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8.非人妖の暴走

 タブレット端末の画面いっぱいに、書類を眺めながら、何か思い悩むように表情を渋くする田村の顔が映る。

『結局、血盟士団殺しが封印石の件に絡んでいる可能性は極めて低いと。それはともあれ、ご苦労だった。面倒な輩がようやく消えて安心できる。それと、伊東の件だが、奴の班長からも許可が出た。好きに使ってくれとのことだ』

「ありがとうございます」

まだ出発していない車内で、千路が答える。その隣でハンドルを握り待機しているのは、話に上がっていた伊東本人だった。

『しかし、どうした急に? 収容所送りになるはずだった男を助けるなんて。情けでも掛けたのか? お前にしては珍しい』

「助けたけたつもりはありませんが」

『有効活用、か。そんなことを言われたら、花押が泣くぞ? 被検体として使うのは有効活用じゃないのかって。そうだ、花押で思い出したが、ついに人工化元体が完成した』

その知らせを聞いた瞬間、重い空気で包まれた車内がわずかに明るくなった。後方から、帝都が「マジ?」と目を輝かせる。

『今週中には、仙台市内の拠点から順次リリースされる予定だ。意見や感想大募集中とのことだから、ガンガン伝えてやってくれ』

「了解しました」

『それと、千路。後で話したいことがある。時間があるときに電話をくれ』

後方で、班員たちが顔を見合わせる。おそらく、他の班員に聞かれてはいけない内容だろう。

「了解しました」

『お前のほうから、何かあるか?』

田村が、キーボードの上に指を待機させながら訊ねた。今にも、オンライン通話を終了させようとしていた。

「団長。もし太白がいなかったら、今回又日たちを止めるのは難しかったかもしれません」

沈黙が返ってきた。田村の目つきが険しくなる。

『――何が言いたい?』

「いいえ、他意はありません。失礼します」

通話が切れた。端末の画面の電源を落とし、千路はタブレットをドアのポケットに入れた。伊東が口を開いた。

「何か、ありがとうございます。収容所送りを免れました」

「そういう仕事をしていたと聞いたから採用したまでだ」

千路が答える。

 華陽が首を傾げると、天見が気づいたように告げた。

「あ、そっか。華陽ちゃんもいなかったもんね。伊東さん、スタントマンやってたのよ。運転の」

「あぁ、そうなんですね」

「はい。なので、どんな運転もできますよ? 発車させますね」

伊東が車を動かし始める。華陽は身構えたが、かなり丁寧な運転だった。

 速度が安定してきたところで、伊東が口を開いた。

「そういえば、気になってることがあったんですけど……茂水先生で合ってますよね?」

「……ん?」

一番奥の席で、今にも眠りに入ろうとしていた茂水が返事する。

「ああ、そうだけど?」

伊東が、途端に目を輝かせた。

「以前、現場で事故って入院したときにお世話になりました! あのときはありがとうございます!」

 茂水は目を見開きながら、ただ黙っていた。その顔から、無数のはてなマークが頭に浮かんでいるのがわかる。

 すぐに、天見が脇から突っ込んだ。

「まさか、覚えてないの?」

「あ……いや、その……」

「うわ、マジかよ」帝都も加勢する。「その反応はねーよ」

「まあまあまあまあ」

総スカンを食らう茂水をフォローするように、伊東が声を上げた。

「たくさんの患者さんを見てきたわけですから、覚えてなくて当然ですよ。僕が勝手に礼を言っただけですし。さて、どういうドライブで次の場所に向かいますか? 茂水先生のリクエストで」

「んー」

茂水が唸りながら悩んでいると、

「カーチェイスシーンみたいな感じで!」

帝都が、茂水に声を寄せて告げた。

「了解です!」

伊東が腕を捲り始める。茂水が慌てて口を挟んだ。

「おい待て、今の俺じゃねえぞ? 帝都だ」

車が急に速度を上げた。同時に、車内で悲鳴が上がった。

 次の赴任地に到着したときには、すでに夜だった。今回は外の偵察が任務のため、そのまま休むことになった。

 夜、華陽はなかなか寝つくことができなかった。

 爆発の瞬間に放たれた光がフラッシュバックする。

 轟音と爆風。一瞬にして炭と化した強力な人妖と、寄り添うようにいた一人の人間。

 もし華陽がまた暴走したら、同じような最期を迎えることになる。いや、華陽自身はどうでもいい。周囲に長浜のポジションを取らせることになる。特に、華陽を据え置く判断をした千路は。

