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老人と化物と人形の物語・肆

 告白を理解するのには、数秒が必要だった。


「…………あ?」


 間を繋ぐように声がもれる。およそ意味を成してはいない、本当に単なる音でしかないそれを、どう解釈したものか、男は困ったように頬を掻いた。視線がどこぞの屋根の上を向く。


「連中がこの街に留まっているのは、オレが逃げ出したからで、別にこの街に用事がある訳じゃないと思う。だから放っておいても、オレを見つけられなければじき此処を離れるだろうよ。だから、街の連中に目撃されたとあればすぐにでも出立するだろうと、そう思ったンだが、やっぱりオレは賢くねェな。ややこしい事になっちまってるみたいだし」

「待て、」


 何を、

 何を言っているんだ。


「洋館にいる人間共は手前ェの仲間だろう」

「同じ国で軍隊に属してて、まァたぶん同じ任務に出されたこともあるんじゃねェかな。それを仲間っていうんなら、仲間だろうよ」

「何故逃げる必要がある」

「アイツらがオレを殺そうとしているからサ」


 やはり咄嗟には言葉の意味を理解できなかった。男の台詞を口中で反芻し、漸く硬い貌で息を呑んだ。対称的に男は喉を引き攣らせるようにして嗤う。老爺の反応を笑っているのではない。強いていうならば、それは思い出し笑いによく似ていた。

 そして嗜虐にも自虐にも似た色合いをしている。

 濁った真っ黒い瞳。


「オレはしくじったのだ」


 男は言う。


「役割を果たせなかった」


 そして唐突に核心を切り出した。核心のみのそれを聞いても、話題が飛躍しているようにしか思えず理解が追い付かない。悩む間も空けずに男が次を喋ろうとするのを見て、老爺は慌ててそれを片手で制した。


「ちょ、ちょっと待て! 急に何の話だこりゃあ。役割ってェのは何だ、しくじったって」

「だから世界征服サ」


 荒唐無稽な夢物語。

 国ひとつを惑わせ乗せて漕ぎ出でた靄の舟。

 ちょいと天気の話題でもするかのような気安さで、男は語る。


「世界には仕組みがあるンだと。よくは知らねェが、その仕組みに沿ってならばどんなことだって出来るらしいぞ。今の世界の有り様を引っくり返すことだって、だから出来る筈だった」

「莫迦か、そんな事は出来やしねェよ。そんなものは全部嘘っぱちだ」


 実際、世界は変わっていない。

 否、まったく同じ毎日などもありはしないだろうが、けれど化け物が滅んだわけでも、人間ばかりの世の中になったわけでもない。日常の根底を覆すような劇的な変化などというものは、無い。


 世界の有り様を変えることなど出来やしないのだ。出来る可能性があるとすれば、それは世界や仕組みを創った張本人だけだ。もしかしたらその当人でさえ動かせないのかもしれない。否、そうであらなければならないものなのだろう。

 有り様を誰かの意のままに変えられてしまう世界など、砂上の楼閣に等しいではないか。どっと波が押し寄せて、それで形を大きく変えてしまうような脆いものの上に自身が立っているだなんて、単なる空想だとしても考えたくはない。

 男が肩を竦める。


「嘘か誠かなんてどうでもいいサ。ただオレは役割を果たせなかったし、だから世界も変わらなかったんだろうと、そう言われてオレ自身もそう思っている。これはそれだけの話だ」

「世界を引っくり返す役割てなァ何だよ。魔王にでもなろうってのか? 莫迦莫迦しい」


 くは、と男が嬉しげに吹き出した。それがあまりに唐突だったので、老爺は少々たまげて眼を瞠る。


「な、なんでィ」

「やっぱジィさん賢いな」

「あン?」

「近い。オレの役割はな、英雄サ」


 何を言われたのだかまったくもって理解らなかった。


「………………あ?」

「魔王はダメだ。ありゃァ何も変えられねェ。ただ滅ぼされるだけの役だ。損なだけの役回りだ。あのな、世界を変えるのは英雄だよジィさん。だって恐い魔物を退治して平和な世界を造るのは、いつだって英雄の役割だろう? だからオレは英雄をやる予定だった。化け物どもをみんな殺して、平和な、人間だけの世界を造る筈だった。けれど英雄としては失敗作だったらしい。世界だか理だかのお気に召さなかったのかね。世界征服の計画は失敗して、だからオレは失敗作で、イロイロ拙い事を調べられないよう処分されるところで、だけど嫌だから逃げ出したんだ」


