*第一章*黒き白の戯れ《後編》
ある日の朝、先の見えない細長い回廊を歩きながら、クロノスは一人物思いに耽っていた。この回廊の先はカオスの神殿へと続いている。これから、あの日の返事をしに行く所であった。
早朝の為か回廊には自分の他に誰の姿もなく、静寂を打ち破るものと言えば自らの鳴らす靴音くらいなもので、他はしんと静まり返って何の物音もない。人気のない静かな回廊は途方もなく長く感じられた。
いよいよ神殿が近づくにつれ、カオスの威圧感が文字通り重さとなってクロノスの体にのしかかってくる。音のない空間はそれを一層強めているようでもあった。上級の天使に位置付けられるクロノスでさえこうなのだから、ここに下級の天使が近付くことはかなわない。不用意に近づこうものなら、その威圧感にたちまち押しつぶされてしまうだろう。カオスとの直接の対面が困難なのは、身分の問題にも増して実際的な障害がここにはある。
少し行って、クロノスははたと足をとめた。人気のないはずの回廊の一角に視線を留める。
「…メイア?そこにいるのかい」
回廊の両端には際限なく円筒形の柱が立ち並ぶ。その数ある中の一つに向かって、クロノスは呼びかけていた。返答はなく、辺りを包むのは深い静寂。暫く沈黙したまま待ち続けていると、柱の影から1人の少女がひょっこり姿を現した。淡いピンク色をした柔らかなドレスをまとった少女は、ふわりと舞うかのよう。一本の柱に隠れてしまうような小さな体も、桜色をした頬も少女のものに違いなかったが、眼差しだけは自らの強い意志を抱き、時折大人びた表情にも見せた。
少女はクロノスの前に進み出ると、その行く手を阻むように両腕を広げた。赤みを帯びた長い黒髪は豊かで、しなやかに流れる。憂いを帯びた表情は何もかもを知っているようだった。大粒の瞳にはきらりと光が滲む。
この少女の名をメイアという。それは、この世界を統べる絶対不屈の神カオスが愛してやまない、あの妹君であった。やはり兄妹というだけあってどことなく風貌は兄カオスに似ている。幼い姿形をしているものの、女神として生を受けた彼女がこれまでに生きてきた時間は、クロノスのそれよりも遥かに長い。クロノスはメイアのお気に入りだった。
メイアの気品に満ち溢れ、可憐なその容姿は申し分なく、一見にして否定的な要素はない。しかしクロノスはどういうわけか彼女に少しばかりの苦手意識を感じていた。彼女の周りには必然的に兄であるカオスの影が見え隠れする。それが無意識に、ある距離感を持たせるのかもしれなかった。せめてあの兄の圧力さえ無ければ、とも思う。
「クロノス、行ってはダメ。兄上の言うことだからといって無理をなさる必要はありませんわ。お辛いでしょうに」
「メイア、何のことだい」
「まぁ、とぼけないで下さい。わらわに隠し立ては出来ませんことよ。地界に、行かれるのでしょう?」
核心をつく問いに一瞬だけ間が空く。ただ、隠すつもりはなかった。
「……………確かに、これからその返事をしにいくところだよ」
「それなら、まずはここで今おっしゃって下さい」
メイアもまたカオスのように人の心が読めるのだろうか。大きな瞳は責めるかのようにクロノスの顔をじっと見つめてくる。涙で潤んだ瞳はさながら宝石のようであり、キラキラと輝く。
「……………メイアには勝てないな」
軽く息を吐くと、クロノスは目を瞑った。心を攻める涙は武器だ。しかし今はその罪な涙をもってしても、既に固く決意された意志までを動かすことはできなかった。
「メイア、僕は神王様の命を受けて地界に下りるよ。でも心配には及ばない…これは強要されたからじゃなくて、他ならぬこの僕自身が決めたことなんだ」
メイアはうつむいて何回か首を小さく横に振った。暫くしてあげた顔は必死に涙を堪えていた。
「あぁクロノス、貴方の顔を見てどうしてわからずにいられたでしょう。でも、引き止めずにはいられませんでしたの。………やはり行ってしまうのですわね…?」
「ごめん、メイア。僕が君と出会って、神王様に新たな命を与えられてからもう200年が経つね。人間だった時間の方がずっと短いし、メイアのおかげで僕の今があることもすごく感謝しているよ。でも僕はあれから片時も忘れたことはない。やっぱり僕の故郷は地界なんだってね」
「地界……。わらわが貴方に初めてお会いしたのも地界でした」
「うん。あの時と今ではもう随分と変わっているだろうね。人も街並みも僕の知っているものはもうないんだろうな。実を言うと本当は少し怖いよ、でもこれはチャンスでもあるんだ。この足でまたあの大地を踏むことが出来る…そしてその一助になれる…だから…―」
「クロノス……。わかりましたわ。わらわはもうお止めしませんわ。貴方は一度決めたことはやり遂げる方ですものね。でも…―でも、一つだけ約束して下さいませ?任務を果たした後、必ずまたここにお戻り下さいまし。絶対ですわよ?」
「約束するよ」
黒髪の少女は言葉を詰まらせながらも笑顔をつくる。涙で潤む瞳は愛おしそうに最愛の人を見送る。