 いつの間にか、布団は汗でぐっしょり濡れ、生温くなっていた。これではますます寝つけそうになかった。頭を冷やすため、いったん布団を出ることにした。

 廊下は涼しかった。水道の蛇口を捻り、水を飲む。喉を冷たいものが通るたび、頭の中から嫌な記憶が少しずつ溶けていくような感じがした。

 部屋に戻ろうとしたところで、保健室のほうから声がした。こっそりと近づく。

「めっちゃ痛むぞー?」

「あんたに点滴されて痛かったことなんて、一度もないわよ」

茶化すような茂水の声と、冷静な天見の声だった。耳を立て、さらにドアに近づく。

「そりゃあどうも」

しばらくの間、会話が途切れた。針が、天見の腕に刺される光景が浮かびかかったところで、華陽は頭を強く振った。

「……ねぇ」

沈黙を先に破ったのは、天見だった。

「何だ?」

「花押――先生ってどんな人?」

「……研究者として優秀なお方だ。人柄もよく、人望もある――って、そんなことを訊きたいわけじゃないんだろうな」

椅子の回転する音が聞こえた。

「樽屋の奴に何を仕込まれた?」

 華陽の脳裏に、あの晩起きた出来事が蘇った。

 研究所の収容所から脱走した七番の人妖。遭遇時に口にくわえていた紙。樽屋死亡後、その中身を読んだ天見が、ビリビリに破り捨てていたこと。

「気づいていたのね」

「何が書かれてた?」

「――カオウハテキダ」

花押は敵だ。漢字に変換するとこうなるだろう。

「ふん。樽屋はそんなバカげたことを伝えたのか」

「そのたった七文字を伝えるために脱走した、そう思ってる」

「あっそ」

 再び沈黙が訪れた。しかし、先程よりも短かった。今度は茂水から話し出した。

「花押先生はな……三年前、学会に出席していたときに妻子が交通事故に巻き込まれた。奥さんは即死。まだ幼い娘さんは、脳に障害を負って植物状態になった」

 花押の部屋に飾られていた写真が思い出される。同時に、それを大事そうに眺める花押の表情も。

「葬儀のとき、あの人は泣きながらこう言ったそうだ。『もっと、家族との時間を大事にすればよかった』と。先生はしばらくの間、研究に復帰できなかった」

「……何か、ごめんなさい」

天見の落ち込んだ声が聞こえた。返事の代わりに、椅子の回転音がした。

 軽い冗談を飛ばす、剽軽な印象の研究者の顔が過る。まさか、重い過去を背負っていたとは、まったく想像できなかった。

 華陽が項垂れるように固まっていると、突然、隣に何者かがやってきた。顔を上げると、千路だった。何をしているのか訊ねるような視線を送られたため、華陽は決まり悪そうに会釈し、その場から立ち去った。

 背後で、扉の開く音が聞こえる。

「どうした千路。珍しく点滴か?」

「いや。最近どうも寝つきが悪くて」


 冷たい外気が衣服を貫き皮膚を刺す。ごまかすように、華陽の身体は震え続けた。さもなければ、凍りついてしまいそうだった。否、それは寒さのせいだけではないだろう。

 いつまた崩れ落ちるかわからない瓦礫と、外の様子すら見えない暗闇。そこら中に「死」があった。空腹はとうに忘れていた。

 足音のようなものが聞こえてきた。幻聴かもしれない。それでも奇跡を信じて、眠りついていた声帯を叩き起こす。

「たす……けて……」

雑音交じりのガラガラ声だった。しかも弱々しい。声か音なのか、それともただの振動なのかもわからない。しかし、伝えなければならなかった。

「ここ、に、いま、す……」

 視界の一部に光が差した。あの世への誘いだろうか? そう思ったが、次第に大きくなり、見覚えのある景色の一部とわかると、瓦礫が撤去されたのだと理解した。

 三日ぶりの日光は刺激が強かった。

 大きな手が差し伸べられた。その手を握ろうとするが、力が入らない。

 腕を優しく引かれ、瓦礫の隙間から救出された。迷彩服の男性が、嬉しそうに微笑んだ。

「生きている……よかった……」

声を聞いた瞬間、華陽の中に衝撃が走った。抜けていたパズルのピースが嵌まったように、ひとつの確信が生まれる。

 ――もしかして。


 夢から覚めたのと、目覚まし時計よりも喧しい茂水の声が聞こえてきたのは、同時だった。

「起きろ、寝坊助ども!」

華陽は勢いよく身体を起こした。廊下から教室の中を覗く茂水の顔は、寝起きの不機嫌さというより、単に面倒臭さを感じているようだった。そのまま視線を時計にスライドさせると、朝六時四五分――朝食の時間をとっくに過ぎていた。

