黒谷龍児の物語
その日も悠真は、菜々美をウォーミングアップのランニングに誘い、仲良く並んで走っていた。それは、まだ二人が恋人になる前のことだ。
男子陸上部員のチームメイトたちはストレッチしながら、そんな悠真と菜々美の姿を遠目に見て言いあう。
「あいつらって、ほんと仲いいよな」
「たぶん悠真って、菜々美ちゃんのこと好きだろ」
「だな。それに菜々美ちゃんも悠真のこと好きそうだし。つきあえばいいのに」
「それな。悠真もなにやってんだか」
「あー、おれも彼女がほしいー!」
男子陸上部員が浮かれた話をしていると、鋭い声が響いた。
「おまえら、浮かれてんな」
見ると、鋭い眼光の男性が睨んでいた。その体は細く見えるが、鍛え抜かれているのがわかる。
「部長っ!」
言って男子部員たちの表情、姿勢が一気に引き締まる。
そう、鋭い眼光の男性は黒谷龍児、男子陸上部の部長だ。これまで数々の大会で優勝しており、将来のオリンピック候補の一人と目されている。国体選手に選抜されたことが内示されているとの噂も流れていた。
スポーツだけではない。学業成績もつねにトップレベル。つねにストイックに文武両道を追い求めている。自分にも他人にも厳しい高校3年生だ。
「そんな浮かれた調子で大会を突破できると思っているのか?」
男子部員たちは直立して視線をそらし、黙っている。まるでヘビに睨まれたカエルのようだ。
「競技とは神聖なもの。浮かれて勝てるものじゃない。気合いを入れていけ」
「押忍っ!」
「わかったなら、さっさっと練習を始めろ。走りこめ」
龍児は仲良く走っている悠真と菜々美を見やった。その瞳には、実にいまいましそうな光が宿っている。
(高橋菜々美、それに佐倉悠真、か…。神聖な競技を穢しやがって…)
龍児は二人を毛嫌いしていた。二人を見ていると、過去の黒歴史が龍児のプライドをチクチクさせるからだ。
それは龍児が高校2年生のときだった。
夏の暑さが和らぎ始めた放課後、陸上部の練習が終わり、部員たちが三々五々、帰路についていた。高校1年の菜々美は、顧問の先生に呼ばれ、一人、部室の片付けをしていた。そこに龍児がやってきた。
龍児はいつもと違い、どこか落ち着かない様子で、部活中には見せないような柔らかい表情を見せていた。
「高橋、お疲れ。少し話せるか?」
菜々美は少し驚きながらも、「はい、先輩。もちろんです」と答えた。
龍児は少しだけ言葉を選びながら、静かに話し始めた。
「お前がこの陸上部に入ってきたときから、ずっと見ていた。お前はただの努力家じゃない。走ることを心から楽しんでいる。その姿が、おれにはすごく眩しく見えた」
菜々美は戸惑いながらも、彼の言葉に耳を傾けた。
「おれは、お前と一緒に走りたい。そして、お前と一緒に陸上界の頂点を目指したい。おれと、つきあってくれないか」
龍児は、自分の気持ちを伝えることに慣れていないかのように、少しだけどもった口調で言った。彼の顔には、普段の冷たい表情とは違う、本気の感情が見え隠れしていた。
しかし、菜々美の心には、すでに悠真がいた。彼女は龍児の真剣な眼差しから目をそらさず、まっすぐな声で答えた。
「黒谷先輩、お気持ち、ありがとうございます。でも、ごめんなさい。私には、好きな人がいます」
菜々美の返答に、龍児の顔から表情が消えた。
「…好きな人? 誰だ?」
龍児の声は、一瞬にして冷たくなった。その声色に、菜々美は思わず身を固くする。
菜々美は、その変化に少しだけ身を固くしながらも、ためらいなく答えた。
「佐倉くんです。私、彼と一緒に走っている時が、一番楽しいんです」
その言葉を聞いた瞬間、龍児の目つきは一変した。彼の顔に浮かんでいた微かな希望は、一瞬にして怒りと屈辱に塗り替えられた。
「…そうか。佐倉、か」
龍児は、それ以上何も言わなかった。ただ、ゆっくりと踵を返し、その場を立ち去った。
龍児の脳裏に、怒りと屈辱が渦巻く。
(佐倉悠真……、奴は、おれよりも遅い。おれよりも成績が悪い。おれは学業も競技もトップレベルだ。それなのに、あの女は、おれより劣る佐倉を選ぶと言うのか? おれは奴よりも劣ると言うのか?)
