2章
【舞闘会】の歴史を紐解くには、今から三百年以上前――かつてこの地球が、まだ美しい大地と海に愛されていた頃まで遡らねばならない。
その頃人類は、繁栄と英知を起因とする、全く異なる二つの分水嶺に立たされていた。
一つは、当時の先進諸国を脅かした、テロリストによる〈汚い爆弾〉の連続投下と核汚染。
もう一つは、テラフォーミングを終えた火星への、移住計画の実行である。
二十一世紀、いくつもの紛争を乗り越えた国際社会は、共に手を携え協調することを約束していた。
過去の独裁主義、専制政治が望んできたような鉄の時代ではなく、人それぞれが主権を持ち、平和のために生きる――。たとえ欺瞞であっても、その裏で金による支配や差別、紛争があったとしても、人々が真に望んでいるのは、自らと自らが愛するモノとの恒久の平和に他ならなかった。
だが、いつどこの世界でもマイノリティが存在するように、国際社会に反発する集団は存在する。
彼らは武器を取り、様々な手段を用いて国際社会へ反旗を翻した。――その活動に対する是非をここで述べるつもりはない。ただ結果として、世界は再び危急存亡の秋を向かえることになった。
もっとも深刻だったのは、件の組織が用いた兵器――〈汚い爆弾〉による被害である。
当時、国際社会の舵取りを担っていた大国の首都に投下されたそれは、インフラという国の生命線そのものを奪っていった。
首都機能は麻痺し、あらゆる産業は強制的に中断され、人々の生活域は削られた。
最悪だったのが、後の調査で判明した〈汚い爆弾〉による放射性物質の実効半減期が、およそ一万年と計測されたことである。
世界中の産業・経済・政治の中心である国の首都が陥った、極めて長期間・高濃度の放射能汚染という危機。
この凄惨かつ甚大な被害に、当時軍事国家であった大国は、すぐさま報復戦争を仕掛けた。
大国の呼びかけを受け、同盟国も同調し次々と参加を表明。
かくして国際平和の大義の元、二十二世紀初頭、最大にして最悪の戦争が始まったのである。
戦争の長期化。相次ぐ空爆。そして核爆弾の投下。応戦は応戦を重ね、連鎖した戦争はドロ沼の様相を呈してきた。
人々が相次ぐ戦争に疲れ果てていた頃――各国のマスコミが、次のようなニュースを報じた。
曰く、『火星居住コロニー完成。火星移住へ大きな進展』――と。
二十一世紀より続けられたテラフォーミングは、開拓先遣隊の努力の結果、すでに火星で水や大気、重力を生成する方法を確立していた。それに加えて今回の成果は、宇宙波や砂嵐を遮断する、人類の生活域となるコロニーを築き上げることに成功したという。
ついに、人類が火星に移住する時代が来た。地球に絶望していた人々にとって、それは渡りに舟の朗報だった。
地球とほぼ同一の環境での生活。そして何より、汚染と戦争のない生活。
当時の地球では片鱗すら見込めない、理想的な未来がそこにはあった。
火星に更なる文明を築くべく募った第三次開拓先遣隊には、全世界から応募が殺到。更に彼らの努力によって住居や生活設備が整った二十二世紀半ば。金で移住権を獲得した有力者を中心とする、本格的な火星移住第一次先発隊が地球を旅立った。
それは皮肉にも、地球の元軍事大国が、放射能汚染の少ない〝清らかな土地〟を求め近隣諸国へ侵略戦争を仕掛けた年と、同年のことであった。
希望と絶望。二つの惑星の間で、このように人類の命運ははっきりと分かたれた。
火星では、移住した有力者によって火星連邦――通称アレスが設立。地球の国際連合を前身とし、五人の議長を中心とした新たなる連邦政府を樹立した。
地球ではかろうじてテラと呼ばれる地球連合を再結成したものの、首都機能の破壊と、侵略戦争、そして有力な指導者たちの星外移住という三重の労苦によって、多くの国々――特にかつて先進国と呼ばれていた国は、荒廃の一途を辿っていた。
伴い、人類が順調に歩を進めてきた産業もまた、時を止めたように停滞。今なお、地球の文化レベルが二十一世紀のまま革新的な進化へ至っていないのはこのためである。
それから百年。閉ざされた未来に地球の人々が疲れ果てていた頃、火星連邦側から、通信衛星を通してある提案がなされた。
火星から地球への、定期渡航便の開始である。
火星連邦でかねてより開発の進んでいた、火星から地球へ発着可能なスペースシャトルがいよいよ完成。シャトルを往復利用することによって定期便が確立され、かつての人類が夢見てきた惑星間往復渡航が可能となるということであった。
降って湧いたような吉報に、多くの地球人がこの案を支持した。
しかし、同時に、ある問題点が浮き上がる。
火星の表面積は地球より遥かに狭く、居住可能なコロニーの面積はもっと限られる。火星移住を希望する全ての人々が地球を離れることは、現状ではまず不可能だった。
そして地球連合の一部の国からは、汚染された母なる星を放り出し、別の惑星に逃げることに非難の声が挙がった。
一年以上に及ぶ協議の結果、火星連邦と地球連合は、ある案を打ち出した。
火星移住希望者を、競技によって選定することである。
希望者を参画特区に住まわせ、代表者同士をなんらかの競技で戦わせて、勝った特区の人間から順に火星へ移住する。
ただし敗退した最下位の特区には、負の遺物である放射能汚染の除去作業にあたってもらう。
ゲームめいたその仕組みに、しかし、当時の地球の人々は賛同した。
国土は侵され、海には放射性物質が流れ込み、田畑で採れる農作物も安全とはいえない。そんな中で、ルールを選り好みしている暇はないと考える人間は多かった。
マリネリス条約と名づけられたこの協定に、当初八十二の国々が批准した。真っ先に手を挙げたのは、核汚染で疲弊したかつての先進国だったという。
こうして条約の旗印の下、火星連邦と地球連合の間で、計画は推し進められることとなった。
次なる課題として挙がったのは、実施される競技の選択だった。
陸上、サッカー、野球、バスケットボール。様々なスポーツが候補として挙がったが、地球連合側によって全て却下された。オリンピックや各種の競技大会で、すでに国や個人の優劣が明らかになっているスポーツは、優秀な選手や候補生の確保如何によって有利不利が決まってしまうと考えられたからだ。最初から不平等ならば、また新たな争いが起きる恐れがある。
全ての人々にとって平等、かつ様々な国、様々な年代の人々に勝敗がわかりやすい、全く新しいスポーツを生み出す必要があった。
そして火星連邦側から提示されたのが電脳闘技大会――通称【舞闘会】である。
火星連邦が、最先端のBMCI手術を施された少女たちを地球へ送り、特区の代表として擁立。彼女たちを電子世界上で戦わせることで、勝敗を決める。
――これが【舞闘会】の沿革である。
開催五十二年目にあたる現在、マリネリス条約批准国は百二十国に及ぶ。すでに五百万人もの人間が【舞闘会】とプリンセスの活躍によって火星に渡り、それでもなお地球全体では数億人の移住希望者が待機しているという。
彼らは待つ。自身のプリンセスの勝利を。希望の星へ渡る日を。
人々の希望を乗せ、プリンセスは勝利を目指す。
¶
「随分、地球連合よりの番組だな……」
番組が終り、桑畑丈二は液晶テレビの電源を落とした。
昨晩放送されたという、日本の国営テレビが製作した【舞闘会】ドキュメンタリー番組だ。関係者である以上、一応丈二はこの手の番組を録画してチェックすることにしているが、堅苦しくてつまらないことこの上ない。アメリカのようにコメディアンを起用して軽快痛快に作ればいいのに、といつも思う。
さて。呟いた丈二は、ソファーから立ち上がりリビングの掃き出し窓へと向かう。
分厚いカーテンを開け放つと、窓の外に十一特区のぼやけた朝の顔が見えた。舗装された灰色の道路と、整然と並んだ商業ビルと住居の林立。現在、朝六時。いまだ朝靄が立ち込める、十一月の早朝だ。
丈二は外を眺めながら、連日の睡眠不足で凝りに凝った全身をほぐすように、思いっきり伸びをした。身体がごりごりと不穏な音を立てる中、「お」と大事な用件を思い出した丈二はリビングテーブルに戻ってラップトップのメールフォームを開く。
睡眠時間を削って完成させた報告書を、忘れないうちに運営委員会本部へ送信。第十一特区におけるプリンセス・ガードルートの行動予定表だ。これを送り損ねると、【舞闘会】運営委員会事務局のお姉さん方に睨まれ、最悪の場合連絡不備多数の護衛官として降格・減俸対象となる可能性がある。報連相はマメすぎるほどマメに。護衛官の基本だ。
きっちりメールが送信されたのを確認した後で、パソコンの電源を落とそうと指を繰る――ふと、無地のデスクトップ画面に映り込んだ自分の顔を見て、丈二は失笑した。
灰緑色の瞳には苦労が垣間見え、十人中四人にハンサムだと褒められる顔立ちは、いまは疲れきって見る影もない。四六時中耳につけたカフスフォンと軽く後ろに流した髪型も相まって、地球連合都市の路地裏辺りでたむろするチンピラのようだった。自分の顔に辟易した丈二は、沈黙したパソコンを閉じて、洗面所に向かった。
冷たい水で顔を洗うと、いかにも仕事の出来そうな好青年が鏡に映っていた。髭はなし。充血なし。若干隈はあり。
――好青年にこれは似つかわしくないな。うん。
心の中で呟いた丈二は、目の下にさっと指を伸ばす。
そのままで数秒待ち、手を放すと、隈は見事に消え去っていた。
同じ要領でもう片方の隈も消し去る。これで完璧だ。
ちょうどその頃、キッチンの方から鳥の鳴き声のような炊飯ジャーの炊き上がりの電子音が聞こえてきた。そろそろ仕事に戻らねばならない。
丈二はスリッパをぺたぺたと鳴らし、ダイニングキッチンへ向かう。壁にかけておいたエプロンをかけ、冷蔵庫の中を確認。
冷蔵室のなかには、カプセルのような形の真空パックがいくつも並んでいた。『じゃがいも』や『合成豚肉』といった品名のラベルの横に、『OK!』と神経を逆撫でされるようなデザインの赤いシールが貼られている。放射能測定検査実施済食品・通称『OK規格食品』の証だ。
丈二はその中から、『大根』と『味噌』の二つを手に取り、シンクへと向かった。
シンク上のペンダントライトの横にあるスイッチを押すと、キッチン内蔵のラジオから軽快な音楽が流れてくる。日本のラジオ局ではなく、特区の放送局から発信されるラジオ番組だ。
『おっはようございまぁすー! 今週もやってきました〝ウェルカムトゥホメロス〟の時間です。十一特区のFMイレブンより生放送でお送りしています! MCのミランダ・サーストンです。さて、今日も火星連邦から届けられた最新のトレンド用語を紹介しちゃいますよー! 〝ヌーベルキュイジーヌ〟。これ、何のことかリスナーの皆様ご存知でしょうか? フランス語で〝新しい料理〟を意味する言葉なんですが、まさに火星連邦でも料理革命と呼ぶべき時代の波が来ているようですよー! 現在、動物性たんぱく質を地球連合からの輸入に頼っている火星連邦ですが、十五年ほど前に着工されたヘラス盆地の大規模養殖施設が、ついに完成したと発表がありました。運用に成功すれば、豚肉や魚肉、鶏肉に至るまで! 加工されていない新鮮な生肉が食卓に提供されることになりそうです! 火星連邦で生み出される新しい料理の世界に、地球連合で台所を預かる皆さんも目が離せなくなりそうですよ!』
真空パックにハサミを入れながら、丈二はツマミを捻って周波数を変える。先ほどの甲高い女の声とは一変、堅苦しい中年男の声が届いた。
『では続いて本日の放射能線量測定値です。ヨノ・エリア、0.01マイクロシーベルト。ウラワ・エリア、0.02マイクロシーベルト。続いてオーミヤ・エリア――』
丈二はハサミを置き、再びツマミを回した。早朝という時間帯のせいか、捻っても捻ってもニュースしか流れていない。何回目かの選局で日本の伝統音楽ミンヨーが流れ出し、これでいいか、と丈二はツマミから手を放した。
真空パックの中から、半分に切られた大根を取り出す。ミネラルウォーターで軽く水洗いし、まな板に載せたところで、耳のカフスフォンが鳴動した。
丈二は一旦手を止め、通話ボタンを押す。途端、低く沈んだ男の声が聞こえてきた。
『おはよう、桑畑丈二。健やかな朝を過ごしているだろうか』
六係プリンセス・ガードルート担当班責任者、警部補の鉄間愛徒だ。感じの良い挨拶とは裏腹に、声はロボットのように抑揚を欠いている。
「ぼちぼちだよ、テッちゃん。こんな朝からどうした?」
『昨日、桑畑丈二に襲い掛かった男たちの聴取が終ったので、その報告だ』
なるほど。相槌を打ちながら丈二は大根を二等分に切った。
『主犯の二人は十一特区のプリンセス過激派支援団体の構成員だ。過去にも試合の妨害や他のプリンセスの誘拐、傷害、殺人未遂を幇助した容疑がある』
「そう。予想通り過ぎてつまんねぇな」
そうだな、と鉄間がわずかに苦笑する。
