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少年と化物と人間の物語2

 周囲は完全な真っ暗闇に呑み込まれていた。

 ざわざわと気配だけがそこかしこで蠢いている。すっかり冷えた風が肌を撫でていく度に、十六夜少年は葉擦れの音波に呑み込まれて立ち尽くしていた。


 もう自分が何処に立っているのかも判らない。上を見上げても月明かりすら見つからない。無明の闇が充ちている。それはきっと質量を持っている。だって頑張らなければ前に進むことさえ出来ない。闇が充満していって、少年を押し潰そうと迫ってきている。呼吸も上手く出来ない。目蓋を開いても閉じていてもただ黒い。ここには闇しかない。


 少年は途方に暮れていた。


 場所は禿げ山の山中だ。中腹ぐらいまでは降りたように思うけれど自信は無い。真っ赤に燃えていた太陽はあっという間に姿を隠してしまって、あとはずっとこの闇のなかをさ迷い続けていたから、どこをどう進んだのかも十六夜は把握していなかった。途中何度か飛んでみようとしたけれど、翼を幹や枝で強かに打っては墜落するばかりだから諦めた。おかげで身体中が痛い。


 ――どうしていつもどおり、陽が暮れる前に帰らなかったのだろう。


 震える身体を抱えながら、十六夜はほんの三十分前の自身を恨んだ。明日の朝、学校へ行く前でも良かった筈なのに。

 でも、と十六夜は自分に言い訳をする。でも、明日では遅いかもしれないじゃないか。明日には居なくなっているかもしれないじゃあないか。


 山小屋を人に貸していると――

 ジィさんはそう言っていた。びっくりして、十六夜は居ても立ってもいられなくなった。だって人間に会えるかもしれないのだ。ずっと会ってみたかった。


 少年は、父親と妖樹の会話を盗み聞きしていたのだ。


 だけど、と十六夜は泣きたいような気分で反論した。世界にとって非常に危険な者達だと父さんは言っていたじゃあないか。人間は人間でも、今この国にいるのは犯罪者だ。会ったところで良い事なんてなにひとつ無いかもしれないのに。どうしてもっと冷静にならなかったんだと十六夜は自分を叱責した。糾弾し詰った。


 十六夜少年は夜が嫌いだ。

 彼ら鴉天狗は、性質としては人間よりも鳥に近いために、夜目が利かない。十六夜、なんて夜の名前をつけられているが、彼にとって夜はただただ真っ黒で恐ろしいだけの時間だ。親しみなんてない。暗いのは恐ろしい。翳した自分の手すら見えない。まるで十六夜だけをひとり置き去りにして、世界が無くなってしまったかのようだ。

 嗚咽が込み上げてくる。だけど泣くわけにはいかない。泣いてしまったらきっともうどうしようもなくなる。そんな弱い自分は嫌いだ。


 闇に向かっておずおずと差し出した手が何か堅いものにぶつかった。手のひらで触って確かめる。木の幹だ。……たぶん。初春の山は寒く、指先はかじかんでいて痛くて、感触はもうほとんどなかったからよく分からない。それでもたぶん木の幹なのだろうと、手をつきながらそれを迂回する。とにかく下降って行けば街に出る筈なのだ。そうしたら街頭やネオンで真昼のように明るいだろうから、鳥目でも家路につくことが出来る。


 踏み出した足は何も踏まなかった。


 え、と思う間もなく十六夜はバランスを崩していた。咄嗟に頭を抱え込むようにして身体を丸める。上下左右も判らなくなるほどめちゃくちゃに転がり落ちてゆく。


 ――長い。


 このまま奈落の底まで落ちてしまうんじゃあないかと、十六夜は心臓を冷たくした。

 ……実際は落ちた先で目を回していたから余計に長く感じただけなのだけれど。

 漸く落ちきったのだと気がついた十六夜は、それでも身動き一つとれなかった。肩とか腕とか脚とか、全身がズキズキと痛みを訴えている。気が遠くなってゆく、


 ガサリ、と何処か近くで音がした。


 視線だけ音の方へ向けた気がしたけれど、そこには相変わらず闇があるばかりで何も見えない。ガサリとまた音がした。だけどもう目蓋を上げていられない。意識が薄れてゆく。闇が耳から入り込んで脳髄を充たしていく。

