さよなら絵梨を読んで ~ 考えさせられる漫画・作家性・文学性を持つ漫画 ~
藤本タツキのさよなら絵梨を読んだ感想等です
絵梨非吸血鬼説 絵梨の復活否定説 漫画の作家性・文学性
考えさせられる漫画の是非 批判・批評精神不在の混沌 等々
漫画というのは歴史的にも本質的にも娯楽であり、あくまで読者を楽しませるために描かれるというのが本義だろう。だが、私はそれを理解できないでいた。手塚治虫が「青騎士」を描いた後に、あんな漫画は描くべきでなかったという後悔の言葉を残していたというのを目にして意外だった。私は青騎士を純粋に面白いと思っており、私にとっては充分「娯楽」作品に思われたからだろう。この辺りの認識の齟齬は漫画というメディアに対する世代間ギャップもあるのかもしれない。
漫画が作家性や文学性を持ったのはもうずいぶん前からであり、水木しげるの自伝的漫画やつげ義春、松本大洋の作品等は明確に作家性があり、文学的でもあるだろう。手塚治虫の作品では「火の鳥」シリーズなどはそういった特色が強く、作家性と娯楽性の両面から評価されると思う。面白いし考えさせられる。
文学とはすなわち人とはどういうものか、という追及・探求から生まれるものだろうが、一つの端的な結論は「人間は考える葦である」というものであり、まあ読者を悩ませ考えさせれば、乱暴に言って文学として成立するのかもしれない。
国語は文学に近い範疇と思われるが、それは国語の「読解」問題の難解さ、時に独りよがりさも思い出す。回答者や学生に考えさせる為に、敢えて難解な文章や設問をつくり出す事に対する疑問は昔から存在すると思う。そういうやり方は果たしてフェアと言えるのだろうか。「アクロイド殺人事件」や「オリエント急行の謎」みたいなのが推理小説として許されるのか、という命題にも似ている。つまり娯楽作品に過ぎない漫画が作家性や文学性を持っていいのかとか、国語や文学で(漫画でも)、読者に考えさせるためにわざわざ分かりにくい表現を使うことが許されるのか、等の根本的・根源的な問題だろう。
漫画に関しては、私は前者はアリだと思うが、後者はやり方次第という感じがする。読者がついてこられればもちろんOKだろうし、読者が考えて腑に落ちるところまでに至らなければこれはダメだったということになる。従って作者に言わせれば読者次第、つまりたった一人の読者でもついてきてくれるか、何人かの読者でも本気で考えてくれれば良し、といったところだろうか。これは作者側から読者を振るいにかけていくような挑戦と言えるかもしれない。
このようなジャンルと言えるのかわからないが、例えば松本大洋のGOGOモンスターや、冨樫義弘の「HUNTERxHUNTER」の「クロロvsヒソカ」などは、娯楽作品と捉えるには極めて難解であり、多くの読者は理解できなかったのではないだろうか。文学性や作家性はともかく、こういう漫画では、読者が振るいにかけられる、考えさせられる、試される、という、作者の意図や本意はともかく、読者にしてみれば多少居心地の悪いことが起こってしまう。手塚治虫の時代からすればずいぶん漫画も進んだと言えるのかもしれない。
ここに一つ、また読者に考えさせる、挑戦してくる漫画がある。藤本タツキの「さよなら絵梨」だ。これを最初読んだ読後感はまさに松本大洋のGOGOモンスターのそれと似ている。全く腑に落ちない。そこでもう一度読み返すことになる。その理由はGOGOモンスターとさよなら絵梨ではニュアンスが少し違うが、腑に落ちない、というところでは変わらない。GOGOモンスターに関しては私は今でもまだ腑に落ちてはいない。ユキなどの少し「特異」な登場人物たちの体験・感覚といったものが結局すべては理解できないからだろう。そういう意味ではさよなら絵梨でも優太の「カメラを通してしか現実に向き合えない」という優太の独白があるが、私もそれがわからないので、結局理解できないという気はする。
ユキや優太の特殊な性格による問題はともかく、さよなら絵梨を最後まで読むと、まず、復活した吸血鬼の絵梨に対して、すべてを失って自殺を考えていた大人優太があっさり「さよなら」と去っていくのに対して頭の中に ? が浮かぶ。さらに「ファンタジーが足りないから廃墟を爆破する」、というのでさらに ?? となる。まさに最初の優太の映画を見せられた学生達のような気分にさせられるのかもしれない。ここからがスタートだろう。