「ほら、朝だ。起きろ」

茂水が、布団で横になる千路を叩き起こしていた。もぞもぞと布団が動き、脇に鎮座していたサングラスが吸い込まれる。少しして、千路がゆっくりと起き上がった。挨拶代わりなのか、言葉にならない声を零す。

 茂水は、千路の腕を引っ張り上げた。

「朝だぞ……重てぇな、畜生」

千路は、布団の上に立ち上がった傍からよろけた。茂水が慌てて腕を引く。

「おいおい、大丈夫か?」

「ああ……少しぼんやりするだけだ」

虚ろな声が返す。

「もしかして、睡眠薬飲んだか?」

「わかるか?」

「ありゃりゃ、こりゃ効き過ぎだ。減らすか、弱いのに変えるかしないと……」

「いや、ちょうどいい」

千路は茂水に支えられながら、靴を履いて歩き出した。

 茂水は溜息を吐いた。

「どこがだよ、ったく……華陽ちゃん、悪いけど、ちょっとこいつ見ててくんない?」

「あ、はい」

半ば押しつけられるように、千路の面倒を任された。茂水は足早に廊下に戻っていく。

 千路はフラフラしながら、華陽の頭に手を乗せた。

「大丈夫ですか?」

愚問と知りながらも華陽が訊ねる。聞こえていないのか、千路からの返事はない。

 しばらくして、千路愛用のタンブラーを持った茂水がやってきた。目の前に来るや否や、千路の口を強引にこじ開け、中身を流し込んだ。半分ほど飲ませたところで、タンブラーを離した。

「目ェ、覚めたか?」

「ああ」

千路が口元を拭った。

「じゃあ飯だ」


 時期にしては早すぎる防寒着を着用し、一行は山岳地帯に向かった。千路の起床が遅かったので、任務の説明は移動中に行われた。

「人工化元体の投与が開始されるにあたって、サンプルを探しに山に出たところ、想像以上の数が残っていたそうだ」

「想像以上の数が残ってたって、どういうことだよ? 残らない想定なのか?」

帝都がさっそく疑問を挟む。これに、渡会が答えた。

「人妖暴走が始まってから、野良の人妖は他の人妖を食らうことでしか元の状態に戻れなかった。簡単に言うと、野良同士で蟲毒みたいなことが起きてたわけ」

「なるほど。ある程度時間が経ったら、暴走していた人妖がみんな人に戻るわけか」

「そう。だけど、そのままだと、いずれまた暴走する。そんな感じのサイクルが続くと、今どのくらいの暴走人妖がいるか、何となく計算できるんだけど、それよりだいぶ多かったってこと」

「へぇ。なら、人工化元体ばら撒けばいいじゃん」

帝都がもっともらしいことを言うと、今度は千路が答えた。

「生産が始まったばかりで、数が間に合わない」

さらにこう付け足す。

「一番の問題は、万一下山された場合だ。適宜調整は行われているが、避難所の数に対して団員の数が間に合っていない」

「団員は減ることはあっても、増えることは基本ないからね。まぁ、特殊なケースもあるけど」

渡会が、帝都と華陽を見ながら補足する。

「つまり、街中の避難所を守るために、事前に倒しとけってことか」

帝都は苦い顔を浮かべたが、以前のように食い掛かることはなかった。無論、素直に肯定するわけでもなかったが。

「そもそも、何で山にそんなに人妖がいるわけ? もともと人なんだろ? 山に人ってそんなにいないはずじゃん」

帝都の疑問に、華陽が遠慮がちに答えた。

「杉俵さんみたいな人じゃないかな……避難所に紛れて化元体を盗もうとした人」

 暴走する前・あるいは暴走から戻ったときに、「人妖」とされた一般人は、容赦なく殺害されるという場面を目の当たりにしたら、当然逃げるだろう。また、血盟士団殺しのような組織が存在するのだから、情報が出回っている可能性も高い。彼らほど過激ではなくても、似たような共同体があったとしても不思議ではない。そうして山に人妖が集まると、分散しながら数も減っている街中の人妖を求めるより、山の中に留まるようになる。