 十六夜は気を失って――




 ――――焔のはぜる音で目が覚めた。

 木組みの天井。身動いだ身体がギシリと軋んだ。痛い。五感を認識した途端に、身体中あちこちが一斉に悲鳴を上げて、十六夜は声も出せずに悶絶した。痛い、痛い、痛い……!!


「おぅ、起きたのか」


 声が聞こえた。

 激痛の波に苛まれながら、少年はそれが自分へ向けられた言葉だと気がつく。なんとか声のした方へ首を傾ければ、揺らめく炎の向こう側に男がひとり、座っているのが見えた。


 小汚ない年輩の男だった。老爺とまではいわないが若くはない。四方へ好き勝手に跳ねた髪は黒く、肌の色も少し黒ずんでいたが、見慣れた黄色人種の姿形である。襤褸い着流しを適当に着ただけの服装で、それがいっそう男を小汚なく見せていた。

 見覚えはない。もっとも十六夜とて近隣に住む全住民のことを把握しているわけではないが……。

 それでも一目見て、異国の人だと、そう思った。


「お、じさん、は……?」


 なんとかそれだけを紡いで眼を瞬いた。多少の距離があるとはいえ炎の方を見ているのは目が痛む。起き上がりたいけれどそれは叶いそうになく、仕方が無いので十六夜は陽炎越しに、もう一度男を見やった。はっきりと顔が見えない。でも、

 なんだか男は笑っているような気がした。


「オレか? オレが何だ」

「あの……」


 此処は何処、あなたは誰、僕はどうして此処にいるの、

 疑問が一気に溢れて胸で詰まった。何から聞けば良いのだろうか。


「水を」


 疑問よりも先に生物的な要求が口をついた。言葉にした途端に喉の渇きを自覚して咳き込む。それが全身に響いて痛い。


「みず? 水か。水が飲みたいのか。水ならあるぞ」


 とってきたところだ。言いつつ男が立ち上がって、一度視界から消える。足音が近づいて、目の前にどすんと何かを置かれた。

 水だ。


「ほら、飲め」


 困惑した。

 目の前に置かれたのは二リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルである。しかも未開封。息も絶え絶え、録に会話もできないような怪我人に対して、これはあんまりな扱いではないだろうか。せめて器に注ぐとか、


「どうした、飲まないのか?」


 不思議そうに声が言う。そういえば、と、十六夜はここで漸く自分の置かれている現状を分析し始めた。自分が寝かされているのは床の上で、布団どころか枕もない。傷が手当てされている様子もない。

 ――……常識のある大人が、怪我をして倒れていた子供をこんな粗雑に扱うだろうか?

 もしかしたら歓迎されていないだけかもしれない。そう十六夜は推測してみる。とりあえず放っておくのも憐れだから助けてはみたものの、それ以上の面倒をみる義理はないと思っているとか。

 しかし、ならばもっと素っ気なく振る舞うのではないだろうか。男は十六夜を心配もしていないが、邪険にもしていない。


「あ、あの……」

「どうした? なんだ? 水じゃあないのか? それとも他のが良いか?」


 言って男は水を持ち上げると、今度は二百五十ミリリットル入りの小さなペットボトルのお茶を置いた。こちらは半分ほど中身が減っている。それを確認した十六夜はほっと安堵の息をもらした。これならなんとか飲めそうだ。