 だからオレにはアイツらのところへ戻る気も、ましてや助ける気も無ェんだよジィさん。

 そう言葉を結んで黙った男を凝乎とみつめる。殊更真面目ぶっているわけではないが、巫山戯ている様子でも無いようで、なんだか狼狽してしまった老爺は、何を言えばいいのか判らなくなって渋面をつくった。

 あんまりにも現実から遠く莫迦らしい話に過ぎて、とても理解が追い付かない。


「………………そんな、仕組みとか、役割とか、莫迦げた話を手前ェの国の奴らァ頭っから信じてたのか」

「さてな、どうだろう。他人の肚の内が理解るほどオレァ賢くねェよ」

「イカれてる」

「オレは愉しかったけどな。でも死ぬのはツマらねェよ。オレはまだ生きていたい」


 死にたくねェよ。虚空へ呟かれた言葉は何気無い声色だというのにひどく切ない。

 それは死の無情さを知り生の尊さを噛み締める言葉だ。

 世界とか運命とか呼ばれている途方もない君主への悲痛な訴えだ。

 世界中の哀しい辛い酷いことしか視てこなかったようなどろどろに濁った真っ黒い瞳が、青空を見つめている。

 なんだかやるせないような肚立たしいような気持ちになって、老爺は一度舌打ちした。それを聞き咎めたのだろう男が老爺へ視軸を戻す。

 真っ黒い視線を睨み返した。


「わかったよ。いや、理解らねェ事だらけだし手前ェの国の連中はやっぱりイカれていると思うし、だから理解したいとも思わねェが、洋館に居る連中がお前さんの仲間でないことは分かったよ。先に言った作戦は無しだ。しかし、となると厄介だな……」


 警察に引き渡せば、おそらく連中は男の素性も話すのだろう。かといって街の外へ追い出したところで目的がこの男ならば戻って来るのは目に見えている――――そこまで考えて、老爺はとても簡単なことに気がついた。


「そうだ、オイ、ようは手前ェがこの街に居るとバレなけりゃァいいンだろう。だったら手前ェが小屋へ戻れば万事解決するじゃねェか。連中の武装とか配置とかやり口とか、それだけ教えて手前ェは帰れ」


 今まで男が無事でいると云うことは、則ち相手方がこの男を発見できていないという証明だ。ならばわざわざ男を連れて居場所を教えてやることなど無い。上手くすれば彼の居場所をでっちあげて連中を追い出すことも出来るだろう。そりゃあ男の腕を多少はあてにしていたけれど、子供達を助け出すぐらい己だけでもどうにかなる筈だ。そう判断した老爺の弁にしかし男は


「嫌だ」


 短くきっぱりと答えた。

 予想外の返答に老爺の目が瞬く。


「あン?」

「帰るならジィさんが帰れよ、弱ェんだから」

「ば……莫ッ迦野郎それじゃァ本末転倒だろうが!! だいたい手前ェが行って何が出来る」

「殺すことができる」


 男の立つ方向から風が吹き付けた。

 ザァザァザァザァ 街路樹が庭木がいっせいにさざめく。遠い喧騒を掻き消して、ふたりを世界から隔絶する。まるで世界が脅えているようではないか。木の葉が吹き荒れる風に舞う。男と老爺の間でくるくる廻って眼差しを遮る。そうして何かを咎めるように、木の葉の群れはふたりの周囲をしばらく躍り、やがて風と共に宙天へと抜けていった。

 老爺は急に畏ろしくなった。


「……お前は、意味を理解って言ってるのか」


 殺すという事を、屠るという事を、本当に理解しているのか。

 ……理解している筈がない。こんなにも軽々しく言えてしまうのだから、理解しているわけがない。

 睨む老爺に男は短く声に出して笑った。空恐ろしいほど無邪気な笑い貌。


「ジィさんは面白いことばかり言うなァ」


 楽しそうな愉快そうな割られた硝子のように歪な笑顔。


「殺すというのは、壊すってことだろう? 潰すってことだろう? 動かなくするってことだろう。だってみんなそうだったぜ。真っ赤な血がたくさん吹き出て、しばらくヒクヒクと動いていたりもするがそのうちピクリともしなくなる。それが死ぬって事だろう。そうすることを殺すって言うンだろう。そんなことぐらい知っているに決まってるじゃねェか、そんな当たり前のこと、知らないヤツの方が少ねェだろうにサ」


