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夏影ソリタリア

作者: 卯月うどん

 午前中の雨が上がり、蒸し暑くなった夏の日の午後、彼女はぼくの前に現れた。


 風が吹く度にさらさらとなびく絹糸のような黒髪、品のあるスカート丈のセーラー服、その姿から彼女が学生であると推測することは容易であった。しかし、なぜ彼女がここにやってきたのかはわからなかった。ここは、古びた洋館。ぼくだけが住んでいる誰も寄り付かない洋館だ。こんなところにやってくるのは、肝試しだと言って他所様の家にずかずかと上がり込んでくる無礼な輩くらいのものだ。だが、彼女の様子は肝試しという感じではない。一人で昼間のこの屋敷に来ても肝試しとは言えないだろう。

 玄関ロビーにぼんやりと立っていた少女はやがてきょろきょろと辺りを見回し、戸惑いながらもゆっくりと足を前に進めた。ぼくはその彼女の姿を、ただぼんやりと眺めていた。

しばらく玄関付近をうろうろしていた彼女であったが、物陰からの視線に気づいたのか、ぼくの方に丸い目を向けた。そして、丸く大きい目を一層見開いて、ぼくを見つめるのであった。何秒間見つめあっただろうか。いや、秒数にすれば一秒も無かったのかもしれない。だが、その一瞬の出来事が、何時間にも感じられた。それは、ぼくが他者に認知されたのが、実に久しいことであったからだろう。

 そんなぼくに彼女は、ゆっくりと歩み寄ってきた。しかし、人と馴れ合うことに慣れていないぼくは反射的に物陰に隠れてしまった。埃まみれの大きな振り子時計の影に隠れたぼくを見た彼女はその足を止め、代わりに口を開いた。

「わたしと、遊びましょう?」

 その言葉に対してぼくは何を思ったのか、物陰から顔を覗かせてしまった。本意はそうではないはずだった。ぼくは、彼女がどこかにいくまで隠れていよう、もし更に近づいてきたら逃げようとさえ思っていたはずだった。

 物陰からすっかり姿を見せた僕に、彼女は笑みを浮かべた。そして彼女は身を翻し、ステップを踏むように玄関の方に向かう。開け放たれた玄関扉からは生ぬるい風が洋館に吹き込んでいる。夏の日差しが地面を照らし、陽炎が外の世界を曖昧なものにする。そんな陽炎の世界に彼女が足を踏み入れ、彼女の姿も曖昧になる。そのまま彼女が陽炎に消えてしまいそうな気がしたぼくは、急いで彼女のあとを追った。

 玄関をくぐると、生暖かい外気がぼくの体を包んだ。それと同時に耳をつんざくような蝉の音がぼくを襲う。雲ひとつない青空。午前中の雨は一体何だったのだろうとさえ思えるほどである。

強い日差しに目を細めながら、ぼくは彼女の姿を探す。どこにいったのだろう。ぼくの視界に彼女はいない。足音も蝉の音が邪魔をしてよくわからない。耳を澄ませば聞こえるのかもしれないが、そんな気力はぼくにはなかった。

しばらく辺りを歩き回った。すると、庭の奥にひらりとゆれる紺色のスカートが目に映った気がし、ぼくはその方向へと足を進めた。

庭の奥には向日葵畑が広がっていた。ヒトの背丈よりも高いであろう向日葵たちが一斉に、凛と太陽を見据えるように咲き誇っていた。そんな向日葵たちが作った小さな通路に、ぼくはそろりと足を踏み入れた。なんとなく、なんとなくだが、そこに彼女がいる気がしたのだ。髪を風にゆらし、向日葵と同じように凛と佇む彼女が、いる気がしていたのだ。

その予感は的中した。彼女は向日葵に紛れるように立っていた。その姿は、そのまま向日葵の中に消えてしまいそうな儚ささえまとっており、ぼくはそれ以上足をすすめることができなかった。これ以上足を進めれば彼女は消えてしまうのでは、と冗談じみたわけのわからないことを憂いでいたのだ。