自身の所属するプリンセスの援護を称して、対戦相手のプリンセスに危害を加えるサポーターを、運営委員会や護衛関係者は皮肉を込めてストーカーと呼んでいた。
こういった連中が発生する背景には、【舞闘会】と、惑星移住のルールが深く関わっている。
成人の折、惑星移住登録をした人々は、新年度の四月より特区へと移り住む。だが地球上のどこの特区へ移住するか、当人に選択の余地はない。優勝候補のプリンセスの特区へ行くか、はたまた下位常連のプリンセスの特区へ行くかは、完全に当事者の運次第なのである。特区へ移住したその年に汚染区行きとなる哀れな者もいるし、反対に即火星への移住権を獲得できる幸運な者もいるという。
別の特区へ転籍希望を出すことも可能だが、シーズン途中の移住は認められていない。シーズン中の試合状況によって他のプリンセスの特区に転籍することを防ぐためだ。あらかじめ特区に所属したプリンセスは、引退するか優勝するか汚染区に行くまで動くことはない。
仮にシーズンが終って転籍届が受理されたとしても、例によってランダムに移住先を決められ、その特区のプリンセスが必ずしも強いとも限らない。
このようにプリンセスと特区の人々は、最低でも一年間は一蓮托生なのである。
現在最下位であるクラリッサの第十一特区の人々にとって、多少道徳に反することをしても、汚染区行きを免れたいと思うことは不自然ではない。溺れるものは藁をも掴む。昨日の連中のように、彼らは武器を取り犯罪行為にまで手を染めて、プリンセスへ襲いかかる。
『他の中年三人は、ただの熱心なクラリッサのサポーターたちだ。スタジアムのなかでストーカーに勧誘されて、そのまま協力したようだな』
「なるほど。アホだな」
丈二は心底呆れた。せいぜいストーカー連中に呷られて参加したのだろうが、所詮は素人の寄せ集め。護衛官と警察の敵ではない。
『同意する。――だが昨日の一件、少々気にかかることもある』
「道路封鎖の件か?」
『あぁ。我々が先行した十分後に進路上に土嚢が積まれていた。偶然の可能性もあるが――』
「偶然を必然と考えるのが刑事の仕事、だろ?」
通話口の向こうが、微笑する気配。
『そのとおりだ、桑畑丈二。連中は一見、寄せ集めのテロリストに見えるが、何か底知れぬ脅威を感じる。地球連合都市住民である俺には嗅ぎ取れない、何かをな』
「……そうだな」
相槌を打ちながら、丈二は切った大根を鍋のなかに放った。沸騰したお湯の小気味良い音に混じって鉄間の声が届く。
『我々が確保した者は、おそらく十一特区における活動団体の、ほんの一部に過ぎない。これからますます、プリンセス・ガードルートへの妨害が予想されるだろう。相手はプリンセスのなかでも随一の支持率、かつシーズンランク最下位のプリンセス・クラリッサだ。これからもストーカーの妨害は予想されるだろう。注意を喚起する』
味噌をおたまに乗せて、菜箸で少しずつ溶く。味噌の匂いが香ってきたところで再度火を止めた。これで完成。
「ご忠告どうも、テッちゃん。せいぜい気をつけるよ」
『あぁ。そのうちまた酒でも飲もう。では失礼する、桑畑丈二』
カフスフォンの通話を切る。鉄間の声が聞こえなくなると、小さな通信装置はただのアクセサリーに戻った。
さて、味噌汁は完成し、ご飯も炊けた。あとはぬか漬けきゅうりを切って、玉子焼きを作れば朝食は完成する。
その間にしておかなければならないことは――そこまで考えるに至り、丈二はリビングに併設された寝室の扉を叩いた。
「ガー子、朝だぞー」
返事はない。
――丈二は咳払い一つ。三度ノックをしてから、扉を開ける。
八畳ほどの洋室は、まだカーテンが開け放たれていないせいか、南向きであっても薄暗い。床に散らばったオンラインゲームの攻略誌と、食べ終わったOK規格ジャンク菓子の袋。脱ぎ捨てられたままの上着。引きこもりを思わせる部屋の、壁に寄せられたベッドの上で、うつ伏せになっているキャミソールの少女がひとり。
「起きてる」
プリンセス・ガードルートは、足をぶらぶらとさせながらこちらに目もくれずに答えた。
顔だけが明るく照らされているのは、ゲーム機のバックライトのせいだろう。大きな瞳が横に縦にと動いて画面を追い、薄暗い室内とあいまって陰鬱なほどの不健康を演出していた。
「……ほう」
頷いた丈二は、一旦、扉を閉めた。
ランドリールームへ移動し、乾燥機のなかにあった洗濯物のひとつに手を伸ばす。
それを取り、未だ部屋でゲームをしているガードルートに放り投げる。小さな頭に洗濯物が乗っかった。
ガードルートは何も言わず頭に手を伸ばし、それを掴み、何事もなかったかのようにゲーム機へ視線を戻し、
叫んだ。
「ちょっと! なんでわたしの洗濯物投げるのよ!」
「自分の洗濯物ぐらい自分で干せ。ついでに起きろ。ゲームは一日一時間だ」
「まだ起きてから一時間もしてない!」
「見当はずれの文句は受け付けません。さっさと起きろ。オレが精魂込めて作った朝食を無碍にするようなことがあったら、また蹴飛ばすぞ」
ガードルートがふくれっ面をしながら起き上がるのを確認して、丈二は寝室の扉を閉めた。なんなのあいつ最低、とぐちぐち文句を垂れながら聞こえてくる衣擦れの音。どうやらブー垂れながらもちゃんと着替える気はあるようだ。
よろしい、と丈二は呟き、キッチンに戻る。作り終えた朝食をダイニングテーブルに並べていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
玄関扉に近寄った丈二は、ドアスコープを一瞥。そこに映っていた白髪頭の老人をみとめ、扉を開ける。
「おはようございます」
「おお、おはようっす、フジさん」
ドライバーの藤六郎だ。ガードルートの専属スタッフとなっている藤は、常に同じ宿泊施設の別室に泊まり、食事も一緒にとることになっていた。
「おや、ガードルート様は……」
部屋に招かれた藤が首を巡らせていると、タイミングよくガードルートが部屋から飛び出してきた。先ほどまでのキャミソール姿ではなく、黄色いロングTシャツの下にレギンスを穿いている。藤を見つけるなり、年相応の明るい笑顔を作った。
「フジさんおはよう! 今日もよろしくね!」
「はい、こちらこそ」
言って、藤は顔の皺を深くした。いかにも老人らしい、にこやかな笑顔を保ちながら、言い難そうに告げる。
「ガードルート様、頭の、そのぅ……」
「? 頭?」
ところがガードルートには伝わらない。両の手でぺたぺたと頭頂や王冠に触れては、怪訝な顔をしている。その様子を見て呆れた丈二が、
「寝癖」
教えてやると、ガードルートは一瞬顔を強張らせ、慌てたようにまくし立てた。
「た、たまたま! たまたまなの! あとでちゃんと直すから!」
「了解いたしました」
愉快そうに藤は肩を揺らして笑っている。丈二は軽く嘆息をつき、エプロンを外した。
――火星は相変わらず食糧難で、地球の朝は特区も汚染区も地球連合都市も関係なくスズメが飛び回り、ガードルートは身体も寝癖も元気いっぱいだ。
プリンセス・ガードルート付きの護衛官、桑畑丈二の朝は、だいたいこんな風に始まる。
「ごっはんっごっはんっ」
――護衛官の仕事は、実に多岐に渡る。
日常の警護はもちろん、移送ルートの安全確保に、万全のセキュリティを持つ宿泊施設の確保。プリンセスの食事服装の管理に至るまで、全てに気を配らなければならない。それには大きな理由があった。
【舞闘会】シーズン中、プリンセスの身には数々の危険が迫る。
昨日のような武装した連中に襲撃されることは序の口で、プリンセスの日常そのものに魔の手を伸ばされることもあった。
あるとき、他の特区のプリンセスを宿泊させたホテルでは、朝食のミネラルウォーターに睡眠薬を混ぜて昏睡させ、一試合の不戦勝を得たことがあった。
またある国では、地元警察に扮したストーカーが警護を称してプリンセスの乗った車に乗り込み、暴行を加えて出場不可にさせた事件もあった。
このような例は、枚挙に暇がない。
「ごっはんっごっはんっ」
――ストーカーは、一部の過激派と誤解されがちだが、それは大きな誤りだ。一般的なプリンセスのサポーターたちでさえ、ストーカー、ないしはストーカーを幇助する可能性を秘めている。
彼らは自分たちの未来を左右する根幹である、特区のプリンセスには惜しみない援助をする。その反面、敵方であるプリンセスに、多少倫理に反することをしてでも、不利な状況を作ろうと考える者は決して少なくはないのだ。
特に今のようにシーズンの最終戦で、かつ対戦相手の特区での試合ならば尚更だ。この時期になると、特区によって天国と地獄が明確に分かれる。汚染区行きにリーチがかかったクラリッサの十一特区の状況は、まさしく地獄だ。それも優勝圏内にいる現在二位のガードルートが相手では、十一特区の住民たちも呑気に試合を眺めていられないだろう。ガードルートを亡き者にして不戦敗点を得てでも、汚染区行きを回避したいと考えても、決しておかしなことではない。
「ごっはんっごっはんっ」
こういった悪漢たちの手から護るため、護衛官たちは常にプリンセスと行動を共にする。
一年三百六十五日、プリンセスと共同生活を送り、寝食を共にして、いついかなるとき襲ってくるともしれない危険に未然に対処する。時にはSPとなり、時には行動の全てを管理するマネージャーとなって、プリンセスを護るためにあらゆる手を尽くすのだ。
桑畑丈二はプリンセス・ガードルートを護る、たった一人の護衛官だ。
「ごっはんっごっはんっ、たっまごっやき♪ ……ジョウジ、お醤油とって」
――そして、上機嫌なプリンセスへ醤油の小瓶を渡すのも、丈二の大事な仕事の一つだった。
「一滴な」
告げた瞬間、ガードルートはいつものふくれっ面を作って主張する。
「五滴!」
「ふざけんな。お前はオレの玉子焼きをぶち壊す気か。作者が一滴未満と言ったら従え」
「五滴が美味しいの! プリンセスの要望を聞くのも貴方の仕事でしょ!」
「ハイハイ、下らないことにいちいち権力振りかざさないでください。また尻叩くぞ」
「あっ、あれっ、セクハラだからね! 次やったらホントにクビにするからね!!」
はっ、とせせら笑う丈二。
「笑わせんな。お前ごときチビの尻に欲情するほど飢えてねぇよ。世の中みんなラノベ主人公みたいな男ばっかりだと思うな」
「むかつく!」
「ところでフジさん、今日のスケジュールなんですけど」
降り注ぐガードルートのパンチを掌で受け止めながら、丈二は藤に向き直った。
「朝食の一時間後、出発の予定です。Λ(ラムダ)ルートを経由してダンスホールで一日訓練」
「ほう、一日ですか。精が出ますなぁ」
「当然!」
ガードルートは得意げに、箸をタクトのように振ってみせる。
「わたしは今シーズン、絶対に優勝しなきゃいけないんだから。ここで頑張らなきゃ」
「ガードルート様はご立派ですなぁ。プリンセスの鑑ですなぁ」
「え、偉くなんかないもん。プリンセスとして当然のことでしょ」
「いえいえ、そんなことはございません。なかには訓練を嫌うプリンセスもいるというのに、ガードルート様は偉いですなぁ」
年寄りのベタ誉め攻撃を喰らったガードルートは、頬を染めてやけくそのようにご飯をかきこんでいる。
二人のやりとりを、花壇に群がる蛾を見つけたような気分で眺めていた丈二は、
「えーっと、話続けてよろしいですかね、お二人さん?」
「い、いいわよ」「はい、どうぞ」
話に割り込み、再び今日の予定を告げる。
「今日の宿泊先は同じくこのホテルで、明日からは変更します。そのうち鉄間警部補から連絡が入る予定」
「え? もう変えるの? このホテルまだ三日しか泊まってないじゃない」
ガードルートの疑問はもっともだ。
特区に所属していないガードルートは、常に宿借り生活をしている。試合開催地の特区に赴くたび、丈二が宿泊施設を手配しているのだ。だが平均十日程度の滞在期間中、これほど短いスパンで宿を変えることはそれほどなかった。今回はその例外になる、と丈二は答える。
「思った以上にストーカーの動きが厄介でな。おそらくここが割れるのも時間の問題だ。一日ごとに変えて危険を回避する」
「そう」ぽつりと呟くガードルート。「ここ、気に入ってたんだけどな」
「それとフジさん。白髪頭のジジイがガードルートの専属ドライバーって噂が早速ネットに流れてるので、顔変えてくださいね」
「はぁ、そうですか」藤は少しだけ肩を落とした。「この姿、気に入ってるんですがなぁ」
はぁ、と少女と爺、二人のため息が唱和する。
落胆と寂寥の空気を打ち消すべく、丈二はテレビをつけた。
朝のニュースがやっている時間帯だったが、ちょうどコマーシャルに入っていたようだ。
画面には、牧草地のド真ん中に立つ、麦わら帽子を被ったクラリッサが映し出されていた。