「それともこれも違うか? 他にもあるぞ。何が良い」

「いえ、あの、これで……大丈夫です」


 捲し立てる男を制止して、十六夜は身体に響かないよう、ゆっくりと腕を持ち上げてペットボトルを手に取った。指先は山中をさ迷う間に、枝で刺したり葉で切ったりどこかで擦ったりしたから傷だらけで、力をいれるとじくじく痛んだが、幸いキャップはゆるくしか閉められておらず――それでも随分と苦心したのだが――開けることが出来た。慎重にボトルを傾けてお茶を口に含む。舌が湿り味覚が機能する。烏龍茶だ。一口目を嚥下すれば後はもう止まらない。痛みなどは本能が押し退けて、十六夜は咽を鳴らして残りを呷いだ。どうやら自覚していた以上に喉は渇いていたらしい。もっと欲しいと思ったけれど、ひとまず堪えて一息ついた。


「ありがとう……ございます」

「もういいのか? 食べるものもあるぞ」


 ほら、と目の前に差し出されたのは、未開封のメロンパンだった。そういえば晩御飯を食べ損ねている。それを思い出した途端に、ぐぅと腹の虫が情けなく鳴いた。

 身体に力を入れてみる。肩と肘とで上体を持ち上げ、膝を曲げる。どうやら水分をとって少しは回復出来たらしく、今度は座ることが出来た。相変わらず身体のあちこちが痛いのだが、なんとか堪えられる。


「いただき、ます」

「おう、食べろ食べろ。食べれば怪我なんてすぐに治るぞ」

「はぁ」


 ……心配をしていないわけでは無い、のかな?

 パンを受け取りながら男の顔を窺う。このとき初めて気がついたが、男の両目は十六夜と同じ黒色だった。だけど、同じ黒でもこんなにも違いがあるものなのかと十六夜は驚く。隈の濃い窪んだ目は、本当に真っ黒で、どこまでも黒一色で、その色の深さといえば底無しの井戸を覗き込むかのようではないか。


 ――見つめていると思い出すものがある。あれはまだ、十六夜が言葉を覚えて間がないほど幼い頃の事。両親が誕生日に絵の具を買ってきてくれたことがあった。それは二十四色もあって、どれもとても綺麗で、十六夜はその色鮮やかさにとても感動したのだ。そしてある時に考えた。


 ――こんなに綺麗な色を全部混ぜたら、どんな素晴らしい色になるだろうか。


 そう胸を踊らせて――……落胆した。

 結果、出来た色は黒色だった。単色ではあんなに綺麗なのに、全部を混ぜると、パレットは見る見る黒く染まっていって、真っ黒になってしまった。

 全部の美しい色を飲み干して出来たその黒い絵の具の塊が、幼心になんだかとても汚ならしく思えて、それ以来十六夜は黒色が好きではない。

 男の双眸は、その時の、絵の具を流し込んだような黒だった。

 真っ黒い眼をした男が、子供よりも子供みたいに笑っている。


「どうした? 食わないのか? それ美味いぞ。オレもさっき食った。美味かったぞ」

「あ、はい」


 促され、慌てて封を切り、千切って口へ運んで咀嚼した。それはどこのコンビニにも売っているような、何の変鉄もない普通のメロンパンだったけれど、なんだかとても美味しく感じられて十六夜は貪るように完食した。しかし食べ盛りの身ではパン一個など腹の足しにもならない。もっと欲しい。


「あ、あの……ええと」

「なんだ、どうした? もっといるか? まだまだあるぞ」


 返事も待たずにガサガサと男が荷物を出す。それは一杯に膨らんだコンビニ袋で、引っくり返されればパンやらおにぎりやらが多種多様転がり出てきた。好きなものを選べとにこにこ言うので、礼を言いながら焼きそばパンの封を開ける。男の方も円いおにぎりの封を開けて、しばし無言で食事をした。

 腹が満ちれば身体に力が戻る。余力が生まれれば傷の治りも早くなる。まだ身動げばどこかしらが痛んだがそれでも随分楽になって、十六夜は漸く建物の内部を見回し――――背後の物に気づいて目を剥いた。

