4話 『大倭通運』
関堂篤は缶コーヒーを啜った。量産品らしい薄味と水っぽさだが、求める苦みは最低限持っている。自宅でドリップしたものには程遠いが、気持ちを一定に保つ役目はある程度果たしてくれた。
彼は地平線まで続いているかのような車の列に、何度目か分からない溜息を吐いた。ブレーキランプの赤色がまばらな絨毯模様を描く。時刻は午前八時半。通勤ラッシュの渋滞であった。
動く気配のない車の大群に、とうとう篤はシートに深く体を預ける。バケットシートが体をすっぽりと抱え込む。彼が乗っているのはスバルのWRXだ。真紅に輝くそれは、高校生の頃に見た映画に出てくるもので、ドライバーのテクニックも相まって一目ぼれし、十年近い付き合いになる愛車のひとつだった。日々のチューンは欠かさず、他に保有している車両と変わらず、やりたいように改造も施してきた。だがそのお気に入りも今は洗練された走りを魅せることなく、エンジンを燻らせている。東京の渋滞は長い。平均交通量は全国平均の五倍以上。渋滞の速度低下による経済損失は幾兆円にものぼるだとか。彼にとっては幾兆円の損失より、遅刻の方が切実な大問題であったが。とはいえ、そんな損失も現在の日本の成長を食い止めるには至らなかった。この国は日に日に豊かになっていた。落ちぶれていたGDPランキングも再び二位に返り咲き経済は拡大傾向、一億を切ると危ぶまれた人口減少も止まりいまや逓増している。今の日本からは、まもなく人と金が溢れだしそうであった。それらは東京を中心にして、徐々に日本を圧迫していくようだった。
入社してから八年経つが、未だにこの渋滞だけは篤の体に馴致しない。胸ポケットから煙草を一本取り、ライターで火をつける。ジュッ、という小気味よい音がして一条の煙が立ち上った。
渋滞から解放されたのはそれから二十分後だった。ウインカーを出し大通りを左に曲がると、目の前に勤め先が聳えていた。強大さを誇る広大な敷地、示威目的だと揶揄されそうな白と黒が基調の高層建築。鉄柵の隙間にある入り口のアーチには、整った文字で『大倭通運』と書かれている。
社員駐車場に車を停めると、ルームミラーでスーツの乱れを確認する。今日は紺の無地に、差し色として赤のネクタイを着けていた。襟を折り、ぴんとひっぱる。缶コーヒーを飲み干しながら車を降りる。社屋へ足早に向かう途中、ゴミ箱に缶を放り、篤は遅刻寸前で出社した。
大倭通運は国民にも広く知れ渡っている大企業であり、近年では海外にも事業を拡大している。第二次大戦以前は行政や軍事に必要な物資を、自動車や貨物列車を用いて集荷・配達する国営企業であったが、戦後に解体。民間企業として再出発することとなった。
ガラス張りの瀟洒なエントランスを通り抜けながら、篤は見知った仕事仲間に軽く挨拶をしていく。だが彼らは通運の表側の仕事を行う者たちであって、篤の真の同僚ではない。
いつしかガラスが燦燦とした陰影を落とす空間から、コンクリートだらけの通路が続いていた。そのまま進むと、壁に埋まるようにスライド式の扉があって、横には『特殊運搬部』と札がかけてあった。その下には暗証番号と虹彩認証の読み取り機があり、篤はそれらを通過して中に入った。
大倭通運の一部署、特殊運搬部。表向きは特殊機材の運搬や企業の緊急性・秘匿性の高い物資の運搬となっている。実際口外してはならない依頼も多い。しかし通運が部署に求める本当の役割は、指定された標的を殺害し、その魂を回収、運搬することだった。篤が所属するのはそんな特殊運搬部、通称特運の十一ある課の一つ、運搬課だった。最も目立ち、離職率も高い課だがここを花形と言い切る職員も多い。なぜなら標的に直接手を下し、魂を抜き取るという最重要行為を担うからだ。それ故に精神的に病みやすいというのが大きな特徴でもある。
そんな部署の入り口は、いたってありがちな白っぽくて、清潔に見えるオフィスだった。変わったもの――〈ソウルカプセル〉とか――も無く、デスクと椅子、パソコンが所狭しと並び、いつもコーヒーの匂いがした。あえて他と比べるなら、ここには外と繋がる窓がなく、太陽光を模した光を投げかける疑似的なパネルがあるくらいだ。そしてそのパネルを背に、部長の席があった。