なんの脈絡もなく、くるくると回転したクラリッサは、顔ほどもある巨大ヨーグルトのパックをカメラにかざす。
『爽やかな朝に! クラリッサも食べている健康一番ヨーグルト!』
すかさずガードルートが言う。
「変えて」
「はいよ」
丈二はチャンネルを変える。アップで映し出されたクラリッサが、頬に透明な液体を塗りたくっている。
『透明感のある肌のために。海からの贈りもの』
「変えて」
「おう」
またチャンネルを変える。夕陽を背にたそがれるクラリッサの横顔が写った。
『プリンセス・クラリッサ、七枚目のニューシングル『good-bye,someday』、in store now』
「消して」
「了解」
テレビを消した。丈二は感心しながら味噌汁をすする。
「クラリッサのCMばっかりだな」
プリンセスの中には【舞闘会】の傍ら、スポンサーたちに請われて女優やアイドル、歌手といった芸能活動をこなす者が多くいる。容姿端麗、かつ特区を代表する選手でありシンボルである彼女たちにオファーが殺到する理由はわかるが、それにしてもクラリッサの露出は多い。丈二たちが十一特区に滞在した数日の間に、街の至るところでクラリッサの看板や広告を見かけた。おそらく特区内での人気の高さや、本人のやる気も関係しているのだろうが。
反対に、マスコミのオファーを一切断り続けているガードルートは、渋面を作っていた。真っ黒になったテレビ画面を見つめたまま、誰にともなく呟く。
「……あのコ、無理してる」
「わかるのか?」
「わかるわ。あのコ、昔からそうだったもの。出来もしないことをやって空回り」
少女の大きな瞳が、すっと冷めた目つきになる。
「わたしは、人の期待を背負うのなんか、まっぴらごめん」
吐き捨てて、ガードルートは、ごちそうさま、と席を立った。
プリンセスの移送には、同じ車両はまず使わない、と丈二は決めている。
今日の乗り物は、イギリス製のセダンだ。護送のたびに車を乗り換えることでストーカーを撹乱する狙いがある。基本かつ単純だが、効果的でもあった。移動中は、不特定多数の人間の中に囲まれる、もっとも安全を確保しにくい状況だからだ。
そして同じモノを使わないのは、ドライバーにとっても云えることだ。
「お待たせしました」
出発の準備を終え、駐車場へ赴いた丈二とガードルートに遅れること数分。姿を現したのは、スーツ姿の若い女だった。
真っ黒な短髪を後ろへ流した、鋭い目つきの長身の女は、紛れもなく藤六郎である。顔の皮膚に移植した多能性肝細胞による、一時的な整形だ。
多能性肝細胞とは、いわゆる万能細胞の一種である。本来受精卵しか持たないはずの細胞の万能性(多能性)を、皮膚や血液などのありふれた体細胞に誘導因子を導入することによって備わせる技術だ。万能性を持った(リプログラミングされた)体細胞は身体のほぼ全ての器官への分化が可能であるため、例えば火傷の皮膚再生をすることも、本人の身体から造られた人工臓器を、拒絶反応なく移植することも出来るという。この研究が広く知られるようになってから二世紀半。現在ではその恩寵は当初の目的である医療分野だけに留まらず、皮膚再生による若返りやクローニングなど、あらゆる分野に応用が始まっていた。特に火星で推し進められている研究は、進化型多能性肝細胞と呼ばれ注目を受けている。
その進化型多能性肝細胞を移植した藤六郎は、一時的に人相や声質を変化させることが可能であるという。骨格や体型を大きく変えることは無理だというが、背筋をぴんと張った現在の女性の姿かたちに、老人の面影は全くない。傍目から見れば、昨日の老人と交代で、若い女性がガードルートのドライバーになったようにしか見えないだろう。
藤の合流後、丈二はカフスフォンの通信を開始。護衛官専用回線で警察庁へ連絡を入れる。
「本部へ通達。これより〝パンプキン八号〟、〈ゆりかご〉から(ゲームセンター)へ移動を開始する。周辺の安全確認を要請する」
丈二が告げてすぐに、女性の電子音声の返答があった。警察庁ナビゲートシステム、〝GOEMON〟の音声案内だ。
『了解。(ゆりかご)から(ゲームセンター)へのルート、〝検索〟確認』
しばしの沈黙。
『――オールクリア。同ルート、に、モグラ、の、存在は、確認されません。〝消毒〟完了。今日も、みなさん、に、とって、良い、一日で、ありますように』
どうやらルートに問題はないようだ。丈二は通信を切り、ガードルートと藤に告げる。
「よし、出発だ」
「了解!」「了解しました」
丈二とガードルートがセダンの後部座席に乗り込む。定位置である運転席に座った藤は、軽快に車を発進させた。
駐車場を出ると、爽快なまでの青空が三人を出迎える。現時刻は朝八時。朝靄はすっかりと晴れ、特区の陰鬱で人工的な光景が太陽の下に晒されていた。
紙粘土を思わせるそっけない色のマンションと、チェス盤のような直線道路。等間隔に置かれた街路樹や街灯が無表情に街を見守り、歩行を歩く人々の顔も、それに影響されたかのようにどこか無機質だ。
特区を訪れるたび、地球連合都市とはえらい違いだ、と丈二は感嘆とも諦観ともつかない感想を漏らす。核汚染の影響で居住面積が減った地球連合都市は、世界中どこを見てもぎゅうぎゅうの人口過多で集合住宅だらけ。道路なんてあってないようなもので、自転車とバイクと車が同じ車線を走る。まるで、二十世紀香港に存在した九龍城塞が、世界各地に存在しているような状況なのだ。地球連合都市住民の中には、二車線以上の道路を生まれてから一度も見たことのない人間さえ存在するという。地球連合都市と特区はそれだけ対照的で、地球と火星の隔たりそのものを象徴するかのようだった。
そんな光景を窓辺に映しながら幹線道路を抜けたセダンは、元有料道路の螺旋を登っていく。
ずっと窓を見ていたガードルートが、そのとき声を上げた。
「ねぇジョウジ、ここって……」
「あぁ、汚染区だな」
事も無げに答えた丈二とは反対に、ガードルートは神妙な面持ちで右手側の窓に目をやっている。
有料道路を境に、左側と右側とで大きく異なる景色。左は今までと変わらない、特区の光景。一方、右手側は汚染区と呼ばれる街の姿を晒していた。
汚染区――〈汚い爆弾〉投下の影響で、放射能汚染濃度が基準値を越え、人の居住が望ましくないとされた地区。
そして、【舞闘会】で最下位になった特区の人々が、移り住んでくる場所。
特区とも地球連合都市とも異なる第三のこの街は、放置された街の虚無を映し出していた。
腹を見せて転がる車。ガラスのなくなったビルの残骸。コンクリートの間から伸びた草。街を囲むフェンスといい、常に監視員が立つゲートといい、その様はどこか刑務所を思わせる。
汚染区に住んでいるのは大多数が、【舞闘会】で最下位になった特区の住民である。彼らは元いた特区を追われ、この手付かずの汚染区へ除染作業員という名目で移住してきた。
だが実際、汚染区で除染作業に従事する者も、作業の指導をする者もいない。除染作業が後の歴史教科書のためのプロパガンダに過ぎないことを、地球上の誰もが理解していた。真の目的は、人口過多になった居住可能地域からの人減らしだ。
汚染区には、警察や役所といった法治組織がない。病院や学校もない。必然的に、街はこのような無法地帯の体を為すのである。
それは過去、人々が幾度となく目の当たりにしてきた、紛争地域の姿にも似ていた。
ガードルートは汚染区を見下ろしたまま、呆然と呟いている。
「こんなに、特区と汚染区が近いんだ……」
「窓開けんなよ」
丈二が注意すると、わかってる、とガードルートは憮然と答える。
のんびりとステアリングを回していた藤が、口を開いた。
「――かつてこの向こうの土地は、東京と呼ばれる街だったのです。長い間日本の首都であったその街は、友好国の戦争に経済協力した末に〈汚い爆弾〉の投下を受け、壊滅してしまったんですな。挙句、隣国の侵略戦争が始まり、その対策のために政府組織の移動を迫られたせいで、復興させられることもなくそのまま放棄。以来この都市は、日本でもっとも汚染が深刻な地域として、不毛の土地となってしまったのです」
「そう、だったんだ……」
汚染区に視線を注ぎ続けるガードルートに倣い、丈二もまた、その惨状を眺めた。
街を見下ろすこの高速道路からも、痩せた人々の姿が見える。火を起こしたドラム缶に集まる男たち。それをうらやましそうに眺めている子ども。なかには道路に身を投げ出したまま、ぴくりとも動かない人間もいる。
同じものを見つけたのか、ガードルートが恐々と丈二に訊ねてきた。
「あ、あれ……死体、かな……?」
「食あたりだろ。汚染区の連中が食べるもんっつったら、特区のレストランが投棄した食料とか賞味期限切れの加工品とか、そんなもんだからな」
「そ、そうとは限らないでしょ! 不謹慎よ!」
「実際あの中で暮らしてた人間が言うんだから本当だろ」
騒ぎ立てていたガードルートの小さな口が、突然噤む。
「……ごめんなさい。嫌なこと思い出させた」
「別に平気」丈二は薄く笑ってみせた。「同情ついでに、煙草吸ってもいい?」
「それはダメ」
運転席から、やけに爺臭い女の笑い声が聞こえてくる。
ホテルを出発すること一時間。遠回りに遠回りを重ねて辿りついたのは、特区郊外の、さらに道を外れた場所にある、一棟の病院だった。
一見すれば、ただの廃墟のように見える。三階建てで、駐車場に面した窓ガラスはところどころが割れていた。かつて白く塗られていたはずの壁は風雨によって茶色く変色し、壁には生き物のように蔦が絡みついている。
この施設こそが、国際舞闘会運営委員会が運営する、プリンセスの訓練場、通称〝ダンスホール〟だ。プリンセスがスタジアム以外で唯一〈ゴッドマザー〉にアクセス出来る場所である。
訓練所は第十一特区のなかにあるが、設備や職員はあくまで火星管轄の運営委員会の管理下に置かれており、特区やプリンセスに対して公平な立場にある。故に、プリンセスは許可さえ下りれば誰でも施設を利用することが出来た。
赤錆の浮き出た門扉をくぐりぬけて、セダンは落ち葉だらけの駐車場に停まった。エンジンを切らないまま、運転席の藤が振り返る。
「では丈二さん、わたくしはここで」
「あぁ、ご苦労さま」
藤とはここで一旦、お別れだ。丈二と違い、委員会の人間ではない藤は、施設内部に立ち入ることは禁じられている。いつも訓練が終了するまで、どこかで時間を潰してもらうことになっていた。
藤は一瞬だけ、例の皺だらけの爺の顔に戻ると、車を降りるガードルートに微笑みかけた。
「ガードルート様、今日も頑張ってくださいませ」
「うん! フジさんも気をつけてね。自由時間だからって遊んでばかりいちゃ嫌よ」
名残惜しそうに別れを告げるガードルートを連れ、丈二は病院の正面入り口へと向かう。
二重の自動ドアを抜けた先は、エントランス兼待合室という画一的な総合病院の造りになっていた。
朽ちた外観に比べ、内装は簡素ながら清潔だった。無愛想な観葉植物。人気のないナースセンター。壁に染み付いた消毒液の匂い。規則正しく並べられた待合室のビニールソファー。
その安っぽいソファーに、白衣を着た女が一人で座っていた。
組んだ足の上に、古ぼけた雑誌を置いてパラパラとめくっている。その一つのページに目を留め、大仰に声を上げた。
「『今冬はこれに注目! 乾燥シーズンを乗り切る海洋深層水成分の化粧水!』だって」
失笑によく似た微笑を横顔に映し、女はゆっくりと首を傾けて振り返った。
「海洋深層水って、どこに売ってるのかなぁ? ジョーくん」
「さぁ」問われた丈二は首をすくめてみせる。「少なくとも、あんたには必要ないと思うけどね。シャオ主任」
丈二の世辞に対し、女性――シャオはたおやかな微笑を浮かべた。女性週刊誌を閉じて無造作に棚に投げ入れ、大きく伸びをしながら歩み寄ってくる。
邵華蓮。【舞闘会】運営委員会地球連合支部技術部の才媛にして、音に聞こえたプリンセスの訓練官である。目鼻立ちの整った美人だが、なで肩で、いつも白衣の肩のラインがずれているせいか、どこか気だるい印象を与える。
緩いウェーブのかかった茶髪を胸元まで垂らしてかがみ、シャオはガードルートと目線を合わせた。
「はじめまして、プリンセス・ガードルート。わざわざ私を訓練官に指名してくださったんですってね?」
対するガードルートはこくりと頷き、口を噤むと、丈二の背中にさっと隠れた。
シャオは目元をわずかに引きつらせ「あら?」と首を傾ける。女同士のややこしい空気を敏感に感じ取った丈二が口を挟んだ。
「悪いね、少し人見知りなんで」
「へぇ。そっ、か」シャオはたおやかに微笑み、ガードルートと丈二を見比べる。「まぁ、いいわ。一分でも時間が惜しいし」
踵を返すと、シャオはヒールを鳴らして廊下を歩き出した。
二人はそのあとに続く。先導するシャオに聞こえないような声量で、ガードルートがそっと訊ねてきた。
