好きになった理由
秋晴れの空の下、中学3年生の高橋菜々美は、その所属する中学生の陸上競技クラブのイベントとして、小学校1年生との交流ピクニックに参加していた。
中学3年生のクラブメンバーは、「お兄さん」「お姉さん」として、1人につき1人の新1年生を引率し、一緒にピクニックをして、新1年生に野外活動の楽しさを知ってもらうというイベントだ。
イベントの終わり、小高い丘の上の展望台から駐車場まで、菜々美たち中学生は、担当の小学生を引率して移動する。ところが……
「おねえちゃん、きついよ」
菜々美が担当していた康介が立ち止まる。
「バスまで行ったら、おうちに帰れるからね。だから、あと少し、がんばろうよ」
菜々美は腰をおとして康介の顔を正面に見ながら、やさしく語りかけた。
「もう無理。歩きたくない」
康介はその場に座り込んでしまった。
「あと少しだよ。がんばろう」
「無理。きつい。歩きたくない。おねえちゃんがおんぶして連れて行って」
「ダメだよ。歩いていくことになっているんだから。だからさ、あと少しだから、おねえちゃんと一緒に歩こう? ね」
「やだ。無理」
いくら菜々美が声かけしても、康介は動こうとはしない。
菜々美たちがもたもたしているのをよそに、他の中学生たちは、担当の子たちと楽しそうに歩いて、菜々美たちを追い抜いていく。
「あれ、菜々美ちゃん、休憩? 遅れちゃうよ。先に行くね」
心配してくれるけれど、特に助けてはくれない女子。
「なにやってんだ高橋、あいかわらずノロマだな。ははは」
からかいながら追い越していく男子。
そんなクラブメンバーたちの言動が菜々美をますます焦らせる。
(どうしよう……。このままじゃ集合時刻に遅れちゃう。お願いだから、わたしの言うことを聞いてよ!)
菜々美は泣きたくなる。
(どうすればこの子は歩いてくれるんだろう。わからないよ)
「どうしたの?」
見ると、佐倉悠真が立ち止まり、怪訝そうに見ていた。悠真も同じクラブメンバーだが、別の中学校の3年生だったので、菜々美はあまり話したことはない。
菜々美は少し戸惑いながら、
「この子が疲れたみたいで……、歩けないって……」
「そっか……」
言って悠真は、康介の前にそっとしゃがみこむと、笑顔で言った。
「お兄ちゃんが、おんぶしてあげようか」
康介は「うん!」と笑顔でうなずき、悠真におぶさった。
「佐倉くん、だめだよ!ちゃんと歩かせないと」
菜々美は思わずそう言ったが、悠真は「高橋さん、ちょっとこの子、見ててくれる?」と、自分が担当していた男の子を菜々美に預け、歩き出した。
まもなく悠真は小走りを始めるが、普通には走らない。
体を上下に動かしながら、
「ほら、ジェットコースターだぞー」
体を左右に揺らしながら、
「次は飛行機でーす」
体を回転させながら、
「ぐるぐる回るぞ、コーヒーカップだぁ」
遊園地の乗り物のように体を動かすたびに、背中の康介は「きゃっ!きゃっ!」と大喜びだ。菜々美は悠真に預けられた男の子の手を引き、慌てて後を追う。
(佐倉くんったら、小学生をゴールまで歩かせないといけないのに、ずるしたらダメじゃん……)
菜々美は不満だった。
しばらくすると、悠真は立ち止まってしゃがみ、康介に話しかける。
「ちょっと疲れたからさ。ここからは一緒に走ってくれる?」
康介は上機嫌な笑顔で「うん、お兄ちゃんと走る!」と言い、自分の足で走り出した。大喜びで走る二人の姿に、菜々美は思わず立ち止まる。
(え? あの子が自分から走ってる? あれだけ歩くのすら嫌がっていたのに……)
菜々美は、あれだけ自分をてこずらせていた康介を、悠真がまるで魔法のように動かしているのを目の当たりにして、思わず目を丸くした。
「楽しいだろ?」
悠真がそう言うと、康介は満面の笑みでうなずいた。
「うん! 楽しい!」
菜々美を手こずらせていた康介も、駐車場まで自分の足でたどりついた。それも満面の笑みで。
(すごい)
菜々美はすなおに驚いていた。
帰り道、菜々美は悠真に尋ねた。
「どうして、あんなことができたの?」
悠真は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「だって、走るのって楽しいじゃん。あの子にもそれを知ってほしかったんだ」
悠真の答えは答えになっていなかった。しかし、その言葉は菜々美の心に深く響いた。
(それにしても、これまで知らなかったけど、高橋くんって、やさしいんだな。……あ、お礼を言わなきゃ)
「あのね、今日は……」
そのときホイッスルが鳴り、遠くで「集合!」というコーチの大声が聞こえた。
「行こうぜ、高橋さん。遅れると、怒鳴られちゃう」
言いながら悠真は駆けだした。
「あ、うん」
菜々美もあわてて、悠真について駆けだす。このとき菜々美は、前を走る悠真の背中を見ながら、頼りがいを感じていた。
それが菜々美の初恋だとは、このときの菜々美はまったく気づいていなかった。
まもなく3年生たちは中学陸上競技クラブを引退し、悠真も菜々美も受験勉強に専念する日々が始まった。
(今ごろ佐倉くんは、なにしてるのかな?)
