二話
「ッ、ハァ…ハァ」
腕を引かれた勢いを殺せる程の力が体に入らなかったため、私はふらつきながら地面に座り込み、軽い過呼吸なものを繰り返した。助けてくれた男子学生は「ちょっ、本当に大丈夫か…⁉」と驚いた口調で、自分の傘の中に私を入れつつ、しゃがんで背中をさすってくれた。
「…落ち着いたか?」
座り込んだまま声のする方へと顔を上げると、彼の心配そうな表情が私の視界に入った。
「は、はい…」
「なら良かった」
私の言葉を聞き、心配そうな顔からふわりとした笑顔を浮かべて安堵した顔になった彼は、手を差し伸べてきた。
「その状態じゃ立てないだろ? ほら、」
「すみません…。ありがとうございます」
彼の手を掴みながらなんとか立った私は、一人用の傘に二人も入っているという狭い中、お辞儀をしながらお礼を何度も述べた。「そんな何度もペコペコと頭を下げなくても…」と彼は苦笑しながら困ったように頭をかいた。
「…あの、貴方って私と同じ緑峰高校の人ですよね?」
私の通う緑峰高校は、制服が他の高校よりも少しだけ変わっている。女子はセーラー服で男子が学ランと普通ではあるが、女子のリボンにはフリルがついていて、男子のワイシャツと上着の袖口には紫色の二本線が入っているといった独自性を持っている。彼の着ているワイシャツの袖口には紫色の二本線。それはすなわち、私と同じ学校の高校生ということを意味していた。
「あぁ…、うん。君と同じ緑峰高校の学生だけど」
「お名前、聞いて良いですか?」
「え? 俺の名前?」
「はい」
彼は一瞬だけ名前を名乗るのを躊躇ったように見えたが、ゴホンッと咳払いをして先程のふわりとした笑顔で私を見つめた。
「俺の名前は…駒川久弥、です」
雨が降り続いていて太陽の光など降り注いでいるはずもないのに、何故か彼が太陽のような優しい光に包まれていたように見えた。
*◦*
あの後、「これ、良かったら使って」と彼は自分が使っていた傘を差し渡してきたため、お言葉に甘えて借りることにした。「でも、貴方の分の傘は…」と言うと、彼は得意げな顔でリュックから折り畳み傘を出してきた。もう一度お礼を言ってから私は彼の元を去った。
家に着くと、すぐさま私は部屋に直行してびしょびしょの制服から部屋着へと着替えた。もう十八時。一休みしたいところだが、そろそろ夕飯の支度をしないといけない時間帯だ。
「あー…、明日あの人に傘返す時にお礼の品として何か渡さないと」
頭の中でぼんやりと渡すものを考えながら、私は夕飯の支度に取りかかった。
*◦*
翌日。私はいつも通り早起きをして学校に行く準備をしてから家を出た。大きな洋風のお屋敷の角を曲がり、しばらく歩いていると後ろから凛とした元気な声が聞こえた。
「ゆらみー! おはよ!」
「おはよ、佳苗」
いつもと変わらない、眩しいぐらいの親友の笑顔にどこか安堵を覚える。昨日あんなことがあったんだ。そう思うのも仕方ない、と自己解決させて再び歩みを始めた。他愛ない話をしながら私は佳苗と一緒に学校まで行った。
「そういや、昨日の雨凄かったよね~。ゆらみは濡れずに家まで帰れた?」
教室に入り、席に荷物を置いてから佳苗は私の席まで来て、そう言ってきた。私は、やりかけていた課題を机の上に広げながら昨日のことを思い起こした。
「昨日は死にかけた」
「ん⁉ どういうこと⁉」
かなりのオーバーリアクションとも取れるような驚き方をした佳苗は、まだ来ていなくて空いていた私の前の席の人の椅子を引っ張って腰かけた。昨日起きたことを全て話し終えると、「ゆらみが生きてて良かった~‼」とガチ泣きで私に抱き着いてきた。
「うぐっ…、佳苗、力が…ちょっと、」
「ごめん‼」
「反省していない清々しい笑顔をありがとう。ほら、鼻水が凄いからこのティッシュで拭いて」
「ありがとう!」と言ってから、佳苗は渡したティッシュで鼻水を拭いた。こうやって見ると、佳苗は幼い子供のようで、事実このような性格は昔から一つも変わっていない。彼女が周りから好かれているのも、この憎めない性格が理由として挙げられるのだろう。
「ふぅ…。んで、ゆらみは〝駒川久弥〟君に助けられたんだね?」
「うん。その人知ってる?」
「ま、待って! ゆらみ知らないの⁉」
「? 知らないけど…」
「いくら流行とかに疎いゆらみでも、同学年で有名な人のこと知らないって…ヤバいよ⁉」
一生懸命自分の記憶の中を探っても、〝駒川久弥〟という人の名前は無かった。どうしてそんな有名な人の名前を今まで知らなかったのか。その答えは簡単に出た。
「でも、ゆらみっていつも休み時間になるとイヤホンつけて音楽聴いて、一人の世界に入ってるからね~…。無理もないかぁ」
私は休み時間には音楽を聴いて過ごしているため、周りの会話は耳に入ってこない。しかも話しかけてくれる友達が佳苗以外にほとんどいないため、学校内の流行には疎い。そのせいで色々と問題も起こしてしまうことも多々あるが、何より人見知りな性格ゆえ、人と関わることが苦手なのだ。
「駒川久弥…さんって、何年何組?」
「んーとね、確か二年三組だったはずだよ」
「三組…か。ありがと」
お礼を言うと丁度始業のチャイムが鳴ったため、佳苗は自分の席に着いた。結局、佳苗が座っていた私の前の席の人は教室に来なかった。
「昼休みに三組に行って覗いてみよ」