龍児はプライドをひどく傷つけられたように感じていた。優秀な自分を全否定されたかのような、言葉に言い表せない絶望が龍児の心を蝕んでいく。
(おれはつねにトップを目指し、ストイックにやってきた。それは報われないのか?)
龍児の脳裏に、忘れようとしていた過去の光景がよみがえる。
夏のうだるような日差しが照りつけるグラウンド。小学生の陸上クラブの大会で、龍児は三位に入賞した。ゴールテープを切ったとき、トップになれなかった悔しさよりも先に、表彰台への喜びがこみ上げてきた。
メダルを首にかけ、龍児は両親のもとへ駆け寄った。
「見て!三位だよ!」
輝くメダルを指差し、得意げに笑った。しかし、両親の顔には笑顔がなかった。父親は腕を組み、冷めた目でメダルを見つめる。
「三位?おまえなら優勝できる。三位なんかで喜んでいたらダメだぞ」
その言葉に、龍児の胸は一瞬で冷たくなった。隣にいた母親も、静かに、だが強い口調で続けた。
「龍児、あなたの実力はそんなものじゃないの。次はもっと上をめざそうね」
龍児は、その言葉が自分への期待なのだとわかっていた。だが、彼にはそれが「三位ではダメだ」と言われたようにしか聞こえなかった。
せっかくの喜びは、あっという間に消え去り、胸に残ったのは、両親の期待に応えられなかったという重苦しい罪悪感だけだった。
そして、楽しみな夏休み、友達がみんなでプールに行く計画を立てていることを知った龍児は、ワクワクしながら両親に尋ねた。
「お父さん、お母さん!みんなとプールに行ってもいい?」
だが、二人の答えは、いつもと変わらなかった。
「プール?そんなの時間のムダだ。一流のアスリートは文武両道だが、おまえは夏休みの課題を終わらせたのか?」
「そうよ、龍児。将来のため、今は遊びより勉強でしょ。その時間は走り込みに使うべきだわ」
楽しかったはずの計画は、両親の言葉によって、一瞬で「無意味なこと」に変わってしまった。
龍児は、がっくりと肩を落とす。友達と過ごす他愛ない時間も、両親にとっては「トップをめざすための障害」でしかなかったのだ。
しかし、それも当然だと龍児は思いなおす。龍児の両親は、父も母も元トップアスリートだ。おれは他人とは違う。選ばれし者としての責務がある。
龍児の両親は、何かにつけて「おまえは一流」「もっと上をめざせるはず」と叱咤激励ばかりだった。二人は息子を心から愛しているつもりだったが、その愛情は、龍児の自然な情感を蝕み、歪ませていく。
もちろん、そのことに龍児の両親も気づかないし、龍児本人も気づいていない。
いつしか龍児は、喜びや悲しみといった感情を表現しなくなり、ただひたすらに「完璧」であろうと努力するようになった。
勝利だけが彼を認め、愛してくれる唯一の道だと信じるようになったのだ。
その結果、彼は常にトップに立ち続けるエリート高校生となった。つねに心に虚無感をかかえているが、龍児にとってそれはあたりまえのこと。違和感はない。
トップに立てば、あらゆるものが手に入るのだ。当然、高橋菜々美だって、トップを独走するおれのものになるはずだ。あの笑顔が龍児の虚無感を埋めてくれそうな気もしていた。
だが、現実は違った。
高橋菜々美はおれを拒絶した。かわいさ余って憎さ100倍。龍児は一転して菜々美を憎むようになる。
坊主が憎ければ袈裟まで憎い。菜々美が心を寄せる悠真も憎い。
あいつらには不幸が似合っている。そもそも奴らは神聖な競技の場に、うかれた色恋をもちこみ、競技を冒涜している。その罪は万死に値する!
龍児の歪んだ心情は、悠真と菜々美に不幸をもたらすことになる。