だが、それは杞憂だったようで、彼女はぼくの存在に気がつくとまた柔らかな笑みを浮かべた。そして桃色の唇をゆっくりと開き、笑いながらこう言った。

「えへへ、見つかっちゃった。君の勝ちだね」

 どうやら彼女はかくれんぼのつもりだったらしい。彼女が隠れ、ぼくが探す。そうして遊びは既に展開されていたようだった。そうなると、必死で探したぼくが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「よっし、もう一回いってみよう!」

 ぼくがぼんやりとしていると、彼女はそんな言葉だけを残し向日葵の中から消えていた。そしてしばらくして、

「もういいよー」と間の抜けた少女の声がぼくの鼓膜を小さく震わせた。

 どうやら、かくれんぼは続行中のようだ。それもぼくが鬼のままで。

 ぼくは少しめんどうくささを感じながらも、向日葵畑を抜け、声の方向へ向かった。

 それからすぐに彼女は庭のしげみで見つかり、また同じようにぼくを鬼にしてかくれんぼが行われた。何度かそんなことを繰り返しているうちに、真っ青だった夏の空は茜色に染まりかけていた。これから建物や植物、全てのものの影が長くなり、じきに夜が来て辺りは闇に包まれるのだろう。

 西日を浴びる向日葵と、それらが作る影を眺めていると、不意に背後に気配を感じた。振り返ると、かくれんぼで隠れていたはずの彼女が立っていた。どうやらもう帰るようで、彼女はぼくに手を振り、「またね」という言葉を残して駆けていった。そして洋館の角を曲がり、少女は夕焼けの中に消えていった。


 そしてそれからすぐに夜になった。

 今日も一人の夜だ。もう何年も続けてきた。夜空に散らばる自己主張の小さい無数の星々が、孤独な僕を嘲笑うかのように瞬く。洋館に流れるのは虫の音だけだ。静かで暗いこの空間にはもう慣れてしまっていた。いつもならウロウロと外を歩き回るのだが、彼女と遊んだことで生じた疲れからか、いつの間にかぼくは眠りに落ちていた。


 夢をみた。

 少女が天を仰いでいる夢を。

 その姿はあまりにも美しすぎて、彼女の背中に羽が生えて空に舞い上がるのではないのだろうかとさえ思えた。それくらいその少女は不思議さと美しさをまとっていたのだ。そんな彼女が不意にこちらに視線を移す。表情はよく見えなかった。綺麗な黒髪が青空を背景に揺れた。そんな彼女にぼくが見とれていると、彼女の手がぼくの方に伸ばされた。少し戸惑いながらもその手を掴もうとしたとき、世界がぷつんと音を立てるように途切れた。


 目を開けると、ぼくの耳を蝉の音がどっと襲った。そうして一気に現実に引き戻される。目をこすり、窓の外に目をやると、雲ひとつない青空が窓の枠いっぱいに広がっていた。本日も快晴、申し分ない真夏日のようだ。アスファルトからは熱気が立ち上り、ゆらゆらと陽炎を作っている。不意に、外から豪快に入り込んでくる太陽光線に目を細めながらドアの向こうを見てみると、陽炎の向こうに人影が見えた気がした。少し身構えていると、その影はゆっくりとこちらに近づいてきた。

その人影を眺めながら、ふと昨日の少女を思い出した。彼女は「またね」と言った。だから、今日も来るのではないか? そこまで考えてぼくは、彼女が今日もここにやってくることを期待していることに気がついた。そして、そんな淡い期待に応えるかのように、そこに現れたのは昨日の少女だった。ぼくと目が合うと、彼女はふにゃりと顔を歪ませ笑みをつくった。そしてぼくに歩み寄る。ぼくは、昨日のように隠れたりはしなかった。むしろ彼女に自ら近づいた。

その日も、彼女と遊んだ。昨日と同じくかくれんぼだった。最初の方は毎日かくれんぼをして飽きないのかと疑問に思ったが、彼女がそれを楽しんでいたため、その懸念もいつの間にか消え去って、いつの間にかぼくも一緒になって楽しんでいた。