 話している間に、崖の下に野良の人妖の一群を発見した。数は二〇〇程度だった。かつてのイタチや蟹のような、難癖のありそうな敵は見当たらない。

 予想通り、いざ戦ってもすんなりと片づいた。とはいえ、数が数だけに時間は掛かった一帯に生きた暴走人妖が見えなくなると、千路が時計に視線を落とし、こう告げた。

「休憩だ」

華陽がスマホの時間を確認する。昼だった。

「帰ってからじゃダメ? みんなお腹空いてる?」

帝都が訊くも、千路がこう答えた。

「さっきので全部じゃないぞ?」

「え……まだいんのかよ」

「五〇〇と聞いてる。半分以上残ってる計算だ」

「マジかよ。面倒臭」

 全員、帝都と似たり寄ったりな表情で腰を下ろした。

「結構応えるね」

珍しく、渡会も弱音を吐く。伊東が頷いた。

「山だからじゃない? 気圧のせいかも」

「ああ、だからか。単に数が多いからだと思ってました」

二人が笑いながら軽食のパンを口にする。

「まぁでも確かに、今まで二〇〇体一気に相手すること、なかったもんね」

天見も頷く。

「日没まで間に合いますかね?」

渡会が早くも完食し、時計を見た。休憩を取りながら、さらにペースが落ちる可能性を考慮すると、確かに不安要素ではあった。

「大丈夫だろ」

隣でパンを飲み込みながら、帝都が言う。

「じきに慣れてくると思うし。それに、一人余裕な奴がいるじゃねぇか」

帝都の言葉に、全員が一人で黙々とタンブラーの中身を飲む人物のほうを見た。疲労をまったく感じさせない、涼しい顔だった。

「何か、あそこまで余裕だとムカつくんだけど」

帝都が小声で呟く。その声が聞こえたのか、千路が苦い表情で振り向いた。脇から天見が帝都を小突く。

 帝都は慌てて立ち上がった。

「な、何も言ってねぇって――」

 突然、千路の口から血の塊が零れ出した。

「班……長?」

誰もが呆然とする中、いち早く渡会が駆け寄り、声を掛ける。

「どうしました?」

渡会が背中をさする。なおも血のようなものを吐き続ける千路に、冷静に対応していた渡会も次第に取り乱し始めた。どうしたらいいかわからず、あたふたし始める。

「えっと……これ、茂水に伝えたほうが――」

天見がそう言い掛けたところで、千路の携帯が鳴った。出られる状態ではない主に代わり、天見が応じる。

「もしもし?」

『仙川、俺だ』

茂水からだった。第一声に困惑するも、天見はすぐに返事をした。

「もしもし、茂水? これ、班長の電話なんだけど」

『――千路か?』

茂水のほうも混乱しているらしい。

「えっと、班長の電話に、私・天見が代理で出てる」

少しして、事情を理解した茂水が答えた。

『そうか。切るぞ?』

「いや待って。たった今、班長が吐血したの。しかも止まらない」

茂水の声は返ってこない。しかも、電話の向こう側も何か騒がしかった。

「そっちも何かあったの?」

天見が訊くと、ようやく茂水から返事があった。

『避難所の人が暴走している』

「避難所の人って……団員以外もってこと?」

『ああ。団員と、非人妖の一般市民だ』

今度は、天見のほうが黙り込んだ。

 非人妖の暴走。想像もしたことのない事象だった。化け物になって人を襲うのは、体内に化元体を有する人妖だけ――それが周知の事実のはずだった。そもそも、化け物化の因子を持たない非人妖が、どうやって妖化するというのだろう?

