彼は人間アレルギー
昼下がりの店内に客足はなく、彼しかいなかった。まずい、と思ったけれどももう遅い。
「ちょっ……だめだってば」
「どうして? 少しだけだよ」
「うちの店でなんて……」
「じゃあどこかに行こうか」
「そういう問題じゃ」
「じゃあどういう問題なの?」
「だから……あ」
指先をほんのわずかあたしの頬に触れさせただけなのに、彼は鼻血を吹いてぶっ倒れた。
「ほら言わんこっちゃない! あんたは人間アレルギーなんだから人に触っちゃだめでしょーー! そしてその血を誰が片付けると思ってんだーー!」
白目をむいて痙攣する男は今にも死にそうだった。
なんで、どうして、こいつは、人間アレルギーの魔族のくせに、あたしに近づいてくるんだろう?
魔族の多くは人に関わるものを糧にして生きている。たとえば、人の負の感情。たとえば、人の生きる力、精気。たとえば、人の肉体そのものを食する。だから人間が必要なのだ、彼らには。言ってしまえば人間は、魔族にとっては牛や豚などの家畜にすぎない。ただ人間たちは勝手に増えてくれるから、牛のように世話をする必要はない。けれども人間を生きる糧にしなければ、生きられない。だから多くを殺す事はしない。
魔族は人間が好きだ。美味しいから。だから人間と魔族の関係性は、比較的良好だ。魔族は地上に多くはいないが、よくやってきてほどほどの食事をして魔界に帰っていく。この世界はそういう風にしてずっとやってきた。
ただ困った事に、一人の魔族は人間アレルギーだった。
「あ、起きた」
「ユリアーネ」
床に転がしたまま、っていうのはさすがにかわいそうなので頭に濡れタオルをのせてあげただけの、失神魔族は目を覚ました。
「ごめん……僕、またやってしまったみたいだね」
「いや、っていうか分かっててやったよね、あたし止めたよね」
「え? あの可愛い声はむしろ僕を煽っていたけど?」
「おい」
いらだったあたしは、思わず拳を握る。
「なんでなの? あんたは、人には触れないけれど、人の感情とかを食べて生きていけるんでしょ。そうしたらいいじゃない」
「好きな人に触れないのがどれだけつらいか、君には分からないの?」
「あたしは好きな人いたことないから分かりませんねえ」
刺々しい態度をしたつもりでも、自分を見つめてくる視線は変わらない。どうしてこうなんだろう。ヴィーラントは、この人間アレルギーの魔族は、どうしてかあたしを気に入っているらしくて、こうして時間があればやってくる。
そして人間アレルギーで触ると鼻血を出して失神するのにあたしに触れようとしてくる。意味が分からない。人間のあたしたちの間でも、アレルギーはあるから大変さは分かる。あたしには食べ物のアレルギーはないけれど、皮膚が少し弱くてウルシにかぶれやすい。なんでこのヴィーラントはこうなんだろう。
「ヴィーラント、なんであたしなの?」
あたしははっきりいって色恋沙汰に興味はない。もう十八だけど誰かに胸をときめかせたことが一度もないのだ。きっと見た目も中身も大雑把すぎて、誰かに好かれることもないし恋愛にも向いていないんだろう。表向きには飲食店の看板娘をしているのにあたしに美人さや愛想がないせいか、ちっともうちの店はもうからない。おかげで父は出稼ぎに、母は厨房に引きこもり中だ。
対するヴィーラントは魔族だからか何なのか知らないけれど、非常に見目麗しい。見た目だけならたぶん二十歳そこそそこだろうけど、そのくらいの年でこんな顔の男はほかに見たことがない。顔がいいからってうかれるあたしではないけれど、でもやっぱり顔が整っているのは認めざるを得ない。ずっと見つめられれば居心地が悪くなるけど、だからといって心臓が早鐘を打つこともない。
とにかくあたしはヴィーラントの好意がよく分からないのだ。はじめて会った時は客として、そしてあたしに触れようとしてぶっ倒れた。以来、何かにつけてやってきては「好きだ」などと抜かすようになったけれど、本当になんで、あたし?
