新しい自分
春休みも終わり、菜々美も高校2年生になった。高校のグラウンドわきの桜も咲き誇り、キレイだ。キレイと言えば……。
菜々美は隣で一緒にクールダウンのランニングをしている悠真を見て、
「悠真くんって、いつもランニングフォームがキレイだよね」
菜々美が少し息を切らしながら言うと、悠真は照れくさそうに笑った。
「ありがとう。菜々美にそう言ってもらうと、すごく嬉しいよ」
菜々美は、その素直な笑顔に胸が温かくなるのを感じた。
「わたしも悠真くんみたいに、キレイに速く走れたらいいのになって、いつも思ってる」
「できるさ。だって菜々美、すげえがんばってんじゃん。走りだって安定してきているし、おれも負けてられないなって思ってるんだぜ」
思わぬ言葉に、菜々美は一瞬、足が止まりそうになった。
(悠真くんって、わたしの努力をわかってくれているんだ。うーん、感動だよ! よし、これからも悠真くんが教えてくれる練習メニュー、きっちりこなすぞ! おーっ!)
菜々美の心にじわりと幸福が広がっていく。菜々美は再び悠真のペースに合わせて走り出した。
(なんか今日って、いい雰囲気かも。だったら今日こそ……)
菜々美は並んで走る悠真の横顔をチラ見した。いつもみたいにクールダウンでも真剣な表情で走っている。
「あのね、悠真くん。実はちょっと相談があるんだけど…」
菜々美は勇気をふりしぼって話し出す。少しだけ早口だ。
「なに?」
悠真は走りながら答えた。視線は前方を見すえたままだ。
「わたし、新しいウェアを買いに行きたいんだけど、どれがいいか全然わからなくて。それで、悠真くんって走りに詳しいから、ウェアも詳しいかなって――」
「人並みには詳しい、かな」
「そう、なんだ、やっぱり。……それでね、もしよかったら、今度、一緒に見に行ってくれないかな? その…アドバイスしてほしくて」
最後の言葉は、恥ずかしさで少し声が小さくなった。もし断られたらどうしよう、と不安が胸を締め付け、思わず夕焼けに染まるトラックの地面に視線を落とした。
「うん、いいぜ! もちろんだよ」
悠真は爽やかに答えた。
(やった!)
菜々美がうれしさのあまり顔をほころばせながら顔を上げ、悠真のほうを見やると、笑顔の悠真と視線が合った。悠真の瞳は、いつものように優しく、けれどどこか真剣な光を宿していた。
「菜々美にぴったりのウェア、おれが選んでやるよ。だから、これからも一緒に走ろうな」
その言葉に、菜々美の胸は幸福でいっぱいになった。
(え!? これからも一緒に、って…? うれしすぎるよ!……やっぱり今日は雰囲気がいい。)
菜々美は、はにかむような笑顔で、
「うん!一緒に走ろうね!」
言って力強くうなずいた。
週末、菜々美は白のトップスと白のプリーツスカートをはき、お気に入りのピンク色のカーディガンを上に着て、おめかしして待ち合わせ場所の駅に向かった。約束の時間より早く着いて待っていたら、悠真も約束の時間より早く来てくれた。
悠真はありふれたパーカーにジーンズ姿だけど、菜々美は見慣れない私服姿の悠真に学校のときとは違うドキドキを感じていた。
「お待たせ!なんか、いつもと雰囲気、違うじゃん。似合ってるよ」
悠真はさらりと菜々美のファッションをほめる。その言葉に菜々美は顔が熱くなるのを感じた。
「ありがとう……お気に入りの服だから、うれしいな」
菜々美は少しうつむきながら、はにかむように微笑んだ。悠真も微笑みかえす。
「じゃ、行こっか」
「うん」
菜々美は歩きだした悠真と並んで歩く。二人で並んでおしゃべりするのは練習の時よくあることだが、シチュエーションが違うと新鮮に感じる。それは悠真も菜々美も同じだった。
二人は電車で移動し、大型スポーツ用品店に入った。
「ウェアに求めるものって何?」
悠真がそう尋ねると、菜々美はキョトンとして悠真を見た。
「たとえばさ、吸水速乾とか、UVカットとか、筋肉疲労を軽減してくれるとか、ウェアにもいろんなタイプがあるじゃん?」
「あ、うん、着る目的みたいな感じ?だよね」
「そう、それ。菜々美は何を実現してくれるウェアがいいのかなって」
この質問に、菜々美は迷いなく答えを決めた。悠真はインターハイで入賞して大学推薦を勝ち取りたいと頑張っている。菜々美も悠真と同じ大学に行きたい。だったら、インターハイに出場できるように――
「今よりも速く走れるようになりたい、かな」
「それなら――」
言って悠真は、迷うことなく歩き出した。菜々美もついていく。
悠真が向かった先には、陸上部のエースたちが着るような、体にぴったりとフィットする機能性ウェアが並んでいた。これまで菜々美が、ボディラインが見えるのがいやだと敬遠してきたタイプだ。
(やっぱり悠真くんも由香先輩みたいに真剣に陸上に取り組んでいるから、答えは同じなのかな?)
