13.ある医師の回想
セミの喧しい鳴き声が、暑さを助長する。
縁側に並んで座る、二人の幼い男女が、棒アイスを頬張る。
少女の足元に、溶けたアイスの一部が落ちた。近くを歩いていたアリが集り、喜ぶように触覚を忙しなく動かす。
少年が、最後の一口を食べ終わると、アイス棒を持ったまま妹のほうを見た。アイスの下のほうはだいぶ溶けていた。
「早く食べたほういいよ」
足元では、アイスの断片に群がるアリの数が増えていた。それでも少女は、食べるペースを速めることはなかった。
どこにでもある夏の風景。何気ないながらも記憶に残る、自分たち兄妹の年に一度の思い出の片鱗。
その記憶が不意に蘇ったのは、冷房の効いた病室だった。アイスを食べ終えるのにやたら時間の掛かった妹は、目の前でベッドで横たわっていた。日に日に、その目つきから威勢が消えていくのは、間違いなく暑さのせいではない。
今年の年頭に入ってすぐ、茂水琴音は発熱と頭痛を訴えた。初めは風邪だと思い、市販薬を飲ませていたが一向に治らず、近所の診療所にかかったものの、何らかのウイルス感染と見られて経過観察となった。しかし、手足の痺れや転倒を繰り返すようになり、二月頃に再受診したところ、大学病院を紹介され、次の診断が下された。
「神経萎縮性炎症症候群と考えられます。免疫反応が神経に強い炎症を起こす非常に珍しい病気です。最初は発熱や頭痛など風邪に似た症状で始まりますが、病気が進行すると手足の痺れや喋りにくさ、息苦しさなど神経の症状が現れていきます」
「原因は何なのでしょうか? 病気は治りますか?」
切羽詰まった表情で、母が訊ねる。
「何故この病気が起こるのかは、まだわかっておりません。進行の速さには個人差があります。病気が治るかについては――正直に申し上げますと、現在の医学では、完全に治す医療法は確立されていません」
医師は目を伏せることなく、質問者である母親をまっすぐ見据えながら告げた。
「娘の命は大丈夫なんですか?」
「命に関わる病気です。進行すると、呼吸や飲み込みなど生きるための動作にも影響が出てきます。ただし、症状を和らげたり、進行を遅らせる可能性のある治療法はあります」
その言葉は、絶望の淵に立たされていた茂水たちに一筋の光を与えるものだった。両親の顔つきが、わかりやすく明るくなる。
琴音本人だけでなく、全員で力を合わせて闘っていこう。そのような空気が、悲観や絶望を食い潰していた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。発症から半年後の今、ベッドで横たわる琴音の姿が、それを体現している。
「アイス食べたい」
琴音が弱々しい声で呟く。
「アリにまた食わせる気か?」
茂水がボソッと訊くと、初めて琴音が笑った。きっと、同じときの記憶を掘り起こしていたのだろう。茂水は確信した。
縁側でセミの鳴き声を浴びながら食べる、アイスの味。茂水自身も思い出せない。
だから――。
「元気になったら、一緒に食おうな」
琴音が満面の笑みで頷いた。
その年の夏休みは、学校の生徒会を代表して、地域合同の三泊四日の林間学校に参加することになっていた。
施設に到着すると、外で簡単な挨拶が行われた後、真っ先に宿泊部屋に案内された。二段ベッドが二つ設置された、八畳ほどの簡素な部屋だった。古いカーテンの開かれた窓越しには、青々とした山林が覗いている。
茂水はその景色を一瞥すると、日光を浴びながら片方のベッド下の段に荷物を置いた。最中、
「さっき先生から聞いたんだけど、この部屋、俺たちだけだって」
隣のベッドから声を掛けられた。同時に、荷物が雑に置かれる音がした。見ると、スポーツ刈りの日焼けした少年が、こちらを見ていた。
「参加予定だった学校が一校、急に来れなくなったんだって。班行動は部屋の人とやるから、俺らは二人になるらしい。あ、俺、新田小学校の仙川吉実。よろしく」
差し出された手には、こんがりと焼けた跡が残っていた。
「茂水古石です。よろしくお願いします」
茂水は迷いなく握手を交わした。
少年の顔に笑みが差す。一見活発な運動少年という印象だが、柔和な笑顔からは室内で読書しているような雰囲気も受けた。
「君も児童会長? それっぽい顔してる」
「うん。仙川くんも?」
「そう。見えないでしょ? 児童会長に選ばれたとき、先生からも『お前みたいな脳筋が会長で大丈夫か?』って心配されたんだ。失礼しちゃうよね」
茂水は苦笑で返した。
「スポーツは何やってるの?」
「サッカー。そうそう、本当は夏休み中サッカーの合宿行きたかったのにさ、父さんから許可貰えなくて。でも、林間学校ならって許してくれた。茂水は……やってなさそうだね」
「疲れるのは好きじゃないんだ」
「アハハハ。それは疲れやすい走り方をしているからじゃない? コツ、教えてあげようか?」