急にヴィーラントは俯いた。何なのかな、それは、恥じらいなの……?
「一目ぼれ、って信じる?」
「信じない」
即断だった。美男美女に恨みはないが、どうしてかあたしは一目ぼれなんて信じる気持ちになれなかった。やっぱりちょっとは嫉妬からくるものはある。あたしは自分がぱっとしない顔なので一目ぼれされるはずがないと分かっている。だからだろう、顔がいいだけで好意的に受け取られるなんて、ずるすぎるって思うのは。あたしだって、そうやって誰かに声をかけられてみたい。
でも、あたしは性格があまりよろしくないみたいで、友達はほとんどいない。遠くの町に引っ越してしまったエーリカくらいしか胸をはって友達といえるような人はいない。きっとそれが理由だ。
そうでなくとも、見た目で中身が分かるはずがないのに、見目麗しいからってだけで相手とつきあっても、友好関係がずっと続くとは思えない。
っていうか、あたしのような十人前の顔を持つ女に「一目ぼれした」なんて言っても、信じられるかよっていう話だ。むしろ顔はちょっと個性的な方が好き、みたいな変な趣味の人にしか思えない。とにかく、あたし以外の人ならともかく、あたしに一目ぼれしただなんて信じない!
「なんで……」
どう説明したものか。まあ、面倒だからいいか。
「なんででも。信じないから信じないの」
すると不満を顔にしたヴィーラントがずいと顔を寄せる。条件反射で顔を避けるのは、また倒れられても困るから。
「一目ぼれって、直感だと思うんだ。直感って閃きでしょ、大事にすべきだと思わないの?」
「うん、ちょっと意味わかんない」
そして近い。「離れて」あたしは言うが、ヴィーラントはむしろ顔をずいずい近づけてくる。むしろうっとおしい。
「はじめて見た時……理由もなく惹かれた」
間近に迫ったヴィーラントの瞳は血の色みたいに真っ赤で、魔族らしい色をしていると改めて思った。でも、その中に見える感情は――焦り?
「なんで、なんで伝わらないんだ……僕はこんなにも君に惹かれているのに……」
こんなにも困惑しているヴィーラントの瞳ははじめて見た。別に、困らせたいわけじゃないのに。
「伝わったから、離れて」
つい彼の肩を掴もうとして思い出す。触れたら卒倒。慌てて手を引っ込めるあたしだったが、それは間違った判断だと知る。ヴィーラントはまた倒れたいらしいのだ。吐息がかかるくらいに、彼は近い。
「伝わってない。だから触れたいんだ。触れてはじめて伝わるって事はあるよ」
「ぶっ倒れるでしょうが!」
「それでも触れたいって言ってるのに!」
ヴィーラントはあたしの肩を掴んだ。倒れる、思ったのに彼は微動だにしない。
「あ、あれ……?」
「……どうやら、服ごしなら触れられるみたいだ」
にや、彼は笑った。なんだろうこの嫌な予感しかしない笑みは。
「ねえ、布越しなら、キスも出来るかな……?」
ふうっとあたしの耳に風が吹いた。背筋を這い上がるのは悪寒。
「死にさらせぇッ!!」
あたしの問答無用の拳――もちろん相手の肌に触れるようにしっかりと――がヴィーラントにめりこんだ。
「ごめんなさい。もう言いません」
しばらくあたしはヴィーラントと口をきかなかった。その間ひたすらヴィーラントは申し訳なさそうに平謝りしていたが、ある日突然、拗ねた。
「……ユリアーネの狭量。魂はあんなにきれいなのに……時々すごく狭量。ケチ。いじわる」
どんどん言葉が子供っぽくなっていくのはともかく、なんだろう、その“魂”ってのは。魔族は魂そのものも喰らうんだっけ?
