11.敵の目的と再来
田村から聞き出した血盟士団や人妖の話をきっかけに、花押敏明はこの計画を思いついた。化元体こと、双血球の人体修復力は、励化線という環境依存要因さえ取り除くことができれば、あらゆる怪我や病気の回復に有用なものだった。造双血球細胞研究の第一人者である落合蒼葉を筆頭に、賛同する仲間を集め、「怪我と病気のない世界」を実現すべく動き出した。
手始めに、環境整備のため、蔵王山の封印石を破壊した。励化線を止められては困るので、このとき一緒に染谷一家の殺害も実行した。一人取り逃がしてしまったが、すぐに封印の儀式が行われる様子はなかったため、化元体の研究に専念することにした。
人工化元体開発の裏で、人工造双血球細胞(またの名をAHT細胞という)の開発の段取りが進められた。
ここで、最初の問題が発生した。実験材料の不足だ。
『茂水。頼みがある。お前が今いる拠点の化元体を回収したい。団長に、これ以上増やしてもらうのは厳しいみたいで、取ってくるしかないって結論に至った』
仙川から入った連絡に、茂水は最初動揺した。
「……マジで言ってんのか?」
『狂ってるって言いたいなら、封印石を破壊したときに言うべきだったな』
「何も言い返せねぇ……わかった。盗難によさげなタイミングと侵入ルートを考えればいいんだな?」
茂水の内通により、化元体の盗難に成功した。同時に、近隣の避難所からも盗み出すことに成功。千路と渡会が追ってきたもの、これを振り切り、研究棟へ帰還した。
この後、人工造双血球細胞開発の重要な活路となる事件が発生した。収容所からの七番が脱走だ。
千路たちが七番を捕まえに収容所を出ていくと、さっそく花押がこう言った。
「整理しよう。七番は少なくとも三か月以上、化元体を摂取していない。しかし、特定の人物を正しく認識している。イコール、暴走していないと考えるのが自然だ」
「変な話、暴走しないだけの化元体を常に体内で作り続けているってことですよね?」
仙川が発言する。花押が頷きながら、返答した。
「人妖は共通して化元体を作り続けてはいるが、通常は体内での生産量より消費される分のほうが多いから、暴走してしまう」
「七番は化元体生産量が多い個体なのかもしれませんね」
「――つまり、AHT細胞の開発には打ってつけのサンプルですか」
左沢がぽつりと零した。
花押は慌てたように、茂水のほうを向いた。
「茂水くん。彼らには、必ず生け捕りするよう伝えてくれないか?」
しかし、その望みが叶うことはなかった。絶好のサンプル候補だった七番は、捕獲時に死亡した。それでも、蒼葉の以前の研究結果と、励化線解放後の積み重ねにより、人工造双血球細胞の開発は進んでいった。
試作品一号となるMDO―1が完成した。化元体下剤で厄介な千路を葬る計画とともに、避難所ひとつを丸ごと実験台にして様子を見たが、結果は失敗に終わった。非人妖の妖化に留まらず、暴走までしてしまったのだ。
最低でも妖化に留まるよう改善を図った、MDO―2の作成に取り掛かる――そんな矢先のことだった。
「そろそろ終わりにしよう」
茂水を交えた会議の場で、花押が唐突にこう告げた。
「……失礼ですが、どういう意味でしょうか?」
沈黙を押し切り、仙川が訊ねる。
「そのままの意味だよ。あれ? もしかして、気づいてなかったのか?」
「気づいてなかったって、何にですか?」
仙川が困惑する。落合兄弟は、揃って変質者でも見るように花押を睨んでいた。そんな中、
「はぁ――なるほど」
左沢が呆れたように零した。冷ややかな目が、何もない空間を捉える。
「娘さんを治すことだけが、目的だったわけですか。端からAHT細胞の実現など考えていなかった」
嘲笑交じりの声だった。
茂水は目を見開き、信じられないとでもいうように花押のほうを見た。
「美鈴ちゃんは人妖だから、励化線が解放された時点で、目的は達成されている……」
ショックのあまり、その場で倒れ掛ける。すかさず、隣の仙川が支えた。
「――騙してたんですか?」