 可笑しいなジィさん、変なことを訊くンだなァ、面白いなァ。

 そんな男の言葉は老爺の耳に届いていなかった。信じられない想いで男を凝視する。冗談を言っている様子はない。その事実こそが悪い冗談のように思えた。


「お前……まさか……」


 殺すことが当たり前だと思っているのか。

 誰もが誰かを殺して生きているのが、日常のことだと思っているのか。

 ……そう、教えられて育ったのか。

 だとすれば、それはどうしようもなく壊れている。社会という集団のなかで生きていくのに、最も重要な不殺の倫理が壊されてしまっている。否、倫理という、知的生命体が築き上げた、文明世界を保つために必要不可欠な知恵そのものが欠落してしまっているのか。


 この男の言う生き方は戦禍の最中でしか通用しない。平和な場所では生きていけない。邪魔な者は殺す障碍は壊す――それは、闇から滲み出てただ害を為すばかりだった化け物本来の在り方ではないか。

 人間としては、狂っている。



「殺してはいけない」



 あえぐような苦渋に染まった言葉が知れず溢れ落ちていた。きょとん、と男は眼を瞬く。


「? ……何故?」

「殺すってのはやっちゃァならねェ事だ」

「そんなことがあるもんか。みんな殺してる。殺して生きている」

「殺してねェよ。大体の奴が誰の命も奪わないで生きて死ぬンだ」


 武力による領土の奪い合いなど、現在では何処の国も行っていない。むしろ条約により千年から昔に禁じられ、それ以降世界地図が改編されることなど――地殻変動などの一部例外を除き――無かった。国によっては内乱などもこまごまあるようだが、少なくともこの島国で生きる者達にとって、戦争などは、空想めいた凡そ現実からは遠い出来事として認識されている。