言葉通り、仙川は初日の登山中に、疲れにくくなるコツを教えてくれた。呼吸の仕方や歩き方、姿勢など、茂水にペースを合わせながらレクチャーした。
「確かに、何か体力の持ちがよくなった気がする」
茂水が感想を言うと、
「プラシーボだったらごめんね」
仙川は冗談口調でそう言った。
昼休憩中、未だ打ち解けられず、周囲との距離感を測る参加者たちの中で、二人はさながら同級生のように隣に並び、沢を見下ろしながらしゃがみ込んでいた。
「誰にも言うなよ?」
仙川が意地悪な笑みを浮かべ、人差し指を立てると、沢の水を掬い口に含んだ。
「冷たっ!」
仙川が目を細めながら、口元を拭う。茂水も真似て、沢の水を飲んだ。自然と、仙川と同じ表情が浮かんだ。顔を見合わせ、互いの変顔に吹き出し、声を堪えながら笑う。それから、配給の水を口に入れた。ペットボトルから同時に口を離し、キャップを閉める。
「沢の水より美味いな」
「冷たくないけどね」
沢を見ると、いたずら好きそうな少年二人の顔が映り込んでいた。
仙川が再び沢に手を伸ばす。水面に波紋が広がり、水底を泳いでいた小魚たちが奥へと逃げた。今度は飲まなかった。手についた水滴を愛でるように見つめる。
「何がいるのか、わからないところの水を飲んだなんて言ったら、父さんに怒られるな」
もう一度手を水に浸し、額を撫でる。気持ちよさそうな嘆息が、口から零れた。
「仙川のお父さんって、何してるの?」
「先生。大学の」
「ってことは、教授?」
「そんな感じ。よくわかんないけど、病気でダメになった身体の一部を治す研究してるんだって」
「医者とは違うんだ」
「らしいね。医者が使う道具の根幹を作ってるとか、訳わかんないこと言ってた」
「……道具の根幹」
茂水がぽつりと呟く。仙川はあまり面白くなさそうに腕を捲り、両腕を水で濡らした。
引率者の集合を掛ける声が聞こえてきた。
「行こうぜ」
仙川は肩を軽く叩き、一足先に集団のところに戻っていった。茂水もゆっくり立ち上がると、名残惜しそうに沢を眺め、その場を後にした。
日没前に、宿泊施設の自然の家に戻ると、夕食とキャンプファイヤーが続き、早くも初日の内容が終了した。
消灯時間はとっくに過ぎていたが、部屋の電気は点けたままだった。外側に張りついた蛾の腹を睨みながらカーテンを閉め、静かな空間で二人は息を吐いた。
二人揃って、どこか物足りなさそうで、ワクワクを求めるような貪欲な目だった。
「なぁ。こっそり抜け出さね?」
断る理由などなかった。部屋の電気を消し、人目を忍ぶようにして、二人は自然の家を脱出した。緊張の同居する高揚感に身を任せ、堪えきれない笑みを零しながら走り続ける。
後ろ髪を引く風が、どこか心地よい。
空に向かってそびえ立つ望遠鏡が見えた。視界の中心に添え、さらにスピードを上げる。
ほぼ同時に、望遠鏡の台にタッチした。息を切らしながら顔を見合わせて笑い、その場に寝転がる。
「すげぇ」
空を見上げた瞬間、茂水は息を飲んだ。
そこら中にきらめきが散らばっていた。茂水たちが足元を覗くときに映る砂地が、星たちにとっての茂水なのだろう――そう思わせる力が、無数の瞬きには存在していた。自分たち人間とは異次元にあって、決して届かないもの。しかし、そこに無力感はなく、むしろ感動を覚える。
「あれって、二十年ぐらい前の光を見ているんだっけ? 変な感じするよな」
仙川が、夏の大三角を指でなぞりながら言う。それから、自信なさそうにこう訊ねた。
「三つともだっけ?」
「うろ覚えだけど」
茂水も、自信なさそうに答える。
「ってことは、今この瞬間に光った光が、二十年後に届くわけか……俺たち、おっさんになってるよ」
二人同時に噴き出す。
「二十年後、おっさんの俺たち、何してんだろうな」
そう口にした途端、茂水の胸の高鳴りは沈静した。夜の冷たい空気が頭を冷やし続ける。隣からも、楽し気な雰囲気が消え去り、重い沈黙が伝わってきた。
星の光が目にうるさく感じる。虫たちの声が喧しい。頻りに頭を撫でる夜風が、鬱陶しく思えた。
「父さんと同じ研究者でもしてるかな」
仙川がぽつりと零した。茂水が振り向く。
「サッカー選手じゃないの?」
「まぁ。サッカーは好きだけど、仕事にするものじゃないなって。茂水は、将来の夢、決まってる?」
「うん」
夏の大三角を仰いでいた目が伏せられる。
「医者」
「へぇ! すごいじゃん。親が医者なの?」
感心した声が返ってくる。
「いや、普通の会社員。妹が病気なんだ」
「なるほど。それで治してやりたいってことか。いい兄ちゃんじゃん」
脇腹を小突かれる。茂水は、唇を噛むように閉ざした。林間学校が始まってから今まで、琴音のことなどすっかり忘れていた。妹思いの兄などと呼ばれてよいわけがない。
少しの間があって、仙川が呟くような声で言った。
「治るといいな」
優しい声だった。横顔を見る。暗くてよくわからなかったが、おそらく声に似合った穏やかな表情をしているはずだ。
「あ、流れ星!」
