るのか。丈二はタブレットを使い、クラリッサの過去のデータベースを探った。

――会場のどよめきが聞こえたのは、そのときだった。

「ガードルート……?」

 つられて画面を【舞闘会】中継に切り替えた丈二は、思わず呟いた。

ガードルートの化身がフィールドに姿を見せている。

だが、そこで彼女が身に纏っていたのは、愛用のプレートメイルではなかった。

幾重にも衣を重ねた、絹のドレス。星屑を散らしたかのように小さな輝きを纏い、飾るリボンの尾が流星のような線を引いている。

光を纏って現れる、まるで女神のような姿。

「――おい、ガー子」

 呆けつつ、丈二はパレスのなかのガードルートに繋がるカフスフォンに声をかけた。

返事はない。おそらくガードルートは通信を遮断している。プリンセスの側から拒否されてしまえば、それ以上護衛官側からコンタクトを取ることは出来ない。

強い焦燥を覚えながらも、丈二は黙って事の推移を見守るしかなかった。かすかに冷や汗が流れる。届かない声を、心のうちでガードルートに訴えた。

――それは、クラリッサに使うような代物ではない。


          ¶

観客席の悲鳴が徐々に大きくなるのを、ガードルートは意識の遠くで聞いていた。

『お、おおっと、フェ、フェーズ・ウィクトーリアを発動させる模様です!!』

 実況の声もどこか引きつっている。

どんな強靭な意志すらも屈服させる、シーズンに一度だけ使うことを許された、プリンセスの切り(ワイルドカード)

ガードルートは知っている。

この切り札を、クラリッサは今シーズンですでに使っていることを。

ガードルートは知っている。

今のクラリッサに、これを塞ぐ手立てはないことを。

ガードルートは知っている。

これを使えば、どうなるかを。

――でも。

ガードルートはちらりと、自身のパレスがある、東側ブリッジを見た。

ここからは見えないけれど、その入り口の奥にはきっと丈二が控えている。生身のわたしを護ってくれる丈二が。

彼はどう思うだろうか?

この、非道を。


クラリッサ、と叫ぶ、誰かの声がした。それは懇願とも応援とも違う――悲鳴。

逃げろ、と訴える観客の声がする。やめて、と叫ぶ声は、ガードルートに届けたいのだろうか? 受け入れるはずもないのに。そんなの、届くはず、ないのに。

――ガードルートは、唇を噛んだ。

「わたしはっ……」

 俯く。

フィールドの向こうで相対しているはずのクラリッサの顔を見ることが出来ない。観客も、実況の声も、耳に入れたくない。味方であるはずの藤や丈二の顔を、想像するのが怖い。

「わたしは、悪い子……」

魔法の言葉で、心のうちに広がる黒い靄を今は撥ね退けて。

ガードルートの脳内に、〈ゴッドマザー〉のアナウンスが響く。

『フェーズ・ウィクトーリア、準備完了。プリンセスの肉声によるパスワード入力をお願いします』

「……プリンセス・ガードルートが告げる。――女神の膝元に傅け(オペレーション・ミネルヴァ)」

途端、

〈ゴッドマザー〉の力が、ガードルートに注ぎ込まれる。

ガードルートは、その力を支配できない。制御もせず、行使しようと想像することすらせず、ただ流れを受け入れる。飲み込む。

自らが数字と化していく感覚に、ガードルートは身を委ねる。

「だからっ……!!」


――それは、スタジアムにいる観客もTV中継を見ている全世界の視聴者も、対戦相手のクラリッサでさえ、予期していなかったに違いない。

みんな自分が為すべきことを忘れたかのように、ガードルートの一挙手一投足を呆然と見ていた。


それは奥の手。それは奥義。それは屈服。

〈皇女の威光(フェーズウィクトーリア)〉。

〈ゴッドマザー〉の導きによって解き放たれる、無制御の業。

プリンセスが行使できる、最強の奥義。

ドレスを纏ったガードルートのクラウンが、光り輝いた。

「オペレーション・ミネルヴァ――」

囁きと共に、ガードルートの身体が白く光る。

身体は人の形を解き、無数の光弾となって降り注ぐ――クラリッサへと。

 唖然としていたクラリッサが、自分の使命をようやく思い出したかのように手を広げた。

「――ヘカトンケイルッ!!!」

自身が使える最大の防御技で、必死の抵抗するクラリッサ。だが、無駄なことだ。今シーズンですでにフェーズ・ウィクトーリアを使っているクラリッサには、ガードルートの技を塞ぐことは出来ない。

抵抗虚しく、クラリッサの身体は、あっさりと吹き飛ばされた。

フィールド上にクラリッサの姿はない。

彼女の防衛本能が、敗北を認めた。

 ――あっけないほどの、結末。

『す……凄まじい威力です!! クラリッサの……クラリッサの、敗北が決まりました……!』

 かなり遅れた頃、アナウンサーが呆然と宣言し、試合は終了した。

ガードルート対クラリッサ、第二試合の結果はガードルートの勝利。現時点でガードルートは二戦二勝。

そして、クラリッサのシーズン最下位が、濃厚となった瞬間だった。

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