気がつくと日は傾いていた。夕焼けの橙と夕闇の藍、そしてわずかに残る昼の青が混ざり合ってなんとも美しい夕の空が頭上に広がっている。その空を見て、ぼくは寂しさを覚えた。一日が終わってしまう。つまり、彼女が帰り、またぼくは一人で過ごさなければならない。昨日は何も思わなかったのに、今日は何故か別れを惜しむ自分がそこにいた。どうしてだろう。そんなにも彼女と過ごした時間が愛しいものだったのだろうか。……わからない。その時のぼくには自分の気持ちが見えずにいた。

そんなことを考えていると、耳ざわりの良い声がぼくの耳を撫でた。

「それじゃあ、また明日。それまで、さよならだよ」

 彼女はそう言って軽く手を振り、駆けていった。

 そして、彼女が見えなくなってからふと、初対面の時に抱いていた疑問がぼくの脳裏をよぎった。

 「彼女は何者だ?」

 この問いに対して「ただ遊びに来ている学生」という答えも勿論あるかもしれない。だが、それでは何か引っかかるものがある。「ただ遊びに来ている」といっても、何故ここに一人で?という疑問が浮上してくる。ここは子供たちの間では“幽霊屋敷”と呼ばれているような場所だ。興味本意で友達と連れ立って来るヒトは今までにも何人も見てきたが、一人で、しかもかくれんぼなど普通に遊びに来るヒトは見たことがない。それも二日連続、昼間に。今日に関しては朝から夕までずっとだ。学生もそこまで暇ではないだろう。いや、仮に彼女が暇だったとしても、ここに来る理由がわからない。このようなところにのこのこと来て遊んで帰る彼女は一体何者なのか。そして、ここに来る目的はなんなのか。ただ単に遊びに来ているだけ? 果たして本当にそうなのだろうか。

 考えれば考えるほどわからなくなってくる。気がつくと外は闇に包まれていた。夕から夜への転換は実に早い。そんな空を見ていると、思い出したように睡魔がぼくを襲った。そしていつも寝ている場所に戻り、ゆっくりと世界を切り離した。


 また、夢をみた。

 少女が庭に植物の種を植えている夢だった。

 白いワンピースを土に汚しながら、懸命にスコップで穴を掘る。そしてそこに、ぱらぱらと何粒かの種を投入する。そして、また別の穴を掘る。少女はそんな作業を延々と続けていた。白い手は土にまみれて真っ黒だったが、それでも彼女は植え続ける。そこまで一体何を一生懸命になって植えているのかと思いながら彼女をながめていると、その視線に気づいた彼女が口を開いた。

「この種はね、なんと――」


 はっと目を覚ますと、窓からは朝の日差しが差し込んでいた。そうして、現実を認識する。

 ぼくは夢の少女を思い出す。きっと昨日見た夢の少女と同じだろう。今回は、前回ほどの幻想的な雰囲気はまとっていなかったが、きっと同じ少女だと思われる。あくまでもぼくの直感だけれど。

夢の少女はたしか、前回も今回も白いワンピースに、胸にかかる程度の黒髪。被った麦わら帽子から覗く顔はよく覚えていない。それに、夢から醒める前に少女が言おうとした言葉もよくわからないままだ。こうしてみると、わからないことだらけだ。夢に固執してもどうもならないのだが、何か気になるものがあった。まだ幼さの残る夢の少女は、一体何者で、あの夢はぼくの記憶のひとつなのか、ぼくの空想の世界なのか。それとも、誰かがぼくに見せた夢なのか。夢の中の幻想なんて、誰にもわかりはしないのに、ぼくはそんな無駄と思われる考えに耽っていた。


 気がつくと夕だった。重たいまぶたを持ち上げ、そこでようやく自分が眠ってしまっていたことに気がつく。そしてぼくは彼女のことを思い出し、自分に対する焦慮に駆られて外に駆け出した。