「ね、ね、あの人とどういう関係?」
「知り合い」
「ふぅん」
と、もっともらしく頷いたあと、プリンセスは早口でひとりごちた。
「本当かなぁ? 怪しいなぁ。あとでフジさんに確認しなくっちゃ」
ニヤリと小悪魔のような笑みを浮かべつつも、丈二の背中にぴったりと張り付いたままのガードルートである。
シャオに続いて病院のなかを歩くこと数分。辿りついたのは、第二手術室という禍々しい赤い看板のついた扉の前だった。
「ここ?」
丈二の背中に隠れたまま、ガードルートが恐々と訊ねてくる。
「そうよ。いいセンスしてるでしょ?」
代わりに答えたシャオが、扉横の大きなボタンを押す。開閉した扉の奥に、いかにも手術室らしい大きな寝台が見えた。
その周りを取り囲むように並んでいる真っ黒い箱は、全てプリンセスの訓練のために設置された機材だ。一見すると立てかけられた棺のようにも、ランチャー辺りを格納したロッカーのようにも見える。おそらく火星製だろう。デザイン製を排除し、徹底的に処理と演算に特化させた機器類が壁を作る様は、禍々しいほどの威圧感を放っていた。
ガードルートは今からこの部屋で、訓練を行なう。
シャオが右側のガラス窓を示しながら言った。
「私とジョーくんは隣の処置室よ。そこから見てるから」
「……はい」
ガードルートが頷いたのを確認したシャオは、丈二へと向き直る。
「じゃ、いきましょ、ジョーくん」
「おう。またな、ガー子」
「うん。またな」
ガードルートを残し、丈二はシャオと共に隣の部屋へ移動する。手術室をガラス越しに見渡せる処理室だ。
中には手術室ほどではないが、ややこしそうな機材たちがあちこちに設置されている。隣室を見渡せる縦長の窮屈な部屋は、どこかレコーディングスタジオを想起させた。
ガラスに沿うように並んだ机に、シャオが座る。丈二はその隣に座った。ガラスの向こうでは、ガードルートが接続の準備を始めている。
ここまでくれば丈二の出番はほとんどないといっていい。オンボロの外観に偽装された施設のなかは、運営委員会の職員と優秀な警備員が常駐し、建物全体はもとよりコンピュータにもバカバカしいほどのロックがかかっている。特区内ではスタジアムに次いで万全なセキュリティを備えている場所だ。訓練そのものはシャオ主任の仕事であり、門外漢の丈二が口を出せることはない――。
と、油断して欠伸をかみ殺しているところを、運悪くシャオに見つかった。
「ジョーくん、お疲れねぇ。最近休んでる?」
「休んでないよ。全く休んでない」
あっさり見抜かれた丈二は、遠慮なく伸びをする。
「昨日も色々書類作って……ふぁ、寝ようと思ったとこ、女からのメルマガがたくさん来て、それに返信してる間に朝になった」
「例の恋人? パースに住んでる?」
うん、と丈二は唸る。少しでも首肯しようものなら、そのまま首が下へ傾いて眠ってしまいそうだった。
「最近メールの回数が増えに増えてさ……」
「あらあら。相変らず猟奇的ねぇ」
否定出来ない。付き合って三ヶ月になる丈二の恋人は、日が増すごとに恋慕という名の狂気が募っていた。
もっとも丈二を辟易とさせるのは、恋人ならば全てにおいて自分を優先してくれるのが当然と思っているところだ。
彼女に対して愛情がない訳ではないが、その時々の状況において行動の優先順位は変わる。彼女はそれを、全く理解してくれようとしない。
「女はね、そういう生き物なんだよ」
と、シャオは爪をいじりながら諭す。手術室では、まだガードルートが接続に手間取っていた。
「いくら社会進出をしたところで、本質は変わらないというべきかな。あくまで視線はウチを向いている。男の人は違う。ウチはウチ、ソトはソト。仕事で必要とされれば、身内を切り捨ててでも飛んでいく。でしょう?」
「……女がみんなシャオちゃんみたいに理解してくれると良いんだけどね」
丈二はふっとため息をついた。付き合う前、友人だった頃の彼女はそんな性格ではなかったはずなのに、全く女というものはわからない。
あはは、と声を上げて笑うシャオ主任の顔はあくまで他人事だ。
「それは無理だよ。所詮は別の生き物なんだから。そんなに単純だったら、盛んに女性の雇用促進を叫ばれてた二十一世紀に問題は解決している」
そして悪戯っぽく微笑を浮かべてみせる。
「やっぱり乗り換えるべきじゃない? 鉄間さんに」
「勘弁してくれ。あいつと絡んでからオレにバイ疑惑が持ち上がって大変なんだ」
うんざりする丈二を余所に、シャオはくすくすと笑っている。彼女は鉄間警部補と面識がある。鉄間のマイノリティな嗜好も、よく知っていた。
『接続完了。準備出来たわ』
ちょうどそのとき、スピーカーからガードルートの声が届いた。
談笑にふけっていた大人二人は居ずまいを正し、手術室へと向き直る。
「じゃあ主任、ビシビシよろしく」
「了解――いっぱいいじめてあげるわ」
――その不穏な言い方は、正直勘弁して欲しいのだが。
¶
頭に接続端子を差し込み、訓練プログラムの起動準備を始めたガードルートの意識は、もう手術室の寝台に横たわる自分のところにはない。
無個性な青い床。どこまでも広がる天井。無機質無限の空間の中央に立っているのは、鎧を纏った自分――つい先ごろ想像構成した、電子世界でのガードルート。そのバトルスタイルだ。
【舞闘会】でどういった姿で戦うかは、個々のプリンセスに委ねられる。クラリッサのように、いかにもプリンセスらしい優雅華麗なドレスを好む者が多いが、なかには私服のようなTシャツにジーンズ姿で戦う者もいる。ほぼ裸同然の格好で男たちから喝采を浴び、女たちから顰蹙を買う者もいる。ようするに、好みの格好でいい、ということだ。
ガードルートが好んで選ぶのは、一回戦のように、ゲームやファンタジーで馴染みのある軽鎧だった。
他のプリンセスたちのように、美しいドレスやひらひらのスカートで戦うのは、自分には似合わないと思っている。強さには理屈がある。無骨な鎧を纏うのは、ガードルートにとって自分を鼓舞するためでもあった。
こうして理想的な〝強い自分の姿〟を造り上げたガードルートは、まず、指を動かしてみることから始めた。電子世界の自分の五指は難なく開き、拳を作る。ぐー、ちょき、ぱー、を繰り返し、それを両手で行なえると確認してから、次に足を動かす。
足を上げ、降ろし、次にキック。これも問題ない。
ファイティングポーズやジャンプという、現実世界で当たり前に行なえる動作を無理なく出来ることを確認してから、次に、より高い跳躍にチャレンジしてみる。
やや踏み込んでジャンプ。身体がふわりと浮き、身長よりも高く飛び上がった。問題なくクリア。今日は調子が良いようだ。
――もしかしたら、いけるかも。
ものは試しと、ガードルートは〝空を飛ぶ〟訓練を始めることにした。
跳躍からの跳躍。中空に新しい〝面〟が出来たと思い込む。そこから踏み込み、更に高みへ。
空気の階段を駆け上っていくイメージで、ガードルートは空へ――。
「ひゃあっ!?」
昇ろうとした瞬間、〝面〟を踏み外し、ガードルートの身体は地面へ落ちていった。
無論、現実のガードルートに痛みはない。だがガードルートの胸のうちには挫折感が湧き上がっていた。こうなった場合、リトライはしばらく出来ない。一度失敗したという経験が、ガードルートの意識のなかに自然と刻み込まれてしまうからだ。【舞闘会】試合中にこういう状態になってしまうと、〝ガードルートはダメージを受けている〟と〈ゴッドマザー〉の判定を受けてしまう。
今回は失敗してしまったが、こういった現実では為しえない動作に挑戦することには、意義があった。
プリンセスの戦いは、想像力を武器とする。思考の幅が広ければ広いほど、高い想像力を持てば持つほど、プリンセスは強くなれる。
だが、物事をぼんやりと思い浮かべているだけでは思考の幅は広がらない。人間の想像力には限界があり、未経験の物事に対しては空想以上の広がりを持てないものだ。プリンセスシステムが、夢を操ることに似ている、と称されるのはまさしくこのことである。まだ世の中のことをよく知らない幼子が、飛行機を操縦する夢を見ないように、未経験の物事に対してプリンセスの想像は及ばず、造りあげることが出来ないのだ。
研究者たちはこれを、思考の壁と呼んでいる。ガードルートが【舞闘会】において出来ることと出来ないことがあるのは、その思考の壁に寄るものだ。クラリッサがやるように、妖精や巨人を呼び出すイメージを、ガードルートは上手く掴むことが出来ない。反対に、ジェットコースターからの落下に耐えられたのは、すでに訓練による耐性が出来ていたためである。
空想で描いた物事よりも、実際に直面・経験した物事の方が、より鮮明に記憶される。つまり、訓練によって経験を積んでおけば、ガードルートの戦法は大きく広がりを見せることになるのだ。
プリンセスのなかには、鳥のように翼を広げて戦う者もいる。フィールド全体を水の中に仕立て人魚のように泳ぎ移動する者もいる。彼女たちのようになれたら――と思いはするが、やはり現実は上手くいかない。
プリンセスの訓練とは、空想と現実のギャップを埋める作業だ。このような鍛錬を、ガードルートは一日を通して行なう。
「ウォーミングアップ完了。シャオ主任、実戦トレーニングへ移行をお願い」
『了解』
ガードルートが呟くと、スピーカーから声を拾ったシャオ主任がすぐさまプログラムを起動させた。シャオたち訓練官は、〈ゴッドマザー〉の代わりとなって、【舞闘会】の模擬プログラムを生成・管理する存在だ。
時を置かずして、シャオ主任によって造り出された新たな電子空間が、ガードルートの足元から広がっていった。ガードルートを中心に、網が広がっていくように新しい世界が作られる。
一瞬の間に、ガードルートは木張りの廊下に立っていた。
木造の建物の中、なのだと思う。右手にはコンクリの壁。左手には蛇口の並ぶ背の低い手洗い場。手洗い場の上には大きな窓があり、そこから平坦な広い砂場が見える。壁に沿って少し歩くと、右手側にはめ込み窓のある引き戸を発見した。背伸びをして中を覗いてみると、小さな机が所狭しと並ぶ部屋が目に入る。
学校――というのだろう。地球に生きる多くの人が通う場所だ。学校に通ったことのないガードルートはよく知らないが、何度か【舞闘会】でもバトルステージに選ばれたことがある。
シャオたち訓練官の生み出す仮想現実は、精巧でリアルだ。本人に行った経験がなくても、本当にその場にいるような錯覚を与える。本物の学校もこんな感じなのかしら、とガードルートは思い馳せる。壁に張られたたくさんの絵は、学校に通う生徒たちが描いたものだろうか。小さな机でみんな勉強をするのだろうか。たくさんの同い年の子供と一緒に過ごすってどんな気分なんだろう。ガードルートが経験したことのない世界を、もくもくと想像すると――、
――ふいに、妙な音を聞きつけた。
ガードルートは、足を止める。
ぺたぺたぺたと聞こえてくる複数の音は足音だろうか――おそらくは裸足の人間のものだ。それも十や二十ではない。大勢の人間が、こちらへ迫ってきている。
ついに来た、とガードルートはショートバレルのショットガンを隙なく構える。間違いない。シャオが用意した訓練用の敵だ。
どんな敵が、いつ、どれほどの数を為して襲いかかってくるか、ガードルートは知らない。この実戦トレーニングの目的は、多種多様な敵と戦い、そのなかで経験を得ることにある。プリンセスの想定を超えることを前提としているため、実際に会敵するまで、どんな敵がやってくるかはガードルートも知らないのだ。
大人数なら、接近方向が限られる廊下はむしろ有利――先んじてそう考えたガードルートの判断は、敵の姿を確認した途端、崩れ去った。
「うっきゃゃあああああああ!!!!」
情けなくも悲鳴を上げるガードルート。
やってきた連中は、ガードルートの予想を外れて、人間ではなかった。いや、正しくは人間だったもののなれの果てだった。
むきだしになった桃色の皮膚、露出した骨、だらりと垂れ下がった皮。ただれた口の奥で、爛々と輝く歯――。
ゾンビの大群である。
「く、くっ、来るな!! 来ないでぇええええ!!!」
狂乱の体でガードルートはショットガンを乱射する。先頭にいたゾンビの身体が大きく吹き飛び、軍団の進行がわずかだけ滞る。だが、それもわずかの時間稼ぎに過ぎなかった。吹き飛ばされた数体の間を縫う形で、ゾンビたちが手を伸ばしてガードルートに迫ってくる。
懸命に応戦するガードルートだったが、正直もう訓練どころではなかった。何度かゲームでゾンビを倒すサバイバルアクションをやったことはあるが、これは全くの別だ。主観画面で、狭い廊下を我先にと走り寄ってくるゾンビは戦慄するほど恐ろしい。しかもシャオ主任のセンスのせいか、襲い掛かってくる表情がやたらにリアルだった。
それが余計にガードルートから冷静さと判断力を奪わせ、戦力そのものを失わせていく。