「美鈴を救う方法が他になかった」
花押は真面目な表情でそう答え、胸ポケットからスマホを取り出した。仙川の表情が曇り、左沢の目からさらに温度が消える。
「研究より家族のほうが大事だ。君たちも馬鹿じゃないんだから、わかってるだろう? この先研究を続けたところで、生まれるのは地獄だけだ」
スマホが耳に宛がわれようとした瞬間、その腕は床に切り落とされた。
花押の目の前に、血で汚れた刀を手にした天狗が立っていた。
花押は、血を噴き出す自らの右腕だったところを愕然と見つめると、やがて顔を顰め、全員を睨み返した。
「君たちは馬鹿なのか? 日本が滅びるぞ?」
左沢が鼻で笑い返した。
「滅びる前に完成させるんですよ、先生。初めてお誘いいただいたときに、言いましたよね? 『やるからには、完遂以外ありえない』と」
刃先が、花押の喉元に向けられる。花押の目は、血に染まった刃先を経由し、天狗の顔を見つめた。確かな怒りが含まれていた。
「ふざけている。そこまでして成果が欲しいか? 優秀な研究者を集めたいのか? そんなエゴのために、壊滅していく国を放置するのか?」
「その口で何をおっしゃる。まぁ、何とでも言ってください。それと、私の教え子たちは皆優秀でした」
刃先と喉元の距離が、さらに縮む。
花押はなおも、天狗を睨み続けた。
「お前がそこまで狂った人間だと知っていたら、声を掛けることはなかった!」
一瞬の沈黙が挟まった。
天狗が微笑を浮かべ、口を開いた。
「おや? もしかして、気づいてなかったんでしょうか?」
「気づいてない? 何に?」
天狗が、花押と目線を合わせた。
「AHT細胞の開発をおふざけだと思っているのは、花押先生だけですよ」
その瞬間、花押の目に、天狗の背後から冷たい視線を浴びせる研究者たちの姿が映った。失望。敵意。侮蔑。同じ研究仲間どころか、人間を見る目ですらない。
怯えた目が、最後に天狗に帰着する。待っていたように、天狗が口を開いた。
「全員、完成を信じています。揃いも揃って馬鹿なので」
「――待ってくれ」
花押が、残った左腕を挙げようとする。
無慈悲にも、血飛沫が上がった。花押の身体が椅子ごと転倒する。床に、たちまち血溜まりができ、花押の身体はびくともしなくなった。
左沢が死体を見下ろしながら、妖化を解いた。真っ先に、仙川のほうを向いた。
「出過ぎた真似をしました。申し訳ないです」
「いいえ。英断でしたよ、左沢先生。背負うものがなくなった人は、信用できませんから」
仙川が淡々とした声で応じた。その目は、かつての恩師の亡骸をゴミのように一瞥するだけだった。それから、未だ呆然とする茂水を同情の眼差しで見つめ、再度花押の死体を捉えた。
「しかし、これ、どうしましょう?」
「収容所の奥の部屋にでも放っておけば、事故らしく見せられると思いますよ」
左沢が死体に爪先を向けたまま答える。
仙川は、紅葉のほうを向いた。
「落合さん、大丈夫そうですか?」
「何体ぐらい人妖がいるんだ? どんな奴がいる?」
紅葉が、難しそうに腕を組む。その隣から、蒼葉が口を挟んだ。
「収容所奥の担当は左沢先生じゃないのか?」
「特に決まってるわけではないのですが、構いませんよ」
「それじゃあ、左沢先生、お願いします。それで、話を戻すんですけど、七番のような個体が他にも存在するってことは、考えられないでしょうか?」
仙川の一言により、前の議題に遡った。全員が、考え込むように言葉に詰まる。最中、
「あ」
茂水が声を上げた。全員の視線が集まる。
「一人、心当たりのある奴がいる。うちの班員だ」
桜木帝都。話では、一帯が暴走人妖に溢れる中、一人だけ暴走せずに逃げていたと聞いている。手当をするたびに感じていたが、傷の回復も異様に早かった。
検体を抽出するため、帝都を誘拐した。すぐに奪還に来たため、少ししか検体を取り出すことはできなかったが、それでも研究には十二分に役に立った。
MDO―2が完成すると、母体のAHT細胞の移植の検証も平行して始まった。