 駆け出した先に、彼女はいた。夕日を背に、憂いを帯びた目でどこか遠くを眺めるように立っていた。そんな彼女の姿に、ぼくは胸を締め付けられるような気持ちに襲われた。彼女はずっとここにいたのだろうか。朝から、ずっとここでぼくを待っていたのだろうか。そんな仮定がぼくの頭をかきまわす。

 ぼんやりとしていた彼女はぼくの存在に気がつくと、今までの表情が嘘だったかのようにいつものように笑顔を浮かべた。そして、ぼくに歩み寄り

「今日……ここに泊まっていいかな?」と小さな声で言った。

 ぼくは直感した。彼女は家出をしているのだと。親に見つからないように、友達からも隠れるためにここに来ていたのだ。友達伝いで親にバレてしまうことすら恐れ、誰にもバレないようにこんなところに隠れるように一日を過ごしていたのだろう。今まで、夜はどうしていたのかわからないが、毎日ここに来ていたことを考えると、自分でどうにかして夜を過ごしていたのだろう。だが、今日は金が尽きたのか、気まぐれなのかわからないが、ここでその夜を過ごそうと考えたようだ。

 ぼくは肯定の意を込め、彼女を洋館に連れ入れた。改めて、汚い。ステンドグラスが多彩な色合いの影を埃まみれの真紅のカーペットに照らし出し、少しばかりの華やかさを演出している。だが、それさえも日の傾きにより消えそうになっていた。もう館の中は闇が支配を始めていた。窓際は明るいが、それ以外はどこまでも続きそうな闇に包まれている。

洋館に入った彼女は、初めてここに来たときのように、辺りをきょろきょろと見回していた。やがて見ることに飽きた彼女は無駄に階段を上り下りしてみたり、うろうろと廊下を歩き回ったりしていた。さすがに部屋に入るのは気が引けるようだった。

そうこうしていると、洋館には月あかり以外の光はなくなるような時間になっていた。割れたガラスから差し込む月光はいつもより少し明るく、今日が月の満ちる日であることを微かに知らせていた。

彼女は階段の踊り場に座り込み、ぼんやりとステンドグラス越しの夜空を眺めていた。そしてぼくがもう寝ようかと考え始めた時だった。物音と灯りが玄関から入り込んできた。その灯りは自然のものではなく、明らかに人工のものだった。目を凝らすと、玄関には懐中電灯を持ったヒトが五人立っていた。五人とも男だろうか。だとすれば、背丈から中学生くらいだと推測できる。どうやら、今年もこの季節がやってきたらしい。

「おい、やめとこうぜ。ここガチで出るらしいしさ……」

「馬鹿、お前賛成しただろ。ここまで来て何ビビってんだよ」

「いや、でもさ……。今回は割と話もしっかりしてたしさ」

「なんだよ、お前までビビったのか? そういやお前、こんなのが校内新聞のネタになるのか?」

「え? いきなり僕に振るなよ。そりゃ、起きること次第だろうさ。心霊写真なんか撮れたら最高だろうね」

 そんな会話を展開しながら、中学生男子五人組は懐中電灯であちこちを照らしながら、そろりそろりと足を進める。時折ガラス片を踏み、それが小さな音を発生させ、余計に緊張感を演出させているようだった。ぼくはそんな彼らを遠目に眺めながら、ゆっくりと彼女のもとに向かった。

 彼女はぼくが傍に近寄ると、我に返ったようにはっと立ち上がり、階段の影に隠れた。体の半分以上が見えており、あまり隠れているとは言えない気がするのだが、この少年たちから隠れたいようだった。知り合いでもいたのだろうか。

 そうしていると、踊り場に懐中電灯の光がかすめた。その瞬間、カメラを構えていた少年が声を上げた。どうやら存在に気がついたようだ。「出た、出た!」と叫びながら、その一人の少年は周りの少年たちを巻き込んで逃げるようにその場を立ち去った。

