8話 『私を殺して』
実行日は許可が下りてから更に三日後だった。その日は朝から雨が降って、街の空は灰色になった。雨は勢いを増していき、泣きじゃくる赤子のように降り続いたが、とうとう疲れ切ったのか、日が落ちる頃には止んでいた。
午後十時、人員と物資を搭載したトレーラーが〈大倭通運〉から出発した。後方からは医療課と清掃課の運転するバンが追従してくる。計画実行部隊は目的地――黒江雫が来る隣町へと行軍していった。
午後十時五十分。篤は静まった道端にて、標的がやってくるのを待ち構えていた。あとは魔術課の式神操作によって誘導された標的が、眼前に現れるのを待つだけだ。
『こちら情報課、ドローンの偵察より標的を補足。想定のルートを通過中。服装、水色のコート、茶色のブーツ。手荷物なし。繰り返す。服装、水色のコート、茶色のブーツ。手荷物、なし』
黒江雫は雨の降る夜でも深夜の徘徊を怠らなかったらしい。篤は思わず頬を緩ませた。完璧に進んでいた。
『進行速度、想定通り。予定時刻より誤差二分の範囲で指定のポイントへ到達すると思われる』
篤は待つ。雨の降る中、青い傘を差して待つ。標的が――黒江雫が死ぬはずの場所で待つ。
『標的、指定ポイントへ到達。認識阻害適用、式神展開……さて、どうする』
果たして――黒江雫は、その亡霊に惹かれた。
『標的、式神を補足。式神を補足! ルート変更確認。そっちに行くぞ』
今は亡き友に引き摺り込まれるようにして、彼女はやってきた。
さあ、来るんだ黒江雫。すべて順調だ、あとはお前を殺すだけ。
右手に隠し持ったナイフと、左手のトランクケースに意識が集まる。あとは、〈ソウルカプセル〉に入れてやるだけだ。
黒江雫は路地の入口に立つ篤には一瞥もくれず、裏へと入っていった。中ほどに達した瞬間、魔術課は式神を消した。
『誘導完了。スペルA、あとは任せ――……だた』
多少のノイズが乗ったが、篤は気にしなかった。
「ああ」
空気は湿っぽく、埃臭かった。篤は傘を閉じて壁に立てかけ、彼女を追うように路地へと入った。
彼女は無防備な背中を見せて、未だに目の前で消えた亡霊をさがしていた。哀れな女。その首を掻き切ろう。後ろから音もなく忍び寄り、口を塞いでナイフをすっと通す。それで終わりだ。
そのはずだった。
悪戯好きの風が、命じられたかのように二人のいる路地へと吹き込んだ。とても強かった。風は黒江、篤と通り過ぎた。そして二人の背後にある、汚水に片足を突っ込んだままの錆びきった階段を揺らした。金属が軋んで、路地一帯に響いた。
風のそよぎなど、誰が気に掛けるというのか。ましてや風一つが任務を狂わせると、特殊運搬課の誰かがこれまで一度でも考えたか? そう、誰も注目しなかった。台風でも暴風でもない、ただの街中に起きるちっぽけな――奇跡みたいな風など。
女は振り向き、篤を見つける。当然、彼の手で刃を剥き出しにしたナイフを見つけた。
二人は硬直し、互いの顔を見合わせる。篤はというと、必死に自分の体へ指令を送っている。
今しかない。刺すんだ。さもないと……。
『特殊運搬部に失敗なし』あの魔力を持った標語が、篤を脅迫してくる。
「貴様の価値は、成功によってのみ測られる」教育係であった先輩の脅迫が蘇る。「我々は〈出雲〉の為、常に完璧なる手際をもって魂を回収するのだ。いいか、関堂篤。目標と接触しても、断じて触れ合うような真似は許さん。任務を受けたなら、貴様は魂をカプセルに入れることだけを考えていればいい。そうすれば……何をすべきか自ずと分かる。『特殊運搬部に失敗なし』。さあ繰り返せ」
記憶から戻った篤は、雫を殺す意志を高めた。あらゆる不純物を捨て去り、目の前の細い首筋を断つことだけに集中した。
「殺す」人工知能のように篤は言った。「殺す」
微かな風で雫の髪がそよいだ。彼女は二度足を動かして、篤と向き合った。二人の間は五メートルほどあった。
「痛そうな……ナイフね。まるで、新品みたい」黒江雫の声はよく通った。しかし透明すぎず、わずかに低かった。彼女の発した音は篤の頭に残った。「ずっとまってたのよ」
「……?」
待ってた? なにを言っているんだ、この女は。
「私を切るんでしょう」何気ない口調の雫は、篤に一歩近づいた。
「っ……」
驚いた彼は半歩後ずさった。
「今日は、奇妙な一日だった。欲しかった稀覯本がネットで売りに出されてたから、朝注文したんだ。変よね、今日に限って。三年間毎日チェックしてたのに。昼間には、昨日付き合い始めた男の子と別れたわ。……記録更新したの」雫は苦しそうに笑った。篤にはそう見えた。「そしてさっき。高校時代に自殺した同級生を見たわ。三階のベランダから飛び降りて、コンクリートに真っ赤な判子を押したあの娘……名前は忘れたけれど、その娘がいた。質問したくって、ずっと追いかけた。でも消えてしまって……風が吹いた。振り向いたら、あなたがいたわ。理由は見当もつかないけど、でも、私を刺すんでしょう」
雫は微笑んだ。その内部には絶望の空気がたゆたい、諦念の海が広がっていた。彼女が絶望していると篤が知ったのは、この時だった。
「さあやって」雫はコートを両肩から脱いでいき、捨てた。彼女に良く似合っていた水色が泥で汚れた。コートの下には黒いセーターを着ていた。「それで……私を……」
彼女は嬉しそうに笑い、涙を流した。
「殺して」
彼女は自ら死を望んだ。
「特殊運搬部に、失敗なし」篤は黒江雫に歩み寄りながら、つぶやき続けた。
震える手でナイフを振り上げて、それから彼は路地を離れた。
黒江雫を殺せないまま。