「お気をつけて…」
「有難う、メイア。行って来るよ」
「クロノス、わらわはいつも、どんな時も貴方のことを想っておりますわ」
それに微笑みで返して、クロノスは再び真っ直ぐな回廊を歩み出す。間もなくして神殿に辿り着くと、たった今やって来ることを予期していたように、カオスはクロノスを迎えた。
「それで、答えは出たのかい」
「はい」 決意に揺らぎはない。真っ直ぐ神王の目を見つめてはっきりした声の調子で答える。
「御心のままに」
「宜しい」
カオスは満足気に頷く。しかし次の瞬間はっとした表情を見せ、落ち尽きなく左右を見渡し出した。らしくない表情にらしくない振る舞い。そんな時は大抵メイアのことに違いなかった。
「おやどうしたことだろう。こんな大事なときに、私の可愛い妹が見当たらないな」
「妹君になら先程神殿の前でお会い致しました。どこで耳に入れられたのか、既に今回の件を御存知のようでしたが」
「そうであったか……それでは泣いてお前を引き止めたりしたのではないか?」
「はい…」
「ふむ、妹に暫らく寂しい思いをさせるのは忍びないが、お前がこの重大な任務を務め帰還すればさぞ喜ぼう」
「は、必ずや期待に添えるよう努力致します」
「うむ、期待しているぞ。では早速で悪いのだが、いつ頃出発出来そうだね?事は一刻を争うかもしれんのでな」
「すぐにでも参りましょう」
もう全ての準備は整っていた。
「クロノス、お前に新しい還魂具を与えよう。この世界に数えるほどしかない、特別製だ。先に地界に送ってあるから役立てるがいい。お前なら使いこなせよう」
「は、有難く頂戴致します。それでは行って参ります」
神界から地界に通じている扉が一つ、それは神界の外れにある。
カオスは幾人か従者を従えて見送りにきていた。クロノスは彼らに礼をし、どこか緊張した様子で扉の前に立った。程なくして重々しく扉が開き、同時に眩い光が一帯を包んだ。
吸い込まれる、そんな感覚だった。昇っていくようでもあり、また落ちていくようでもあった。
光が消え、視界が晴れると、そこには既に見慣れた景色はなかった。映り込む景色は神界のそれとはまるで異なり、生い茂る木々の緑が眩しかった。
―あぁ、地界だ。
これがクロノスにとっては200年ぶりの地界ということになるが、長い歳月を経て、当然その景色は変わり果てていた。 遥か昔の記憶を頼りには、自分が地界のどこに降り立ったのかもわからなかったが、踏みしめた大地の感触に懐かしさがこみ上げる。ゆっくり息を吐いて、自分が旅する世界をしみじみと眺めてみる。
(なんだ、平和な世界じゃないか)
穏やかな風に揺られ、正直拍子抜けしているところがあった。 現在、地界は魂の循環バランスが崩れ、魔の存在が安寧を脅かしつつあるという話だった。危険な任務になることは覚悟の上でやってきたが、今見た様子は、その話を俄かに信じがたいものだった。
ただその時を待っているのか、既に静かに侵蝕しているのかはわかりかねた。
「平和なら平和でそれに越したことはないんだけど、そんな簡単なわけはないよね…」
クロノスに与えられた任務は二つ。一つ、魂の循環が正常に行われていることを確認する。
そして二つ、魂の循環が何らかの理由で滞っている場合、その障害を取り除いた上で、神界に還ることの出来ていない、即ち魂石としてまだ地界に留まっている魂を導く―還魂を行う。
この還魂の儀は、代々、神界から派遣された天使と王族とによって為されてきた。還魂の心得がある者を還魂士と呼んだが、彼らによって浄化され、神界に導かれた魂は再びカオスが新しい器に定着させて地上へと送り込んだ。こうして魂は永久に循環する。魂が地界と神界を廻ることで、世界は安定を得ていた。
だが、この魂石という物は、還魂されないまま一定期間放置すると、その内に負の念が蓄積してしまう。その経過は魂石が放つ光の色で判別することができる。通常、青い輝きを帯びる魂石は、負の念を強め、次第に黄色に変わると、最終的には赤くなる。魂石が赤くなった時、人は天に還る資格を失い、人でないものへと姿を変える。即ち、魂は魔化し、理性を失った物の怪、鬼魔となる。鬼魔は人を喰らい、世界を彷徨う。
但し、魔化のスピードは一定ではなく、個人差があり、一瞬で変化するものもあれば、数十年に渡って変化するものもある。
一度魔化してしまった魂をもう浄化する術はなく、還魂は早急に行われることが望ましい。還魂に失敗した魂に下される道は唯一つしかなく、
―神具で破壊されるのみ。
人でない魔物になったとはいえ、元は人間だった者を消滅させるのはやはり最悪の最終手段なのだ。
「さて、そろそろ行こうかな」
この旅はどんな旅になるだろうか。殆ど形のない任務は予想もつかない。ただ一つだけはっきりしているのは、派遣された以上、救済を待つ者があるということだ。ならば悩んで立ち止まっている場合ではない。
もう旅は始まっている。恐らくそれはもっとずっと前から。急かされるようにクロノスは足を踏み出した。