 それからすぐに静寂が訪れ、またいつもの夜に戻る。

 ぼくはそのまま夢の世界へ足を踏み出した。


 今日も、夢を見た。

 少女は大きくなっていた。前が小学生か中学生なら、今回は高校生といった感じだ。制服だと推測できる夏用のセーラー服を身に付け、目の前でくるくると回転する。表情ははっきりと確認できないが、嬉しいということが嫌でも伝わってきた。何が嬉しいのかはわからない。ただ、その少女は嬉しそうで、それを見ているぼくまでもが自然と嬉しい気持ちになってしまっていた。

 そんな少女に見とれていると、急に景色が暗転した。明るくキラキラとした風景が一気に闇に転換する。それと同時に生温かいものがぼくの足に絡みついた。ぼくがそれの確認をしようとした時、唐突に夢は終わりを告げた。


 目を覚ますと、何者かの顔が目の前にあった。それが彼女であると認識するのに数秒かかった。悪戯をする子供のような少女の笑顔で、ぼくの視界は埋まっていた。ぼくが身を起こし、彼女も腰を上げ、そうしてまた一日が始まった。

 いつものようにかくれんぼをしたり、庭を散策したり、ただぼんやりと座って過ごしてみたり、そんな調子ですぐに夕を迎えた。そして、夜はまた昨日のような連中が来、ぼくは隠れる彼女の傍に座っていた。それを何日も続けた。肝試しに来た連中は、存在に気づいて逃げ出す者もいれば、全く気づかずに館をざっくりとまわって帰る者もいた。何組もやって来たがその様子は様々で、三組目を越した頃から、その様子を陰から見ていた彼女も、声を殺して笑っていた。

 そうして彼女がここに泊まり始めて、太陽が七度昇った日のことだった。午前中は快晴だったのだが、午後からは見事に天気が崩れ、大雨となった。かくれんぼも庭散策も中断。ぼくたちは洋館でぼんやりと過ごしていた。雨音に耳を預けていると、ぼくはいつの間にか瞼を閉じてしまっていた。それは一瞬の出来事のつもりだったのだが、次に目に光が入ってきた時には、隣にいたはずの彼女がいなくなってしまっていた。時間は、厚い雲が太陽を覆っているため、はっきりとはわからない。だが、外の若干の明るさからまだ昼間であることは間違いない。

 ぼくは急いで辺りを探し始めた。何故か、彼女がこのままいなくなってしまう気がしたのだ。だが、玄関、階段、廊下。どこにもいなかった。あとは部屋なのだが、ぼくはどの部屋にも入ることができない。そうして半ば諦めたぼくが元の場所に戻ろうとすると、ぼくがいつも寝ている階段の下に気配を感じた。まさかと思いそこを覗くと、彼女がそこに立っていた。胸をなでおろす気分で彼女に近づいていくと、彼女がこちらに気づき、どこかこわばっていた表情を少し緩めた。

「私は、もう少しで消えます。だから、今からお話をします」

 彼女は憂いを帯びた表情をぼくに向ける。ぼくが言葉の意味を理解できずにいると、彼女はこう続けた。

「まず、私は生身の人間ではありません。そして、幽霊でもありません」

 彼女はそう言いながら傍の壁を覆っていた汚れた姿鏡に目をやった。それを見て、自然とぼくもそちらに目をやる。そこに映っていたのは、一匹の薄汚れた猫だった。この板が鏡であると認識するのに三秒、それに自分しか映っていないと理解するのに更に三秒かかった。

そう、ぼくだけ、灰猫だけが鏡に認識されているのだ。

「私は、夏の噂です」

 彼女は真っ直ぐ、瞳に一匹の猫を映していた。ぼくはその瞳から逃れられずにいた。混乱を隠せずにいるぼくに彼女は、ぼくの目の高さに合うように座り込み、いつものように柔らかな微笑を浮かべて口を開いた。

「まず初めに、君にはありがとう。一週間とちょっとかな、私は楽しかった。でも、君はどうなんだろう? 君は、私じゃなくてあの子の姿をした私と夏を過ごしたんじゃない?」

 彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべながらぼくに語りかけた。ぼくにはその言葉の意味がわからず戸惑っていた。なぜ彼女がそんな表情をしているのか、ぼくにはわからなかった。

