第6話 偽りの真実(後編)
履歴書に記載された住所に辿り着くころには、陽はすでに高く昇り、夏の強い日差しが田園を照らしていた。
田んぼを渡る風に稲がゆれ、夏草の青く湿った香りが井上の鼻をくすぐった。
目の前に広がっていたのは、田んぼに囲まれた静かな一角に、ぽつんと取り残されたような朽ちた空き家だった。
ひび割れた壁、剥がれ落ちた塗装、開け放たれた玄関、雑草が伸び放題の庭。
その様子から、長い間、人が住んでいた形跡がないことを物語っていた。
だが、玄関前に足を止めた井上は、ふと足もとに視線を落とした。
乾いた土の上に残された足跡は、ひと目で新しいとわかるものだった。
それは、無言の証言のように、静かにそこにあった。
空き家の中は埃が舞い、ふすまの障子はすべて破れ、下のガラスはひびが入ったり割れたりしていた。
そんな朽ち果てた空間の片隅、玄関を入ってすぐ右側のひび割れた壁の隅には、最近使われたような紙コップが転がっていた。
「ここに……誰かが、最近入った?」
井上の胸はざわついた。
これまでの推測が、現実味を帯びて迫ってくるようだった。
もしかすると山下が、この空き家を仮の住処として使っていた?
はたまた単なる偶然の立ち寄り先だった?
あるいは、何かの荷物を隠している可能性もある。
だが辺りを見回しても、明確な痕跡はそれ以上に見当たらなかった。
――ここもまた、偽りの住所だったのか。
心の奥底から重い疲労が押し寄せ、井上は大きく息をついた。
******
看護部長室に戻った井上は、椅子に腰かけ両手で頭を支えた。
今日見たもの、聞いたこと、積み重なった情報の重さに押し潰されそうだった。
静かな部屋に、自分の呼吸と遠くの時計の針の音だけが響く。
頭の中で、これまでの証言と今の事実を繰り返し照らし合わせた。
そして、ひとつの仮説がふっと浮かんだ。
「履歴書に書かれている職場は、どれも県外だ……」
「何かトラブルがあって、彼は逃げてきたんじゃないか」
「例えば、窃盗……それがバレないように県をまたいで居場所を変えていた」
「自分の素性を隠すために、職員との関係も希薄にし、私生活を秘密にしていた」
井上の胸にひとつひとつの謎がつながっていく。
この病院では、食事は基本的に各自で持参する決まりだ。
山下が休憩時間になると姿を消していたのは、食べるものがなかったからではないか。
他の職員と同じ空間にいられず、空腹のままその場を離れていたのだろう。
だからこそ、あれほど痩せていた――
「シャワー室や洗濯機を使っていたのは、車中泊をしていたからだ」
そして、とうとう生活資金が尽き、犯行に及んだ。
盗んだお金は、「逃亡と生き延びるための資金」だったのだろう。
山下は、自分の暗い過去を誰にも打ち明けられず、「孤独」だった。
坂口の高菜弁当も、偶然盗まれたわけではない。
食べ物さえ満足に確保できなかった彼にとって、それは文字通り『生きるため』の選択だったのだ。
ただの軽犯罪。――そう切り捨てることは、もう井上にはできなかった。
信頼される職員の顔の裏にあったのは、誰にも気づかれずに孤独と飢えに耐える、一人の男の叫びだった。
誰かが、もっと早く彼の異変に気づいていれば。
彼自身が、誰かを信じることができていたなら――
こんな結末には、ならなかったのかもしれない。
そんな“たられば”が、じわじわと胸の内に広がっていく。
井上は大きく息を吐いた。けれど、その吐息は、どこにも届かない。
彼が盗んだのは金だけじゃない。
この病院で築きあげた信頼と安寧までも――
その現実が、あまりにやるせなかった。
だが同時に、井上の胸には、どうしようもなく残るものがあった。
彼の行動の背後にあった、『孤独』と『困窮』
これこそが、山下の真実だったのだ。
その痛みが胸に、鋭く突き刺さった。
――知らなければよかった……
そんな思いが胸を締めつけた。




