お母さんの味
それは、スーツを着た若い女性だった。私の作ったご飯を、涙を流しながら食べていたのは。
そんなお客さんを今まで見たことがなかった。気になった私は、その女性に声をかけてみた。
「大丈夫かい? 何かあったのかい?」
女性は、驚いたようにこちらを見た。
「いえ、違うんです。その、これです、この味なんです。」
女性は、味噌汁を飲んでいた。
「味が・・・どうかしたのかい?」
「味」と聞いて、私はドキッとした。今日の定食には以前とちょっと違う訳があるのだ。
それがばれてしまったと思ったが、その予想は大きく外れていた。
「お母さんの味なんです。この味噌汁が。『母の味食堂』って看板を見たから入ったんですけど、私のお母さんの味に出会えました。」
――女性はそうとう感動したのか、私に詳しく事情を話してくれた。お母さんが仕事で忙しかった人だったこと。全く遊んでもらえなかったこと。そして・・・小学生の頃に亡くなってしまったこと。
「私は母親から嫌われていると思いました。帰ってくるのは遅いし、家ではいつも怒っていて。正直、食事も全く作ってくれませんでした。・・・でも、お味噌汁。お味噌汁だけは作ってくれていたんです。」
女性の瞳からまた涙が溢れてきた。
「忙しいのに、その隙間時間で作ってくれた手料理のお味噌汁。それが、私が覚えている、唯一のお母さんから受けた愛なんです。その愛を、このお味噌汁からは感じます。このお味噌汁は、私のお母さんの味なんです。」
私は、胸が締め付けられる思いがした。
女性は、涙を拭き、目を輝かせながらこちらを見た。
「美味しかったです。また、お母さんの味に会いに来ます。」
私は耐えられなかった。
「ごめんね。・・・実はね、もうこのお店は今週で閉めることにしたの。いろいろ訳があってね。」
「そんな、じゃあ、すいません。お願いですから。お金はいくらでも出すので、またいつか作ってほしいんですけど・・・」
「ごめんね。・・・遠くに引っ越すの。ちょっと、いろいろ用事があって。だから、あなたが来ることができないの。」
「いえ、どこへでも行きますから。だから・・・」
「ごめんなさい。・・・本当に無理なの。」
必死になって断って、やっとのことである。女性は諦めてくれた。
「ごちそうさまでした。」
女性は満足そうにお会計に来た。
「さっきの話だけど、あなたの気持ちに添うことができなくて、本当にごめんなさいね。」
「いえいえ、私も無理をいってすいませんでした。」
「今日は・・・お代はいらないから。」
「いえいえ、さすがにそれは・・・」
「ううん、いいの。それはこっちの事情だから。」
女性は一礼して、お店から出ていく。晴れやかな笑顔で。
私はというと、心の中の霧が一層濃くなっていった。
――お母さんの味なんて・・・言わないで。
最近は来店する人の数がめっきり減り、それが、お店がつぶれる原因になった。そして、私はいつの間にか、料理の手を抜くようになっていた。
――引っ越すなんて嘘。だから、あの娘にまた作ることも・・・いや、できるわけがないじゃない!!教えてあげることだって!!
私はキッチンで、ゴミに八つ当たりをした。
くしゃくしゃにして、捨てた。
近所で買った、値引きされたインスタント味噌汁の袋を。
読んでいただき、ありがとうございました。