「魂って、見えるものなの……?」
「そこ? そこが気になるの?」
ぶつぶつとうるさい。あたしのにらみが何を促しているのかヴィーラントも分かったのだろう。不満そうな顔のまま、とがらせた唇から言葉をつむぐ。
「魔族ならたいてい見えるよ。魂の色とか形とか……ユリアーネの魂はすごくきれいだよ。僕がはじめて見た時とかわらない……」
はたと。思い当たる。まさか、とは思うけれど。むしろ否定してほしくてあたしは聞いた。
「ねえ、その……一目ぼれしたって、まさか」
「そうだね。君の魂は他にないくらいきれいで……一目見た瞬間からひどく惹かれた。怖いくらいの引力だよ」
それって。一体。よくわからないながらもあたしの頭は熱を帯びた。というか、頬が熱い。
だって、顔なんて目に見えるものはともかく、魂って精神的なものを褒められたのと同じだと思うから。はっきり定義を問われると分からなくなる。けれど、見た目はたぶんある程度磨けば輝くと思うけど、魂なんてそうはいかないんじゃないかって思ってるから、そういうものを褒められるっていうのは、元々持っていたものの中でも、一番光栄なことなんじゃないだろうか?
「た、魂ってなに? あたし性格よくないし……き、きれいなんて……」
「なんだろうね。精神。こころ。でもきっと人間のもつもので一番素晴らしいものだと思うよ。中でもユリアーネのものは……」
うっとりするヴィーラント。その顔はあんまり好きじゃないな。
「それにユリアーネは性格が悪いんじゃなくて、ちょっとひねくれてるだけだと思う」
「な……」
それって、よろこんじゃだめだよね……。
「ねえ、もしかしてちょっとは分かってくれた? 一目ぼれ」
魂に一目ぼれ。ますます分かりません。でも、どうしてだろう。何も彼に打ち明けていないのに、心の真ん中にあるものを認めてもらえたような、ひどくこそばゆい心地になる。
「ひ、一目ぼれなんかより、問題はあんたでしょ。人間アレルギー」
そうだ。問題はヴィーラントの人間アレルギーだ。人に触れるたびにぶっ倒れられても困る。言うなり、すっとヴィーラントの目が据わった。その顔、嫌い。
「それは、今触れてみたいと思った、ってこと? ユリアーネ?」
「ちっ、違う!」
実際問題ヴィーラントが人間に触れようとするのが変わらないなら、何か解決策があった方がいいと思っただけで、あたしが触りたいと思ったはずがない。
「君にいくらでも触れていいって言うのなら、なんとかアレルギーを治す方法を探すよ」
近いから!
あ、と思った時には遅かった。唇に触れるのはやわらかくて、しっとりした奇妙な感覚。それがヴィーラントの唇だなんて思えないほどにしなやかであたたかい。
「……ん……っ」
ひや、と冷たいものが触れてそれが相手の舌だと知ると同時に――成人男性一人分の体重があたしにのしかかってきた。ごん、と嫌な音がする。ヴィーラントを支えきれなくて、あたしは一緒に倒れたのだ。ちなみに嫌な音はあたしの体が背中から床にぶつかった音。痛いのはあたしだけ。動かなくなったヴィーラントはもう意識を失っている。
「っていうか! なにしやがるっ!」
乙女の唇を奪うなんて。もちろん返事はない。けれど。
「……ばか」
あたしはもう、ヴィーラントを美形だからってときめかない、とか言えなくなってしまっていた。
触れたら倒れる魔族を気にするようになってしまったら終わりだ。この気持ちは、誰にも知られてはならない。だって、相手に知られたら調子にのってもっと触れてこようとするだろう。そうしたら、あたしは。
あたしは、心配になっちゃうじゃないか。そして、心配をしながらも、あたしまで触れたくなってしまうかもしれないじゃないか。
この恋は危険だ。魔族に恋をする人間も、その逆もありえない話じゃなかったけど、あたしたちの場合にはあってはならない。
ヴィーラントが目を覚ましたら、いつも通りにするから。
最後に彼の頬に触れた。
「あ。鼻血」
失神してから鼻血を出せるなんて知らなかった。
五六年くらい前に別名義で書いたものを少し修正して再投稿しました。