1話 『偶然の死、よくある光景』
やはり世界は鈴ケ嶺聡に冷たかった。営業で棒になった重い足、人一倍気を遣って手入れしてあるスーツ、マナー本をしまい込んだ鞄を抱えて、彼は歩いている。東京の人々は総じて明るい表情だ。月末に控えたクリスマスの熱っぽさに感染しているのだろう。だが、聡に同じ表情は出来なかった。そのクリスマスや正月のような無駄な時間は、彼に用意されていなかった。
事故の五分前、彼はスマホで時間を確認し、空いた手で肩を揉んだ。疲れが喉から白くなって出て行った。
「はぁ」
相変わらず結果を出せない体質なのかお前は。入院でもして、医者に診てもらったらどうだ、役立たずが。
退社前に上司から吐き捨てられた言葉が蘇る。思い返すだけでむかついて、惨めになる。言い返す選択肢などなく、頭を下げて謝り、挽回を約束する。上司もそれ以上追及はしてこなかった。だが聡の心は荒んだままだ。
「糞くらえだ。何もかも」
聡は歩行すら拒絶したい気分だった。道には大きなショーウインドウが並んでいる。そこの時計店に通りかかると、ちょうど一月の稼ぎくらいの腕時計が飾ってあった。横を見れば、四ヶ月、半年と増えていった。聡は今日一日の労働を省みて、気が遠くなった。ふと思い出したかのように左手の腕時計を見ると、長針がスマホより遅れていた。彼は時計店を離れた。
吹きつける夜風すら自分を否定しているように受け取った聡は、人目もはばからず舌打ちをした。
「なんでこんな……地球なんかに俺はいるんだ。――あーあ、異世界転生してぇなあ」
いつからか、彼は今いる世界が嫌いになった。世界は機会を与えてすらくれない、と毒づくようになった。その機会さえあれば、俺がどんな結果を残せるか神様は知らないんだ、力さえくれたら、皆にとっていい事に使うのに。どうして力は相応しい心の持ち主に振ってこないんだろう。
聡は信号、道、信号、道と歩いていった。職業柄、ぐんぐん人を追い抜いていく。しかし同じ方へ歩いていた母娘に気が付くと、歩幅を小さく取って、足の回転を緩めた。母親の方は、昔事故で亡くなった聡の母親と同じ髪形をしていた。娘は子供の頃の聡に似て、わがままに振舞っている。
「あれ買ってー。ぬいぐるみのタフタフ。おなかをね、ぎゅってするとしゃべるんだって」
「また今度ね」と母親が諭すも、娘は退かない。
タフタフ。確か、昔からある子供向け番組のマスコットキャラクターだったっけ、と聡は思い出した。小さい頃、番組を見ていた記憶もある。それどころか大好きだった。情熱を傾けていた。録画したテープを何度も巻き返しては視続けて、母親に笑われていた。そしてあの日、聡がタフタフのぬいぐるみを買ってと母親にねだった交差点で、彼女は車にひかれて死んだのだった。
「……っ」
悪寒がつま先から這い上がってきた。あの時、聡は母親の手を握っていた。母親は右手を残してどこかへ消えてしまった。病院で治療を受けて入院することになった聡は、母も別の部屋に運び込まれたと聞いた。だが面会は許されなかった。病室に入ってきた父の顔は亡霊の様だった。葬式の時も、母は写真の中にだけいた。
次の信号がそこにあった。信号は赤。腕を擦って、聡は息を荒々しく吐いた。娘はとうとう地面に座り込んで、泣きだした。困った母親は屈んで何か言い聞かせようとする。
そして母娘を、指名するかのように眩い明かりが照らした。巨大なものが来ている。タイヤを滑らせ地面が悲鳴を上げる。母親が振り向いて、明るさに顔をしかめた。迫るものを見るなり悲鳴をあげて、娘を抱きしめた。
「――危ないっ!」
鞄を捨てて、聡は走った。両手で二人を思いきり突き飛ばす。母娘は暗がりへと転がり、見えなくなる。そして彼が光を浴びた。
「やった」
久しぶりに笑った直後、鉄塊が聡の全身を蹂躙した。
周囲で鳴るクラクション、まぶたを殴りつける光に聡は目を開けた。視界は真横に傾いていて、頭はぼうっとした。だが己を突き動かしていた正義感ははっきり覚えていた。生きてる、と口だけが動いた。肉体は異様に重く、あらゆる感覚が飛んでいた。痛むかどうかも分からなかった。そして、歩道の誰もが聡に注目していた。
「ひき逃げだって」
「うっわー、すっげえ……」
「今駅前の大通りにいるんだけどさ、来てみろよ。人がはねられたんだって」
「おい、おい。こっちだよ、ほら、あれ」
