少年は夢を見る
少年は夢を見る。
いつか振り返ることがあるならば、気恥ずかしく思い起こされるであろう、夢。しかしそれは今の少年にとって、何物にも代えがたい全てだった。
息を切らせて、少年は走る。
ほら、もうすぐ。
その角を曲がれば――。
――いつもならすぐに機嫌が悪くなるはずの僕の相棒、ケーターハム・スーパーセブンは、今日に限ってやけに調子がいい。とびっきりのゲストを迎えて、きっとこいつも張り切っているんだろう。
「寒くない? オープンカーにはまだ早かったかな」
「ううん、風がとってもいい気持ち!」
白いチューブトップに、袖を捲ったパイロットジャンパー。僕とお揃いのレイバン。ざっとまとめただけのラフなポニーテールをなびかせて、楓ちゃんが楽しそうに笑う。
カーオーディオからは六〇年代のアメリカン・ロック。
見上げれば、抜けるような空に、眩しく輝く太陽。ホットドッグをかじりながら、僕らはどこまでも続くハイウェイを走った。
――小さく悲鳴をあげて、楓ちゃんが人の波に押し流されようとしている。僕はすかさず腕を伸ばして、一気に引き寄せた。
「ごめんよ、大丈夫?」
「もう、もっと早くこうしなさいよね!」
照れ隠しのように怒ってみせる楓ちゃんの細い肩を抱きながら、僕はパレードが終わるまで、いやこれから先もずっと、この手を離すもんかと思った。
――やがてホテルに到着して、僕はメルセデス・マイバッハのナビシート側に回ってドアを開けた。
赤いヒールの爪先の、すらりとした脚。柔らかな光沢を放つ藤色のドレスに身を包んだ楓ちゃんが、僕の手を取る。
女の人のドレスの種類なんて分からないけど、いつもと違う大人びた雰囲気に、どてもドキドキする。
「行こうか」
歩調を合わせて、エスコートする。誇らしい気持ちで一杯になった。
――ロマネ・コンティが注がれたグラスを、軽く掲げる。
「この記念すべき日に」
「二人のこれからに」
チン……。静かなクラシックが流れる店内に、澄んだ音色のアクセント。
ほんの二口か三口で、ほんのり頬を染める楓ちゃんが、なんだかとても色っぽい。
「誕生日おめでとう、楓」
どさくさに紛れて呼び捨てにしてしまった。楓ちゃん……楓が、嬉しそうに微笑む。
悩みに悩んだプレゼントは、小さな恋人たちがくるくると踊るオルゴール置時計。もっと悩んだ選曲は、「ホール・ニュー・ワールド」。
楓は子供のように喜んで、それから最上階から眺める百万ドルの夜景に、うっとりと目を細めた。
「きれい……」
「ああ、そうだね。……でも」
「でも?」
「き、君のっ……」
ダメだ。絶対に言おうと思ってたのに、つっかえてしまった。
「君のほうが……その」
「あ」
まごついているうちに、何を言いたかったのか察したらしい楓が、真っ赤になって俯く。
それからあとは、二人とも照れてしまって、何も言えなくなってしまった。
あーあ、情けない。でも次はビシッと決めるぞ。決められるといいなあ……。
――一歩ごとに、お別れの時間が近付いてくる。あんなに楽しかった一日が終わってしまうかと思うと、自然と足取りが重くなった。
叶うなら、このままどこかに連れ去ってしまいたい。でも、ご両親に心配かけちゃダメだよね。
時間よ止まれ!
次の角を曲がれば楓の家という所で、ふいに彼女が僕の前に回り込んで足を止めた。
「ユウくん。今日は本当に嬉しかったよ」
潤んだ瞳で見上げてくる。
「ねえ、これからもずっと、一緒にいてくれる?」
僕は衝動的に抱きしめたい気持ちに駆られながらも、落ち着いた声で返す。
「もちろんだよ、楓」
「……じゃあ、約束」
楓が目を閉じて、催促するように僕の袖を引いた。
ああ。楓、楓。僕の恋人!
誓うよ。幸せにする。僕は絶対に、君を――。
「あら、笑ってるわこの子。きっといい夢を見ているのね」
「ふふ、きっとそうですね。もう、いつまでたっても呑気なんだから」
「それじゃ私は帰るから、楓ちゃんもご両親が心配しないうちに、ね」
「はい。……でも、もう少しだけ」
「……ごめんね、楓ちゃん」
全身に疲労感をまとった婦人が、静かに去っていく。
白い部屋には、小さな少女と、眠り続ける少年が残された。
出合い頭の事故だった。
少年は、我が身に何が起きたのかすら理解しないまま、今も幸せな夢を見ているのだろう。
少年は知らない。
「ユウくん……」
ぽつりと呟く名前に込められた、言葉では足りない想いも。
何よりも雄弁に握りしめてくる、少女の手の温かさも。
何も知らずに。
何も分からずに。
「ねえ、ユウくん……」
少年は夢を見る。
少年は、夢を見続ける。