「メグミさんの姿を、今も君は追っているのでしょう?」

 彼女が口にした「メグミ」という初めて聞いたはずの人名に、ぼくの耳は過剰に反応した。そして映画のワンシーンのような、断片的な記憶が大量に、まるで洪水のように頭の中を流れ出す。その記憶の欠片が、パズルのピースがはまっていくように、綺麗に合わさっていく。そうして、ぼくは「メグミ」という人名が初めて聞く名前で無いことを理解した。


――――ぼくの、記憶の話をしよう。

 

 ぼくがまだ、母親を亡くした子猫だった頃の話。

あれは夏の日のことだった。その日の朝、母はふらりと散歩に出た。そして何時間か経った後に道路で変わり果てた姿となっていた。それから数日経った後、何匹かいた兄弟も餓えや事故で死んでしまった。そうしてぼくは天涯孤独状態になり、いずれ来るであろう死を大人しく待つことにした。そんなぼくがその命を散らす舞台として選んだのが、当時誰も暮らしておらず、売りに出されていた洋館だった。そこを選んだ理由は、ぼくが誰もいない場所でひっそりと死を迎えたかったからだ。

 そうして洋館に足を運んだ。それは街の雑踏から逃れるように少し小高い丘の上にあった。何度か母と兄弟と来たこともあったが、独りで来るのは初めてだった。その丘の上は蝉の声や鳥のさえずりはあったが、静かだと感じた。そうしてぼくは目的地の洋館に忍び込んだ。中は、定期的に掃除に来ているのか、割と綺麗にされていた。ぼくは絨毯の敷かれた床に寝転び、ゆっくりと眠りについた。

 次に目を開いた時、ぼくの耳にヒトの声が入ってきた。ぼくは慌てて起き上がり、周囲を確認したが、それらしい人影は館の中には見当たらなかった。外に出てみると、洋館の前に車が一台停車していた。そしてぼくが庭を歩いていると、大木のふもとに少女がたっているのをみつけた。少女は白いワンピースに麦わら帽子、とどこか上品そうな身なりをしていた。その少女は空を仰いでいた。少女の風に揺れるワンピースの裾と伸ばした手はまるで翼のようで、広大な夏の空にそのまま舞い上がりそうな儚さと不思議さを感じさせた。知らないうちに足を止め、少女に見とれていたぼくに気づいた彼女は、ゆっくりと歩み寄り、ぼくの方に手を伸ばした。その時、走って逃げれば子供の足からは逃れられたはずなのに、ぼくは知らないうちにその手に向かって歩み寄っていた。それを見た少女は優しく微笑み、ぼくの首元を撫でた。そしてぼくを抱きかかえ、よたよたとしながら家族のもとへ駆ける。その両親と少女の会話を聞いていると、この一家がこの屋敷を別荘として買い取り、この夏をここで過ごすということがわかった。その瞬間、ぼくの夏の計画は音を立てて崩れた。その代わりに、賑やかな夏が軽快な足音を立ててぼくを迎えた。

 少女の名は「二宮恵美」、当時十一歳の小学五年生。別荘を持っていることから、結構な金持ちなのだと推測できた。やがて恵美は、毎年この館に来ることとなる。

 最初の夏、恵美は芝生と一本の大きな木しか無かった庭に、向日葵の種を植えた。植え終わる頃には、真っ白だったワンピースは土で茶色に汚れ、彼女の顔や腕も泥まみれだった。その姿を見た両親はもう植えるのは遅いと彼女を笑った。それに対して彼女は来年のために植えたのだと反論した。ぼくはその言葉から来年も彼女が来ることを理解し、小さく心を躍らせた。最初の夏が終わりに近づいた日、恵美が家に帰ることになった。恵美はぼくを連れて行こうとしたが、両親が反対した。実家にいる祖母が猫アレルギーらしい。それを聞いた彼女は仕方ないといった様子でそれを承諾した。ぼくは彼女と別れるという事実に少しの寂しさを覚えたが、また来年来ると言う明るい彼女の笑顔にその寂しさは拭われた。そして彼女は緑色の首輪をぼくに付けた。それに付属していた銀板には筆記体で「Leon」と刻まれていた。その時から、名無しだったぼくの名前は「レオン」となった。

