6話 『後輩』
ふう、と篤は座ったまま体を伸ばした。壁にかかった時計は正午を指す直前だった。昨日の計画――鈴ケ嶺聡の殺害及び魂の回収――を振り返り、自らの任された仕事とその経過をレポートにまとめ終わっていた。最後の感想の欄には「特になし」と打った。作戦の立案時から、実行時の経過に至るまでを客観的に振り替えることが出来るレポート作成を、篤は気に入っていた。そうすることで自分の能力が確かなものだという手応えがあって心地よかった。
あとは複製して課長に提出すれば、今日の仕事は終わりだった。昼食を適当に済ませて、午後はトレーニングでもしようと考えていると、前方からふいに声がかかった。
「先輩、これから飯でも行かないっすか」
パソコンからひょっこりと顔が覗く。後輩の亜厂正輝だ。四つ下の彼と篤は入社直後の教育担当からの付き合いだった。亜厂も篤のことを気に入っているらしく、定期的にアドバイスを求めてきたり、まるで舎弟のような立ち位置に落ち着いていた。しかし亜厂正輝という人間は、篤とは似ても似つかぬ、社交性と積極性の塊のような男だった。
「丁度昼食をどうしようか悩んでた」
「よっしゃ決まり。運転するっす」
車のキーを指でくるくると回しながら亜厂が立ち上がる。片手には缶コーラが握られていた。
「いつものとこでいいっすか」
「ああ、どこでも」
駐車場で亜厂の車に乗り込んだ。
「昨日洗車してガラスコーティングまでしたんっすよ。どうっすか、やばくないっすか」
篤の車に寄り添うように停められた彼の車――テスラのロードスターはその表面を滑らかに赤く光らせていた。篤も自分を慕ってくれるのは嬉しいのだが……車のカラーリングまで揃えられたときにはぞっとした。曰く「仕事できる先輩の真似したら俺も仕事うまくなると思うんすよ」とのことだった。
車のドアを開けた篤の足元に、コーラの缶が四つ落ちてきた。
「確かにやばいな」篤は言った。「お前は外より先に中をきれいにした方がいい」
車内にもコーラの缶と瓶が散乱していた。更には車内から濃厚なコーラの甘ったるい匂いが流れ出てきて、篤は思わず鼻をつまんだ。
「コーラとは一心同体みたいなもんですからね、これはしょうがないっす」
亜厂は飲み干したコーラの缶や瓶を拾い集めて抱えるとトランクに押し込んだ。
「さ、いきましょ」
残骸が撤去された後もコーラの匂いは車内を満たしていた。
昼食はビルの六階にある高級イタリアンレストランでとった。亜厂の昼食はいつもここだった。亜厂はここのピザと野菜がお気に入りだった。唯一の欠点はドリンクメニューにコーラがないことだそうで、シェフに直訴してコーラ持ち込みの許可をもらっていた。これが最高に合うのだからしょうがない、なにより至上の飲み物であるコーラを置いてない店が悪いとは亜厂の言だった。
「よくもまあ、毎日コーラばかりで飽きないもんだ」
「宗教に飽きる人なんて見たことないっしょ」亜厂は言った。「神の教えを聞き飽きたなんていう信者はいないっす」
ごくりごくりと喉を鳴らしてコーラを飲む亜厂。彼のコーラに対する崇拝の念はある種の真理を獲得しているらしい。ピザなんて別に水でいいだろ、水。なんて言おうものなら三時間は布教されることを、篤は実際に体験して知っていた。触らぬ異教徒に祟りなしを悟った篤は「なるほど」、「そうなのか」と繰り返すに徹した。
「そういえば整備課の松下って老害、覚えてます?」亜厂は言った。「明日からはあいつの顔も見なくて済みますよ。定期の精神鑑定に引っかかったらしいっす」
篤はグラスに口を付けるふりをして、言った。「そうか」
「ま、どうでもいいっすよね。仕事が出来ない奴の話なんて。飯がまずくなっちまう」
ほどなくして前菜が運ばれてきた。篤はムニエルと野菜の煮込みを、亜厂はトリュフとサラダをぺろりとたいらげた。食べ終えた皿が下げられると同時にメインディッシュが運ばれてくる。二人が注文していたのは黒毛和中のロースト。きつね色に焼かれた表面にナイフを入れると肉汁があふれ出し、食欲をそそる肉の鮮やかな淡紅色が覗いた。
食事が済むと飲み物を一口すする。篤はグレープフルーツジュースを頼んでいた。甘さと酸味のバランスが程よくとれていて体が安らぐ。亜厂もコーラをぐいとあおり中身を空にした。
「そういや昨日の一件、聞きましたよ。完璧でしたね。ズレも二十秒以下。さすが先輩っすよ」