突然、仙川の人差し指が宙を指した。茂水は慌てて空を見上げる。特段明るい星が点滅して見えるぐらいで、広がっているのは静止画の夜空だった。
「どこ?」
「もう消えたよ。一瞬だった。こんなに速いと何も願えないって」
少年の目は、再び空を捉えた。
茂水も、再度完全な仰向けになり、ぼんやりと星空を眺めた。
獲物をじわりと締めつける蛇のような、痛さと気持ち悪さの同居した感覚が胸を蝕んだ。視界に広がる光景からは、もはや一寸の感動すら受けなかった。
翌日の午前には、鳥の巣箱の作成が行われた。二人組で実施するため、必然的に茂水は仙川とペアになった。作成手順の簡単なレクチャーが終わると、さっそく茂水と仙川は木材を取りに教室の前へ向かった。大量の残骸の中から、使えそうなものを選別する。奇抜な飾りでも考えているのか、仙川は何に使うのかよくわからない小さな破片を集めていた。茂水は、見繕った大き目の板を自席に持ち帰ると、工具を適当に選び、さっそく寸法を測り始めた。
「慣れてるね。日曜大工でもしてるの?」
遅れて戻ってきた仙川が、うきうきとした口調で訊ねる。
「いや。図工の時間だけ」
「へぇ。器用なんだね。すごい線まっすぐだ」
茂水は椅子を横に倒し、板を置いた。のこぎりを手に取り、引いた線に宛がう。
切り始めはよかった。隣で仙川が感心しながら眺める。しかし、まもなく茂水は手を止めた。理由を窺うように、仙川が怪訝な顔を見せる。
「斜めになってる気がする」
「そう? ああ、言われてみると確かに、曲がってる気がする」
二人は切り口をじっと睨んだ。
「のこぎりがダメなんじゃない?」
仙川の言葉に、茂水は手元の工具を凝視した。
「刃、曲がってるね」
すぐにのこぎりを交換しに向かった。取りやすいところにある適当なものではなく、しっかり歯を見てよさそうなものを選ぶ。
作業を再開すると、今度は問題なく切ることができた。他のどのペアよりも、まっすぐ切られた断片ができあがる。
「職人の腕が良くても、道具がよくなきゃダメだね」
仙川はそう言い、次々とできあがる破片を組み立てていった。
完成したのは、屋根にとげがたくさん生えた奇抜な巣箱だった。とげを生やした本人いわく、「このほうが強そうで、外敵から身を守れそうだから」らしい。「住民すら怖がって入らなくなるんじゃないか?」という茂水の意見は無視された。
巣箱の設置が終わり、二日目の主なイベントも終了した。
「住みつくとしても来春か。見ることないだろうな」
設置した巣箱を見上げながら、茂水は名残惜しそうに目を細めた。
「中学になったら部活で忙しくてそれどころじゃないだろうしね。そもそも、ここの林間学校の対象小学生だし」
仙川はさっさと背を向け、カメラで撮影した巣箱の写真を眺め始めた。
夜は、望遠鏡の周囲に集合し、天体観測が行われた。
「予習してたな」
移動中、仙川が小声でにやりと笑う。茂水も噴き出した。
「あれが夏の大三角です。全部の星の名前、言える人?」
「デネブ、ベガ、アルタイルです」
仙川が即答する。
「仙川くん、大正解です。素晴らしい。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイル。これらは一等星と呼ばれる特に明るい星なんです。すごいキラキラしてて綺麗ですよね? でも、実は、これらの星は地球から遠い遠いところにあるんです。だから、今私たちが見ているきらめきは、実は過去のものだったりします。ベガは二五年前のもの、アルタイルは十七年前のもの。君たちが生まれる前の光ですね。ちなみにデネブは一四〇〇年以上前の光を見ています」
「二十年前じゃないじゃん。桁二つ違うって」
仙川が小声で茂水を小突く。
「ごめんごめん」
「まぁ、でもこれで絶対忘れない。しかし面白いな。飛鳥時代の光だぜ? 聖徳太子の頃に光ってたのを、俺たちは見ているわけ。すごいよな」
夏の夜空の解説は、まだ続いていた。茂水と仙川は、話を聞かずに二人だけの世界に入って空を見上げていた。
「茂水。今日も抜け出さね?」
ぼそりと呟かれた提案に、茂水は小さく頷いた。
二日目の日程がすべて終わり、消灯時間に入ると、二人は指し示して施設を抜け出した。誰もいないその場所は、つい一・二時間前にいたところとは別物のように映った。
昨晩と同じ定位置に座り、寝転がる。ひんやりとした地面の温度が、触れている箇所にじんわりと伝った。
星に見惚れているのか、あるいは流れ星を探しているのか、仙川は空を真剣な表情で見つめたまま黙っていた。
茂水も、隣の友人に倣って天空を仰ぎ、息を吐いた。
「仙川は、お父さんの仕事場に行くことってあるの?」
「ああ。たまに連れていかれる」
「どんな感じなの?」
「理科室をもっと散らかしたような感じだよ。って言っても、がっつりやっているところは見せてくれないけど。病院みたいな臭いがして、あんまり居心地のいい場所ではないかな。あと、うるさい」