菜々美は悠真に助けてもらって以来、その奇跡を見せつけられて以来、なにかにつけ悠真のことを思い出していた。
(もう会えないのかな)
それなら悠真に会いに行けばいいのかもしれないが、菜々美にはそんな勇気はない。そもそも悠真は学校が違う。他校まで行って話しかけるなんて、菜々美には無理だ。
(佐倉くんは、わたしのことを覚えてくれているかな。覚えていたら、遊びにきてくれたりとか……。ない、ない。……せめて佐倉くんのことを2年のときに知っていたら、クラブで仲良くなれるチャンスだってあったはずなのに……)
そう思ったところで、過去には戻れない。だから、ため息しかでない。
「菜々美、行くわよ」
母の呼ぶ声がした。今日は高校受験に向けての進学塾の説明会だ。菜々美は気持ちを切り替え、「はーい! 今、行く」と、文房具を入れたカバンをもって部屋を出た。
進学塾の説明会には、近隣の中学校の生徒たちがいて、見慣れたクラブメンバーもいる。菜々美は仲良くしていたメンバーと話したりした。
(もしかしたら、佐倉くんもいるかな?)
菜々美がきょろきょろしていると、いた!
悠真の母親と一緒に来ていた。
(仲良くなれないかな。話しかけようかな。お母さんも一緒にいるし、どうしよう)
でも、こんなチャンス、二度とないかもしれない。菜々美は心を決めた。
「お母さん、ちょっとトイレに行ってくるね」
「気をつけてね」
菜々美はとおりすがりに、偶然に気づいたふりをして、「あ、佐倉くん」と声をかける作戦だった。
菜々美は悠真を目指して、ぐんぐん歩いていく。あと少しで悠真に声かけできる距離になる。心臓がドキドキしてくる。
(よし! 声をかけるぞ! がんばれ、わたし!)
菜々美が声をかけようとした瞬間
「あ! 悠真じゃん!」
「あ、吉岡、なんだ、おまえもいたのかよ」
同級生だろうか。吉岡とかいう男子が悠真に話しかけてきたので、菜々美は悠真に声をかけるタイミングを完全に逃してしまった。
(なんなのよ!)
菜々美はがっかりして、母のもとに戻った。
「あれ、トイレはよかったの?」
「あ……」
母は菜々美の真意になんとなく気づいていたが、それ以上はなにも言わなかった。
菜々美にとって幸いだったのは、悠真の入塾を決め、菜々美と同じクラスになったことだった。
菜々美はなにかにつけ悠真に視線が向いてしまうが、向こうは菜々美にまったく興味がないようだった。目があうことすらない。
(なんとか話せないかな)
でも、話すチャンスなんてない。悠真のまわりにはいつも男子たちがいる。まわりに他の男子たちがいるところで、悠真に話しかける勇気もない。
(とりあえず予習でもして、気をまぎらわせよう。そのうちきっとチャンスもあるよ)
菜々美は自分を励ましながら、テキストを開いた。
しかし、頭に入ってくるのは英文法ではなく、悠真たちの笑い声ばかりだ。ペンの先がテキストの上で空回りする。
つい悠真の声に耳をすませてしまう。そして、たまたま聞こえてきた会話から、悠真の誕生日が近いことを知る。
(佐倉くんって10月26日生まれなんだ。わたしのほうがお姉さんだ……。って、そんなことより、これって佐倉くんに話しかけるチャンスかも)
菜々美は思った。ピクニックの件で悠真に助けられたけれど、お礼はまだ言っていない。
(お礼を口実にして、佐倉くんに誕生日プレゼントしたら、佐倉くんもわたしのことを意識してくれるかも)
菜々美は乙女の淡い期待を胸に、クッキーを手作りした。作り方はお母さんに教えてもらった。
「だれかにプレゼントするの?」
お母さんがやさしい笑顔で尋ねると、菜々美は顔を真っ赤にしながらボソボソと、
「うん、えっと、佐倉くんが誕生日みたいで……、佐倉くんにお礼もしていなかったから……」
「そう、佐倉くんにあげるんだ。いいんじゃない。あの子いい子だから、お母さんも好きよ。やさしいものね」
お母さんが菜々美に微笑みかけると、菜々美も照れくさそうに微笑みかえした。
そして、むかえる悠真の誕生日。
菜々美は進学塾のロビーで悠真をさがした。ロビーなら、いつも悠真は1人でいるから、話しかけやすい。でも、どこ?