 ヒトを殺してはいけません。なんて、そんなルールはこんな世界で生きていれば当たり前に知るはずなのに、

 男は童児がむずがるような具合で頭を左右に振った。


「何を言っているンだジィさん。なんだってそんな妙なことを言うんだ。じゃあ街で売っていた肉や魚は何なんだよ」


 心底不可解そうに訊かれた言葉に老爺は顔を軋ませる。違う、と、苦く答えた。


「食って生き延びるために殺すのと、手前ェの言う殺しはまったく別物だ」

「同じことじゃねぇか、生きるために殺すンだ。生きるためには殺さないといけないンだ。そうだろうジィさん」

「違う、殺さなくても生きていける」

「嘘だ、殺さないと生きられねェよ」


 違う、違うそうじゃねェと言いながら、伸ばした老爺の指が男の肩に食い込んだ。

 真っ黒い瞳を見下ろす。

 世界の優しい部分なんてこれっぽっちも理解できない、無明の黒。幾重にも幾重にも塗り潰された暗黒の色。

 ――この男はやはり、人間ではない。


「その殺すことを罪だと禁じたのが、人間なんだよ……!!」


 秩序を法律を倫理を、定めた生き物が人間だ。その枠組みの中で生きると決めたのが人間だ。

 それらルールを無視し踏み倒し傍若にふるまい、他者の権利を脅かし奪って生きる者のことを、人は人とは呼ばない。


「お前さんのその生き方は人間じゃねェ。畜生か……化け物だ」


 人間はいつだって、自分達の理解を越える者のことをそう呼称し忌避してきた。

 だからこの男は、やはり――化け物なのだ。


「手前ェも俺らと変わらねェ。否、手前ェのその生き方は、俺達よりも、もっとずっと……化け物だ」


 応じる言葉はなかった。男はただ呆けた様子で老爺を見ている。それがなんだか気の毒で、手の力を弛めれば、男は困惑した様相を右手のひらで覆った。


「……わからねェ」


 ぽつりと呟く声は所在無い迷子のような、


「わからねェよジィさん。アンタの言うことはちっともわからねェ」

「そうかい」


 短く返して、老爺は男から離れた。爪先が道の先を向く。そのまま歩き出す。


「ジィさ――」

「いいから、もう、手前ェは小屋に帰ェんな」


 立ち止まることも振り返ることもせずに紡がれる言葉は、しかしどこか暖かい。


「あとは年寄りに任せて、大人しく守られていろ、クソガキ」


 歩を進める。遠ざかる。

 ……背後からの返事は、無い。






 却説、どうしたもンかね。


 好き勝手に生い繁った垣根に身を寄せるようにしてたたずみ、老爺は今更そんなことを呟いた。ちなみに目当ての洋館は、この垣根を挟んだすぐ向こうである。見上げれば、尖った屋根がくすんだ藍色を僅かに覗かせている。


 ここに来てもまだ老爺には、子供らを助ける妙案が浮かばないでいた。


 闇雲に侵入してそう容易く童らの囚われている部屋がみつかるとも思えないし、そもそも相手方は軍人なのだから、見つからずに侵入する事自体がかなり難しいのではなかろうか。


 ――面倒臭ェ……


 溜め息が出る。よくもまぁこの有り様でああも豪語できたものだ。行き当たりばったりもよいところである。


 ――行き当たりばったりついでに、出たとこ勝負でも仕掛けてみるか。


 そんな不穏な考えが首をもたげた。このままうろちょろしていてもいずれは見つかってしまうだろうし、そもそも既に警戒されているやも知れない。だったらうろつくだけ時間の無駄である。

 思考を放棄したと言い換えられなくもないが……

 まぁ、しくじったところで死ぬわけでも無い。


 そうと決まれば行動するだけだと踏ん切りをつけて、老爺は脚を踏み出した。向かうは正面玄関だ。錆びた門を無遠慮にくぐり、野生化して花壇から溢れている薔薇を避け、所々雑草が飛び出た石畳をずかずかと進んで大きな扉の前に立つ。変色した獅子のノッカーをひと睨みしてから、握り拳をつくって乱暴に扉を叩き始めた。


「おう、俺ァな、この土地の主やってる者だ。話をしたくて来たンだが、一寸ばかし面ァ貸してくれねェか」


 返事はない。まさか留守ということもないだろう。苛々と舌を打つと、老爺は再度拳を叩きつける。


「おい、居るのは判ってンだよ頓痴気め!! 何も捕り物おッ始めようてェんじゃねェ、ただ話がしたいとこう言っているンだ。騒ぎが拙いなァあんたがたの方だろィ、とっとと面ァ見せねェかこちとら気は長くねェんだよ!!」


 数秒待つ。が、やはり返答は無い。扉に耳を当てて中の様子を窺ってみたりもするが、老爺は武芸の心得など無いので気配を探ってみたところでよく判らない。ただしんとしている。

 まさか本当に留守なのか? 疾うに引き払った後なのではあるまいか。そんな考えが頚をもたげて、扉から一歩遠ざかる。だとすれば今の老爺はとんだ道化という事になるが……


 ぎぃ ききき――


 錆の軋む音にぎくりと肩を震わせた。驚き注視るその先で、洋扉が内側へ向けてゆっくりと開いてゆく。開くほどに、何もない、無機質な玄関が姿を現していった。

 本当に何もない。敷物すら無い。冷たそうな石床に陽光が反射して、その奥でのたうつ暗闇を明瞭に印象付ける。闇はまるで生き物のように胎動し、律動し、息を潜めながらも、興味津々に珍客の様子を窺っているように見えた。


 暝い。


 見上げれば、古風なシャンデリアには蜘蛛の巣だか埃だかが絡まっている。もう随分使われた形跡は無さそうだ。それはそうだろう。何せ人形師が死去したのは百年から以前の事である。以来魂を持ち館の番人となった人形には迎える客人などおらず、また人形自身も出掛ける事など無く、だからこの玄関はずっとただここにあるだけであった筈なのだ。


 ――それにしては綺麗すぎるがな。


 老爺は剣呑に双眸を細めた。そもそも扉が開くというのがおかしいのだ。油でも差して磨かない限り、それだけの歳月を風雨に晒されていた扉が、軋みつつもこう滑らかに開くものか。