「うるさい?」
「そう。ブゥーンって感じ」
仙川はそれ以上話そうとはしなかった。単純に退屈な話題だったのだろう。茂水の脳内には、仙川の父親の行っている研究がどんなものなのか少しもイメージが湧かなかった。
理科室をもっと散らかしたような部屋。薬品の臭い。機械音。何の機械なのだろう? 昨日言っていた「医者が使う道具の根幹」とは何なのか? 胸の内から湧き上がる好奇心は止まない。風に吹かれて回る風車のごとく、勝手に頭がフル回転して想像力を働かせる。
「茂水は、何の医者になりたいの?」
突然振られた質問を、聞き漏らしそうになる。動機を考えれば、自ずと回答は出てくるはずだが、即答することができなかった。
そのとき、どこからか近づいてくる足音が耳に届いた。仙川も気づいたらしく、二人同時に音のほうを向く。
懐中電灯の光が望遠鏡を照らした。引率者の男性だった。二人は現実に引き戻されたように、その場で上体を起こした。
「こんなところにいたのか」
男性は怒るわけでもなく、早歩きで近寄ってきた。謝罪する間もなく、男性が話を続ける。
「茂水くん、明日の朝、親御さんが迎えに来るから、帰る準備をしてくれる?」
「え? 林間学校、もう一日ありますよね?」
立ち上がりながら疑問を口にする。しかしすぐに訳を察した。
「わかりました」
遅れて仙川も立ち上がる。呆然とした顔が、二人の足元を照らす懐中電灯の灯りを見下ろしていた。
夜空からすべての星が消え去ったように思えた。虫たちの鳴き声が秋を感じさせる。木の葉のざわめきが不穏に鼓膜を揺さぶる。
一睡もできなかった。
穏やかに眠る琴音の姿を目の前にして、頭の中は真っ白になった。
いずれ、こうなることはわかっていた。覚悟もしていたはずだった。しかし、こんなに早いとは思っていなかった。何より、当然のように、最期を看取ることができると思っていた。
「琴音、何か言ってた?」
自分でもわかるくらい、貧弱な声だった。
「兄ちゃん、林間学校楽しんでるかなって言ってた」
胸が押し潰されるようだった。
どうするべきだったのか? 何ができたのか? 後悔がぐるぐると頭の中を渦巻く。たかが子供一人では、どうすることもできない運命だとは理解しながらも、しょうがないと受け入れることができなかった。
琴音はどうしたら救うことができたのか。
――職人の腕が良くても、道具がよくなきゃダメだね。
仙川の声が蘇り、爪が掌に食い込むくらい拳を強く握る。どんなに優秀な医師がいても、治療法が確立されていない病気を治すことは不可能だ。
――病気でダメになった身体の一部を治す研究してるんだって。
――医者が使う道具の根幹を作ってるとか、訳わかんないこと言ってた。
命を救うには、道具が必要だ。夢が定まった瞬間だった。
生まれ持った学力の高さには感謝しながら、着々と夢へ向かって進むことができた。周囲が大学入試の結果に一喜一憂する中、難なく医学部の合格を掴み取った茂水の目標は、さらにその先を見据えていた。
琴音の命を奪った病気の治療法の発見。あれから十年以上経った今も、達成はされていない。自らの手で見つける必要があった。
しかし、順調だった人生に思いがけない障壁が現れたのは、そのすぐ後のことだった。
「君は研究者には向いてない。結論ばかりを急ぐ割に、不要な拘りがある」
挫折。これまでまったく縁のない言葉だった。だからこそ、将来の夢を諦める人が多いことが不思議だった。だが、いざ現実として目の当たりにすると、夢というものは簡単に捨てられるものだとわかった。
琴音と並んでアイスを食べた夏の日常。とりとめのない会話。病床で病と闘う琴音の姿。穏やかな亡骸。そのときに感じた、胸を押し潰されるような苦痛。鮮明に脳裏に焼きついていると思っていた記憶は、いつのまにか色褪せていた。
日に日に医学技術は進歩している。小学生だった当時は不治の病だったものが、治癒率五割程度まで改善されたり、慢性疾患化されたりしている。茂水が実現しなくても、いずれ誰かによって実現されるだろう。
――医者でも人命は救える。
その後は、難なく国家試験に合格し、大病院に勤めることが決まった。
「先生、大丈夫? 私より元気ないんじゃない?」
回診時、担当していた老年の女性患者が、茂水を見て開口一番に告げた。我に返り、即座に笑みを繕う。
「大丈夫です。昨日ちょっと寝不足だったかもしれません。お変わりはありませんか?」
「特に変わりないけど、先生のほうが心配よー。過労死とかしないでね、私より先に逝かれたら困るんだから」
「こう見えても、意外とタフですからね。少しでも何か気になることがありましたら、遠慮なくお伝えください」
茂水はそう言い残し、病室を後にした。五〇六号室「黄木シズエ」の名札を一瞥し、通り過ぎる。
必死に浮かべていた笑顔を外し、額を抱えた。
「本当、あの人はすぐ気づくな」