 その後、ぼくの世話は館を管理している恵美一家の親族である一人のおばさんに任された。掃除もそのヒトがやっていたらしい。金を貰っていることもあって、ぼくは満足な食事を与えられた。

 そして二度目の夏も恵美はやってきた。三度目も、四度目も、夏の初めにやってくる彼女を向日葵とぼくが迎え、お盆明けに同じように見送った。それは、ぼくの命が続くまでは、ずっと続くものだと思っていた。

 五度目の夏も、恵美一家はやってきた。五年前に比べ、明らかに広くなった向日葵畑とぼくが一家を迎えた。恵美は高校生となり、わざわざ制服をぼくに披露してくれた。黒く綺麗な長髪を歩くたびに揺らして、彼女は幸せそうに笑っていた。だが、はしゃぐ恵美とぼくに対して、両親は表情が暗かった。それに少し疑問を抱きながらも、その夏もいつもどおりに過ごした。庭を駆け回ったり、じゃれてみたり、恵美の一方的な話を聞いたり、いつもどおりだった。そうして、五度目の夏もいつもどおりに終わりを告げるものだと思っていた。

 お盆も終わり、そろそろ一家も帰るのかと思ったぼくは昼寝をやめ、帰る前に最後に遊ぼうと、向日葵畑から館の中に向かった。いつものように一階の奥の窓から館の中に侵入すると、異臭が鼻をついた。不快感を覚えながらも一家がいつも談笑しているロビーに向かうと、異様な光景がぼくの目をおおった。床に倒れた人影が三つ。それは恵美の父と、管理人兼お手伝いのおばさん、そして恵美だった。ぼくが恵美に駆け寄ると、足に生温かい液体が絡みついた。そちらに目をやると、それが恵美の血液であると確認できた。ぼくは戦慄した。急いで彼女の体のあちこちに触れるが、反応はない。そうしてぼくは、それが死体であると認識した。

 恵美の父もおばさんも、死んでいた。ぼくは彼らの死の原因を探ろうと辺りを見回すと、それはあっさりと見つかった。ロビーの隅に、血にまみれた刃物を持った人影がひとつあった。その正体は、恵美の母だった。高そうな服も返り血で醜い紅色に染まっていた。彼女はぼくに虚ろな目を向け、うわごとのように話し始めた。

「もう、もうおしまい。あの人の会社は借金まみれ。私たち一家はもう終わりなのよ。だから、私が終わらせた。そう、終わらせてあげたの。それに恵美にこれ以上苦しい思いはさせたくない。おばさんは、今日なんかに来るからいけないのよ。見られちゃったら、もう逃せないじゃない。ふふ、運が悪かった。あの人も、これ以上苦しまなくていいように、殺してあげた。殺して、殺してコロシテ……、そしてもう一人殺さなきゃいけない」

 ぼくは本能的に彼女から離れた。もう一人=ぼく、という等式がぼくの頭の中で瞬間的に成り立ったのだ。だが、その等式は間違っていたようで、ぼくの目の前で鮮血が飛び散った。彼女が自らの喉を刺したのだ。首から大量に血を吹く彼女の手先はしばらくピクピクと動いていたが、やがて動かなくなり、彼女の死を理解した。

 そうしてぼくは、また天涯孤独に戻ってしまい、洋館に住み着く汚い野良猫と成り果てた。それから何度も季節が巡り、日を重ねるごとに恵美との記憶は薄れ、ぼくにはこの館にいなければならないという義務感だけが残された。それはきっと心のどこかで、ここで待っていれば恵美が何事もなかったかのように夏にやってくるのでは、という期待の念があったからであろう。

 そのまま、巡る季節をただぼんやりと過ごし、中途半端に命を繋ぎながら、ぼくは恵美がいなくなってから、夏を五度迎えた。そして五度目の夏、恵美の姿をぼくの虚ろな瞳に映した。憂いと戸惑いの色をまとった恵美の姿が、そこにあった。


