第6話 理性の決壊と夜警
エレベーターを待つ時間すらもどかしく、階段を転げるように駆け下りる。
「ここが、今日が、分岐点なのかもしれない。」
誕生日の夜、部屋の静寂を破って届いた元妻・由香からのメッセージと10年前のプロポーズの写真。
部屋の写真立てと全く同じ構図の写真を目にした瞬間、高橋の胸の中で「完璧にコントロールされていたはずの感情」が破れたように溢れ出していた。
人を信じられていたあの頃のあの温もり。
人間嫌いを装い、システムという殻の中に閉じこもっていた男の化けの皮が剥がれ落ちる……。
「……行かなきゃ……今すぐ……あそこへ……!」
高橋はただがむしゃらに求めてしまっていた。
無我夢中で愛車へとなだれ込む高橋。
目的地の方向自体は頭に叩き込まれている。
高橋は半狂乱のままアクセルを踏み込み、まずは目的地へと続く高速道路のインターチェンジを目指して夜の街を爆走した。
インターチェンジのETCレーンへと差し掛かる手前、ダッシュボードの液晶が青く光り、車内アナウンスが響いた。
『この先、高速道路流入です。制限速度の変化にご注意ください。』
無感情で正確な電子音。高橋は固く口を結び、深く頷いた。
「わかっている……! 行くんだ、あの場所へ……!」
ETCゲートを滑らかに通過し、車は夜の高速道路へと滑り出した。
ひたすら暗闇の中を走り続けるうち、緊張と焦燥感から急速にお腹が空いてくるのを感じた。
さらに長時間の運転を見据え、最低限の食料と防寒用の温かい缶コーヒーを買おうと、高橋は目についたサービスエリアへと滑り込んだ。
だが、高橋の精神状態はすでにまともではなかった。
誰しも焦っている時に限ってやってしまう「買い物あるあるパニック」が高橋を襲う。
店内を徘徊しながら、手当たり次第に商品をカゴに放り込む。
レジに駆け込み、ポケットから財布を取り出そうとするが、手が激しく震えて指がうまく動かない。小銭入れをぶちまけ、床に100円玉がコロコロと転がっていく。
「あ、すみません、お客様——」
店員が慌てて拾おうと手を伸ばすが、高橋はそれを払いのけるように自分で拾い集め、乱雑にレジに叩きつけた。
さらに、財布に入っていた電子マネーカードをカードリーダーに裏返しのまま何度も叩きつける。
『ピピッ——カードの向きが違います。ご注意ください。』
店内の電子音が虚しく鳴る。後ろには夜勤明けのトラックドライバーが並び、不機嫌そうに舌打ちを鳴らした。
「おい、急いでくれよ……」
普段の冷静な高橋なら「システムに正しくかざせない不快な人間」として冷徹に見下すはずの場面だ。だが今の高橋には、周りの人間の迷惑や視線、自分が他人に不快感を与えていることすら配慮できる心の余白など1ミリも残っていなかった。
「うるさい! 黙れ! 僕は今、急いでいるんだ!!」
店員や客に怒鳴り散らし、お釣りと商品を受け取るや否や、袋にも入れずに抱え込んで店を飛び出した。
「ハァ……ハァ……システムは……システムだけが正しいんだ……人間は邪魔をする……」
高橋は愛車へ向かって夜の駐車場を半狂乱で走った。
愛車のドアを乱暴に開け、高橋は運転席に崩れ込んだ。
助手席に放り投げた温かい缶コーヒーが転がり、シートを濡らすが、それすら気にとめる余裕はない。
エンジンを始動させると、ダッシュボードの大型液晶ディスプレイが青く鮮やかに点灯した。
自社開発の最新型・高度運転支援ナビゲーションシステム。
車両周囲360度に配置されたミリ波レーダーと高精度光学カメラが、暗闇の道路状況をリアルタイムで解析し、完璧な走行空間を画面上に立ち上げていく。
「目的地設定——『新緑の峰 展望台』」
高橋が擦れ切れた声で入力すると、画面上に長いルートが赤い線で描かれた。
そこは10年前、由香と訪れたあの場所。
人間の愛と温もりが残っていた、最後の記憶の座標。
高橋はアクセルを深く踏み込んだ。タイヤが夜のアスファルトを強く噛み、車体は夜の幹線道路へと滑り出していく。
街の灯りがひとつ、
またひとつと後ろへ過ぎ去り、
車は舗装の荒い山道へと入っていく。
10年という歳月は、山道の様相をすっかり変えていた。
記憶にあったかつての綺麗な観光道路はバイパス化が進んだことで廃れ、旧道は街灯もまばらな、不気味な暗闇の回廊へと姿を変えていた。
路面のひび割れ、覆いかぶさる街路樹の枝、見通しのきかない急カーブ。人間の肉眼と10年前の曖昧な記憶だけでは、到底走破できない危険な道だった。
高橋の心拍数が跳ね上がる。ハンドルを握る手のひらに汗が滲む。
「大丈夫だ……僕には、このナビがある」
高橋は視線をフロントガラスから外し、ダッシュボードの画面に固定した。
周囲の生々しい暗闇も、途切れたガードレールも直視しない。画面に映し出されるパーフェクトなCGマップと、システムから発せられる「正確なアナウンス」だけを信じることにした。
「この先、急な左カーブです。ご注意ください。」
「はい……!」と高橋は声を出して頷き、ナビの指示通りにハンドルを左へ切った。車体は完璧なラインを描いてカーブを抜ける。
「前方、傾斜角度の変化です。ご注意ください。」
高橋はブレーキを踏み、速度を落とす。
「素晴らしい……! やはり、頼れるのはお前だけだ……! 人間なんて誰も信じられない、お前だけが僕を導いてくれる……!」
高橋の口元に、歪んだ安堵の笑みが浮かんだ。
人間は裏切る。自分の記憶すら不確かで、ミスを犯す。だが、このシステムはリアルタイムで路面をスキャンし、一瞬の誤差もなく事実(危険)を教えてくれる。
思考を完全に停止し、ただナビの告知に従って機械的にハンドルとペダルを操作する。
それは恐怖からの解放であり、同時にシステムへの「完全な身投げ」でもあった。
だが、高橋は気づいていなかった。
車載カメラのレンズの隅に、ヘッドライトの光を吸収するような漆黒の「影」が静かに張り付き、画面の余白をじわじわと潰し始めていたことに。
「この先、路面状況の変化です。ご注意ください。」
無感情な電子音声が、暗い車内に響き渡る。
高橋は迷わず、さらにアクセルを踏み込むのであった。