 廊下に塵芥が無いのも、足跡を残すぐらいならば磨いた方が証拠を残しにくいからか。素人考えではあるがそう遠くもないだろう。何にしろ、確かに誰かは住み着いているらしい。それも二三日ではない。数日の潜伏先ならばここまではしないだろう。


 ――あの鴉天狗め、ながらく余所者のことを黙っていやがったな。


 おしゃべりなようで職務に忠実なのだ、あれは。まったく忌々しい。

 却説、呆と突っ立っていても仕様が無い。わざわざ扉を開けてくれたのだから、ここは招かれるべきであろう。などと無謀なのか無頼なのか判断しかねることを考えて袖の中へ腕をしまうと、応、邪魔するぜと声を掛けて老爺は館へ踏み入った。


 草履がタイルを擦る。数歩を進めばまずは頭が、そしてやがては全身が、とぷりと陰に浸かっていった。踝が陰に呑まれたところで、ぎぃと背後で扉が閉まり始める。ゆっくりと光が細くなり、がちゃりと闇に覆われた。

 何も見えない。


「動くな」


 声は背後から。硬いものが背に当たる。


「動けば撃つ」

「動かねェよ。動いてねェだろうが先刻からよ。扉が閉まるのにだって振り向いちゃいなかったぜ俺は。ンな事ァ言われるまでもないンだよ。分かっているから物騒な物でつつくンじゃあねェよ莫迦野郎」

「黙れ」

「たかが枯れ木一本相手にガタガタぬかすなって」

「大した度胸だな」


 今度の声は前方からだ。声音は、背後の男に比べて老いている。


「主を名乗るだけはある。事実かは知らんが」

「主でもなけりゃァ誰が好き好んで火種に飛び込むかよ莫迦野郎。厄介事持ち込むならな、予め菓子折りのひとつも持ってきやがれこの頓馬どもめ」


 老爺の悪態に、男はどうやら笑ったようだった。


「そいつは、すまない。我々の故郷には主の風習はなくてね。それに、うちの隊は野蛮なのが多いものだから、無作法は勘弁してくれ」

「ふん、真ッ暗闇でのお喋りも無作法故か? 年寄りの扱いも知らねェのかよ手前ェらは。席を勧めて茶のひとつも出すのが礼儀だろうよ」

「成る程道理だ。此方へどうぞ……とは言っても見えないか。ふむ」


 なにやらぼそぼそと小声で話したかと思えば、不意に老爺の右手で灯りが点った。急な眩しさに眩む眼で見やれば、懐中電灯を持った青年がいつの間にか立っている。その明かりを頼りにしてぐるりと周囲を見回せば、背後左右にひとりずつ、前方には壮年後半頃の男と、その左右にひとりずつ、武器を持った者達が、老爺へ銃口を向けて立っていた。こんなにいたのか、と老爺は密かに眼を瞠る。誰もがヘルメットと大袈裟なほど武骨なゴーグルを装着していたが、視認できる顔半分や肌の色、束ねられた髪の色はどれも疎らで、骨格などもなんとなくこの国の者達と毛色が違う。なんというか、異国風だ。

 ただ、外見はまばらなようだが動きは統制されている。手慣れている、とでもいうか。

 壮年の男が背を向けた。


「此方へ」


 案内に、背後の男が武器でつついて前進を促す。老爺は不機嫌に貌を顰めたが、結局何も言わずに従った。光源は相変わらず懐中電灯一本だけで、電飾を点ける様子は無い。この懐中電灯も市販のものとは少々違うようで、光は細く帯状に走るばかりで一向に拡散しない。照らされた先の闇は、だからむしろ活き活きと存在を主張している。


「これだけ暗くて、アンタがたァ不自由しないのかい」

「暗視スコープがあるのでね。それに我々は穴蔵には慣れている」

「モグラじゃあンめェし、電気くらい点けたらどうだ」

「残念ながら電気もガスも水道も通じてはいないのだよ、この館は。不便極まりないことにすべて止まっている。どれも随分使われていないようだから、使用できるようにするには大規模な工事が必要そうでね。悲しいかな我々にそのような余裕は無いので、このような生活を余儀無くされているわけだ」


 足元にご注意を、と言って男達は階段へ足をかけた。体重が掛かる度に盛大に不吉な音で鳴くものだから、一度に通って大丈夫なのかと老爺などは神経を磨り減らしたが、幸い階段はそう長くなく、誰も足をとられることなく二階を通過し三階へ出た。