「ニートの部屋の前で八時間語り掛けたときよりずっとマシだったさ。順当な結果だ」
仕事の難易度はターゲットの職、居住地、家族構成など様々な要素が複雑に絡みあう。鈴ケ嶺聡は一人暮らしのサラリーマンで実家は地方。勤務時間も一定しており、行動パターンが確立されており、そのためイレギュラーも起きにくい。幼少期に母親が事故で無くなったという境遇が強く残っており、式神による誘導も容易い。計画に理想的なターゲットであった。
「あっ、そういえば」と亜厂が鞄の中をごそごそとまさぐり始める。静かに待っておくと、「あったあった」と一つの茶色い紙袋を取り出した。それをテーブルの上に置き篤の方に押し付ける。
「これは?」
亜厂に何かを貸していた覚えはない。心当たりのない篤は訊く。
「誕生日プレゼントっす。先輩今日誕生日でしたよね」
「は」思わず訊き返す。「俺の誕生日は来月だけど」
「えっ」と亜厂は目を丸くした。ポケットからスマホを取り出してカレンダーを確認すると「あちゃー」と声を出した。
「すいません、大学の友達と間違えてたっす。今月と来月誕生日の友達めちゃめちゃ多いんですよね」 でも、と紙袋をぐいと渡す。「せっかくなんで早めのプレゼントってことで。他の友達には渡せないものなんで」
篤は訝りながら紙袋をそっと開けた。他の友達には渡せない、という言葉でどういうものが入っているかなんとなくだが察しが付いていた。
はたして、紙袋の中に入っていたのは拳銃だった。スミス&ウェッソン社のM29だ。44マグナム弾を使用する回転式拳銃で銃身が白銀に輝いており、グリップは木製だ。
亜厂が顔を近づけて小さな声で囁く。「撃ったときの反動と発砲音を完全に消せる魔術加工済みっす」
「魔術加工済み? 魔術課がよく許可したな」
「へっへっへ」亜厂はにやりと笑った。「護身用っすよ。最近何かと物騒ですからね。今日も零課に指令が入ったそうっすよ」
袋の口から銃を見ていた篤はその視線を亜厂へと向ける。
「零課に?」
「はい。なんでもターゲットは魔術師だそうで、かなりの人員を割かなくちゃならないとか」
特殊運搬部は十一課で構成される。しかしそれはあくまで形式上の話。実際にはもう一つ、書類の上には存在しない零課という闇がある。彼らの仕事に輸送はなく、彼らはターゲットの殺害のみを旨とする。つまりは暗殺部隊だ。そして〈大倭通運〉の私設武装部隊で、出雲という組織の持つ武力の一つでもあった。篤の知る限りでは――というより零課の隊員から直接聞いたのだが――極稀にただ単純な殺害命令の注文がはいることがあるらしい。その理由は実行する零課でさえも知らされないそうだが、敵対勢力となると話は変わってくる。〈出雲〉を脅かすだけで、排除する正当な理由になり得るのだ。
「敵の可能性、か」
「魔術課の人たちのを盗み聞きしただけなんで、詳しくはオレも」亜厂は頭を横に振った。「でも敵の動きが活発になってるのも事実っす。だからオレらはより慎重にやらなくちゃならない。ミスを起こさないように」
亜厂はコーラの入った瓶を右に左に傾ける。そのたびに茶色の液体から泡が立った。
「この仕事はね、先輩。この国にとって何よりも大事なものだとオレは考えてます。この仕事のためなら何を犠牲にしても許される。そして、あらゆるものを犠牲にすべきだと思うんす」そういって亜厂は一息でコーラを飲み干し、空瓶を置いた。「いつか読んだ本に書いてました。仕事ってのは宗教だ、って。この仕事は信じる価値があると、オレは信じています」
篤は四年前、初めて亜厂と会った日の事を思い出した。入りたてだった亜厂の教育を任されたとき、彼が言ってきた言葉を。
仕事を完璧に教えてください、俺はこの仕事に命を賭けたいんです。
亜厂は仕事へ――はっきり言って異常だと感じれるほどに――重きを置く男だった。なぜそこまで執着するのか、篤にはわからなかった。だが「仕事は宗教だ」という彼の言葉がきっかけで、少し理解することができた。亜厂正輝という男は信じることを動力にしている。コーラ教や仕事教、ほかにも独特の、きっと彼以外には信者がいないような宗教を信奉しているかもしれない。だが他人の理解を得られずとも、それらを信じぬくことがこの男の強さだと思った。
会話が一旦止まったのを機に、亜厂が腕時計で時間を確認する。
「らしくねえや。熱が入っちゃいましたよ。そろそろでましょうか」
「そうだな」