菜々美はそんなことを考えていると、悠真はまじめな顔で、
「パフォーマンスをあげたいなら、やっぱり着圧タイプがオススメかな」
言って悠真は、ひとつのランニングタイツを手に取った。
「菜々美もふだん見ているだろうけど、おれはこのメーカーのランニングタイツを愛用してる。菜々美も、このメーカーのがいいんじゃないかな」
「あ、でも……でもね、わたし体のラインが見えるのって、ちょっと苦手かなって……」
菜々美はしりごみしていた。
「あー、それな。たしかに最初は抵抗あるかもしれない。おれもそうだった――」
(へー、悠真くんもなんだ)
「――だけど、実際に使ってみたら、すごく動きやすいし、疲れにくくてさ、絶対パフォーマンス上がるって思えたんだ」
悠真は熱く語る。
「ほら、中学のときにコーチもよく言ってたじゃん。服が人をつくるってさ。なにを着るかで、パフォーマンスも大きく変わる。だからさ、菜々美も試してみたら絶対に今より速くなれるって。どうかな?」
(やっぱり悠真くんも由香先輩と同じ考えなんだ……。でも、由佳先輩とかって、スタイルいいから、似合うよね。それに比べて、わたしは……)
「それに菜々美はスタイルいいからさ、これ着たらプロアスリートみたいに見えて、絶対カッコイイって思うぜ」
悠真は屈託のない笑顔で言った。
(え、わたしって、悠真くんから見て、スタイルよく見えるの?)
大好きな悠真くんにそう言われると、なんかうれしい。気持ちもポジティブになっていく。
それに悠真くんにアドバイスしてほしいって言いながら、悠真くんのアドバイスを聞かないのも気が引ける。
「じゃ、試してみようかな…」
菜々美は悠真に生地の違いなど説明してもらいながら、自分に最適そうなデザインを選んだ。ピンクのスポブラと、黒のランニングタイツだ。
ランニングタイツはいつも悠真が着用しているのと同じものを選んだ。ただ色は違う。悠真はネイビーだが、色まで同じだと「ペアルック」みたいで恥ずいので、黒を選んだのだった。
試着室の中で、菜々美は勇気を出して、スポブラとランニングタイツを着てみた。適度に体が引き締められ、動きやすくなった気がする。
(悠真くんって、いつもこんな感じで走ってたんだ。悠真くんと同じ感覚を味わいながら、毎日、一緒に走るなんて幸せかも)
そう思うと、菜々美は思わず顔がゆるんでしまう。
(ダメ、ダメ、今は練習着を選びにきているんだからね)
菜々美は思い直して、改めて鏡に自分を映してみる。その姿は、これまで見たことのない、どこか強く、自信に満ちた自分に見えた。それは、悠真の言葉がくれた、新しい自分だった。
試着室から出ると、悠真は目を輝かせた。
「やっぱりな! 似合うよ、すごくいい! それに動きやすいだろ?」
「うん。ありがとう!」
悠真の誉め言葉のおかげで、菜々美の不安は完全に消え去っていた。
悠真への感謝と、ウェアがくれた勇気で胸がいっぱいになった。菜々美は、新しい自分になることを決心した。
翌日の練習、菜々美は新しい練習着――体にフィットするスポブラとランニングタイツを着用してグラウンドに現れた。
(このウェア、どんなふうに見られるかな?)