若干の緊張と共に、私は一時限目の授業の準備をし始めた。
*◦*
昼休みに入ると、すぐさま私は昨日のお礼の品をリュックから取り出し、借りた傘を空いた手に持って教室を出て行った。私は一組で、教室は校舎の二階にあるが、三組の教室は三階にある。階段を上って三組の教室の前まで来た私は、ドアのガラスから教室内を見渡し、彼がいないかこっそり確認した。
「いない…。どうしよう」
いくら探しても彼は教室内にはいなかった。これでは傘も返せないしお礼の品も渡せない。困り果てていると、後ろから誰かに話しかけられた。
「おーい、教室の前に立ってどうしたんだ?」
「あっ! 貴方は…駒川さん!」
なんとびっくり、探していた張本人に偶然にも話しかけられた。軽く動揺し、あたふたとしてしまったが、なんとか落ち着かせて要件を伝えた。
「これ、昨日貸してもらった傘です。あと…、これは助けてくれたのと傘のお礼です」
「わざわざ返しに来てくれたんだ、ありがとう。しかもお菓子まで…って、このお菓子、地元で有名なケーキ屋の高いやつだよな⁈ い、良いのか?」
「むしろ足りないぐらいかと」
「いやいやいや…! 気を使わなくても良かったんだけどな…」
彼は「まぁ、でもありがとう。大事に食べるよ」と昨日見せた笑顔でお礼を述べた。最初『男の人にお菓子はどうなの…?』とは思ったが、彼のこの嬉しそうな反応を見る限り、その不安は気にしなくて良かったようだ。
「そういや、なんで俺が二年三組だって知ってたの?」
「友人に教えてもらったんです。…友人曰く、貴方は同学年内で有名なので、聞いたらすぐに貴方のことが分かりました」
「俺、そんなに有名なの? なんかしたっけ?」
うーん、と唸りながら彼は考え始めた。何故、彼が有名なのか。それは私にも分からない。今度佳苗に聞いてみようと思っていると、彼は考えるのを諦めたのか、「分かんね!」と声を上げた。
「ま、俺は最初から君の事知ってたけどね。神原ゆらみさん?」
「えっ、なんで私の名前…」
「俺、同学年だけだけど全員の名前覚えているんだよね」
驚いた。話したこともないし、目も合わせたこともない私のことを知っていたなんて。驚きすぎて言葉が出ない。放心状態でいると、彼が突然笑い出した。
「あぁ、ごめん。君の驚いた表情が面白くて」
「ちょっ…、それは私の顔が変だって言いたいんですか」
「そういうわけじゃないけど、君っていつも表情が変わらない印象だったから、つい」
ククッと未だに笑っている彼をずっと見てたら、なんだか緊張もほぐれて私もつられて笑ってしまった。するといきなり彼は笑うのを止め、目を見開いて私を見てきた。
「な、なんですか」
「…うん、やっぱ君は笑った表情のほうが良いと思うよ」
「え…っと、あ、ありがとうございます…?」
突然褒められてまた動揺してしまった。人見知りの性格のせいでこんな風に男子と話すことなんて今までほぼ無く、男子と話すときは目を合わせずに無表情で尚且つ感情を動かさずに会話してきた。しかし彼の前では感情があらわになってしまう。不思議な人だ、駒川久弥という人物は。
「あのさ、良かったら俺と友達になってくれない?」
「え…?」
彼からの突然の頼みにまたまた動揺した。何故、私なんかと友達になりたいのか。頭の中でその疑問が巡っていたが、彼が「だって、」と真剣な眼差しで私を見てきたため、思考回路が強制終了した。
「友達多いほうが楽しいじゃん?」
「まぁ…、そうですけど」
その考えには正直賛同しないが、彼には命を助けられた恩がある。ここで私が断るとそれこそ本当に『氷の女』として学校中に噂になってしまうだろう。静かに学校生活を過ごしたい私にとってそれは避けたい。ならばここは彼のお願いに応えるべきだろう。
「良いですよ」
「本当? ありがとうな!」
嬉しそうに微笑む彼の笑顔に、少しだけ心が動いた。彼の笑顔は本当に素敵だと思う。この二日間で知った人だが、この笑顔が彼を有名にさせた一つの理由として挙げられるのだろうな、と素直に思った。
「ねぇ、俺ら同学年なんだから敬語外しても良いんだけど」
「あ…、そうだよね。分かった」
「あと、名前で呼んで良いよ」
「おっけ。久弥…で良いの?」
「あぁ! 俺も名前で呼んで良い?」
「どうぞ、ご自由に」
「了解。じゃ、早速だけど…ゆらみ、」
「なに?」
「もう昼休みのチャイム鳴り終わったんだが」
慌てて腕時計で時間を確認すると、昼休みが終わるチャイムが鳴ってから既に四分が経過していた。次の授業まで残り六分。急いで戻らないと間に合わなくなりそうだ。
「教えてくれてありがと。次の授業、移動だから戻るね」
「じゃあな、ゆらみ」
手を振って見送ってくれた久弥に軽く手を振り返しつつ、私は早足で教室に戻った。
「なんだか今日一日で色々と進歩しすぎじゃ…」
教室に戻る途中でそう思ったが、自分にとって決して悪いことではないので、プラスに考えておくことにした。
「ゆらみ~! もうすぐ授業始まっちゃうよ~‼」
自分の教室の前にはすでに佳苗が立っていて、私を待っていた。「ごめん! ちょっと待ってて」と言って私は授業の道具を持って教室を後にした。
「…あ、見て佳苗。空に飛行機雲ができてるよ」
快晴の空に浮かぶ飛行機雲は、いつも見る時よりも少しだけ綺麗で、目を引かれるように見えたような気がした。