溜息が零れる。昨晩、担当した患者が一名、二年の闘病を経て生涯を終えた。黄木と同じ、多発性骨髄腫だった。茂水と同年代の若い男性患者だったが、黄木同様に笑顔が印象的で、よく冗談を口にする人物だった。妻と思われる女性が見舞いに来るたび、子供を病室に残してこっそり外で泣いている姿を、何度も目にしたことを覚えている。患者自身、直接目にしていないながらも、その様子には気づいていて、よく茂水に「大丈夫かな」と零していた。
一つ何かを思い出すと、数珠繋ぎで他のエピソードも続々と回想され始めた。茂水は意識して、思い返される記憶を振り払った。
「茂水」
不意に背後から声を掛けられ、足を止めた。
上級医の加部だった。加部は早歩きで茂水に追いつき、声を潜めてこう告げた。
「五一二号室の患者、お前に任せたい」
「何ですか、いきなり」
茂水が目を丸くしたところで、該当患者のものと思しき検査結果が差し出された。
加部は、有無も言わせず受け取らせると、腕を背中で組んでこう続けた。
「不定愁訴からの、四肢の痺れと巧緻運動障害。発熱と倦怠感が一向に治らず、日に日に手足の痺れが酷くなるということで、検査をした結果がそれだ」
加部の話は、途中から茂水の耳には届いていなかった。MRIと血液・髄液検査の結果から読み取れる、中枢神経と末梢神経の炎症。感染症ではなく、自己免疫系の異常によるもの。進行性の神経萎縮を伴う免疫性炎症。
「神経萎縮性炎症ですか」
険しい視線は、検査結果を睨んだままだ。頭を締めつけるような頭痛。胸に重くのしかかる、鉛のような緊張感。
幼き時代に見た、妹の静かな寝姿が脳裏を過った。静を体現しながらも、生を一切感じない不気味な亡骸。途端に頭痛が鋭利さを増した。耳鳴りが召喚され、視界を歪めるほどうるさく脳内全体に響く。
肩を軽く叩かれる感覚で我に返った。検査結果を強く握っていた手の力が弱まり、くしゃりと紙が小さく音を立てる。
「重く受け止めるな。滅多にない症例だ、不謹慎な言い方になるかもしれないが、機会に恵まれたと思って受け持ってくれ」
「昨晩担当患者を一人死なせているんですよ、俺。救えるかわからないなら、なおさら信用できる医師に託したほうがいいんじゃないです?」
加部は怪訝な表情を浮かべ、足を止めた。
「お前の判断が間違っていたから助からなかったとは思っていない。お前が救えなかったなら、きっと私がやってもダメだった。お前が常に全力を尽くして患者と向き合っていることはわかっている。助ける可能性を高めたいなら……お参りにでも行くのはどうだ?」
「俺、無信仰です」
「無信仰だろうが、お参りぐらい誰だって行くだろう? それとも、神を信じていない?」
「普段信仰していない人間が、都合のいいときだけ縋りに行って、救ってくれるもんなんですか?」
「神様は人間大好きだから、助けを請うたら救ってくれるって、うちの婆ちゃんが言ってたぞ?」
茂水が微妙な反応をしていると、加部はついでと言わんばかりに持っていた紙袋を渡した。
「これ、患者さんに渡してくれ」
茂水が、受け取ったものの中身を確認する。
「洗濯物ですか」
「スタッフがまとめてくれたんだけど、取りに来る人がいなくて。よろしく」
加部は、そのまま茂水を置いて立ち去った。気づけば、全身を支配していた悪しき緊張からは解放されていた。
再び検査結果に目を落とす。留浦瑠穂。茂水と同じ三五歳だった。
さっそく挨拶に向かうと、病室はあまりにも静かだった。画面のついていないテレビ、整然とした机回り。花や差し入れは一切なく、入院生活をするのに必要最低限の荷物だけが置かれていた。自然と、ドアを閉めるのも普段以上に慎重になった。ほとんど音を立てずにドアが閉まると、足音を忍ばせるようにして患者に近づいた。
天井をまっすぐ見つめる目は、意識があるようには見えながらも、生気はなかった。苦痛を感じている様子はないが、単に元気がない。こちらに気づいているのか、気づいてはいるが無視しているのかもわからない。三十代前半にしては多い白髪と、全体的にやつれた顔。それとは別に、表情に乏しい。
「失礼します。今日から担当になりました、神経内科の茂水です。よろしくお願いします。お着換えのほう、こちらに置きますね」
空の物置スペースに、紙袋をそのまま置いた。脇によけられていた丸椅子を出し、腰を下ろす。
「調子はどうですか?」
「……別に」
掠れた、低めの声だった。同時に、こちらを突き放す冷たい声でもあった。ただし、このようなことは何も珍しいことではない。それでも、わずかに動じてしまったのは、彼女が例の病気だったからか。茂水は愛想笑いを繕い、口を開き掛けたが、
「どうせ治らないんでしょう? 先生も、どうせなら生きたい患者さんに付きっきりになったほうがいいんじゃない?」
先に留浦が続けた。
茂水の表情は、反射的に硬くなるが、唾と一緒に怒りを飲み込むと、どうにか真顔を作り、普段の口調で応じた。
