第8話 あなたは誰ですか?
それから数日後、坂口はふとした拍子に、あの夜勤明けの出来事を思い返していた。
薄暗い休憩室の片隅で、山下が静かにコーヒーをすすっていた姿。何かを見透かすように遠くを見つめていた、あの目。ほとんど口を開かず、それでも黙々と働き続けたあの背中。
『山下健吾』という名前も、『村上健二』という名前も、きっと彼自身が選んだものではなかったのかもしれない。誰かの名前を借りて、誰かとして働き、そして誰でもないまま死んでいった。
坂口は、ある種の悔しさと寂しさを胸に、ひとり病院の中庭に立った。金木犀の香りが樹々の間をすり抜けていく。空はどこまでも青く、遠くで患者の笑い声がかすかに聞こえた。
――あなたは、誰だったんですか……
声に出すことなく心で問いかけたその言葉は、風に溶けるように静かに消えていった。
だがその問いは、今も坂口の心の中で繰り返されている。
――あなたは誰ですか?
――誰にもなれなかった誰か。だが、確かにここにいた誰か。
……そして今も、誰かの心に、生きている。
【完】
※ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
この物語が、心の奥に残るものであったなら幸いです。
次回は看護管理室でおこるハラスメントについての作品を予定しております。
あなたの日々に、やさしい風が吹きますように。 天音空