この漫画で一つ面白い矛盾は、優太の最初の映画はちゃんと漫画にされているので、クソ映画感があまり伝わってこないことだ。
私は漫画というメディアが好きであり、映画はあまり好きではない。「好き」とそうでないの定義は自分がどれだけ食えるかでわかると思う。食べ物だとよりわかりやすい。本当に好きなら少し悪くなった果物でも食べられるし、好きな料理は食べる頻度が多くなっても比較的平気だろう。逆を考えると嫌いな食べ物はそもそも食べなかったり、悪くなったものは食べる気にならない。
漫画や小説が映画と決定的に違う点の一つは、飛ばしたり戻ったりが読者の自在にできるところにある。映画はやはり早送りや巻き戻しができると言ってもうまくやるのは少し難しい。漫画や小説は多少冗長だったりつまらなくても、言うなれば読者の読みたいように読む自由がある。わざわざ長時間とってクソ映画を見せられた時の残念感は同様の漫画や小説では味わえないと私は思う。
漫画で優太の映画部分を読んでも、冗長で意味不明な自主製作映画を見せられたイライラ感はないので、作中の同級生たちが優太の映画を批判・非難する気持ちが今一つわからないところはあった。作中で絵梨に教えてもらうまでもなく、大抵の読者は優太が母親の死や動画を取らされることに本気で苦しんでいるのは何となくわかると思うので(中学生の優太に病気の母親を死ぬまで撮影しろというのはかなりユニークな、というかはっきり言って常軌を逸しているだろう)、母親の問題発言や行動を見るまでもなく、映画の最後で優太が病院を爆破して逃げることに不謹慎さは感じない。むしろ教師が優太を叱っているのを見て ? が浮かぶ。まあ確かにそういう教師もいそうなのが学校ではあるが… これも第二の映画を作った際に追加したフィクションなのだろう。
さよなら絵梨では優太の成長に伴って、全三作の映画が作られており、さよなら絵梨自体がその第三作目の映画そのものと言っていいだろう。従って、この三作目の映画の後も優太の現実の人生は続いており、その完成後の後日談はついに現されることはない。それは作者のみぞ知る、もしくは読者に与えられた課題だ。
考察のポイントは色々とあるが、ピックアップしていくと以下のような疑問がヒントになると思う。
1. どうして優太は絵梨と「さよなら」してしまうのか
2. どうして優太は最後に廃墟を爆破したのか
3. 絵梨は本当に吸血鬼なのか。本当に復活したのか
こういったことをよく考えてみると、最終的に読者が腑に落ちるような結論まで至るだろう。ただしそれは私が考えるものとは異なるかもしれない。作中優太の父親が言うように、こういった漫画や小説の解釈は読者自身をも映し出す鏡のような特性を持っている。人によって見え方が変わってくるような曖昧で皮肉なところがあるからだ。(つまり自分の精神の幼なさや考えの足りない愚かさが露わになる可能性がある訳だ。従って下手な解釈を披露しようものなら赤恥をかく羽目になりかねない。それは筆者も例外ではないがw) 私の解釈などを読む前にまず漫画を読んで、少し立ち止まって考えて頂きたい。一通り考えたら以下を読んでも構わないが、それが正解ではないことを一応言い訳しておく
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1 に関しては二つの解釈があると思う。つまり「さよなら」したのはあくまで映画の中であり、現実では交流が続いているという解釈だろう。もう一つの解釈は、そもそも絵梨は現実には復活しておらず、再会したのはあくまで映画の中でだけ、という解釈だ。これは後に述べる。優太を優太の父親が演じているという解釈もあるが、これはメタ的に、優太の成長と共に映画も初作・第二作・第三作と作られていく流れの方が面白いので、ないと思う
2. に関してはフィクションが足りないから爆破した、というのが建前ともミスリードとも言わないとは思うが、ジョークのような物であり、実際は復活した絵梨に対する反発や、結局失われてしまった絵梨に対する弔辞を表していると思う。つまり復活した絵梨は、映画中の優太が美化した絵梨を自分だと思っており、それは優太が求めた絵梨ではなかったから拒否・反発したという解釈だ。何かが足りない、と編集を続けていた優太はおそらく、かつての同志だった絵梨に会いたかったのであり、復活した絵梨が言うように編集作業をすることでそれは可能だった訳だ。優太の愛した絵梨は編集後の絵梨だけではなく、カットされている部分も含めてすべてだっただろう。枝葉だが、実際に優太が廃墟を爆破した、という解釈は無いと思う。優太は首吊りをするつもりで縄を持って来ており、爆弾は用意していなかっただろうからだ。