混乱すればするほど、ガードルートの思考力は落ちていき、気づけば手にあったはずのショットガンすら消え失せていた。ガードルートの心が、戦うことを放棄している証だ。
ガードルートは当初の冷静な作戦など忘れ、教室のなかへ逃げ込んだ。中に入ってすぐさま引き戸を押さえる。はめ込み窓ごしに、光に群がる虫のようにゾンビがびたびたと戸に張り付く様が見えた。
ガタガタと戸が震え軋む。教室の中からガードルートは必死に戸を押さえるが、この大群の前ではどう足掻いても無力だ。こんなの訓練じゃない。サバイバルゲームというより、ただのパニックホラーだ。
『ダメよ、プリンセス、逃げちゃ。そいつらを倒して』
現実世界のガードルートの耳に、シャオ主任が呑気な鼓舞が届く。それどころではないガードルートは夢中で喚いた。
「あ、あ、悪趣味ぃいいいい!! なによこれぇええええ!!!」
『なにって、ゾンビよ』
事も無げに言うシャオ主任。
『ゾンビだろうが巨人だろうが幽霊だろうが立ち向かって。戦うのよプリンセス』
次の瞬間。
教室の引き戸が破られ、ゾンビたちが室内になだれ込んだ。
反動でしりもちをついたガードルートは、逃げることも出来ず茫然とその様を眺めていた。
ガードルートの腕を、一体のゾンビが掴む。新鮮な肉を貪り食おうと、赤黒い肉のこびりついた口ががぱりと開く。
ガードルートは、抵抗することが出来ない。
自分を捕食しようとする死体の歯を、ただぼんやりと見つめていた。
頭のどこかから、ブツッ、と糸が切れる音が聞こえた。
気付けば、ガードルートの視界には、実験室の無機質な壁があった。
電子空間からの無意識逃避。シャットダウン――つまり、ノックダウンだ。【舞闘会】ではこの段階で、ガードルートの敗北が決まる。
『――もう終わり? プリンセス・ガードルート?』
スピーカーから届いたシャオ主任の声には、意地悪い響きが含まれていた。
「ま、さか……」
憔悴しきったガードルートは、しかしきっぱりと言い放つ。
「もう、一回よ……」
¶
「――どうだ、強くなれそうか? うちのお姫さま」
一回目の訓練結果の入力を終えたシャオへ、丈二は訊ねる。シャオは背もたれに体重を預けながら答えた。
「素質はあるみたいね」
一仕事を終え、力を抜いた彼女の視線の先には、変わらずコンピュータの画面がある。シャオの言う素質とやらが結果として反映されているのだろうが、見慣れない英数字が並ぶばかりで丈二にはさっぱり意味がわからない。
立体映像投影装置のあるスタジアムとは違って、訓練所では、丈二はガードルートの戦う姿を見ることが出来ない。訓練結果は全て数値として映し出されるため、翻訳はシャオに尋ねるしかないのだった。
コーヒーを一口含みながら、シャオが口を開いた。
「ジョーくん、何故プリンセス――【舞闘会】の代表選手に若い女性が選ばれるのかご存知?」
「若くて見た目が良い方が民衆の支持を得やすいからって聞いたけど」
丈二はもっとも一般的な通説を答える。
【舞闘会】開幕当初より、代表選手を選定してきたのは主催の火星連邦だ。その主催者曰く、【舞闘会】はその成り立ち上、老若男女問わず幅広い年代から支持を得ることを重要とみなし、あらゆる世代・あらゆる立場の人間の関心を引くであろう若年層の女性を選出する――とのことだった。
だが開催地である地球側では、若い女性同士を戦わせることについて未だに非難が多い。か弱い少女たちを戦わせ責任を負わせるより、屈強な男たちによる団体のスポーツを生み出せばいい。そうした意見は今もなお全世界から挙がっているという。
しかし運営委員会は決定を覆すことはなく、少女たちは【舞闘会】五十数年の歴史に亘り、希望の担い手として選ばれ続けてきた。
それも正解、とシャオは目を細め、
「でも一番大きな理由はね、【舞闘会】は柔軟な思考力を武器に戦うものだから」
気だるそうに、しかし淡々と続けるシャオ。
「若い女性、取り分け十代の少女たちの発想力・感受性は優れている。二次性徴期であるガードルートがプリンセスのなかでも著しい成長を見せているのはそれが理由のひとつ。――だけどそれは諸刃の剣でもある。感受性の高さ故に、物事に対して柔軟に受け入れられる反面、受け入れがたいものは徹底的に排除する傾向にあるの」
「なるほど……」
なんともわかりやすい、と丈二は唸った。丈二が作った料理をガードルートは好き嫌いなく食べるが、どんなに工夫してもグリーンピースと鳥皮は断固として拒む。
「注射が良い例ね。一度経験して恐怖を感じてしまうか、慣れてしまうか。記憶耐性を作ってしまえば、どんな恐怖にも怯えることなく戦うことは出来る。――その点で、ガードルートはとても、鍛えがいがあるの」
ここまで言って、シャオは優雅な笑みを浮かべた。
「私にはぴったりの役割」
「そりゃ、頼もしいよ……」
素直に感嘆すると同時に、丈二は小さな欠伸を漏らした。
「ここは安全だから、寝てもいいよ?」
シャオのありがたい言葉に思わず表情が緩む丈二。
「ごめん……お言葉に甘えさせてもらうわ……」
「任せて」シャオの例の微笑が睡眠欲で歪む視界に映った。「もっと徹底的にいじめてあげるから」
何か恐ろしい言葉が聞こえた気がするが、睡眠の魔の手からは抗えない。
考えるのをやめた丈二は、机に突っ伏した。とろとろと混濁する意識に従順な、一介の下僕で、いよう、少しだけ――。
¶
また、ゾンビに噛みつかれた。
ガードルート、二度目の学校ゾンビ討伐チャレンジである。
先ほどのあまりに残念な結果を受けて、シャオ主任は今回、ゾンビの量を減らしてくれたという。そのおかげでガードルートは複数のゾンビに囲まれることはなくなり、防戦一方の展開はなくなった。
だがつい先ほど、ゾンビそのものに恐怖感を覚えてしまったせいか、思うように攻勢に出ることが出来ないでいた。
「いっ……!」
堪えきれない痛覚に顔をしかめるガードルート。
ゾンビの噛撃は、犬に噛まれたときより数段、痛む。人間と犬の顎の力の差なのか、それともゾンビ化ウイルスの影響で筋力が増大したとかいう設定がついているのか、ガードルートの皮膚に突きたてられた歯は、肉に食い込んで引き裂こうとする。人間に噛まれればこんなに痛む、というイメージが、無意識のうちにガードルートの記憶に残る。
ガードルートは必死に振りほどき、ゾンビと距離を取った。噛まれた二の腕が、ひりひりと痛みを訴える。
こんなの痛くない、とガードルートは自分に言い聞かせた。痛みや恐怖を〝気のせい〟と錯覚させることによって痛覚を遮断。――だが、この練習は思うほど単純にはいかない。
敵に痛みを与えることを強く想像すれば対象に大きなダメージを与えることが出来る。だが反面、それだけの集中力と想像力をもって試合に臨めば、自分が受けた痛みも強く感じることとなる。敵にダメージを与え、かつ自分が受けた痛みを何事もなかったかのように受け流すのが理想的だが、そう簡単に人間の思考は切り替えられるものではない。
気合い一閃、槍でゾンビたちをなぎ倒したガードルートの腕は、未だに痛んでいる。痛覚遮断はまだまだ課題が残りそうだ。
ならば、とガードルートは腰のショートバレルショットガンを構えた。接近してきた一体のゾンビに狙いを定め、頭を撃つ。
防御がダメなら、攻撃で結果を残す。ガードルートの狙いどおり、ゾンビの頭を吹き飛ばすことに成功――したのだが、
「――……もうやだぁあああああ……」
思わず半べそをかくガードルート。
吹き飛ばされたゾンビの頭半分は脳漿が飛び散り、下顎のうえで取り残された歯がかたかたと揺れている。下手なスプラッタ映画よりよほど過激な光景だ。
「こんなところまでリアルに再現しなくてもいいのにぃい……」
自分が撃たれた訳でもないのに、また意識が遠のきそうになるガードルートである。
『また意識レベルが下がってるわよ、プリンセス。そんなものに怯えないで。あらゆる恐怖に慣れることが、あなたを強くするの』
シャオ主任の理屈は正しい。痛みや苦しみ以外にも、様々な恐怖への耐性をつけておくことは、プリンセスの自衛能力を高める結果に繋がる。正論なのだが――せめて警告ぐらいしてもいいと思う。
槍と銃を駆使し、なんとか全てのゾンビを撃退したガードルートは、ふうと息を吐いた。廊下にはゾンビの骸が累々と転がっている。精神的疲労も多いが、達成感も大きい。シャオ主任を訓練官に指名したのは正解だったかもしれない、とようやく思い始めたとき――。
……るるるるるるるる
その奇怪な物音を、ガードルートは聞きつけた。
「この音、何……?」
耳を澄ませる。こちらへ近づいてくる、聞いたことのない無機質不気味な可動音。
音は、校庭の奥からやってきていた。
ガードルートはそちらへ視線を向け――戦慄した。
ばるるるるるるるるるるるる
『シリアルキラーって言葉をご存知?』
耳を塞ぎたくなるような威圧音のなかにシャオ主任の呑気な声が混じる。
『彼は二十世紀に流行った快楽殺人者の一例ね。なんて言ったかなあ。確か十三日の――』
仮面をつけた大男が、チェーンソーを手に走り迫ってくる。
――ガードルートは再び、意識を失った。
キョンシー。口裂け女。巨人。ドラキュラ。ドラゴン。
ありとあらゆる魑魅魍魎と戦ったところで、集中が途切れた。
――少し、休もう。
ふらふらになったガードルートは、一旦休憩を挟むことを決め、シャオに断りを入れてシステムとの接続を解除した。
接続端子を外し、椅子から起き上がる。時間の感覚がない。時計を見ると、訓練を始めてすでに二時間が経過していた。そんなに経つんだ、とガードルートは驚く。
シャオ主任の訓練は、思った以上にキツく、同時に実りのある内容だった。夢に出てきそうな恐ろしい怪物との連戦。そしてサディスティックなまでの戦法と敵の数と配置。さすがは音に聞こえた性悪のシャオ主任。噂を聞きつけて、訓練官として指名した甲斐があった。彼女の下で訓練を続ければ、確実にガードルートは強くなれるだろう。
骨身に染み込まれるような訓練成果を実感しながら、ガードルートはシャオ主任と丈二の待つ部屋へ足を踏み入れる。
「ジョウジ、お水ちょうだ……」
ところがその丈二は寝ていやがった。
ガードルートが戻ってきたことなど露も知らず、机に突っ伏したまま、寝息も立てずに死んだように眠っている。
「寝てるし!!」
蹴りでも入れてやろうかと詰め寄った途端、しー、と囁くような声が耳に届いた。
シャオ主任である。
唇に指をあて、出来の悪い子を諭すように、つとめてゆっくりガードルートに語りかけた。
「お疲れだから、寝させてあげて」
――ガードルートは、しばし、年上の女と丈二の後頭部を見比べ、所在なく立ち尽くした。そんなガードルートを気に留めた様子もなく、シャオは空っぽのマグカップを差し出してくる。
「少し休憩にしようか。コーヒー飲める?」
「……いりません」
ガードルートは首を振り、言葉を続けた。
「ジョウジに貰うもの以外は、飲んじゃだめって、言われてるから」
「……ここで出されたものは大丈夫よ」
シャオ主任はそう言って、湯気立つカップを差し出してきたが、ガードルートは頑として受け取らない。
ようやく諦めたシャオ主任は、カップを引っ込めると同時に、ふう、とため息をついた。
その隙をついて、ガードルートは寝ている丈二の傍にあったミネラルウォーターに手を伸ばし、ごくごくと飲む。
――二人の間に、沈黙が流れた。
「……ジョーくん、かなり疲れてるみたいだけど」
口火を切ったのは、シャオ主任だった。
「ちゃんと休み与えてる? 休息時間もろくにないんじゃないの?」
――ガードルートは押し黙っていた。
「せめて人、増やしたら? ジョーくんだけじゃ明らかに護衛足りないでしょ? 護衛官を任命するのは運営委員会の仕事だけど、プリンセスが要請しない限り人員が増えることはないんだから、貴女が動かないと状況は変わらないのよ?」
「……貴女には、関係ないでしょ」
なんとか言葉を返すと、シャオ主任は呆れ果てた表情でこちらを見ていた。
ガードルートは胸にこみ上げた感情をぐっとこらえ、ペットボトルを乱雑に置いた。
「ジョウジはわたしの護衛官なんだから、わたしのために働くの、当たり前なの」
ガードルートは踵を返し、言い捨てる。
「訓練、再開するから。準備始めて」
去ろうとした背中に、ふう、とシャオ主任のあからさまなため息が追撃を加える。
「――そんな態度じゃ、人が離れていくでしょうに」
――びくり、とガードルートの肩が震える。
それはガードルートにとって、もっとも聞きたくない言葉だった。
ぎゅう、と心が締め付けられる。あてられたように手が震える。無意識のうちに汗をかいた手が拳を作り、すぐに力をなくしていく。
――気付けば、脱力した全身が、冷たい汗をかいていた。
「――ねぇ、さっきの」
