3話 『彼女は死にたい』
頭上の街頭テレビに彼女は見入っていた。ついさっき人が死んだらしい。現場はここから二駅ばかり行った先だった。
『トラック一台と歩行者一人が絡む事故があり、歩行者の男性会社員、鈴ケ嶺聡さんが搬送先の病院で死亡しました。また、聡さんをはねたとみられる運転手の男性、太山怜路容疑者は車から降りず現場から逃走しましたが――』
アナウンサーが淡々と読み上げる声と、事故現場の映像が流れる。
「あれ、さっき通りががったよ」通行人の話声が耳に入った。「轢かれた奴さ、下の方とかグッチャグチャ。あれじゃ助けに駆け寄るだけ無駄ってもんさ。他の人たちもそれを分かってた」
「なにそれ、グロすぎだろ……あそこ通勤でいつも走るんだよ。血痕とか残ってたらやだな……食欲無くすよ」
「私なら……」
女性はそのニュースが報道から去ったのを機に、目線を下げて本来向かっていた方角へ歩き出した。静かに風が吹いて、彼女の肩程の髪は揺れ、青いコートはその端がたなびく。裏側のポケットには金槌が隠してあった。
「――私ならよかったのに」
休むことなく女性は歩き続けて、目的地に到着した。前に入っていた会社が倒産したとかで、中身が空っぽになった六階建てのビルだ。彼女はラフマニノフの『ヴォカリーズ』を口ずさみつつ、路地を通ってその裏へ周り、ジグザグに上へ伸びる階段を駆け上った。靴のヒールが階段を踏むたびに甲高く鳴った。六階まで来たが、無人とはいえ階段に面した扉には鍵がかかっていた。しかし戸惑う様子もなく懐から金槌を取り出した彼女は、それを掲げては振り下ろし、ガラスを粉砕した。大きな音があたりに響いたが、それだけだった。一瞬止めていたハミングを再開した彼女は扉の内側に手を差し出して施錠を解くと、破片を踏むのも構わず中へ入っていった。金槌を闇雲に投げ捨て、後ろ手に扉を閉めると、扉に残っていたガラスが雫のように零れ落ちた。
部屋は十四畳ほどで、天井の蛍光灯とエアコンしか残っていなかった。正面の、通りに面した窓から差し込む光を頼りに、彼女は吸い寄せられるように歩いていく。窓を開け放つと、眼下の喧騒が微かに大きくなった。上から見る人は指先くらいに見えた。
女性はブーツから細く伸びた足を抜き、窓枠に手を掛ける。身を乗り出すと、より風が強く当たった。下には、下しか視ない連中が右から左へ、左から右へ流れている。もしかしたら誰か巻き添えになるかもしれないが、そのようなものは彼女の関心事では無い。片足を上げて置き、あと一歩を踏み出すだけとなった。
呼気が荒くなる。寒さか、それとも別の何かが体を震わせる。
鼓動が早まる。
あとは勇気を。
頭から落ちよう。そうすれば脳が先にやられて、おしまいだから。でも、空中でそんなにうまく出来る自信はない。足から行って、脳が残ってしまったら……考えるだけで足がすくむ。
「大丈夫。きっとうまくいく、大丈夫」
そう己に言い聞かせた彼女も、十五分後には床に座り込んでいた。大きな瞳と桜色の唇は意気消沈しており、それから自己嫌悪の表情になった。やがて彼女は靴を履いて金槌を回収し、重い足取りで落胆をひきずりながら帰っていった。