『千路のは……なんだ? 病気ではないよな? 何か変なものでも食ったか?』

茂水の声を聞いた千路が、首を横に振った。

「食べてないって」

天見が伝える。

『だろうな。ただ、昨晩睡眠薬を入れている。もしかすると、無自覚にやばいものを口にしているかもしれない』

「それで、班長は?」

渡会が縋るように訊ねた。

「班長は、助かるんですか? どうすればいいですか?」

『どれぐらい吐いてる?』

「かなり……大量です」

『そうか』

少しの間があって、茂水が続けた。

『いずれ暴走する。千路は諦めろ』

 渡会が、気持ちを押し殺すように唇を噛み、俯いた。天見は通話を切り、スマホを千路に渡す。

 千路はスマホを受け取ると、ズボンのポケットにしまいながら口元を腕で拭い、表情ひとつ変えず指示を出した。

「渡会、天見、桜木。急いで避難所に戻って対処に当たれ。三橋はここに残れ」

 天見と帝都はすぐに妖化し、来たときの道を引き返した。渡会は、尊敬する上司の最期の姿を目に焼きつけると、名残り惜しそうに飛び去った。

 静まり返ったところで、華陽が口を開いた。

「何故、私を残したんですか? 渡会さんじゃなくて」

ここに残されるというのが、何を意味するのかは理解している。第一に、一帯の野良の人妖の駆除。そして、暴走した千路の始末。殊に、自分の最期を託す相手は信用できる者を選ぶべきだ。

「避難所も、一刻の猶予もない状態だ。指揮を執れる人間が欲しかった。それに――」

やや溜めてから、千路は続けた。

「三橋なら、私を殺せると思った」

強い信頼を意味する言葉であることは理解できた。しかし、今の華陽にとって、それは嬉しい言葉ではなかった。薄情であることへの批判と取ったわけでもない。ただ、華陽自身が受け止めるのに重すぎたのだ。

 否定の言葉を連ねたかった。自分には無理だと訴えたかった。だが、千路を困らせたくもなかった。

 ――どうしたら、この人を救えるんだろう?

 無言のまま、普段と変わらず前を歩く背中に続く。まるで、つい先ほど死刑宣告に等しい現実を突きつけられた人間とは思えなかった。

 整備が行き届いておらず、人妖に荒らされた形跡もある山道は、常に足場が不安定だった。何度か木の根や土の盛り上がり、大きな石などに足を持っていかれそうになる。

「大丈夫か? 頑張れ」

時折、千路が振り返って華陽のペースを待ってくれた。そのたびに、胸が苦しくなった。

 三年前の「悪夢」という名の実際に起きた現実。寒さと暗闇、孤独に襲われながら、どうにか生を長らえていた華陽を救い出してくれたのは、一人の自衛官だった。

 ――生きている……よかった……!

 その正体は、間違いなく目の前を歩いている人物だった。

 命の恩人を、この手で殺すというのか? それが千路にとっての救いで、望みならば、それを拒む理由はない。だが、本当にそれでよいのか? それ以外の道はないのか?

 まだ諦めたくはなかった。

 曇り空で、薄っすらと雷鳴が轟いた。雨はまだ降っていないが、いつ降り始めてもおかしくない空模様だった。

 千路が足を止めた。理由は言われなくてもわかった。雷鳴に交じり、化け物たちの騒ぐ声と物音が聞こえてきたからだ。

 木々の間を潜り抜けると、不自然に開けたエリアがあった。人妖たちが障害となるものを破壊した跡だった。避難所など、人のいる市街地から離れているため、人妖同士で捕食が始まり、争いによって草木が倒された――そんなイメージが流れるように描かれたのは、実際にそこに人妖の姿が点々と見られたからだ。

「第二波」

華陽が呟く。心なしか、人妖間での争いがおとなしくなり、代わりに周囲を気にするような仕草を始めた。人の存在に気づいたのだろう。

「行くぞ」

千路の声を合図に、二人は妖化した。

 細長い鼻を持つイノシシ――どちらかというとゾウに近い形をした人妖を、最初のターゲットに定めた。華陽は地面を蹴り、上から金棒を振る。

 気づいたゾウが、反射的に鼻を振り回した。二つの武器が衝突し、華陽は空へ、ゾウは後ろへ反発した。

 華陽の着地と同時に、ゾウが低い唸り声を上げた。その咆哮が合図となったかのように、ゾウの背後から人妖の群れがぞろぞろと現れ始めた。

 華陽は手慣れに金棒を振り回しながら、呼吸を整えるように息を吐いた。目が細くなり、赤い瞳に埋まる黒い核が、縦長に伸びる。

 人妖の集団に突っ込んだ。金棒が回るたびに、血が跳ねる。大小様々な人妖が、一瞬で命を散らしていく。

 回転しながら金棒から刀に変わり、近づいた人妖たちの首を刎ねていった。巨体が倒れ、地面が血で染まる。その上に、別の人妖の死体が重なった。

 華陽の攻撃は、留まることを知らなかった。その場の動くものを、次々と肉塊へ変えていく。

 最中、華陽の足に何かが絡まった。その場に転倒する。素早く立ち上がろうとしたが、背中から押しつけられるように、何者かに乗られた。体勢を立て直す前に、たちまち両手・両足に人妖が群がった。四方から噛みつかれ、引っ張られ、好き放題にされる。