「進行を遅らせたり、症状を弱めたりすることは可能です。あなたが望まなくても、そうするのが医師の仕事ですから。それに、神経萎縮性炎症は珍しい病気で、まだ詳しいことがよくわかっていません」
「つまり、実験台になれと」
「言葉が悪いですが、そういうことです。治療中の検査結果やデータは、この病気を解明する上で貴重な財産になります。いずれ、神経萎縮性炎症は完治する病気になるかもしれない。未来の命を救うためと思って、受け入れてください」
「まぁ、勝手にしてください。あなたたちに抗うつもりはないので」
「ありがとうございます。それでは、改めましてよろしくお願いします」
病室を出るや否や、茂水の口から大きな溜息が吐き出された。肩に入っていた力がどっと抜けていき、額から玉のような汗が零れ落ちる。気難しい患者というのは、まったく存在しないわけではないが、それでも相手をするのは一向に慣れないし、疲れる。
――長い闘いになるな。
茂水は、病室の名札を目に焼きつけるように見つめた。
留浦の治療は、初期から困難を極めた。四肢の筋力低下は著しく進み、痺れ程度だったものが、物を掴んだりしてもよく落とすようになった。呂律障害や排尿障害・発汗異常も見られるようになった。
「ステロイドでは思うほど改善が見られなかったので、血漿交換に切り替えます。機械を使って、血液から炎症を起こしている原因物質を取り除く方法です」
留浦は、目を合わせるどころか天井をぼんやりと眺めるばかりだった。説明が届いているとは思わなかったが、茂水は続けた。
「それでも改善が乏しい場合、IVIGに移行します。免疫グロブリンという抗体を投与して、免疫バランスを整える治療法です」
留浦はなされるがままにされていた。ベッドの隣に点滴とともに配置されたモニターつきの機械を、呆然と見つめる。血液がチューブを通って機械の中に入り、下のほうにある廃棄用の袋に黄色の液体が溜まっていく。長時間、機械の音だけが病室に響いた。
四回目の血漿交換が実施された頃から、徐々に回復の兆しが見られた。筋力テストやMRI・髄液炎症マーカー等各種検査結果から見られる症状改善。五回目の実施後には、留浦の心ここにあらずといった表情にも変化が現れた。歩行や食事が、以前よりスムーズに行えるようになってきた。歩行に付き添う看護師と、笑顔で会話する様子も見られるようになった。
初めこそ諦め切った態度で不安だったが、あのときとはまるで別人を見ているようだった。茂水が微笑を浮かべていると、視線に気づいたのか、留浦が険しい顔を浮かべつつもぺこりと頭を下げた。茂水も挨拶を返す。
「先生。昨日より歩けました」
初日よりもはっきりとした声が告げる。思わず笑みが零れた。
「よかったです」
「もっと歩けるようになりませんか?」
免疫グロブリン点滴が実施されると、留浦の症状はさらに改善された。歩行のふらつきもかなり減り、疲れて休憩に入るまでの時間も長くなった。
最も顕著だったのは、食事だった。箸を持つことさえできず、嚥下もままならなかった状態から、通常の病院食を自力で食べられるようになった。
「今度、アイスが食べたいです」
うどんを食べながら、留浦が訊ねる。
「アイス」
茂水が反芻する。留浦は恥ずかしそうに頷いた。
「前に北海道で食べたのが、美味しかったので」
「どうせなら、北海道に行ってきて食べてきたら?」
茂水がさらっと提案すると、留浦は妙に納得した顔で、
「確かに」
と同意した。そこで、はっとしたように我に返った。
「北海道旅行、できるようになりますか?」
留浦の真剣な眼差しが、期待の色を向ける。茂水はまっすぐ見返した。
「今の留浦さんなら、回復する可能性は十分にありますよ。頑張りましょう」
留浦の目に輝きが灯った。口を一の字に結び、控え目に頷く。茂水は微笑を湛えると、天井を向きながらこう言った。
「北海道行ったら、お土産くださいね。白い恋人がいいなぁ」
「自分で行けばいいじゃないですか」
「医者は、時間がないの!」
茂水はそう言い、回診を終えた。
――アイス食べたい。
かつて、果たすことのできなかった約束が、映像とともに脳裏を過る。今の留浦の姿は、記憶の中の瘦せ細った琴音の姿とは大違いだ。
――今度こそ、果たして見せる。
茂水は静かに胸に誓った。
回診で五〇六号室を訪れる。シズエは普段に増して、にこやかだった。
「黄木さん、何かいいことありました?」
茂水が訊ねると、シズエはさらに目を細めた。
「先生の顔色が最近よくなってきたなって思って。何か嬉しくなっちゃった」
茂水の顔が自然に綻ぶ。ついでに、口が勝手に開いた。
「最近担当した患者さんが、初めの頃は結構絶望的だったんですけど、だんだんよくなってきていて」
「あらら。それは素敵なことね。若い人なんです?」
「僕と同じぐらいです」
「とても若いじゃない。人生まだまだの時期に、大変な病気に罹っちゃったのね。でも、治りそうならよかったわ。先生のお陰ね」