「完成は近い。俺たちがいなくても、落合先生と左沢先生が続けてくれる」
茂水が、虚勢の張った必死な笑みで告げる。
仙川の頭に突きつけられていた銃口が、ようやく離れた。仙川が安堵したように息を吐いたが、それ以上に茂水のほうが安心していた。
銃を下ろした千路が、田村に目をやり指示を仰ぐ。
「騒動を落ち着かせるのが最優先だ。儀式を完結させる」
その日、中断された『封印の儀式』が無事終了した。
体内に感じるもう一つの気配が、萎んで消えていくのがわかった。その感覚を得て初めて、華陽は世界が元通りになったのだと実感した。化け物が街を練り歩く光景を見ることも、もうなくなる。
仙川は、諦めたように肩を落とした。最後の最後まで、左沢たちがまた戻ってきてくれると信じていたのだろう。一方の茂水は、何かに思い悩むように虚空の一点を見つめていた。
*
人生の終焉とは、実に唐突で呆気ないものだ。動揺した表情で駆け寄る兄の姿を見ながら、落合紅葉はそう思った。
何も思い残すことはなかった。後悔があるとすれば、それは――。
「紅葉、待ってくれ」
目の前で、今にも壊れそうな顔をしている男のことだった。
昔から、人の感情に敏感だった。言葉の裏に隠れた思惑や、他人に対してどう思っているかを感じ取るたびに、人間という生き物に失望した。なんて醜く、グロテスクな関係性の中で生きているのだろう? そしてその対象には、紅葉自身も含まれていた。
誰もが少なからず利己的で、立場を得るために言動を選ぶ。茶番と呼ぶにはあまりにも汚れすぎた社会に、誰もが無自覚に染まっていく。
――落合蒼葉を除いて。
両親の、蒼葉と紅葉への扱いはまったく異なっていた。学校や塾の試験で満点以外許されず、勉強ばかりを強いられる蒼葉。一方の紅葉は、一般家庭の子供同様、玩具やゲームのような娯楽が与えられ、テストの点数が振るわなくても怒られることはなかった。決して、ネグレクトというわけでもなかった。前回よりテストの点数が上がれば、満点が取れなくても褒められた。
蒼葉は、家庭外でも孤立していた。完璧を求める厳しい性格。やけに理屈っぽく、取っつきにくい。物知りで、間違いがあれば相手が教師であっても、何でも指摘する。周囲から見たら、可愛げもなく、面倒な人間だったのだろう。大人ですら、蒼葉を忌避していた。
そんな様子を目の当たりにしてきたからこそ、紅葉は人間が嫌いだった。人によって態度を変える。自分に都合のいい相手にばかり、いい顔を繕う。そんな醜さがプンプンと漂う世界を、どこか冷めた目で見ていた。
「テストでいい点すら取れない俺は、何の価値もない無能だ」
塾の模試の結果が振るわなかったときに、蒼葉が言った。紅葉には何故そう思えるのか、心から不思議だった。
「何で? 兄さんはテストに出ないこととか、先生も知らないようなこととか、何でも知ってるじゃん。俺は、兄さんの話聞くのが好きだし、尊敬してるよ?」
蒼葉のどこか疑るような目は、紅葉にだけは向けられることはなかった。他人からの褒め言葉のいっさいも信じなかった蒼葉が、唯一紅葉の称賛だけは素直に受け取った。
信用できる相手がいるということは、よいことのように思えた。しかし、時が経つにつれ、大きな問題が顕在化していった。
「紅葉。俺が研究者になるのは、正しいことなのだろうか?」
幼少期に、やること成すことすべてに批判ばかり受けてきたせいか、自信をまったく持てず、定義された事実以外はすべて紅葉に解を求めるようになった。
依存だ。気づいたときには、もう手遅れだった。日常の些細な質問から始まったものが、蒼葉の人生を決める相談にまで至るようになる。
突き放すことなど、できなかった。もし何も言わなかったら、蒼葉は一ミリも動けない。
「少しでもやってみたいと思ったんだろ? できると思ったから、目指してるんだろ? 兄さんがそう思うなら、それは正しいよ」
蒼葉のためを思い、そう答え続けてきた。それが、今になって最大の後悔として押し寄せる。
――兄さんは、今後一人で生きていけるんだろうか?