己を鼓舞するようにガードルートは声を絞り出す。
その声は、自分でもぞっとするほど冷たく凍えていた。
「ひと、増やして欲しいって、ジョウジが言ってたの……?」
しかしシャオ主任は事もなげに一蹴する。
「まさか。考えすぎよ。私の個人的な忠告」
「そう……」
ちらと、ガードルートは丈二に目をやる。
未だに沈んでいる丈二の後頭部を一瞥し、ガードルートは再び、手術室へ戻った。
一度接続すれば、再度の立ち上げにはさほど時間を要さない。パソコンで例えれば、スリープモードに入っている状態だ。
その眠っているプログラムを呼び覚ますため、寝台に横たわったガードルートは接続端子を頭に繋いで、即刻自分の姿を想像する。
浮かび上がった自分の動作には問題がない。あとはシャオ主任の訓練プログラムの起動を待つだけだ。
わずかな時間を持て余したガードルートは、新しい武具のモデリングに挑戦してみることにした。槍よりイメージしやすく強力な武装があれば、そちらに切り替えてみるのも悪くない。
早速念じると、手に持っていた槍が音もなく消えた。これを超える、更に強い武具をガードルートはイメージする。自分を守る、更に強い何かに。
より、強い自分になるため――。
――ガードルート様、なぜそんなことを――。
「っ……」
その瞬間、画面にノイズが走った。
――ダメだ。
――考えてはいけない。
ガードルートは記憶の奔流をシャットアウトしようと試みる。
だが、止まらない、悪い想像に歯止めが利かないように。悪夢が自分の意思とは無関係に進んでいくように、ガードルートの思考を勝手に蝕んでいく、かつての記憶。彼らの声。
――特区の人間はみんなガードルート様を待っているのに――。
「うるさい……っ」
――また退任をしたいと申し出が――。
「……っく……」
――あんたにはもうついていけない――。
「……だ、だめ……っ」
ガードルートは必死にもがいたが、上手くいかない。
滑り落ちていく想像を食い止められない。
虚構が生み出せない。〝強い自分〟を作れない。
目の前の電子空間が黒く染まる。意識が、深い闇へと堕ちていく――。
¶
――遠い、遠いどこかで、アラームが鳴った気がした。
目覚まし時計にも似た、耳障りな音。人の神経に障る音。人が気持ちよく寝てるのに、うるせぇなぁ、と丈二はまどろみの中で不満を訴える。だが無神経なアラームは止まろうとしない。
「プリンセス、どうかしたの?」
すぐ近くからシャオ主任の声が聞こえた。いつものんびりした口調の彼女にしては、珍しくやや早口気味だ。どこか焦っているようにも聞こえる声。彼女が奏でるタイプ音すらもやや慌てているように聞こえて、
――桑畑丈二は跳ね起きた。
ペットボトルを手に取り、弾丸のように駆け出し、隣の手術室へ飛び込む。
寝台に横たわったガードルートは、変わらず接続端子を頭に繋いだままだった。だが、閉じられた目元はぎゅうと何かに耐えるように固くつぶられ、握りしめられた拳は震えている。大きく開いた口が、喘鳴のように苦しげな呼気を漏らしていた。
「――おい、ガー子」
丈二は駆け寄って声をかけたが、返事はない。ガードルートの小さな額には、球のような汗が浮き上がっている。頬も赤い。かなり熱が上がっているようだ。
丈二は素早く寝台横のマイクを手に取り、シャオに繋いだ。
「シャオ主任、接続解除。急いで」
『もうやってるわ』
シャオの返事を聞き、丈二はガードルートの端子を全て抜き去って接続を強制解除する。
ほどなくして薄く目を開いたガードルートが、のぼせたような表情で丈二を見つめた。
「ジョウジ……?」
「気が、ついたか?」
丈二が問いかけると、ガードルートはゆっくりと表情を動かした。熱っぽくなった顔が、無理やり笑顔を作ろうとしている。
「――……ん。……だい、じょぶ……」
どうやら意識はあるらしい。応答もしっかりしている。
丈二は再度マイクの向こうのシャオへと告げた。
「シャオ主任、訓練は中止だ。システムを終了させてくれ」
『了解』
シャオ主任が答えると同時に、手術室内の装置が完全に停止する。
丈二はガードルートの汗をハンカチで拭い、手にしたミネラルウォーターのボトルを咥えさせた。平坦な喉がこくりと動き、少しずつ水を飲む様子が見える。
「大丈夫か?」
「……うん。へいき」
頷くガードルートの額に、丈二は手の甲を当てた。先ほどよりはましになったが、それでも熱い。丈二の寝ている間に、なにかあったのは確かだ。
「医務室行くぞ。……歩けるか? ガー子」
「うん。……ううん」
大人しく頷いたと見るや、すぐさま首を横に振ってみせるガードルート。
どっち、と丈二が再び尋ねると、ガードルートは消え入りそうな声で、ぽつりと呟いた。
「……おんぶ」
――医務室で診てもらっても、結局、ガードルート不調の原因はわからずじまいだった。
眠っていた丈二には原因がわからない。唯一訓練に立ち会っていたシャオ主任が、心当たりがあるかも、と表情を曇らせたが、快復した当のガードルートは「気のせいじゃない?」とあっさりと否定して言及を避けた。
システムの問題でない限り、何があったかガードルート本人にしかわからない。本人がなんともないと言う限り、丈二からは追及のしようがない。
ともあれ、熱は下がり、食欲もあるらしい。丈二はそれ以上の詮索を諦め、ガードルートと共に一階の食堂にやってきた。
壁一面のガラス窓のある食堂は、薄暗い雰囲気の病院のなかでは希少な、光が差し込む開放的な場所だった。オープンテラスのテーブルに席を取り、丈二は持参した弁当箱を取り出す。
「本当なら大事を取って午後の訓練も中止にしたいんだけど」
言いつつ、丈二は嘆息を吐くが、ガードルートはどこ吹く風だ。ひったくるように丈二の弁当を手に取り、包みをご機嫌に解いている。
「ごっはんっごっはんっ。今日のおかずは何かなー? ……あっ、キューちゃん!」
弁当箱の蓋を開けた途端、ガードルートは目を輝かせ、丈二手作りのきゅうりのぬか漬けをパリパリと食べ始めた。
その様子を眺めながら、丈二は再度訊ねる。
「なぁ、本当に大丈夫なのか?」
「なにが?」
「体調」
「大丈夫。心配性だなぁジョウジは」
ひひひと笑い、ガードルートは丈二の目を覗き込むと、
「――ロリコン」
――丈二はやおら立ち上がり、ガードルートの前で拳を振ってみせた。最大の暴言を吐いたプリンセスはきゃーとわざとらしく逃げる。
「こっちが心配してやってんのに、お前、なんつーこと言いやがった……! お前から受ける数々の誹謗中傷はスルーできても、その見当違いな発言だけはやめろと言ってるのに……!」
「くくく」
健気な護衛官の心など知らず、ガードルートはニヤニヤと笑っている。不調でなければ頭を引っぱたいていたところだ。
丈二は咳払い一つ、
「――で、本題よろしいですかプリンセス」
「はい、なんでしょうジョウジ護衛官さま」
「さっき、委員会から速報が入ってな。シェラは今日の試合、勝ったそうだ」
シェラとは、ガードルートと現在二位争いをしている、ギリシャ・アテネの第二十特区代表のプリンセスだ。
現在、ガードルートは暫定二位。しかし三位のプリンセス・シェラとは勝ち点にして一の僅差だった。もしシェラが三勝し、ガードルートに黒星一つでもついてしまえば、クライマックスシーズン進出の前に二位決定戦を行うことになる。
シェラはステージギミックやホーム・アンド・アウェイ方式に左右されない、戦術・メンタルともに安定感のあるプリンセスで、優勝経験こそないものの過去のシーズンで常にランキング上位に食い込んでいた。今シーズンもガードルート相手に二つ勝ち星を挙げている。もし二位決定戦をすることになったら、ガードルートのクライマックスシーズン進出は危ういだろう。
「ま、予想通りね」
ところがガードルートに動揺した様子はない。
「シェラが三勝するなら、わたしも三勝すればいい。そうすれば勝ち点一をリードしたまま、二位決定戦をすることなくわたしはクライマックスシーズンにいける。でしょ?」
「簡単に言うけどな、クラリッサと戦って確実に三勝取れるとは限らないだろ?」
丈二の懸念を余所に、ガードルートは事も無げに言い放つ。
「わたしがクラリッサ相手に負けるわけないでしょ」
「……大した自信だな、おい……」
思いきり呆れる丈二。昨日の試合で若干苦戦していたのを、このお姫様はすっかり忘れているらしい。自信満々のガードルートは続けた。
「自信とかじゃなくて、本当のこと。それより問題は、クラリッサでもシェラでもなくオウンなの。優勝するにはあの子を倒さなくちゃいけない。あの子を倒すには、今から調整しても遅いくらい」
「オウン――そんなに強いのか、あいつ」
うん、と頷いたガードルートは、フォークに刺したきゅうりを狩猟民族のように持ったまま興奮した様子でまくしたてた。
「オウンの実力は計り知れないよ。わたしも、手も足も出なかった」
現在一位のプリンセス・オウンと、ガードルートはすでに今シーズンで対戦している。ガードルートが唯一、一勝も出来ずに惨敗したのはオウンだけだ。
そしてガードルートが優勝するためには、その最強のプリンセス・オウンとクライマックスシーズン三度の戦いのなかで、多くの白星を取らなければならない。今シーズン、一度もオウン相手に勝っていないガードルートが、今から調整をしておきたいと言うのも決して大袈裟な話ではないのだろう。
ガードルートの気持ちをなんとなく理解した丈二は、背もたれに身を預けて言う。
「まあ、頑張るのはいいけどさ。切り札も残ってるんだし、あんまり根詰めるなよ」
「うん。わかって――」
ガードルートが頷いた、そのとき。
「ガードルート!」
ガードルートを呼ぶ若い女の声がして、丈二とガードルートは同時にそちらへ視線を向け、
「げっ」
ガードルートは呻き、
「――クラリッサ?」
丈二は戸惑った。
こちらへ駆け寄ってくる、一人の少女。とび色の大きな瞳と、いかにも健康そうな、血色の良いウィートの肌。ウェーブのかかった栗色の髪は、今日は水色のシュシュで結ばれている。
紛れもなく、ガードルートの現対戦相手、プリンセス・クラリッサである。
「はい! プリンセス・クラリッサです!」
ご丁寧に自分でも名乗ったクラリッサは、ガードルートへ笑顔を向けた。
「奇遇だねガードルート! こんなところで会うなんて!」
喜ぶクラリッサとは対象的に、ガードルートは敵愾心も露に告げた。
「プリンセスが訓練所で会うなんてごく当たり前のことでしょ。バカなの?」
「嬉しいなぁー。試合中はぜんぜん話せないし。ね、一緒にお弁当たべよ?」
ガードルートの辛辣な言葉などまるで聞こえていないらしいクラリッサは、嬉しそうにガードルートの手を引いた、
途端、ガードルートの怒りは頂点に達した。
「人の話聞きなさいよ!」
ガードルートは小さい身体を憤りに震わせ、手足を動かし全身で怒りを露にしている。地面でもがく虫に似てるな、と他人事の丈二はぼんやり思った。
「なんでアンタなんかとお弁当食べなきゃいけないの! わたしはアンタと違って忙しいのいっぱいやることあるの! わかった!? わかったらわたしに付きまとわないでっ!!」
吐き捨てると、ガードルートは立ち上がって何処かと去っていった。丈二はその背中に声を上げる。
「おいこら、勝手に離れんな」
うるさい、と振り返りもせずに言うガードルート。仕方なく、丈二は弁当箱を片付けてその後を追おうと立ち上がった、
「では、オレも失礼……」
「ちょっと待って!」
その手を、ひんやりとした別の手が掴んで引き留めた。
丈二の手を掴んでいたのは、もちろん、クラリッサだった。
「……あの、なにか……?」
丈二が訝しがって尋ねると、クラリッサはなぜか、一瞬だけ恥ずかしそうに目を伏せたあと、ゆっくりと見上げてくる。
その表情に丈二の胸がときめいた――訳がなかった。
立ち上る厄介事と悪寒の気配をひしひしと感じながら、プリンセスを邪険に扱うことも出来ない丈二はクラリッサの言葉をただ待つ。
やがておずおずと口を開いたクラリッサが、搾り出したのはこんな言葉。
「――あの、ガードルートの護衛官さん。よろしければ、ランチ一緒に食べません?」
はぁ、と丈二は阿呆みたいに声を上げた。
――丈二がプリンセス・クラリッサに関して知っていることは、あまり多くはない。
第十一特区代表のプリンセスであること。肌や顔立ちから察するに、おそらくヨーロッパ系の出自であること。ガードルートと同じ、昨年のシーズンからデビューしたこと。十一特区だけではなく他の特区のテレビやCMにも時折顔を出すこと。去年のプリンセスビーチバレー大会で優勝したこと。
昨日から始まったガードルートとの三連戦のうち、第一戦目で負けたこと。
そしてどうしても理解出来ないことが一つ。
なぜ敵であるガードルートと、呑気に食事をしようなどと思ったのだろうか?