3. については難しいが、絵梨が作中で復活する以外に何一つ吸血鬼らしいことはしていないというのはポイントかもしれない。最後に誰も座っていない椅子に突然出現するというのが吸血鬼の能力による、という解釈はあると思うが。絵梨を超自然の存在とするなら、吸血鬼というよりもむしろ「映画の精」とかなのかもしれない。
でもここまで考えても ? は消えてはいない。例えかつての絵梨ではないとしても、姿そのものも何もかも絵梨なのに、自分をかなり美化して捉えているとは言え、即「さよなら」となるのか、ということを考えると全く腑に落ちない。爆破するほどの反感と憎しみを抱くことも理解できない。やはりどこかおかしい気がする。
私の最終的な解釈は、絵梨が復活したのもフィクション、というものだ。家族を失い再び自殺を試みる優太は、その場所までも絵梨との思い出の場所を選んでしまう。絵梨が死んでからもずっと編集作業を続けていた優太はどんだけ絵梨好きなんだよと思うが、そこで衝撃的なものを発見する。それは死んだ絵梨が優太に残したサプライズ・ビデオメッセージだった。内容はおそらく優太の映画制作に対するエール、また、三作目の映画のプロットと素材、つまり絵梨が考えたプロット・シナリオでの映画制作依頼だろう。ビデオメッセージでは絵梨の優太や優太の映画に対する思いが語られており、かつて撮りためた映像とは全く違う鮮明さを持って優太に飛び込んでくる。優太のカメラの前での絵梨と、自撮りの絵梨はおそらくかなり違っていただろう。こうして二度優太は絵梨に救われる。キリストの復活に救われた使徒や信者たちのように。優太の最後の爆破はこれで納得がいく。映画の絵梨なんかいらない、本物の絵梨に生きていてほしかったという痛烈な弔辞だ。
自殺を考えていたあのダメな大人優太が(ダメと切るにはかなり過酷な現実に直面してはいるが)、カメラを通してしか現実に向き合えなかったとか言っている優太が、また人生の続きを、前を向いて歩きだすにはよほどの事がなければならない。絵梨の残したビデオメッセージにはその大逆転が含まれている訳だが、これは作中全く触れられていないのでなんとも言えないところはある(その存在すら読者の勝手な推測かもしれない!)。絵梨のまた映画作れというわがままや、大人優太にしてみればつまらないプロットへの怒りで立ち直り、廃墟も爆破したとかいうこともあるのかもしれない。絵梨の優太に対する告白的なものもあったかもしれない。自分の死がわかっているので優太の告白には敢えて応えなかった的な。そこにはきっと優太が撮影した絵梨でも、優太や友人が知っている絵梨でもない、また新たな面を見せる絵梨がいたことは間違いない。このインパクトをもってダメ大人優太に活を入れることができたのだろう。撮影時に誰も相手がいないというのはやはり自分の本心を晒しやすいということはあるし、何より死に向き合っている人間は必死さが違うだろう。絵梨が優太に残したメッセージはまさに死を賭して残したような性質がありそうだ。また、内容があまりにプライベートであるためにカットされているということもあるかもしれない。とても映画にしたいような、できるものではないという訳だ。
ビデオメッセージのインパクトと言えばカウボーイビバップの第18話、スピーク・ライク・ア・チャイルドを思い出す。ネタバレになるが、過去のビデオメッセージのフェイとのギャップは凄まじく、少し微笑ましく、ペーソスも伴う。ああいった衝撃と逆転が、絵梨のビデオメッセージにもあったのだろう。
ここまで考えて私はこの作品が腑に落ちた気がする。わからない部分もたくさんあるが、一通り読み終えた感に達することができた。作者の想定した内容かどうかは絶対的な確信はない。これを見ている方が同じ解釈に達するのか、この解釈に同意するのかもわからない。人間の世の中は、正に虚実混在であり、フィクションをフィクションと知りつつ楽しんだり、フィクションを真実と信じて過ちを犯す世界だ。真実をフィクションと笑うことさえあるだろう。批判・批評精神の不在はまさに玉石混交の大混乱を助長する。かなりの人間はスティーブン・キング言うところの「クソとクツズミの区別がつかない」状態にいる。この世はクソもミソも一緒の混沌の世界だ。
ルックバックも良かったです