(みんなから、変に思われないかな?)
菜々美が不安に思いながら、おもむろにストレッチを始めると、由香先輩が駆け寄ってきた。
「菜々美ーっ! なにそのウェア! めっちゃ似合ってるじゃん!」
由香先輩はうれしかった。
「ようやく菜々美も走りに本気になってくれたんだね」
「はい! わたし今よりも速くなりたいって思っています。ご指導よろしくお願いします!」
「もちろん! 菜々美なら基礎もしっかりできているし、どんどん速くなれるって」
なんて感じで菜々美と由香先輩が和気あいあいと話していたら、他の女子チームメイトたちも普段と違う菜々美に気づき、興味津々に駆け寄ってきた。
菜々美や由香先輩みたいに機能性ウェアを着ているチームメイトもいれば、吸水速乾生地のTシャツとハーパン姿のチームメイトもいる。多種多彩だ。
「全然!かっこいいじゃん!」
「いつもゆったりしたのばっかりだったから、新鮮だね」
「そうそう! その色、ななみの肌の色にあってて可愛い!」
チームメイトたちは、だれもが菜々美をほめそやす。
菜々美はうれしいし、もう恥ずかしいとは思わなかった。このウェアは、悠真がくれた自信の証。そして、今はチームメイトたちの温かい言葉が、その自信をさらに確かなものにしてくれた。
「…ありがとう、みんな!」
菜々美は満面の笑顔で応えた。その笑顔は、これまでの菜々美が見せたことのない、強い光を宿していた。
その後、ウォーミングアップのランニング。菜々美はいつものように悠真に誘われ、悠真と並んで走る。
「悠真くん、ウェア、本当にありがとう。みんなに褒められて、すっごく嬉しかった」
菜々美は、これまでになく晴れやかな笑顔で言った。悠真は嬉しそうにうなずく。
「よかった。菜々美が喜んでくれると、おれも嬉しいよ」
その瞬間、菜々美の心は、感謝と愛おしさでいっぱいになった。悠真はいつも菜々美の心を前向きにしてくれる。
(わたし、悠真くんのことが本当に大好きだ)
菜々美は心を決めた。もしかすると、自分は新しく生まれ変わったんだという開放感から、少し大胆になっていたのかもしれない。
「あのね、悠真くん…」
菜々美が足を止めると、悠真も「ん?」と足を止め、菜々美のほうを見やる。菜々美は悠真の顔をまっすぐに見つめた。
「わたし、悠真くんのことが好きです。わたしと、つきあってくれませんか?」
菜々美の瞳は、これまでの菜々美にはない、まっすぐで揺るぎない光を宿していた。
悠真は、一瞬だけ目を見開いて驚いた表情を見せた。だが、すぐに悠真の顔には、これまでで一番幸せそうな笑顔が浮かんだ。
「実はおれも菜々美のことが好きだったんだ」
悠真は少し照れくさそうに頭をかくと、まっすぐ菜々美の目を見て答えた。菜々美の表情はパーッと明るくなる。
「でも、おれ、菜々美が好きだって、なかなか言い出せなくてさ、ただ一緒に走ろうって言うくらいしかできなかった。男なのに、ふがいないよな。そんなおれだけど、これからもよろしくな」
「うん! こちらこそ」
夕焼けに染まるグラウンドで、二人は初めて心を通わせた。二人の足音は、夕焼けに染まるトラックに、新たな希望を奏でるように響いていた。
しかし、近い将来、希望の未来ではく、絶望の日々が二人を襲うことを、このときの二人は知るよしもなかった。