「おはようございます」
篤が挨拶をすると、デスクの人々から会釈や目礼が返ってきた。部長と目が合った篤が軽く会釈すると、「おう」と返事がきた。それが合図だ。篤は部屋の左隅にある掃除道具入れのロッカーに歩いていく。壁からわずかに空いた背面の隙間に手を入れると、掌紋認証を突破した。ロッカーを開くと中は空だった。どうにか篤はその空間に体を押し込み、扉を閉めた。そのまま待っていると、目線の高さにある穴から見えていたオフィスの光景が突如として失われ、暗闇と共に空調の音すら聞こえなくなった。足元のさらに底では、何かが噛み合ったり動いているようだった。
ロッカーが下降し始める。静かに、ではなく吸い込まれるように。やがて減速していき、がこん、と鳴って停止する。扉がひとりでに開いた。
そこは部署入口周辺の通路と同じ、コンクリートで作られた広大な空間だった。首都圏外殻放水路をそのまま区分けしたような高さと幅があり、ここがそのまま特殊運搬部の部署だった。
運搬課専用入り口である「ロッカーエレベーター」から見て、左右合わせて十以上の「部屋」と呼ばれる仕切りがある。そこに大勢が書類やら機械やらを持ってあわただしく動き回っていた。「部屋」は課ごとに合わせて最適化されていて、仕事用の車両、〈ソウルカプセル〉や指輪まで一切を管理する整備課であれば、割り振られた面積は最も広く、外観は巨大な金属の棚にビニールカーテンといった無骨なものとなる。対照的にすべての課を統括、監督する立場にある監査課は防音が行き届いた(遊び心など微塵も感じさせない)コンクリートのひっそりとした事務所を構えている。
『第十二班は、午前十時半より第三会議室にて企画会議を行います。運搬課の皆さんは任務を終えたら指輪を即座に返却するようにお願いします。調達課の三島速登さん、用の足し方がなっていないと清掃課から苦情が入っています。ご配慮をお願いします』部署内ではほぼ絶え間なくアナウンスが流れている。そこでは貴重な情報、カフェテリアの新メニュー、先月の成績発表など、あらゆる放送がされる。『運搬課の亜厂正輝さんが先ほど錦綾さんの魂回収に成功しました。彼を見かけたら、皆さんでお祝いしましょう。今月後半は降雪が予想されます。運転される皆さんは、魔術課でタイヤの防氷処理をお早めに済ませてください。……先月の成果に、主は大層お喜びになられたと、〈出雲〉から喜ばしい報告が届きました。皆さんはとても素晴らしく、幸せ者です』
大倭通運の支出のおよそ四割を、ここ特殊運搬部が占めている。大倭通運がそれだけの投資を惜しまないのは、魂を運ぶ業務にそれ以上の見返りがあるからだ。だが正しくは大倭通運に、ではなくその上位、日本を支配している組織に、だった。
その名を〈出雲)という。それは遥か昔、豪族より以前から存在していた。始まりは小さな村落の数人が集まって、人身御供を捧げ、代わりに天からの恵みを受け取るというものだった。その恵みは時に豊作をもたらす雨として、時に国土を守る神風としてこの国を豊かにし、守ってきた。古代日本において供物をささげるという行為は至極簡単であった。なぜなら人と人との繋がりが少数のコミュニティで完結し、何より低級な文明しか保有していなかったからだ。しかし法律や条例といった社会制度の確立や、交通の発展、情報規模の拡大が、供物の調達を困難にしていった。そして科学の発展が、神の奇蹟と神話を否定してしまい、人々は物理法則こそが神であると定義し始めてしまった。
このような時代の変遷にあって、神への供物として人を殺し魂を捧げる〈出雲〉は異端で危険な組織と認識される恐れが出てきた。確かに存在する神への信仰を継続する為、〈出雲〉は存在と活動の証拠を消し、歴史の闇へと隠れることにした。そして現代。〈出雲〉は脈々と世界の裏側で生き永らえ、多くの根を張った。その根の一つがここ、大倭通運特殊運搬部だった。事実、大倭通運の株式はその半数以上が、〈出雲〉を組織する人間の手にあるのだ。
しかし、そもそも神はなぜ魂を要求するのか。実はそれについても篤たちは情報を与えられている。――すべては、選ばれし者たちの転生の為なのだ。