クラリッサは自身の屈強な護衛官たちと共に、病院の中庭へ丈二を誘った。青いレジャーシートを広げて、丁寧に靴をそろえて脱いだクラリッサは、早速シートに正座している。
「どうぞ」とクラリッサに示され、丈二も倣ってその向かいに胡坐をかいた。
そしてクラリッサが一人の護衛官が手にしていた袱紗を受け取り、丁寧に包みを解くと――丈二の混乱は頂点に達した。なぜ袱紗のなかからバスケットが出てくるのだろうか。
「はい、どうぞ召し上がれ」
バスケットから取り出したランチボックスを広げ、クラリッサは丈二にフォークを差し出してくる。ランチボックスのなかには、手作りらしい全体的に茶色いおかずが顔を揃えていた。
「はぁ。どうも」
まさか毒でも入っているのではないかと、フォークを渡された丈二は手を出すのを躊躇う。これを本当にガードルートに食べさせようと計画していたのなら、毒が盛られている可能性もなくはない。試合会場以外で、プリンセスがプリンセスを狙う。過去にそういった事例はいくつも報告されているのだから。
そんな丈二の逡巡など気に留めた様子はなく、クラリッサはプラスチックの平皿にナゲットを取り、一人もしゃもしゃと食べはじめた。
咀嚼したまま、クラリッサは口を開いた。ちょっと行儀が悪い。
「ええと、お名前は……」
「桑畑です。桑畑丈二」
「桑畑さんと丈二さん、どちらでお呼びすればいいですか?」
「どっちでも構いませんよ。どうせ偽名なんで」
まぁ、と嬉しそうにフォークを持った手を合わせるクラリッサ。
「じゃあ私たちと一緒ですね」
そう言いながらクラリッサがナゲット、ポテト、チーズフライと節操なく手をつけていくのを見て、丈二はもくもくと浮かんでいた懸念が萎んでいくのを感じた。
クラリッサのペースに押されて混乱した思考を冷静に正していけば、この弁当に毒物が入っている可能性は低いという結論にたどり着く。仮にクラリッサがガードルートに害意を抱いていたとしても、そもそもあちら側は今日丈二たちがダンスホールに来ることを知っている訳がないのだ。ガードルートの行動を把握しているのは、丈二と六係刑事と運営委員会のごく一分だけ。つまり、クラリッサが預言者でもない限り、この弁当に毒物が入っている訳がない。
そう判断した丈二は、最後に一つだけ、先ほどから感じていた疑問をクラリッサにぶつけた。
「あの、彼らは一緒に食べないんですか?」
言って、丈二はクラリッサの後ろに立ったままの護衛官たちを顎で指し示す。
「ええ、そうなんです。私に気を遣わせて悪いからって、外で食べてきちゃうみたいで」
クラリッサは答えたあとで、護衛官たちを振り返った。
「みんな、いっしょに食べてもいいのよ?」
しかし護衛官たちは苦笑を浮かべながら首を振ってみせる。いえいえクラリッサ様の手料理を食べるなんておこがましい。
その様子にわずかな警戒心を抱きつつ、丈二はナゲットにフォークを刺した。この護衛官たちは言葉どおりに遠慮しているだけか、それとも。
その疑問は、ナゲットを齧った口のなかで明らかになった。
表面のさっくりとした歯ごたえと共に到来する、合成鶏肉特有の歯ごたえの悪さ。下味がつきすぎている衣と、口いっぱいに広がる鶏臭さ。
至って人畜無害な顔をしているナゲットは、その衣の内側で、得もいえぬ破壊的調和を生み出していた。美味いところは美味く、不味いところは不味い。この小さな料理のなかでは、予想も出来ない味覚概念そのものの崩壊が起こっていた。
クラリッサが目を輝かせて尋ねてくる。
「美味しいですか? 美味しいですよね?」
「……いや、あの……」
ちらと控えている護衛官に視線を投げかける丈二。一方の男は同情のこもった視線を返し、もう一方は失笑を抑えている。
奴らが相伴しない理由は、これだったのか。ナゲットのあまりの不可思議な味に、彼らに対して理不尽な怒りを覚える丈二である。せめて一言ぐらいヒント寄越せ。
だが色よい返事を期待しているプリンセスを無碍に扱う訳にもいかない。丈二は鶏肉の断面とクラリッサを見比べ、己のなかの語彙を必死に手繰り寄せた結果、至極無難な返事を返した。
「まぁ……美味いかな……」
「本当? 良かったぁ」
丈二の慈愛に満ちた世辞だと知る由もなく、クラリッサはフォークを握り締め、弾まんばかりに喜んでいる。
「私、脳にBMCI電極つけたときの影響が舌に残っちゃったみたいで、ちょっと味覚が鈍感なんですって。よかった。今日は成功」
「……はぁ、それはそれは」
ならば仕方ないのかもしれない。丈二は胸に溜まった不平不満と、実は大失敗しているんですよ、という本音を、ナゲットと一緒に飲み込むことにした。
プリンセスたちは、〈ゴッドマザー〉と繋がるために、脳のなかに新型のBMCI電極を差し込んでいる。だが脳に電極を取り付けるということは、それだけリスクを伴う。――丈二も以前、噂に聞いたことがあった。頭部を切開し、針のような電極を脳の全体を覆うように取り付ける新型BMCI電極の手術。その後に、プリンセスたちはなんらかの後遺症を抱えると。
クラリッサの言う影響とやらも、手術の後遺症だろう。ナゲットのみならず、クラリッサの料理は全て感想に困る、中途半端なクオリティーだが、そういった事情を知ってしまった以上、食べない訳にはいかない。丈二は腹をくくり、クラリッサファン垂涎のお手製弁当を胃液逆流の構えで食べる決意をした。
味のついている箇所を舌のうえに滑らせ、生焼けのところは飲みこむ、と技術を駆使して丈二がなんとか料理を咀嚼していると、
「――あの、桑畑さんは今シーズンからガードルートの護衛を務めているんですよね?」
フォークを置いたクラリッサが、あらたまって訊ねてきた。
「ええ、そうです。今シーズンの春から」
丈二が答えると、そうですか、とクラリッサは表情を曇らせる。
「……ガードルート、なんだか元気ないですよね」
「そうですか?」
「えぇ。なんだか、素っ気無くなった。昔はもっと、可愛げがあったんですよ?」
「はぁ、可愛げ」
その大昔には人間にも羽があって空を飛べたんですよ、というヨタ話を聞いたようだ。
ここで、丈二はずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「クラリッサ様は――」
「クラリッサ、で構いません。ガードルートの護衛官さんなら、私にとってもお友達ですから」
「……あぁ、そうですか」
お友達。なんというファンタジックで暴力的な響き。丈二がお友達なら、クラリッサにとっては森の動物たちも深海魚も全てお友達の枠に入るに違いない。
「じゃあ、クラリッサは、うちのお姫さまとは昔から知り合いだそうですね」
「えぇ。ハルモニア――プリンセス訓練用のスペースハビタットで訓練を受けていたころから、親友だったんです。他にも仲の良いお友達、いっぱいいたんですけど、ガードルートは一番年少で……そのせいかな、私放っておけなくて、いつも一緒に遊んでいました」
綻ぶような笑顔のあとで、クラリッサはすっと笑みを鎮めた。
「……でも……いつからかな……あんな風に冷たくなっちゃって……」
「冷たい、ですかねぇ。オレが会った頃からいつもあんな感じでしたけど」
平然と言う丈二の顔を、クラリッサは困惑したように見上げてくる。
「そう……なんですか? 桑畑さんに対しても? とっても仲良しに見えるのに」
「――仲良しかはともかく、ガードルートはいつもああですよ。出会った頃なんかもっとひどかったですね。アンタなんかいらない、あっちいけ、とかしょっちゅう言われてましたし」
「まぁ……」
クラリッサは次ぐ言葉もなく驚いている。丈二は苦笑で相槌を打った。
丈二がガードルートと初めて出会ったのは今年の春。その頃からガードルートは、人をまともに寄せ付けようとしなかった。初対面でもろく挨拶せず、近づこうとする人間に対して小型犬のように威嚇する。当時、新任の護衛官だった丈二ともろくに口を利かず、前年からのスタッフである藤六郎の背中にばかり隠れて、まともなコミュニケーションが取れなかった。丈二が献身的にくだらない悪戯を仕掛けたりちょっかいをかけたりしなければ、今でもまだ会話の乏しい、冷え切った関係が続いていただろう。
「今はそこそこ話もしますけど、完全には信用してもらってない気はしますね。彼女が何でそうなったのかは、正直わからないんですが」
「……きっと、何かあったんです。ガードルート、そんな子じゃないもの」
鎮痛な面持ちで言うクラリッサに、丈二も同意する。
あれがガードルート本来の性格でないことは、丈二も薄々察しがついていた。おそらく前年からのスタッフであり、唯一信頼している藤と接しているときの態度が、ガードルートの素だ。
何が原因でああなってしまったのか、丈二に詳しいことはわからない。だが、半年ちょっとはいえ共に暮らしている丈二や、自称親友のクラリッサにさえ簡単に心を許さないほど、深い闇をガードルートは抱えているのだと思う。もっとも、それを暴き立てようという無粋な気持ちは、丈二にはないのだが。
少し喋りすぎたかな、と反省した丈二は話題を切り替えようと試みた。
「……まぁ、オレとしては元気に試合に出てくれればいいんですが。それよりクラリ――」
「そこで、護衛官さんにお願いがあるんです!」
急に熱を帯びた口調になったクラリッサは、丈二の手を握った。
「私とガードルートがデート出来る日を作っていただけませんか!?」
――理解するのに五秒かかった。
「……はあ、デート」歯の抜けた年寄りのように反芻する丈二。「うちの、プリンセスとですか」
「ええ、そうです!」
クラリッサは訂正しようともしない。恐ろしいことに聞き間違いではなかったようだ。
「たぶんシーズン中だから、ガードルートもストレスが溜まってると思うんです。だから私、一緒に出かけて発散してあげようと思って!」
「はぁ……」とはいえ、理解は出来ない丈二である。「たぶん、断わられると……」
「お願いします! 私、あの子を助けたいんです!!」
丈二の手を握ったまま、クラリッサは手を持ち上げて拝むような姿勢を取った。ジェルネイルを施した、ほっそりとした指が視界に入る。
「お願いします、桑畑さん……!!」
神様に祈るように、再びクラリッサは繰り返した。
¶
――手。
手を握っている。クラリッサが、丈二の。
許すまじきふしだらでみだらで破廉恥な行為だ。しかも丈二には恋人がいる。これはれっきとした浮気の証拠であり、不義の証である。
無論、ガードルートには何の関係もないことだ。だが世の中には常に正義というものがある。丈二がそれを逸脱した行為をしている以上、監視する義務がある。
中庭を臨む廊下の柱に隠れたガードルートは、丈二とクラリッサの様子を密かに窺っていた。
護衛対象が席を外したというのに、丈二はガードルートを探そうともせず、クラリッサと呑気に食事をしている。二人ともいい歳のクセに、まるでピクニックのようにブルーシートを敷いて食事がてら楽しそうに話をしていた。いったい何を話しているんだろう。気になるが、ここからでは会話の内容は全く聞き取れない。
カメよろしくガードルートが柱から首を伸ばしていると、後ろから誰かが向かってくる足音が聞こえた。ガードルートは反射的に柱に身を隠す。
後ろの通路からやってきたのは、シャオ主任と同じ白衣を着た男たちだった。おそらく訓練所の職員だろう。ガードルートに気付くこともなく、ファイルを片手に話しながら歩いてくる。
「――シャオ主任、今日は遅くなるんだって? お子さん小さいのに、大変だな」
