俄雨
雨が真っ直ぐ落ちるのと同じように、私は恋に落ちた。午後零時の出来事である。
薄暗い部屋の中で月明かりだけを頼りに私は本を読んでは、栞も挟まず夢に落ちた。抱えた気持ちの仕組みを知るには程よい手段だと思い、恋愛小説を読み耽ったが、案外難しい。
目覚まし時計の甲高い声が部屋に響いて起床。午前七時の出来事である。
目覚まし時計の甲高い声が部屋に響いて起床。ここでようやくスタートラインに立つ。
午前八時の出来事である。窓から世界を見た。泣いていた。
飼い犬と日課の散歩。午前九時の出来事である。
コロ助は足が弱いのでゆっくりと歩く。黒い毛並みが涙で濡れて、その度に振り払おうとしている姿にどこか私の姿を思い出した。水が嫌いなのだから仕方ない。誰しも嫌いな物事はある。幼い頃から人は特に苦手だった。何か私に期待する度に己の無力無知さが伺えて他人ばかりが優秀になっていく様子は実に愉快だった。十二の年である。思春期を経て大人になっていくとは言えども心というものは複雑に絡み合ったこの世そのものであり、政治家や革命家もいないため変わらないのだ。そう思いながら通学路を闊歩していく。十五の年である。
至極普通の高校へ進学。模範的学生として三年間を終える。他人は所詮他人であるのだから自分のように大切にしたところで、どうともならない。俄に信じ難いがこれがこの世の仕組みなのだ。友達も迂闊に信じ込んではいけないよ。
今もそこで私の絵空事を撒いているではないか。
人生の夏休みに差し掛かった所で、私はあることに気づいた。私は私の夢や存在の価値について何も知らない。他人ばかりを見てきたのだから当たり前の仕打ちなのだが、ここまでなものか?心のどこかで恥ずかしいとは思っていたのだが、失敗が怖いのだ。目標に向かって動けば失敗してしまうかもしれない。失敗して人は成功すると言うが、結果論では無いか。ああ、やはり人というのは苦手だ。二十の年である。
肌寒い風に負けコロ助と共に我が家に帰る。午前十時の出来事である。
私の人生で一番奮発した買い物はこれからもコロ助だろう。他人ばかりを見てきたのだから、命の儚さと尊さは弁えているはずだが、やはり可愛さには勝てない。街角のペットショップ。硝子越しに見ていたお前は何かを訴えているようだった。今思えば、学生から社会人になり、この世の不条理さに懲り懲りしていた時だったか。あの頃愉快だったはずの光景も、いつしか嫉妬と妬みに変わり、伸び悩んでいたのだから、純粋無垢なお前の瞳にも釘付けになってしまうのも無理は無い。動物は良い。
話さないからだ。言葉は人の奥底に眠る物を引き起こしてしまう。それが例えどんなに酷く醜い醜態でも、声帯を通して見れば綺麗事になるのだから恐ろしい。一般的に言えば嘘というのだろう。
少し早めの昼食。午前十一時の出来事である。カップラーメンを啜るのもお手の物だ。
三大欲求のうちの一つがこんなもので解決出来てしまうのだから人間というのは単純な作りなのだろう。電子ケトルでお湯を沸かし、注ぐ。
せっかちが災いしておよそ1分半で蓋を開けてはかやくも入れずに貪り食う。美味い。
午前十一時十五分。独りでまた出かける準備をする。幸い雨は止んだ。休日はやはり喫茶店に行くに限る。
コロ助と出会ったのも喫茶店の帰りだ。来店したらすぐ左。窓辺のソファー席に腰をかけながら、珈琲を嗜み、行き交う人々を見るのが私の唯一の娯楽なのだ。あの人は一体何をするのか。はたまた何をした後なのか。通行人の人生を考えては直ぐ辞める。これを繰り返す。
これの何が楽しいかと言われればなんとも言いずらいのだが、そこはご愛嬌にしてもらいたい。何せよ一人が唯一、私に与えられた桃源郷なのだ。クラシカルなジャズに耳を預けて、渋い珈琲を一口。天井から伸びた緑色の装飾に囲まれた電球の淡い光に包まれながら人間観察。これ程楽しい事は無いと思う。
午前十一時半。入店。喫茶店のマスターに軽く会釈を済ませた後、すぐ左。窓辺のソファー席に腰をかける。天井から伸びた緑色の装飾に囲まれた電球の淡い光が私を包み込む。これぞ桃源郷なのだ!理想郷なのだ!誰がなんと言おうと構わないさ!
午前十一時四十五分。私はもうすぐ恋に落ちる。信じられないかもしれないが、一番信じられないのは私だ。何一つ変わらない珈琲の味。
座りすぎてレザーの禿げてきたソファー。淡い電球。全ていつも通りのはずだった。
午前十一時五十分。窓から行き交う人を見る。
皆がそれぞれ違った考えを持っている事も容易に分かった。見れば分かる。もう雨が降らない事に賭ける人。また雨が降る事に賭ける人。どちらが勝つのだろうか。
午前十一時五十五分。窓を水滴が覆った。私は賭けに負けてしまった。すぐには帰れないなと思いつつも天気予報を見てみる。俄雨だ。
でも僕は別に良いのだ。珈琲の香りに燻されながら雨音を楽しむのもまた良い。こういう時は店内の方を見ても面白い。窓に無我夢中でに丸を書く子供たち。降り始めた雨に翻弄される妖美な貴婦人。我関せずと小説を読み耽っている文学少女までもが、この雨のおかげで特別に見える。雨よ。雨よ。ありがとう。こうしてまた些細な光景を特別にしてくれてありがとう。そう思いながら窓を見る。目が合った。赤い傘の影に隠れた顔。高くすらすらとした鼻に少し大きい目が特徴の彼女。彼女だけが雨を知っていたような。そんな気もした。ああそうか。
雨が真っ直ぐ落ちるのと同じように、私は恋に落ちた。
午後零時の出来事である。