横断歩道の途中で横たわる彼を、両岸の人々が示し合わせたかのように一挙に写真に収めていた。まぶたに感じた光は、撮影のフラッシュだったのだ。それらに加え、電話している人間、画面をタップして文字を打ち込む人間、知り合いを呼ぶ人間。様々な人間がここに集まっていて、現在もどんどん増えていた。だが、聡の元へ駆け寄ってくる人間と、彼が身を挺して救ったはずのあの母娘だけは、遂に現れなかった。
聡は次第に呼吸を整えた。群衆が自分しか視ていないという事は、つまりあの母娘は轢かれて倒れてはいないのだと。
救えた、と誰にも聴こえない声で彼は言った。それから口の両端を吊り上げると、発作のように笑い続ける。彼の心中はかつてないほどの達成感と愉悦で満ち足りていた。
群衆の、一つの声を聴き分けるまでは。
「――あの人、自分からトラックに轢かれに行ってたわ。ええ、ホントだって」
「…………え」
聡が耳を疑っている間に、別の男も呼応して喋った。
「俺も見た。たった一人でさ、フラフラ~って。いや、違うって。トラックも歩道に入ってきたんだよ。そんで、まるで計算したみたいに……ぐしゃ、って」
どういう事だよ。救ったはずじゃないか。居ただろう、七歳くらいの女の子と髪を後ろで束ねた母親が。俺はその二人を救ったんだよ。間違いなく。絶対救ったはず。
救急車が到着した。聡から十メートル離れた位置に停まった。男の隊員が三人降りてくる。うち一人は担架を持っている。彼らは駆け足で聡に近づいた。
「しっかりして」、「聞こえますか」と怒声にも似た声で、ヘルメットを被った隊員たちが聡に呼びかけながら、彼の頭が動かないように固定する。しかし彼は応えることも無く上の空のまま、母娘の存在について考えていた。だが次第に思考がぼやけていく。聡は多くの血を失ったと悟った。すると体に鈍い痛みが、じわじわと焼けるようにやってきた。それでも一体どこが破損しているのかまでは、固定された視覚と鈍い神経のせいで分からない。けれど、不思議と死ぬ気はしなかった。然るべき処置がされれば、死にはしない。意外と人体は丈夫に出来ているんだ。そう自分に言い聞かせた。隊員の誰かがロードアンドゴー、と言った。
脊柱の固定が終わると、聡は担架ごと持ち上げられた。視界は曇った夜空とビル群から、救急車の屋根に変わった。
上司の言った通り、これで入院して医者に診てもらえる。と聡は場違いな自嘲を思いついて、また笑った。だが長続きせずせき込んだ。
全員が乗り込むと扉が閉まり、車は即座に発進した。聡は耳に木霊するサイレンを感じた。そして会社近くの病院に運ばれるんだな、と思った。
「あ……あ、の……」
出すべきではないと分かっていたが、聡は隊員達に呼びかけた。テレビで見たような、瞳孔をチェックされたり、名前を聞かれたりするものだと思っていたからだ。反対に「喋らないで、安静にしてください」という風に叱られる、とも考えたが、それもなかった。不思議になった聡は眼球を転がして、脇に立つ二人の隊員に再度呼びかけた。隊員はじいっと、聡の全体を見ていた。
「あの……」
声は出ていた。かすれはしていたが、間違いなく届いていた。だが隊員たちは、聡に関心がないかのように、何もしない。応えようともしない。ただ、ずっと――目の前に横たわる男を見下ろして、観察している。
「すみ、ません……あの……!」
車がカーブに入る。曲がり終えるまで、隊員の体が風に揺れるカーテンのようにゆらゆらと動いた。途端、サイレンがブツッ、と断末魔を上げて消えた。車内に沈黙が落ちる。
隊員たちは、それから聡の眼だけを見るようになった。言葉も無く、動きも無く。そしてあるべき救済の手は、一時たりとも差し伸べられなかった。
これは救急車ではなかった。人を救う車ではなかった。聡をとらえる四つの眼光は、彼の生命の終わりを待っていた。
感情の昂りが、近づいてくる終わりが思い出させてくれた。のたうち回る痛みを。
「助け……て。死にたく……なァハッ、ないヒッ……」
首が遂に持ち上がり、全身が見えた。あちこちにガラス片が刺さっている。へそから下は、膝にかけて潰れている。性器は彼岸花のように細かくなって、はみ出したはらわたやら骨やらに付着している。右の手のひらはひき肉になっている。車内は血肉と脂の混ざり合った臭いが充満していた。
「いやだ、ヤダよぅ……死にたくッ、なイぃ……! いやだぁぁぁぁぁ……」
彼はそれから七分、苦しんだ後に死んだ。