もし神に保証されても、紅葉には信じることができなかった。
*
気づけば眠りについていた。熟睡から目覚め、華陽は車内の時計を見る。すでに十一時を回っていた。この時間まで起こされずに眠ることができたのは、久々だった。
外を見ると、テントの下で千路が団長と話していた。今後のことだろうか。まもなく、一台の車に乗り込み、どこかへ出かけて行った。染谷家の前には、相変わらず団員が護衛していた。励化線が止まった今でも、染谷の護衛は必須だろう。
平和な日常が完全に戻るまでは、もう少し時間が掛かりそうだ。
華陽は車を降りた。山の新鮮な空気が肺を満たす。鳥の陽気なさえずりが聞こえてきた。風で木の葉が掠れる音が心地よい。
周囲を見回すと、集団から離れたところで、帝都が一人空を見上げているのが見えた。華陽が近づくと、途中で帝都が気づいて振り向いた。
「あ、華陽、おはよう」
「おはよう。何してたの?」
「空見てただけ。清々しいほど、何もないだろ」
帝都の言う通り、空は一面同じ青に染め上げられ、雲の一欠片もなかった。その様子が、懐かしい景色のように感じた。
「何か、呆気なかったよな。いつのまにか終わっちゃったというか……多分、『儀式』が花火を上げるようなものだったら、違ってたのかもしれないけど」
冗談交じりの口調に、思わず華陽も笑う。
「さっき天見から聞いたんだけどさ、今回の件で身寄りがいなくなった子供は、団の補助で生活することになるんだって」
華陽は、急に現実に引き戻された感覚がした。思えば、怒涛の日々の連続で、戻った後の生活のことなど考えたことがなかった。
「団が運営する養護施設に引き取られるってこと?」
華陽が訊く。三年前の震災のときは、そのような対応が取られたように記憶していた。
「いや、何か団員が引き取るらしい。引き取った家庭には、補助金が出るとか。優しい人のところだといいなぁ」
帝都が呟きながら、空を見る。
「大丈夫だよ。子供一人養うのって、補助金があっても大変だと思うし。多分、優しい人しか名乗り出ないと思う」
「それもそっか」
帝都が安堵の息を吐いた。
「何か、長かったよな。つらいこともいろいろあったけど、それら全部引っ包めても、いい意味で人生の見え方が変わった。いろんな人に出会って、目指すべきものがわかった」
帝都が顔を下ろした。
「俺さ、警察官になりたい。いざというとき、正しい道を示すことのできる大人になりたい」
そして、再び空を見つめる。まるで、天から見守っている誰かに宣誓するように、揺らぎのない決意の眼差しだった。
その目が不意に変わったのは、空に異様な飛行物が現れたからだった。
「何だ、ありゃ?」
帝都が呟く。
他の団員たちも気づいた。口々に声を上げる。
徐々に近づいてくると、その正体はようやく判明した。天狗と大鬼だった。
その場にいた団員が、不在の団長に電話を掛ける。
用件を聞くや否や、田村は動転した声でこう言った。
『儀式は済んだんじゃないのか?』
それに答えるように、
「MDO―2だ」
テントから見ていた仙川が、目を輝かせながら小さく呟いた。
無論、周囲はパニックに包まれた。空上の敵は、こちらを見据えて次第に高度を下げてくる。
「団長、妖化できません」
電話を掛けていた団員が訴える。
田村の決断は早かった。
『石を戻せ』
すぐさま近くで張っていた団員たちにより、封印石が祠から取り出された。
敵が着地する前に、団員たちが妖化して待ち構えることができるようになった。
「ところで、鬼のほうは誰なんだ?」
団員の一人が、その場の誰もが抱いていた疑問を口にする。
その誰も知らない謎の人妖は、警戒する団員たちを無視し、何かを探し始めた。封印石を守ろうと、坂道を塞ぐように人の壁ができる。しかし、そこにはまったく興味を示さず、一瞥だけで終わった。
視界に何かを捉えた。刹那、
「紅葉の仇!」
悲鳴のような声を上げながら、帝都に突進した。
間一髪、妖化が間に合った。長い尾を硬化させ、向かってくる巨体を留めようとする。
パワーが全然違った。力でぐいぐい後ろへと追いやられる。
帝都を睨む大鬼の目は、充血していた。紛れもなく、「鬼の形相」そのものだった。
華陽は、すぐに帝都の応援に向かった。
最初の叫び声で、その正体が落合蒼葉であることは確実だった。だからこそ、恐ろしかった。
――とっとと離れろ、人妖。
――半径三メートル以内に入るなと言っている。
人妖を毛嫌いしていた人物が、自ら人妖になってまで仇を討とうとしている。
華陽は、金棒を構えながら突っ込んだ。事前に察知した蒼葉が、その場から離れる。
間合いを置き、華陽と蒼葉が向き合った。先に、華陽が口を開く。
「弟さんにとどめを刺したのは私です」
「お前みたいな、どうでもいいガキに紅葉はやられたってのか?」
「どうでもいいだって?」
脇から声がした。直後、何かが飛び出した。
蒼葉は、片手で受け止めた。
妖化を解いた帝都だった。生身で、小さな握り拳を振り翳していた。
「あんた、ずっとそう思いながら研究してきたのか? だから、こんなひでぇことができたし、まだ続けようとしてる。何で、目の前で命が奪われることに無頓着でいられるのに、『病気や怪我のない世界』なんて目指せるんだよ? おかしいだろ」
「そんなものは知らん。目指しているのは双血球の解明、ただそれだけだ」
「はぁ? そんなもののために、わざわざ封印石を取って、こんなことをする必要があったのかよ?」
「紅葉がそうするべきだって言った」
「本当に、そう言われたんですか? 紅葉さんに」
華陽が横入した。
蒼葉の目つきが険しくなり、華陽に身体ごと突っ込む。
「紅葉だけは、俺の理解者だった! 俺のためになることを考えてくれていた」
華陽は身を翻してかわした。
ふと脳裏に過ったのは、いつか紅葉と二人きりになって話したときの会話だった。
――支えが突然消えたら。何かに縋りながらでしか生きられないほどに弱ったものが、支柱を失ったらどうなるか。
紅葉が見せた、曇った表情。あのとき懸念していた対象は、教え子だけではなかったのではないか?