 抵抗しようにも、当然身体は動かない。その間にも、取り囲む敵の数は増えていった。

 遠くに、紫のコウモリの姿が見える。

「たす……けて……」

 重みと痛みで意識が遠のいていく。視界がだんだん暗くなり、音や痛みが鈍くなっていく。

 突然、背中に感じていた重みが消えた。背中に乗っていたブタの人妖が、右腕に食らいついていたムササビを巻き込みながら、転がっていった。

 直後、背中を何かに掴まれた。次の瞬間には宙に浮き、だんだんと高度を増していくのがわかった。華陽の体を噛んでいた人妖たちが、口を離して不気味な声を上げる。

 人妖の群衆から離された華陽は、しばらくして再び地面に下ろされた。隣にコウモリが降り立った。

 パニックから解放され、華陽はゆっくり立ち上がった。

「ありがとうございます」

千路が妖化を解き、脇腹を押さえながら、人妖の群れのいる方角を睨んだ。サングラスの一部が割れ、右目に斜めに入った傷痕が見えた。傷痕さえなければ、震災で助けてくれた自衛官そっくりだった。

 その目立った傷痕は、今の戦闘でできたものではないように見えた。自分が暴走したときにつけてしまったものだろうか? 華陽が罪悪感に駆られていると、

「骨の折れる連中だ」

千路は、その場で拾った人妖肉を華陽に渡した。

「長期戦になる、補給したほうがいい」

華陽は肉塊を見た後、顔を上げた。千路の呼吸は荒かった。肩を大きく上下させ、全身にはところどころに大きな切り傷がある。

 華陽が不安そうにしていると、

「妖化したままなら、味も気にならないはずだ」

千路が続けた。

「いや……そうじゃなくて、千路さんが食べたほうがいいと思います」

華陽が肉を差し戻す。千路は、不思議そうな顔をした。

「こういうのは残る者が摂るべきだ……残り少ないが、抵抗がなければこっちも飲んでくれて構わない。欲しいか?」

千路が私物のタンブラーを差し出す。華陽は首を横に振った。

「さっきみたいに助けてもらう必要が出るかもしれないので、千路さんにはなるべく長く暴走まで持って欲しいです」

千路はタンブラーを見つめると、中身を飲み干した。その様を見届け、ようやく華陽は渡された肉塊に手をつけた。

 華陽が肉を貪る間、千路が一言こう告げた。

「三橋。囮役をやる。その間に一掃してくれ」

食べていた肉から染み出した体液が、気管のほうに入った。華陽は何度か咳き込むと、やがて口を開いた。

「何を言ってるんですか?」

「ヒトのままでいたほうが、化元体の消費量も抑えられる、暴走までの時間を長引かせることが可能だ。人妖駆除に関して言えば、三橋の独壇場さえ用意できれば、後は終わったも同然だ。何か間違っているか?」

淡々とした声が返ってくる。

「……いいえ」

間違ったことは何もない。故に、言い返すことはできなかった。

「悪いな」

今度は、感情が幾分か入っていた。華陽は口を一の字に結んだ。

 最後の一群に飛び込んだ。打ち合わせ通り、千路が人妖の注目を引き、華陽が一撃で仕留める。華陽の攻撃が間に合わないときは、千路が銃を使った。殺傷まではいかなくとも、一時的に動きを止めるには十分効果的だった。