 ――――これが、ぼくの記憶。

 ぼくには恵美という友達がおり、そして彼女は狂った殺人鬼に殺された。そしてそんな彼女の姿をぼくは五年もの間追っていた。さっさと死んでしまえばよかったのに、いつまでも生を諦められないでいたのだ。夏が来るたびに彼女を待っている自分が悲しかった。いつのまにか一家が夏を過ごしていた洋館は幽霊屋敷と呼ばれるまでに廃れてしまったが、庭の向日葵は毎年美しく咲いていた。本当に、それだけの話なのだ。

「思い出したの? メグミさんのこと」

 頭上から投げかけられた言葉に、ぼくは肯定の意を込めて頷く。

「キミ、えっと、レオンくん。では、レオンくんには私の話の続きを聞いてもらいます」

 恵美の姿をしたそれはぼくの首輪の銀板に目をやりながらそう言った。

「私は前述したように、夏の噂です。夏に生まれた人々の噂、具体的にはこの洋館に黒髪長髪の幽霊が出るというものです。噂から生まれた人々のイメージが幻を構築する、つまり幽霊とは噂の中に生きているものなのです。そして私はこの洋館の噂が構築した幻影。ですが、その人々の噂から抱くイメージとは実に曖昧なものでした。当たり前といえば当たり前なのですが、それは私にとってとても困ることでした。曖昧なイメージでは、私は私を構成することができないのです。そこで、使わせてもらったのが、噂の原因とも考えられる五年前の一家心中事件で命を落とした少女、メグミさんの姿でした。彼女の姿は、洋館にあった写真を少し拝借しました。そうして、私はメグミさんの姿を借りて、夏の噂の幽霊と成ったのです。そんな私は、ある日君、レオンくんに出会ってしまったのです。孤独で寂しいはずだった夏の夢は、楽しくて、とても輝きを放つものとなった。でも、私は噂が薄れれば、消えてしまう儚い存在。だから、夏と共に消えなければならない私は、君と過ごした時間があまりに愛おしくて、消えることに対して悲しいという感情を抱いてしまった。ただの夏の噂なのに……、私は消えたく……ない。でも……」

 最後の言葉を発したとき、彼女の声は震え、聞き取るのが精一杯というような大きさだった。そして頬に一筋の涙が流れたのがわかった。彼女は泣いていた。肩を小刻みに震わせて、あふれる涙を手でこする。やがて、彼女は大きく深呼吸をして口元を小さく緩めて、再びはっきりとした声で話し始めた。

「もう、お盆が終わって、子供たちの噂も過ぎ去ったから、もうじき私は消える。でも、噂が消えてしまって、私も消えてしまっても、誰かの日々の記憶の片隅で私は在り続けることができる。それはきっと、悲しいことじゃないから。だからね、もう行くね。ありがとう、私は私の中にも幸せな記憶を持つことができた。本当にありがとう、――レオン」

 恵美の姿をした彼女から発せられたその名は、どこか懐かしさを帯びていた。そして彼女は、雨の上がった夕の空が広がる外に足を進めた。そちらに目をやったが、夕焼けが視界を遮って、前がよく見えない。けれど、ぼくは彼女を追った。もつれる足を強引に動かして、必死に足を前に進める。けれど、どんどん彼女は遠くなっていき、ぼくを恵美がいなくなった時、そして母と兄弟がいなくなった時と同じような感情が襲った。これ以上、何も失いたくない、そんな思いがぼくを駆り立てた。でもそんな思いとは裏腹に体はいうことをきかない。やがて足が動かなくなり、ぼくは自分の十年少々の命の終末を直感した。夕焼けに少女の影が吸い込まれていくのを、ぼくは地面に這いつくばってただ眺めていた。そうしていると、不意に視界が闇に包まれ、ぼくは自分自身の死というものを悟った。


 もう無くした向日葵の詩は、ヒグラシの音にかき消され、夏は終わりを告げ始めていた。賑やかだった子供達の声も、もうここには聞こえない。

 夏の匂いを残した洋館に少女はもういない。



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