「壊れないよう、同意していたのではなく?」
その瞬間、蒼葉は初めて気がついた。悩みごとを打ち明けたとき、必ず弟の返事が同じだったということに。
『兄さんがそう思うなら、それは正しいよ』
何かが壊れていった。胸の内にあった「紅葉」という名の偶像が、瓦礫の屑へと化していく。
あの笑顔は何だったのか? 尊敬しているという言葉も嘘だったのか? すべて、出来損ないの兄を立てるための配慮だったのか? つまり、見下していたということか?
弟の最期の姿が、記憶の中から靄となって消えていく。
蒼葉は両手で頭を抱えた。刀が地面に落ちる。髪の間に食い込む指は、そのまま頭に穴を開けそうなくらい強く押していた。叫び声が、徐々に声ではない轟音へと変わっていく。
華陽は、この光景を知っていた。かつて、避難所で知り合った色白の少年が、身体の異変を吐露した次の瞬間に、巨大なスッポンへと変貌した記憶が蘇る。
目の前の男は、まさに今、不完全な化元体の紛い物に飲まれようとしていた。大鬼の中に垣間見えていた理性が、跡形もなく消え失せていく。
帝都も、同じ記憶を思い出したのか、蒼葉から距離を取り、妖化した。
かつて蒼葉だったものは、落ちていた刀を拾い上げた。そして、目の前にいた華陽と帝都から興味を逸らすと、まっすぐテントのほうに向かって行った。
そこには、自由を奪われ椅子に並んで座る茂水と仙川がいた。仙川はすぐに椅子を蹴り、手錠に縛られながらもその場から離れようとした。しかし、茂水のほうは俯いたまま動かない。
「茂水!」
仙川が呼び掛け、ようやく茂水は顔を上げた。事態に気づき、その場から立ち上がる。
大鬼がダッシュで迫った。
「茂水さん!」
華陽も走る。間に合わない。
大鬼の握る刀の刃先が怪しく光り、茂水の胸をまっすぐ狙う。
茂水は、覚悟するように目を閉じた。
華陽は、刀で差そうとしたが、わずかにリーチが足りない。
刃物が肉を穿通する音が聞こえた。テントの下に、じわじわと赤い染みができ始める。
刃が引き抜かれ、床に人影が倒れた。その後ろで、呆然と茂水が立ち尽くす。
「仙……川?」
大鬼が、次のひと突きを仕掛けようとしたが、今度は華陽の攻撃のほうが早かった。銅像のように固まった大鬼は、胸元から顔を出す刃先を睨んだまま、静かに崩れ落ちた。
茂水が屈み込んだ。後ろで、両手を縛る拘束具が煩わしそうに音を立てる。
「茂水……無事か?」
仙川がわずかに目を開きながら、呟くような声で訊ねた。
茂水は、顔を強張らせた。
「馬鹿野郎、喋るな」
「最期なんだ、から……」
「仙川!」
肩を震わせながら、悲痛な声で呼び掛ける。
仙川は小さく息を吐くと、力なく笑いながら眉尻を落とした。
「お前を、救えるのは、俺じゃなかった、な。でも――お前は、生きてて、よかった」
次第に閉ざされていく瞼が、完全に動かなくなった。
茂水は歯を食いしばり、その場に項垂れた。
後方の騒がしさで、華陽はもう一体の敵の存在を思い出した。帝都も騒音に振り向く。
一軒家の中から現れたのは、誰かの生首を持つ天狗だった。その顔には、どこか得意げな笑みが浮かんでいたが、倒れた大鬼の姿を見た途端堅くなった。
しかし、華陽たちも、その生首を見た瞬間、同じ反応になった。
紛れもなく『封印の儀式』を唯一執り行うことのできる生き残りだったのである。




