プロローグ①
「どうして起こしてくれませんでしたの⁉ 」
非難がましい声が、リムジンの後部座席から運転席へと飛んだ。焦りからか、声の主は座席から落ちそうなほどの前傾姿勢をとっている。
「このままでは新学期早々遅刻ですわ‼」
「何回も起こしましたよ」
はぁ、と。吐き出された溜息は、ハンドルを握るメイドのもの。ミラーで後部座席の様子を確認し、もう一度、はぁ。後部座席のお嬢様はせかせかと櫛を動かし、寝癖を必死に直していた。どうしようどうしようどうしよう、唇は手よりもさらに早く動いている。豊かな金髪はなかなか言うことを聞いてくれないようだ。
「まったく。どうせ、今年こそお友達を作るのですわ! とか興奮して、夜なかなか寝つけなかったのでしょう? 友達なんて出来もしないのに。三年生にもなって友達ゼロとかヤバいですよ、羽愛留お嬢様」
運転席から、剛速球が投げ返される。メイドが振るった言葉の刃は、杭院羽愛留お嬢様の繊細なハートに深く突き刺さった。櫛を止め、潤んだ碧眼で運転席をきっと睨みつける。
羽愛留は、雇人の反撃に慌てふためきながらも、返球する。
「ちちち違いますわよ! それにお友達なら夏代さんが!」
「夏代お嬢様は幼稚舎からの腐れ縁でしょ、ノーカンですよ」
「むぅ……」
撃沈。美しく整った顔が青ざめて。
「と、とにかく急いでくださいまし!」
「はいはい」
はぁ。
メイドの憂鬱とお嬢様の焦燥を乗せて、リムジンは高級住宅街を駆けていく。
***
「いっけなーーい‼ 遅刻、遅刻‼」
閑静な高級住宅街を少女が走り抜けていく。少女は、私立桜川学園の純白の制服に身を包んでいた。翻るスカートを気にも留めない。街角をスピードも緩めずに曲がる。
入学初日から、遅刻するわけにはいかない。必ず学校に間に合わなければならない。遅刻から始まる学園生活など、今を時めく女子高校生には似合わない。
新しい制服、新しい学び舎、新しいご学友。一体、どんな学園生活になるのだろう。
何と言っても、今日から通う学校はあの桜川学園なのだ。女の子だったら誰もが、一度は憧れる名門お嬢様学校、私立桜川学園。その一般特待生として、奇跡的に入学することができた。この学園で人生を変えてみせる、そう誓ったのだ。
新生活への期待で胸がいっぱいだった。心がポジティブな気持ちで溢れるのは随分と久しぶりだった。
だから。
だから、油断していたのだ。
少女は、次の街角も勢いよく曲がった。
リムジンに跳ね飛ばされた。
期待は空振りに終わった。
***
「どどどどどどどどどどどうしましましょうしょう」
車から降りてきた羽愛留は、蒼ざめた顔に滝のような汗を流している。視線は、轢死体を中心にしてぐるぐると泳いでいる。
「死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死んで」
「落ち着いてくださいお嬢様。大丈夫です、息はあります。救護班を呼んでありますし、情報管制も完璧。警察への根回しも終わっています」
「そ、それは安心ですわね」
羽愛留は、ほっと小さく息を吐き出した。改めて、生存者を見遣る。真っ白な制服が目に入る。
「……あら? この方、学園の生徒ですわね」
***
名は体を表す、という。
そのことを牧駒麗子は己の人生を以って実感していた。
己の名に刻まれし、『まきこまれ』の五文字。
麗子は極度の巻き込まれ体質なのだ。
そして今日も。
今日から高校一年生という人生の大事な節目に、麗子は厄介ごとに巻き込まれた。
運命を乗せたリムジンに撥ねられたのだ。
薄れゆく意識の中、視界に映ったのは学園の真白な制服、輝かしい金髪、蒼ざめた頬。
麗子は思う。いつもの悪い癖で、自分の命さえも諦めたうえで。
……なんて美しい人なんだろう。
どうか私のことは気にしないで……。
言葉にする前に、麗子の意識が完全に途絶えた。
***
「命に別状はないそうです」
メイドの言葉に羽愛留は胸を撫で下ろした。
杭院家の息がかかった大病院の個室。牧駒麗子は、ベットの上で眠っている。
「それから、これを」
「これは……」
手渡されたファイルの表紙には、『牧駒麗子調査報告書』の文字が。その内容にざっと目を通し、麗子の華々しい巻き込まれ歴にひいてしまう。
「これはまた、色々と凄絶ですわね……」
「そこに今回の件ですから」
「……」
「……」
「……あたくし達の責任ですわね」
羽愛留は顎に手を当て、悩まし気な表情を浮かべる。「……あたくし、決めましたわ」
ベットの脇に近づいて、そっと、麗子の頭を撫でた。
「あたくしが、貴女のことを守って差し上げます」