 なんでこんなものが、


「あ、あの……」

「うん? どうした」

「あれって、自動販売機……ですよね?」


 そう、自動販売機だ。カラーは赤で長方形。無造作に横たえられたそれには蓋がない。否、その隣の壁に立て掛けられてはいるが、完全に切り離されてしまっている。見るも無惨にひしゃげた蓋は、まるで力任せに抉じ開けられたかのようだ。この男がやったのだろうか。痩身で、とてもそんなに力があるようには見えないのに。

 こてん、と男は首をかしげた。


「じどー……? そういう名前なのかアレは。落ちていたから拾ってきたが」


 何を言っているのか理解らない。冗談かとも思ったがそんな様子もない。信じがたいことだった。少なくとも十六夜の常識ではありえない回答だった。


「おち、落ちていません、あれは置いてあるものなんです!」

「そうなのか? どうして?」

「飲み物を売る機械なんですよ!!」

「ほー」


 感心したような相槌はその実、十六夜の云いたいことなど何一つ理解していなさそうだった。だって、玉緒が理解しているふうに理解できないことに頷くのと、まったく同じ相槌だ。それに気づいた十六夜は泣きたくなる。つまりそれは、このひとに十六夜の言う事はほとんど通じないということを示しているのだ。


「まさか、このパンとかも盗んで来たんじゃ」

「盗む? 酷いなァ、そんなことはしねェよ。これはそこの――」言いながら男は自販機を指差す「アレに入っていた通貨で買ったンだ」

「そ、」


 そんなの盗んだのと変わらない。怒鳴りかけたが辛うじて呑み込んだ。文句を言って何になる。その恩恵に十六夜だって与ったではないか。それにきっとこのひとには通じない。十六夜の言いたいことは欠片も伝わらない。そんな予感がした。それは殆ど確信だった。


 そして、遅れて思い至る。もしや怪我をした十六夜に対する奇妙な扱いは、彼に、怪我をしていたら手当てをするとか、動けない者を労るとか、そういった概念そのものが無いからなのではなかったか、と。


 異質だ。少年は戦慄した。十六夜の常識と、この男の常識は違いすぎる。たった十二年しか人生を知らない少年に、理解できる範疇ではない。この男は

 異邦人だ。

 十六夜はこの男が俄に恐ろしくなった。


「あ、あの、僕、帰ります」


 立ち上がる。途端に右足首がズキンと痛んでよろめいたけれど、引き摺って戸口へ向かった。囲炉裏を迂回し土間へ降りる。


「なんでだ。外は暗いぞ。暗いのは危ないぞ」


 背後から男が言う。けれど十六夜は立ち止まらず、扉へ辿り着くと、殆どしがみつくようにしてそれを開けた。

 冷たい外気に抱擁される。


「その、か、家族も、心配していると思う、し」


 風が吹いた。

 突然音の波に呑み込まれた少年は、息を飲んで立ち尽くした。ごうごうざわざわ、闇の中に音が充満している。なにも見えないのに押し寄せてくる。

 ――これは葉擦れの音だ。


「あ、あの、おじさん」

「オレか? 何だ?」


 男が少年の背後に立つ。光を遮られ一層暝くなった視界にそれを知るが、少年は何故か振り返ることが出来なかった。屋内から差す僅かばかりの光を平らげて、そこに在る真っ暗な闇から目を逸らすことが出来ない。


「ここは……どこ?」

「山のなかだ」


 背後で発せられている筈なのに、声は闇から聴こえるようだった。


「禿げ山の山小屋……?」


 そこには、そこに居るのは、確か


「帰らないのか?」


 闇が言う。その通りだ、帰らないといけない。そう警鐘が鳴る音は確かに聞こえているのだけれど、少年は逡巡した。

 しばし闇を凝乎と見つめ――


「うん」


 ――扉を、閉めた。

 

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