 空の雷鳴が止んだ。どんやりとした雲が晴れ、夕焼けが露わになる。

 地面も、空同様赤く染まっていた。一帯に血と肉塊が転がり、静止画を成していた。

 千路が満足そうに息を吐いた。両手で銃を持ち上げ、こめかみに銃口を突きつける。

 華陽の身体は勝手に動いた。

 二人の身体が傾いた。直後、銃声が鳴った。

 仰向けに倒れる千路の上に、華陽が覆い被さるように乗る。その左手は、千路の銃を持つ右手を掴んでいた。銃口は地面と平行向きに煙を吹いている。

 千路は銃を一瞥し、華陽を見た。

「何の真似だ?」

掠れた声が訊ねる。華陽は答える代わりに、近くにあった人妖肉を食いちぎった。

 千路はさらに続けた。

「さっきので最後だった。この状態じゃ長くは持たない、早く――」

口を塞ぐように、華陽が噛み解した人妖肉を口移しした。口を離し、華陽は口元を拭う。

「暴走しても、絶対に生きて返します。暴走状態から戻るまで、一緒にいます」

「馬鹿を言うな」

再び人妖肉が突っ込まれた。千路が話せなくなっている間に、華陽が告げた。

「馬鹿なことを言ってるのはわかっています、でも! 命の恩人ぐらい、助けさせてください」

ようやく、千路が口の中のものを飲み込んだ。

「あれは、助けたことには入らない」

「私を拾って、団に加入させたことですか? 仮に利用するためだったとしても、ここまで生きてこられたのは、拾ってくださったからだと思っています」

「――他に何かあるのか?」

「三年前の震災で、瓦礫の中から救出してくれました」

 凍えるほどの寒さと恐怖・絶望の世界から救い出してくれた人。きっと千路は、何十何百もの被害者の救助をしてきたのだから、華陽のことなど覚えているはずがない。それでもよかった。

「ありがとうございました」

心からの感謝の言葉が、詰まることなく紡ぎ出される。しばらくして、

「なるほど」

千路が呟いた。そして、顔にわずかな笑みが浮かんだ。

「あのときの子が、君だったか」

華陽が目を見開く。

「……覚えてくださってたんですか?」

「もちろん」

千路は、忘れられるわけがない、あの日の記憶を手繰り寄せる。

 救助活動に訪れた地は、同じ国とは信じられない光景が広がっていた。土砂と瓦礫。車だったもの。その中からどうにか発見されるのは、すでに絶えた命ばかりだった。

 損傷の激しい肉体。人型の何か。身体の一部。綺麗な状態の死体が出てくるだけでも、奇跡だった。

 これが仕事だと言い聞かせても、精神はすり減る一方だった。心を無にしようとすればするほど、喪失感に蝕まれた。

 人間の心の脆さを痛感した。

 そんなときだった。瓦礫の下から人の声が聞こえたのは。

 幻聴を疑った。期待など最初から投げ捨て、家屋の残骸を慎重にどけていく。

 中にいた少女は生きていた。空虚になっていた胸の中が、徐々に温もりを取り戻していく。

「君が生きていると知ったとき、こっちも救われた」

そう呟き、千路ははっとする。

「千路さん。帰りましょう」


 避難所の中は人妖の死体で埋め尽くされていた。妖化した華陽が、千路を背負いながら廊下を歩く。

 千路は、壁にめり込んでいたヤギの人妖の死体から体液を指先で拭い取り、舐めた。

「……違うな」

そこに、階段のほうから足音が近づいてきた。

「今ので最後か?」

「一応、下ももう一回見ようか」

帝都と渡会の声だった。階段を降り、華陽たちの前に現れる。

「華陽!」

帝都が最初に気づき、叫んだ。

「帝都くん、お疲れ様」

華陽が告げる。

 帝都はすぐに、千路の存在に気づいた。

「えっと……その……背中の奴、生きてるよな?」

帝都が恐る恐る訊ねると、

「三橋に助けてもらった」

千路が答えた。

 帝都はすぐに階段を上っていった。上のほうから、「天見! 華陽と千路、戻ってきた! どっちも生きてる!」と叫ぶのが聞こえてくる。

 渡会は、途端にその場に崩れ落ちた。

「本物……ですよね?」

 華陽が近づく。目の前まで来ると、千路が渡会の頭に手を乗せた。

「安心しろ、本物だ」

「よかった……華陽さん、本当にありがとう」

 まもなく、上から帝都と天見、伊東が下りてきた。千路の姿を見るなり、驚愕と安堵の表情を浮かべた。

 千路は、全員を見回した。

「状況報告を」

感極まって話せる状態ではない渡会に代わり、天見が応じる。

「暴走個体はすべて片づきました。数的に、避難民が暴走人妖化したとみて間違いないです」

「茂水はどこだ?」

千路が訊ねると、

「ほーい」

廊下の奥から、怠そうな声が答えた。

 茂水は千路を見ると、一瞬硬直したが、やがて表情を綻ばせた。

「何用ですかい?」

「人妖研究所に向かいたい、連絡を入れてくれ」

「あいよ」

茂水は踵を返し、スマホを取り出した。

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