「いいえ。患者さんの頑張りのお陰です。シズエさんも、頑張ってくださってありがとうございます」
「何よ、こっちは生きたいから勝手に頑張ってるだけで、それを助けてくれてるのが先生じゃない。先生がお礼を言うなんて、変な感じがするわ」
シズエはそう言うが、茂水にとって死なないでいてくれる患者というのは大きな支えだった。患者を救えるかは、医師たちの手腕次第だ。患者が亡くなれば、それは医療の敗北だ。患者が頑張らなかったからじゃない。そこは理解しているものの、一緒に闘う患者の姿に励まされることが多いのも事実だった。
留浦の調子が安定し始めてから四か月経過した。薬の調整とリハビリを継続し、自力での食事や、杖を突きながら歩行する姿を見るのも、珍しくなくなっていた。
回診で行くと、その日はスマホで北海道旅行のサイトを見ていた。
「行きたいところ、決まりました?」
茂水が訊ねると、留浦は困ったように笑った。
「いいえ。いいところが多すぎて」
「北海道、広いもんなぁ。でっかいどう、なんつって」
留浦は無反応だった。代わりに、こう訊ねる。
「先生のおすすめの場所はどこですか?」
「北海道ねぇ……旅行で行ったことがないんですよね。札幌に学会で行くことはあるんですけど、隙間時間に公園にふらっと寄るくらいです。まぁ、夜はすすきのに飲みに行くかなぁ……でも、女性ひとりにはおすすめしないな」
「医者も、学会行くんですね」
留浦は驚いたようにそう言いながら、スマホで「すすきの 飲み」と検索していた。
「もちろん、最新医療を知っていないと、我々医者は病気と太刀打ちできませんから」
茂水はそこで口を閉ざした。幼い頃、神経萎縮性炎症で妹を亡くしたこと。当時は症状抑制すらまともな手段が存在しなかったことを、流れで告げそうになったからだ。
――彼女には関係ない。
「どうしました?」
「いや、何でもありません……すすきの、よさそうな場所見つかりました?」
「いいえ。よさそうなところが多すぎて。美味しそうなものばかり見ていたら、お腹が空いてきました」
「食堂でも行きますか?」
「はい」
留浦がベッドから起き上がる。茂水はペースに合わせて隣を歩いた。
珍しく、留浦が転倒しそうになった。慌てて支える。
「大丈夫?」
「はい」
嫌に不安に駆られた。それから、食堂に行くまで何度か転び掛ける瞬間があった。
食堂に着くと、留浦は頭を下げた。
「お忙しいのにここまでついてきて下さって、ありがとうございます」
その表情は、若干曇って見えた。
その日から、留浦の体調は影を見せ始めた。転倒に始まり、スマホを落とす、食事が進まなくなるなどの安定前の症状が見られるようになった。
すぐに安定前の治療を再開した。減薬していた免疫抑制薬を増やし、血漿交換を行う。しかし、改善は一時的なものだった。IVIGを再投与してみるも、こちらも以前ほど効果が表れない。
検査の数値を見るたびに、焦燥感が込み上げた。
徐々に衰弱していく彼女の顔から、次第に表情も消えていった。会話も次第になくなり、布団で横になる時間が増えていった。
何でもいいから、彼女を救って欲しかった。
神社に行き、賽銭箱に札束を突っ込む。作法は覚えていなかった。うろ覚えで、手を叩き、ひたすら祈る。
しかし、留浦の体調が再びよくなることはなかった。
この頃、初めて彼女の家族がやってきた。
「先生、難病指定の医療費助成申請に必要なので、サインをお願いします」
弟と思われる人物が、封筒から書類を出そうとする。茂水はそれを受け取りながら、こう切り出した。
「瑠穂さんは五一二号室です。今の状態についてもお話ししたいので、もしよろしければ――」
「時間がないので結構です」
男性はきっぱりと断った。本当に、書類のサインを貰うためだけに来たらしく、病室の面会受付簿にも名前はなかった。
留浦の病棟移動が決まった日、茂水は一人きりの病室でこう説明した。
「これからは、緩和ケアの専門医が主担当になります」
「そう……ですか」
掠れた声が告げる。残念そうに聞こえるのが、留浦がそのように話しているからなのか、それとも病魔のせいでそのような声しか出せないからなのかは、わからなかった。
茂水が口を閉ざしたまま、黙り込んでいると、
「昨日、北海道に行く……夢を……見ました」
留浦が、急にそう告げた。茂水が顔を上げる。
「楽しかった……」
不器用に顔が歪んだ。笑おうとしているのがわかった。その表情のまま、留浦は茂水のほうをまっすぐ見た。
「いい夢を、ありがとうございました」
歯を食いしばり、目尻に力を入れ、拳を握り締める。茂水は何も言わずに、病室を後にした。
ずっしりとした錘が、全身に纏わりついているような感覚がした。
記憶の中に張りついている、リハビリ中の彼女の姿。いつか実現したかもしれない、北海道旅行を楽しむ姿。それらは、二度と叶わない幻となった。
それから二週間後、留浦が亡くなったと伝えられた。茂水が受け持ってから、一年後のことだった。