 相変わらず暝い。


 ただ、一室だけ明かりの点っているらしい部屋がある。目的地はどうやらそこだったようで、壮年の男――恐らく彼がリーダー格なのだろう――が、扉を開けた。軍人には不似合いな紳士然とした所作でお辞儀をする。


「さぁ、どうぞ。充分なおもてなしも出来ませんが」

「ふん、端から期待していねェよ」


 傲然とした態度でその前を通過して室内へ至る。途端、暗さに慣れた網膜に光が染みて、数度眼をしばたいた。

 明るい。光源はどうやら部屋の天井中央に吊るされたランプのようだが、電灯に劣らぬ明るさで室内を普く照らしている。


「此方の席へ」


 促す声に頚をめぐらせれば、光に馴れた視界にソファーとテーブルが映る。元々この館にあったものなのだろう、年代物と一目で分かる革張りのソファーも猫脚のテーブルも、しかし不衛生さは感じさせない。彼らが来てからは日常的に使用されているのだろうか。室内を見渡せば、壁にかけられた振り子時計も、彫り目の美しい棚も、そこに並ぶ大小の人形にも、別の壁を埋める本棚とその中身にも、見下ろせば床にも、埃が積もっている様子はまるで無い。新しい住民はなかなか衛生的なようだ。


「男所帯にしちゃあ掃除が行き届いているな」


 薦められた席にも着かずにそんなことを言う。


「乱雑にしていると彼女に叱られるのでね」


 答えは苦笑を含んで柔らかい。


「彼女? 女が居たのか」

「ええ、勿論。此処は彼女の館だからね。御存知の事だろうが」

「あん?」


 何の事だ。老爺は胡乱に頬を歪める。この館の元主は男だったし、その後人手に渡ったような話は聴いていない。何せこの邸には大きな問題があるのだ。ネズミ一匹もを邸に寄り付かせない迷惑な――


「おう、そうだ、手前ェらこの屋敷にいた人形はどうしやがった。生意気なビクスドールがあっただろう。まさか壊しちまったンじゃねェだろうな」


 思い出して、老爺はリーダー格の男を睨み付けた。睨まれた男といえば端然と眼光を受け流し、そのつもりだったのですがねぇ、などと含みのある言葉を濁す。

 物言いに、老爺は眼差しを険しくした。


「その算段だったてェのはどういう了見だ」

「そう息巻きなさるな御老人、老体に障りますぞ」

「煩ェ莫迦野郎こン畜生めが、くだらねェ事を囀ずらねェで訊いたことだけに応えやがれ!!!」


 怒鳴る声に窓が震える。同時に兵士達が武器を構える手に力を込めて、それを男が手を顔ほどの高さへ挙げるだけの動作で制した。


「……どうやら、立場が理解っておられない様子だな」


 一段低くなった声が言う。おう理解らねェよと息巻いて、老爺はバサリと袖を一度威嚇でもするように払ってから腕を組んだ。


「俺はこの街の主だぞ。手前ェら如きに怯える謂れがねェよ」


 はったりである。実際のところこの場にいる者達相手に、一対一であっても老爺は勝てやしないだろう。

 腕っ節は本当に弱いのだ、この老爺。

 そんな事実はおくびにも出さずに睥睨する。


「成る程、確かにそうでしょう」


 幸いはったりは充分に通用しているようだ。


「しかし、此方には人質もいるのですがねぇ?」

「どうだかな。本当に居るてェんなら見せて頂きたいぜ。とっくに逃げられている可能性だって充分あンだろうよ」


 これはずっと考えていた事だ。童らだって小さくてもいっぱしの妖者である。龍族の端くれもいることだし、あながち有り得ないことではない。

 男はやれやれとでもいうように肩を竦めた。


「まぁ、そう仰られるだろうとは思っていましたよ。……入りなさい」


 最後の言葉は老爺へ向けられたものでは無い。廊下で短く返事があって、次いで聴こえる、背後の扉が軋む音。

 振り向いた先でゆっくりと扉が開かれる。

 廊下に並ぶ子供達に眼を瞠った。


「じ……ジィさん……」


 少年の震えた声が室内に届いた。



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