菜々美はきょろきょろ探す。いた!
菜々美は顔を赤くしながら、悠真に駆け寄る。心臓はドキドキ、バクバクだ。でも、勇気を出して話しかける。
「佐倉くん、あの……ちょっといいかな?」
菜々美の声に、悠真は足を止めた。
「うん、どうしたの、高橋さん」
(佐倉くん、わたしの名前を覚えていてくれたんだ!)
菜々美はうれしかった。
(よし! がんばるぞ!)
菜々美は深呼吸を一つすると、後ろに隠していた両手を前に出した。そこには、小さな紙の手提げ袋が一つあった。
「あのね……遅くなっちゃったけど、ピクニックのときは、本当にありがとう。とても助かったから」
悠真にとっては昔のことでもあり、キョトンとしている。菜々美はひるみそうになるが、頑張って話を続けた。
「それでね……、あのね……、今日が、佐倉くんの誕生日だって聞いたから、これ、作ってみたんだけど……もらってくれる?」
菜々美は、真っ赤になった顔を少しうつむかせ、紙袋を差し出した。
悠真は突然のことに驚きながらも、すぐに笑顔で「そうなんだ、ありがとう」と言いながら、差し出された紙袋を受け取り、中をのぞきこんだ。そこには、不器用ながらも形を整えられた、手作りクッキーがぎっしりと詰まっている。
「え、……これ、高橋さんが作ったの?」
悠真が尋ねると、菜々美は、恥ずかしそうにうなずいた。
「うん……。あんまり上手じゃないけど……」
「すげえじゃん! すごくうれしい。おれ、女子からプレゼントをもらうの、初めてだから」
悠真は、心からの笑顔を見せた。菜々美の頬はさらに赤くなり、彼女の胸は幸福感でいっぱいになった。
「大事に食べるね」
そう言って、悠真はクッキーの袋を丁寧に持ち、菜々美に軽く頭を下げると、そのまま駅へと向かった。菜々美は、その背中をただ見送ることしかできなかった。
その日から、中学を卒業するまで、菜々美が悠真と言葉を交わす機会は二度となかった。というのも悠真が別の塾に移ったからだ。
(もう会えないのかな。クッキーを渡すとき、電話番号とか、アドレスとか、聞いておけばよかったな。なんか心が苦しいな)
菜々美は後悔していた。
ただ菜々美にとって幸いだったのは、悠真が菜々美に特別なプレゼントをもらってから、なんとなく菜々美のことが気になりだしていたことだった。
もっとも、そのことを菜々美は知るよしもないが。
菜々美は志望校の高校に合格し、入学した。悠真が合格したことも知っている。合格発表の日に喜んでいる姿を見かけていたからだ。
(あのときも佐倉くんに話しかけたかったけど、話しかけられなかったな。男子たちに囲まれて……。佐倉くんって、人気者なんだな。まあ、やさしいから、だれでも好きになるよね。……って、もしかして佐倉くん、彼女とか、いるのかな。いないといいけど、どうなんだろう)
菜々美にとって幸いだったのは、悠真が同じクラスになったことだ。
(話しかけてくれないかな)
淡い期待を胸に、菜々美はついつい悠真に視線が向いてしまう。ときどき目があうけど、そのときは恥ずかしくなって、さっと目をそらしてしまう。
このとき悠真も、菜々美のことが少し気になっていた。
(高橋さんはプレゼントをくれたから、話しかけてもいいのかな。でも、おれと目があうたびに目をそらすから、あまり親しくするのはダメかもな。それに、みんなの前で親しくもない女子に話しかけるのも恥ずいし。……話しかけないほうがいいよな)
悠真は女心というものがよく分かっていなかった。
菜々美は陸上部に入部することにした。もともと走るのが好きで中学生の陸上競技クラブにも入っていたし、そもそも陸上部に入れば、悠真も入部するはずだから、悠真と仲良くなれるチャンスにも恵まれるはずだ。
(ビンゴ!)
菜々美に思ったとおりだった。陸上部の顔合わせで悠真の姿を見つけたとき、菜々美は胸が熱くなるのを感じた。
(問題はどうやって話しかけるか、だ)
練習中、菜々美は話しかけるチャンスはないかと、悠真のほうをついチラ見することが多かった。すると当然、悠真だって気づく。
悠真はプレゼントをもらって以来、菜々美のことが気になっていたので、ある日。練習前のウォーミングアップで、菜々美に話しかけてみた。
「高橋さん、もしよかったら、一緒に走らない?」
(え? マジ? うれしすぎるんですけど!)