同時期、緩和ケアに移行することになった患者がもう一人いた。
シズエのわずかに開かれた目が、見事に咲く桜の花を、しっかり目に焼きつけるように見つめる。まるで綺麗だと言うように、穏やかな目だった。
風に靡き、桜の花弁がひらひらと舞い落ちた。その様を、茂水の視線が追う。何度も目の当たりにする憂鬱。もう何回見ることになるかと、淡いピンクの雨に問いかける。
気が遠くなりそうだった。病室から出ると、全身から力が抜け、その場に崩れ落ちたまま動けなくなった。
「茂水。いいから少し休め」
上級医の指示で、強引に休暇が一日入れられた。しかし、やることと言えば、ひたすら酒を浴びることぐらいだった。朝から酎ハイをひたすら開けては飲み、開けては飲みを繰り返す。床に、空き缶が雑に転がっていた。飲んでも飲んでも、漠然とした気持ち悪さが消化器官に募るばかりだった。
日没を過ぎた頃、玄関から呼び鈴が聞こえてきた。覚束ない足取りで向かい、覗き窓を見る。仙川だった。
驚いたようにドアを開ける。
「こんな時間にごめん。調子が悪そうだと聞いて、様子を見に来たんだけど……」
茂水自身や、部屋から充満するアルコールの臭いに戸惑ったのか、仙川は一瞬固まった。
「いきなり来て迷惑だったかな?」
「いや、大丈夫。心配かけて悪いな。酒飲んでたんだ。上がってくか?」
「はは、大学のときみたいだね。お邪魔します」
仙川の表情が引き攣ったのは、部屋中に転がる酒缶の量が大学時代の比ではなかったからだろう。
茂水が定位置に腰を下ろすと、仙川はテーブルを挟んで反対側に座った。
「好きなの飲んでくれ」
茂水はそう促し、自分でも九パーセントの酎ハイを開ける。
「ありがとう。けど、大丈夫。水貰ってもいい?」
「水だぁ? 美味い水なら大量にあるだろ」
茂水が、まっすぐ指せていない指でテーブルの上を示す。そして、缶の中を一気に半分飲み、大きく息を吐いた。
急に気分が悪くなった。窓を開ける。
月と星空が見えた。微かに光る点々の中に、三角形を成す三つの光が見えた。
「確か、二十五年前のが届いてるんだっけ。ベガの光」
隣で仙川が小さく呟き、コップに注いだ水を差し出す。
――二十年後、おっさんの俺たち、何してんだろうな。
茂水の口が、力なく開かれた。
「あの頃、琴音の病気は治るようになると信じていた。俺は医者になって――あるいは研究者になって、多くの人の命が救えると思っていた」
苛立ちが込み上げた。胸に宿っていた無力感が牙を剥き、当てどころのない怒りが発火する。
「医者になって俺ができたことは何だ? 救えたものは何だ? 何もねえ! ただ奪うばかりだった! 思い上がってたんだ」
持っていた缶酎ハイを、床に投げ捨てる。炭酸がジューっと音を立てて静まる。その缶を、さらに裸足で踏み潰す。缶の出っ張りとプルタブが食い込み、足の裏に痛みを覚える。罰するにはあまりに足りない痛みだった。否。罰するなんて聞こえのいいものではない。胸を苦しめる痛みを紛らわせるための自傷行為。これが正しかった。
あの頃から何も変わっていないという事実が、宵闇の星のない空間のように胸の中を虚無に塗り上げた。
「神にも救えないものを、医者ごときが救えるわけがなかったんだ」
嘆きに近い声が吐露する。
仙川が持っていたコップを飲み干し、窓枠に置いた。
「茂水。会わせたい人がいる」
その研究者はこう言った。
「私たちが目指すのはね、病気や怪我で人が死なない未来だよ」
その瞬間、すっと胸が軽くなったのを覚えている。まるで、全身の抱えていた淀みがふっと取り除かれるような気分だった。小学校低学年の頃の、何も悩みのなかったときの自分。琴音がまだ元気で、病気で早逝するなんて考えたことすらなかったときの精神状態。
ようやく救われる――そう確信した。
いざ計画が始まって、その確信は大きく揺らいだ。
父親の死骸を見て泣き出す少年。人妖であることを理由に殺される一般市民。化元体が盗まれ、自殺していく団員。何度も目にした、暴走人妖の死体。団員の死体。そして、渡会の死。
圧縮された地獄だった。いつか実現するであろう甘い未来の妄想ごときでは、ごまかすことなどできなかった。理想像がくすみ始める。
どこに向かうべきなのか、何もわからなくなった。そんな中のことだった。
――救えない命があることの苦しみから、茂水さん自身が救われるためじゃないですか?
初めて己の異常性を自覚した。いつまでも記憶にこびりつくのは、死んでしまった人たちのことばかりだった。助かった人間のその後など、気に掛けたことがなかった。だから、もし仮に担当患者の累計数がもっと少なかったとしても、伊東のことは忘れていただろう。しかし、それは完全に無意識だったのだ。無自覚のまま、助けられなかったという後悔ばかりを背負い、泥沼の中を這いずり回っていた。
「もう少し早く気づいていれば、こんな過ちは犯さなかった」