「今日はプリンセスが二人も来ているからな」
「二人、ねぇ。クラリッサはともかく、ガードルートに施設を貸してやる意味があるのか? 特区に所属してないプリンセスに協力する必要なんてないだろ」
わたしの話題だ――察したガードルートは、柱の影に隠れたまま、耳を澄ませた。
悪寒がする。それは恐怖だ。自分のことを自分がいない場で話される内容は、大体ろくなものじゃないと決まっている。
「そもそも特区に所属していないのに引退させずに次シーズンにも出場っておかしいだろう。運営委員会は何考えてるんだ?」
「利権が絡んでるんだろ。こっちじゃ【舞闘会】に人生かかってるってのに、火星じゃ単なる賭け事だからな」
「ふざけた話だよ。……そういえば、ガードルートはオウンの当て馬って噂もあったな。優勝候補のオウンに対する対抗馬で残留許可されたって噂もあるらしい」
違いない、と男たちは皮肉めいた苦笑を交わしあった。
「まぁ、どうせガードルートに優勝は出来ないだろ。下馬評通りオウンの勝ち。それで今シーズン限りでガードルートは引退だろうさ」
談笑が離れていく。
空虚が広がる胸に、ガードルートはそっと手をあてた。
喉元を、ぞっとするほど冷たい氷が流れていく感覚がする。それは胃を介し、体のどことも云えない深淵に滑り落ちていく。
「……わたしは」
自分のものとは思えない、無機質な声が魔法の言葉を紡ぐ。
「悪い子……」
¶
午後の訓練を休みたい。
昼休みのクラリッサ襲撃後、どこかに行方をくらましていたガードルートは、丈二のところに戻ってくるなり、そう言った。
ガードルートは理由を言わなかった。丈二はその原因に心当たりがなかった。
だが、プリンセスが休息を望むなら、護衛官は従うのみだ。わかった、とだけ答え、丈二は待機中の藤を訓練所まで呼び寄せた。
丈二は護衛官として最善を尽くしたのだ。やれるだけのことをやった。丈二は正しい。
――しかし、よくやっていたとしても、世の中認めてくれる人間ばかりではない。
「が、が、がが……」
駐車場にセダンが止まり、降りてきた女姿の藤六郎は、壊れたラジオのように呻いた。
「ガードルート様……な、なにが……一体なにがあったのです……?」
「ちょっと、具合悪くて。早退」
ガードルートの言葉少なな返事が、かえって藤の不安を煽ったらしい。若い女は青ざめた顔で頭を抱えた。
「おお……なんということだ……もしや、食事が悪かったのではありませんか……? 無能護衛官に嫌がらせをされたとか……」
「おい待てジジィ」
「違うよぉ。ほんとに、少し疲れただけだから」
小さく笑って、ガードルートは勝手に車に乗り込んだ。
丈二はその後ろ姿に目をやったまま、女の姿をした爺に語りかける。
「あの、センセイ」
「なんだ」
返ってきた声音は、低く轟く若い男のものだった。
「オレにも原因はわからないので、オレを責めるのはやめてもらっても、」
ぎろり。
切れ長の視線が丈二を捉え、以降の釈明を許してくれない。
――本当に、困ったことになった。
ホテルに戻った三人は、無人のフロントを横切ってエレベーターに乗りこむ。
狭い空間の中だと言うのに、爺の心配は相変らずやかましい。ほんとうに、ほんとうに大丈夫ですか。今からでも医者を呼んだ方がよろしいのでは。もしガードルート様になにかあったら大変です。少しでも体調が悪かったら、すぐこの役立たず護衛官を使ってやってください。
だがガードルートは殊更に笑い、爺の心配を振り払う。
「だいじょうぶだいじょうぶ。寝れば治るから」
「しかし……」
それ以上、ガードルートは藤の言葉を聞かなかった。
昨日と同じ借りた部屋の前まで辿り着くと、ガードルートは勢いよく扉を開け放ち、丈二に先立って入ってしまった。
「おい、勝手に入るなって……」
丈二の忠告は、目の前でばたりと閉まった扉に遮られる。
「――本当に、心当たりはないのか」
途端、扉を見つめたままの藤が呟いた。
丈二はすかさず、
「ないですスミマセン」
「何故ない」
「ないものはないんですスミマセン」
「ガードルートが気まぐれであんな態度を取ると思うか」
「思いませんスミマセン」
ぎろり、と捕食寸前の鮫の縦目よろしく丈二を睨み据える藤。丈二は廊下にかかった絵画に描かれた麦を詰む少女に、心の中で己の不遇を訴える。なぁどう思う、この爺さん、頭おかしいよね。少女は答える。私もそう思うわ。でもジョージ、早く答えないと殺されそうよ。
観念した丈二はため息交じりに、
「……たぶん、オレがクラリッサと話してる間に何かあったんだろうね。ものの二十分程度だし、あの様子だから、直接危害を加えられたっていうより、誰かに悪口言われたとか、そんなとこでしょ」
「そんなとこ……?」
爺の声が地底を這う。やばい、と冷や汗をかく丈二だが、時は逆しまに戻らない。
「なんだその言い様は他のプリンセスになどかまけているからだろうこのクソ役立たずがプリンセスを世間の中傷から守るのも護衛官の仕事だと何度言ったらわかるんだ?」
「ハイ。わかってますセンセイ。スミマセン」
丈二がいくら心を込めて詫びようとも、藤の小言は続いた。だいたいお前はいつも肝心なところであの子を守らないいったい今まで何を学んできたんだこの役立たずが学校行って勉強しなおしてこい。
――長きに渡る精神攻撃が七度めの息継ぎで途切れたとき、丈二はついに反旗を翻した。
爺の小言に木魚のように繰り返していた相槌をさっと切り上げ、一瞬で部屋のなかに逃げて鍵をかける。貴様、出て来い、と廊下から叫ぶ爺に丈二は叫ぶ。
「うっせ! やかましいんだよバーカ! 隠居したふりして好き放題ほざいてろバーカ!!」
「なにやってるの?」
冷静になった丈二は後ろを振り返る。
目の前に、きょとんとした顔のガードルートが立っていた。丈二を見上げるその手には、寝間着と着替えがある。丈二にとっては見慣れた、ガードルートのお風呂セットだ。
「……もう、風呂入んのか?」
「うん!」
首肯したガードルートは、弾むような足取りでシャワールームに入っていった。おっふろ、おっふろ、と自作の下手くそな歌を道連れに。
その姿を見送った丈二の背後で、扉がかちゃりと開く音がする。
合鍵を使ってドアをそっと開けた藤が、無表情で呟いた。
「……あれは、相当ですな」
「――だな」
丈二も静かに同意した。
ガードルートの、一見ご機嫌そうなあの態度は、カラ元気の表れだ。短い付き合いの丈二だが、ガードルートがいちいち大仰大袈裟な振る舞いをするときは、落ち込んでいるときだと察しがついていた。
しかし気付いたところで、あの状態のガードルートに何か言葉をかけてやることは難しい。下手な慰めや励ましはガードルートのもっとも望まぬところだ。
「……センセイ、どうしますか?」
丈二が訊ねると、藤はため息をつき、首を振った。
「……今日は君に任せる。うまくやれよ」
そう告げた藤は、そっと扉を閉じた。自分の部屋に戻るのだろう。
了解。誰もいなくなった玄関で、丈二はひとり呟く。
落ち込んでいるガードルートに、丈二がしてやれることは限られる。
その限られた中から丈二が選択するのは。
「ごっはん、ごっはん……あ、この匂いはっ!!」
風呂上りのガードルートは、早速匂いを嗅ぎつけてキッチンへ入ってきた。
丈二はバターを落としたばかりのフライパンに溶き卵を流し込みながら言う。
「丈二様謹製オムライスだ。食べるだろ?」
「もっっちろん!!」
跳ね上がらんばかりに喜ぶガードルートに、丈二は内心ほくそ笑む。
――プリンセスのご機嫌を取る、最大にして簡単、手っ取り早い奉仕。それはガードルートのお子様舌を満足させることだ。数ある好物のなかでも、一番の大好物であるオムライスを作れば、ガードルートの機嫌取りなどちょろいもの。
頭のてっぺんから湯気を立たせ、背伸びしてフライパンを覗きこむ上機嫌そのものガードルートに、丈二は気になっていたことを尋ねた。
「――なぁ、明後日の試合、ホントに大丈夫なのか?」
なにしろ、試合期間中のプリンセスにとって精神面のコンディション調整は最重要課題なのである。無理をして試合に出たところで、ろくなことはない。
ところがガードルートはあくまでご機嫌顔で答えた。
「平気だってば! 心配しすぎ。病気したとか怪我したとかいう訳じゃないからだいじょうぶ。美味しいもの食べれば治るから!」
しかし納得出来ない丈二は、フライパンを揺らしながら渋い顔をする。怪我や病気と違って、精神面の不調は数値や顔に現れる訳ではないから、大丈夫と言われても不安が拭えない。
「でもなぁ……」
「それよりほら、鳴ってるよ」
ガードルートが指し示す先に、丈二は視線を動かす。
鳴っているのは、ダイニングカウンターに置きっぱなしの丈二のタブレットだった。
顔が引きつる。昨日から休みなく鳴動を続けるこの端末は、丈二にとって恐怖の象徴だった。
「……あとで、でいいよ」
「いいの? どうせ恋人でしょ?」
「いいよ。君の方が大事さ」
「きもーい!!!」
とガードルートは嬉しそうに笑っている。憎まれ口を叩けるようになったなら大丈夫か。いつもならぐーの一発はくれてやりたいが、暴言の一つや二つ流してやることにする。
前もって作っておいたチキンライスの上に、焼きたてのオムレツを乗せる。中心をターナーで割くと、みじん切りにしたトマトとベーコンが姿を見せた。本当は彩りのためにグリーンピースも入れたかったが、ガードルートが断固として許さないため不在だ。
「ごっはんっごっはんっオッムライスっ」
そのガードルートはといえば、オムライスにケチャップで落書きをしている。下手くそな日本語で『がーこ』と描くと、よし、と満足気に頷いた。
――頃合か。
焼きあがった自分用のオムレツを皿に乗せ、丈二はいよいよ切り出すことにした。
不調そうなガードルートに伝えるのはとても憚られた、プリンセス・クラリッサ考案のド級プランを。
「あ、そうだガー子ちゃん?」
「気持ち悪い。なに?」
そして丈二は、クラリッサの提案を、クラリッサから聞いたそのとおりに伝えた。
話を進めるにつれ、ガードルートの表情がみるみる強張っていく。
全て聞き届けたあとで、ガードルートは尋ねてきた。
「――で、アンタはそれを受けたの?」
丈二は笑顔で返す。
「うん!」
「ばっっっっっっかじゃないの!!!!」
予想通り、ガードルートは怒った。
「なんで! わたしが! あいつと遊ばなきゃいけないの!!!」
案の定怒った。めちゃくちゃ怒った。手を振り地団駄を踏み、全身で怒りを露にしている。
「大体わたしは忙しいの! 明日も訓練するの!! 次の試合が終っても訓練するの! 暇なんてないの!!」
「あ、それは大丈夫。ちゃんとスケジュール空けといたから」
「はあ??? ありえない!! シーズン中に遊ぶなんてふざけてる! 絶対貴方なにか企んでるでしょ!?」
「なにも?」
言って、丈二は使い終えたフライパンをシンクに突っ込んだ。
「――ガードルートを助けたいんだってさ、クラリッサ」
――コンロのツマミを捻ったかのように。
ガードルートの燃え上がっていた怒りが、ぴたりと収まる。
「ガードルートの様子がおかしい。なにかあったに違いない。相談に乗ってあげたいって」
長い、沈黙が流れた。
押し黙ったガードルートに、丈二はもう一度だけ問いかける。
「今なら断われるけど。どうする? ガー子様」
「……いく」
短く呟いたガードルートはケチャップを再び手に取り、新しいオムライスに『じょーじ』と描いている。