菜々美は意外な誘いに少し驚きながらも、うれしくて心が舞い上がりそうだ。
「いいよ!」
力強く即答した。
それから二人の間には心地よい時間が流れ始めた。
ただ、最初のうちは、どうしても会話がぎこちなく、間ももたない感じだった。それでも日をかさねていくうちに、ぎこちなさも消えていき、今では途切れても気にならないほど自然になっている。
とりわけ、悠真から「走りのコツ」を教えてもらうようになってからは、会話も弾みやすくなった気がする。互いに「走るのが好き」だし、その点では話があうし、気もあう。
(わたしって佐倉くんと相性いいかも)
なんて菜々美は勝手に思ったり。
そんなこんなで、楽しく日々は過ぎていき……。
その日の練習は、いつもよりハードだった。
菜々美は疲労で足が重く感じていたが、悠真に「クールダウンしよっか」と声をかけられたとたん、急に足が軽くなった気がした。
「うん」
菜々美は笑顔で悠真と並んで走り出す。ただ、足が軽くなった気がするだけで、疲労が消えたわけではない。足取りは重く、呼吸も乱れる。
それにひきかえ、隣を走る悠真は、走り方もスムーズで、いつもと変わらなく見える。
(佐倉くんって、だれよりも熱心に練習をやっているだけあって、やっぱりすごいな)
菜々美は悠真の走りに見とれながら、
(わたしが今、佐倉くんに遅れないで走れているのは、佐倉くんがスピードをわたしにあわせてくれているんだろうな。マジやさしい人なんだ)
なんて思っていると、ふとピクニックのときのことを思い出した。
(あのときだって、助けてくれたのは、佐倉くんだけだったし、やっぱり佐倉くんて、いつもやさしいな。……もう好きになるばかりだよ)
なんて思いながら、菜々美が少し足をもたつかせながら走っていると、悠真が不意にやさしい声で言った。
「菜々美、無理すんなよ。ペース落とそうぜ」
その言葉に、菜々美は心臓が止まるかと思った。
(え? 今の、なんて言った? いつも「高橋さん」と呼んでいたのに……「菜々美」って呼んでくれたよね!)
「え…?」
菜々美が顔を上げると、悠真は自分がうっかり口にしたことに気づく。
悠真は菜々美のことを意識するようになってから、「いつの日か高橋さんのことを菜々美ってファーストネームで呼べたらいいな」と思っていた。
なので、たまに一人でいるとき「菜々美」と口に出し、自然に発音できるようにイメトレもしていた。実に恋する男子高校生らしい、ういういしい努力だ。
だが、イメトレではうまくいっても、現実にはうまくいかない。さすがの悠真も照れくさいと言うか、恥ずかしかった。だから、いつまでたってもイメトレは終わらない。
そんな「不断の努力」の成果が、こんな形でぽろっと出てしまったのだった。
悠真は焦り、ばつが悪そうに頭をかいた。
「ご、ごめん、高橋さん。つい……。疲れてるみたいだからさ、心配で」
悠真がしどろもどろいなっている様子を見て、菜々美はほほえましく感じながら、
(言い直さなくていいんだよ。すごくうれしいよ。――この本心を今、ちゃんと伝えておかないと、きっと後悔する)
だから、菜々美は勇気をふりしぼって、
「ううん……」
菜々美は少しだけ、はにかみ、
「うれしいよ、菜々美って呼んでくれて……」
その小さな声に、悠真は足を止め、まっすぐ菜々美の目を見つめた。菜々美も止まって、笑顔で悠真の目を見つめかえす。
悠真は少し照れくさそうに、しかし、すごくうれしそうに、
「え……、マジ? だったら、これからも菜々美って呼んでもいい?」
菜々美は、喜びのあまり声が裏返りそうになるのを必死で抑え、大きくうなずきながら、
「う、うん! もちろん!」
菜々美の表情には、これまでにない喜びが満ち溢れていた。
悠真も満面の笑みだ。
「ならさ、あのね、佐倉くん…」
菜々美はもじもじしながら照れくさそうに言葉をしぼりだす。
「……わたしもね、佐倉くんのこと、悠真くんって、呼んでいいかな?」
言って菜々美は顔を真っ赤にしている。
「もちろん! とても仲良くなれたみたいじゃん。すごくうれしいよ! これからもよろしくな、菜々美」
「うん、……悠真くん」
二人の関係は、夕焼けに染まるグラウンドの上で、一つ、新しいステップへと進んだのだった。
のちに菜々美は思う。
(私が悠真くんを好きになったのは、あのピクニックのときだったんだな……)




