公衆の面前で婚約破棄されたので、持参した違約金請求書と秘密保持契約書(NDA)にサインをお願いします
「エレノア・ラッドフォード! 貴様のような血も涙もない冷酷な女との婚約は、今日この場をもって破棄させてもらう!」
王立学園の卒業パーティー。
シャンデリアが眩しく輝く大広間で、王太子リチャード殿下が声高に宣言した。
彼の腕の中には、涙ぐんで震える男爵令嬢マリアの姿がある。
周囲の貴族たちはざわめき、私——公爵令嬢のエレノア——を冷ややかな目で見つめていた。
(……ああ、やはりこのタイミングですか。想定通りですね)
私は密かにため息をついた。
前世で企業法務のエースとして、昼夜問わず契約書と睨み合っていた私にとって、この程度の「契約不履行」の予兆は数ヶ月前から把握していた。
王太子がマリアにうつつを抜かし、公費を流用して宝石を買い与えていることも。
私が彼女に嫌がらせをしたという、根拠のない噂を裏で流していることも。
私は扇を静かに閉じ、姿勢を正した。
悲劇のヒロインを演じるつもりも、感情的に喚き散らすつもりもない。
「殿下。婚約破棄の件、承知いたしました」
「……ふん、ようやく自分の罪を認めたか」
「いいえ。私が同意するのは、あくまで『契約の解除』についてのみです」
私は侍女に合図し、用意していた分厚い羊皮紙の束を受け取った。
「本婚約は、王家と公爵家の間で結ばれた『契約』に基づいております。殿下からの『一方的な破棄』かつ『不貞行為』が原因となりますので、こちらの違約金請求書をご確認ください」
「……は?」
王太子の顔から余裕が消える。
私は冷静に、淡々と事務手続きを進めた。
「請求項目は多岐にわたります。まず、幼少期から殿下の王太子教育に我が公爵家が投資した教育費用の全額返還。次に、マリア様へ贈られた装飾品の購入資金。あれは王家の予算ではなく、公爵家からの支援金が不当に流用されていましたね。監査記録がこちらにあります」
「なっ、貴様、勝手に裏で……!」
「実務上の確認作業です。そして最も重要なのが、正当な理由のない婚約破棄による公爵家への名誉毀損に対する慰謝料、および逸失利益の補填。合計で金貨八十万枚となります」
広間が水を打ったように静まり返った。
国家予算の数パーセントに匹敵する、個人で支払えるはずのない莫大な額だ。
「また、本件に関する事実無根の噂……私がマリア様をいじめた等という風説の流布を防ぐため、秘密保持契約書(NDA)もご用意しております。慰謝料の分割払いには応じますが、その代わりこのNDAには今すぐサインをお願いいたします」
「ふ、ふざけるな! 誰がそんなものにサインなど!」
「サインを拒否される場合、これらの物証と請求書は明日、王都のすべての新聞社と商業ギルドに公開されます。株主……いえ、民衆と貴族院への情報開示義務がありますので」
言葉を失うリチャード殿下の背後から、重々しい足音が響いた。
「エレノア嬢の言う通りだ、愚息よ」
「父上……!? いや、国王陛下!」
現れたのは国王陛下と、宰相閣下だった。
私は事前に彼らとも「法務的な根回し」を済ませていた。
王家が公爵家に莫大な負債を抱え、正当な訴訟を起こされれば、王権そのものが失墜する。
トカゲの尻尾切りが行われるのは明白だった。
国王陛下は冷酷な目で息子を見下ろした。
「王太子としての義務を放棄し、私情で国益を損なう者に王位は継がせられん。リチャード、お前は本日をもって廃嫡とする。違約金はお前の個人資産と、これからの労働で支払うのだな」
「そんな……マリア、君からも何か言ってくれ!」
リチャードがすがるように振り返るが、マリアはすでに青ざめ、彼から数歩距離を取っていた。
「わ、私は無理よ! お金のない平民上がりの男なんて……!」
愛だの恋だの、そんな曖昧な感情で私は動かない。
証拠と契約こそが、この世界で最も確実な武器なのだ。
***
それから三年後。
元王太子のリチャードと男爵令嬢マリアの末路は、惨憺たるものだった。
廃嫡され、王籍を抜かれたリチャードは、莫大な違約金を返済するため、国境付近の魔石鉱山へ労働者として送られた。魔法の使えない過酷な肉体労働により、かつての美しい面影は完全に失われ、泥と汗にまみれてツルハシを振るう毎日だという。
一方のマリアは、彼を見捨てて別のパトロンを見つけようとした。
しかし、「王室の公金を横領させた女」というブラックリスト(要注意人物情報)が、私が整備した商業ネットワークを通じて貴族社会に完全に共有されていた。
信用を失い、どこからもお金を借りることができず、実家からも勘当された彼女は、家計簿を真っ赤にして自滅していった。
現在は場末の酒場で安月給で働きながら、終わりの見えない借金返済に追われる日々を送っているらしい。
感情的な暴力ではなく、兵站と信用を絶つことで相手が論理的に自壊していく様は、極めて残酷で、そして合理的な結末だった。
そして私、エレノアはというと。
「所長。商業ギルドから、新規の取引契約書のリーガルチェック依頼が届いております」
「ありがとう。すぐに確認するわ。あ、第4条の免責事項が少し甘いから、修正案を別途作成しておいてね」
私は今、王都の一等地で「総合法務・経営コンサルティング事務所」を立ち上げ、所長として忙しくも充実した日々を送っている。
あの事件の後、私が提示した「NDA(秘密保持契約)」や「コンプライアンス」という概念は、またたく間に商人や貴族たちの間で広まった。
今や、私の事務所を通さずに国を揺るがすような大きな取引は行われないとまで言われている。
「エレノア。あまり根を詰めすぎないように。休憩のお茶を淹れたよ」
執務室のドアを開けて入ってきたのは、宰相閣下の息子であり、現在の私の共同経営者(兼、婚約者)であるアーサーだった。
彼は私の「実務能力」を誰よりも高く評価し、対等なビジネスパートナーとして支えてくれている。もちろん、彼との婚約にあたっては、お互いの財産分与や義務を明確にした「極めて分厚い婚前契約書」を交わしている。
「ありがとう、アーサー。でも、この契約書の監査だけは今日中に終わらせてしまいたいの。……契約違反には、厳正なる対処をしないといけないから」
私は淹れたての紅茶で喉を潤し、新調した眼鏡をクイッと押し上げた。
魔法や剣の才能がなくても、段取り力と論理的思考があれば、国を動かすことができる。
今日もまた、完璧な書類の束と共に、私はこの世界を平和的かつ合法的に統治していくのだ。




